アリスのお茶会

プラトニック・ラブ

 彼を愛してる。
 怖いのは……怖いのは。

 事故のようなキスがきっかけで何とはなし付き合い始めてから、もう1年が経つ。両手を使えば数えられるくらいのキス、片手の指どころか人間の腕の数より少ないデート、そんな付き合いでもやっぱりそういう時っていうのは来るのだ。
「今晩て……暇だけど、それが、何?」
 マンションの前で足をすくませてしまったあたしを、ナルは嫌な顔をして見た。笑って言ったつもりだったのに笑えてなかったらしい。
「別に何ということはない」
「聞いただけ、かな?」
「聞いただけ」
 嘘つけ。
 オートロックで閉じられたガラス戸の前で、あたしは滑稽なほどあわてていたしナルは笑えるほど憮然としていた。はたから見れば立派な喜劇だったろう。本人たちが真剣であればあるほど喜劇は面白いものだ。
「じゃあ答えるけど……暇だよ」
「へぇ、そう。なら上がっていけば」
「うん、まあ。じゃあちょっとだけ」
 ナルは黙ってプレートに数字を打ち込み、オートロックを開けた。

 

 ナルの部屋は、かなりシンプルだ。必要最低限の家具が、モノクロの色彩を作り出して配置されているだけ。それでも殺風景に思えないのは、テーブルもソファも安っぽさを感じさせないからかもしれない。初めて来たときナルに聞いたら、まどかさんが選んだって言ってた。オフィスの内装もまどかさん監修だそうだから、ナルの機嫌を損ねずインテリアを考えられる趣味のいい人なんだろう。
「お茶、いれるね」
 オフィスにいるときと同じように、水回りはあたしのテリトリーにしていいことになっている。ナルも当たり前のようにお茶を注文してくるし、2人きりでも間が持つのであたしは率先して給仕をする。
 それでも、こんな時間にお茶をいれるのなんか初めてだった。
 もう、ずいぶん前から外は暗い。日が沈んでからの時間より、これから日が昇るまでの時間の方が短いに違いない。
 お茶をいれてソファに座ったけど、ナルは本を手にしたままそれを開いていなかった。だからといってあたしに何か言ってくるわけでもない。
 部屋に誘ったくせにそれ以上アプローチしてこないのは怠慢なんじゃないの、などとあたしはわがままに思う。入るのをためらったくせにね。
「ねえ、何で誘ったの?」
「何故? 分かりきっていることを聞くな」
 ナルの口調は棘があって、怒っていることが分かった。なんで怒るのかね?
 あたしは何も嫌だなんて言ってないじゃない。ためらってるだけだよ。誰だってためらうよ。
「そういうのって……しなきゃいけないもの?」
「嫌ならいい。聞いてどうする」
「……嫌なんて言ってないじゃん」
「ならいいのか?」
「そんな単純なことじゃないの。黒でも白でもなくて、灰色なんだから」
「へえ、そう」
 不機嫌にナルは紅茶のカップをかたむけた。
 断るっていうのは考えてなかったんだろうな。プライドを傷つけたのかもしれない。うん、たぶんそう。すごくしたいってわけじゃなくて、あたしが嫌そうな素振りを見せたのが気に入らないんだ。わがまま王子だから。
 でもあたしは……でもあたしはきっと。
「ここで寝るから、ソファ貸してよね」
「泊まる気はあるわけか?」
「もう電車ないもん。タクシーはもったいないし」
「ご自由に」
 あたしは少し唇をとがらせた。
「そんな嫌な顔しなくてもいいじゃん。ナルのわがまま」
「自分でその男がいいと言ったんだろう?」
「言ってないっての!!!」
 顔がかっと熱くなった。こんのナルシストめ!!
「欠点は直してほしいね! ぜひ!!」
「1つや2つの欠点は人間味というものだろう」
「1つや2つじゃないやい」
「それは知らなかったな。僕にそれほど欠点があったのか」
「そういうセリフは女心をもう少し勉強してから言えば?」
 ナルの眉が不機嫌そうに寄る。あたしも怒らせてどうするんだ、とは思う。
 ナルが口を開くからまたきつい反論が来るのだろうと身構えたら、案外苦い口調で彼は言った。
「そんなもの、分かるわけがない」
 と。
 少し、きつくしまっていた紐がゆるんだような気持ちがした。
 あたしはソファに足を上げて膝を抱えてうつむいた。
「……あたしだって、男の人の気持ちはよく分からないよ」
「ことこれに関しては嫌になるほど単純だが」
「そういうものなのかな? だから、答えてよ。そういうことって、しなくちゃいけないものなの?」
「本能とストレスの関係を考えるなら、そうだな」
 分かるような、分からないような。
 要するに男の人の本能としてそういうことはしたくて、拒まれればストレスがたまるから避けたいことではある、とそういうことだろう。
 本能というものがあたしにはピンと来ない。
 ナルと一緒にいたら嬉しいし、甘えたいと思うし、優しくしてほしいなと思う。それはあたしが考えている内容とは別でとても自然なことだけど、その中にナルとHしたいって項目は特にない。彼が望むなら、とそれだけだ。
 見てればナルが特にあたしに甘えたいと思っているとは考えにくいし、その部分で甘える代わりにHしたいって思うのかもしれない。そう想像することはできる。
 でも、ダメなのかな。
 そばにいるだけじゃ。
 こうして話をするだけじゃ。
 だって、怖いんだよ。
「……嫌なわけじゃ、ないの」
「それはさっきも聞いた」
「たぶん、怖いんだ」
 たぶんも何もなくて怖いんだけど、あたしはそんな風におそるおそる言った。
 ナルは少し黙って、小さくうなずいた。
「それは分かる」
 意外だった。でも、ナルはサイコメトリストだ。レイプされる怖さを知ってる。セックスで傷つく怖さを知ってる。
「怖がる必要はないと保証する。つまり……嫌な思いをさせることはしないと約束する」
 あたしの胸の辺りがざわざわと言った。
 こう言うなら、ナルは本当にしないだろう。約束は守る人だし、できない約束はしない人だ。あたしは怖がる必要はないことになる。反論は思いつかない。
 ナルの細い長い指が、とてもさりげない動作であたしの肩から髪を払い、首筋をたどった。
 全身に震えみたいなものが走った。
 結局、怖かった。
「プラトニック……という線はアリではないのかなぁ……?」
 うかがうように言ってみると、ナルは苦く笑った。
「意味を?」
「プラトニックの?」
「そう」
 あたしは虚勢を張って明るい口調で答えた。
「だから、そういうことナシの恋愛でしょ? まぁ、子供みたいっていえばそうかもしれないけど」
「違う」
 ナルの指が肌から離れる。
 ほっとした反面さみしくて、あたしは心の中で驚いた。
 (……もっとふれていて)
「プラトニックは、プラトン的な、という英語。純精神的な恋愛を指す」
「……何が違うの?」
「我慢することとは全く意味が違う。超越なんだ」
 首をかしげるあたしを、ナルはほろ苦い表情で見る。
「情欲の超越。幼さとも理性とも関係ない。本能を振り切るような、特殊な恋愛の話だ」
 ……ナルがどうしてそれを苦く思うのか知らない。
 でも、彼はとても皮肉な顔でそう言った。

 彼の真っ黒い瞳を見つめてぼうっとしているあたしに、ナルは小さく口づけた。1度離して、もう1度。
 ――そろそろ、両手の数を超したかもしれない。
 あたしはナルとキスするのが好きだ。数えてしまうくらいには。少ないよと、もっとしてと思うくらいには。
「嫌なのか?」
 また、ナルは聞いた。とても静かな声で。
 あたしは首を振った。
「怖いだけだよ」
「怖がらせない」
「たぶん、そういうことじゃないの」
 なら? と、ナルの瞳がうながしている。
 あたしにはよく分からない。でも、緊張が高まる分怖さは少しずつ逃げていっているような気がした。ナルの苦い瞳を見ていたら。
「どうしてそんな顔するの?」
 ナルの瞳にわずかに不思議そうな色が混じる。
「本当は、そういうこと、超越してしまいたい……?」
 あやふやに聞いたら、ナルは目を細めた。
「……そうだな」
「プラトニックラブが特殊なら、普通はやっぱりそうじゃないのかな」
「だろうな」
「好きになったらそういうことしたいものなのかな」
「自分の経験だけに照らし合わせれば、だろうな」
 キスして、とささやいたら今度は首筋にそっと唇が降りてきた。
 甘い柔らかい唇の感覚。濡れた舌が肌にふれる、その快感。
 熱さ。
 優しさ。
 真摯に求めてくれる彼の気持ちが、キスから響きだしてあたしを揺らす。
 たぶんそれは彼なりの愛情で。
 彼なりの恋心で。

 あたしだって、彼を愛してる。
 怖いのは……怖いのは、Hじゃないの。怖いのは、彼。
 そういうことをするのは、恋から離れて思えたから。
 怖かったのは、彼。
 抱かれてしまったら、彼の中であたしはあたしでなくなるような気がした。
 固有名詞のない女になってしまうような、優しさから離れてしまうような気がしたから。
 怖かったのは……

 腕を回して口づけに応えた。
 ナルがため息をついたけど、それは説得に疲れたからなのか、あたしの同意にほっとしたのか、それは知らない。
 少し嬉しくて、少し愛しかった。

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