アリスのお茶会

Sanctuary sight from Null

 リンゴ――ン…
 リンゴ――ン……

 美しい重たげな鐘の音が身を震わせる距離で鳴り響いた。
 麻衣はその振動に胸骨を揺さぶられるような思いをしながら、辺りにわっと湧きだした歓声に頬をゆるめた。重々しくも華やかな、この空気に魅せられない女が果たしてどれほどいるだろうか。ああ、と麻衣は甘いため息をつく。
(花嫁さんて、どうしてこんなに綺麗なんだろう……)
 息を吐き出した拍子に、「きれい」という言葉が口からこぼれだしていたらしい、となりにいた友人が花嫁から麻衣に目を移して、その目を瞬かせた。
「きれいって、うちのブスが?」
 彼女はサチコといい、麻衣の大学での同級生であり、この結婚式の花嫁の妹でもある。家を行き来するなどかなり親しくしている彼女に招かれるような形で、麻衣はこの結婚式に参列したのだった。どちらかといえば式の支度を手伝うのが主な用事ではあったが。
「ブスって、そっくりなくせに」
「だから、あたしもブスなのよ」
 そのサチコも、彼女の姉にしても、容姿にはそれほど優れていない。ブスという彼女の言葉は言いすぎだとしても、日本人にしては少々高すぎる鼻と切れ長の目がアンバランスな印象を与え、姉妹そろっての化粧嫌いがあかぬけない雰囲気を決定づけている。
 そのいつもは野暮ったい彼女が、ひょろりとした長身に細身のウェディングドレスをまとい、長々とヴェールを引きずって、今誰よりも明るい表情を輝かせている。
 きれいだ、と麻衣は素直に感じる。それほど面識があるわけでもない友人の姉の幸福を、日を照り返すような純白のドレスにじんじんと感じる。どうして、花嫁はこれほど美しいのだろうか。
「あたしも着たいなぁ……ウェディングドレス」
 ライスシャワーにはしゃいで、まぶしそうに笑う花嫁。
 その腕を黙ってにこやかに支える、花婿。
「へえ。じゃあ、保証する。あんたなら史上最高の綺麗な花嫁さんになれるよ」
 自分は口元に笑いを浮かべながらも、こちらを笑わそうという響きなしにサチコが言うので、麻衣はあわてた。
「そりゃ、おだてすぎだよ、君」
「麻衣は顔も大変かわいいし、感情表現がとんでもなく素直でいらっしゃるから」
「単純だから雰囲気にのせられやすいってか」
「花嫁はさ、幸福でいっぱいだから誰でも綺麗に見えるんでしょ。あんたよりそれを表現できるやつなんか、そうそういるもんか」
「ほめられてんのか、からかわれてるだけなのか、判然としないんですけど……」
 サチコは、ははは、とあっけらかんとした調子で笑う。
 居心地が悪くて頭をいじりそうになり、麻衣は直前で手を止めることができた。結婚式に参列するということで、松崎綾子(化粧魔人)大先生にコーディネイトおよびヘアセットをお願いしたのだ。崩してしまったら、どんな罵倒を受けることか。
(花嫁か……なれるのかなぁ)
 麻衣は来月の誕生日で21になる。あと数年もすれば友人間で結婚ラッシュが起こり始めるだろうという今、麻衣の心を悩ませている男性はお付き合いだの結婚式だのとは縁遠い人間である。
 想いを通じ合わせるだけなら――籍を入れるだけならもしかしたら――いや、どうなのだろう。予断を許さないのが彼という男の性格だ。
「サチコ!」
 ふいに自分の近くに投げられた声に、麻衣ははっとして今日の主役の方に目を向けた。
 花嫁であるサチコの姉が、こちらに向かってブーケを高く放り投げるところだった。
 ひときわ高く、歓声。
 あわてたように飛び上がって投げられたブーケをなんとかキャッチしたサチコは、おいおい、と笑った。
「まだ当分結婚するつもりはないぞ」
 ありがたいブーケにそんな文句をもらしたサチコは、むしろ名指しされて困惑した様子だった。花嫁のブーケを受け取った人は、次の花嫁になる。そんなジンクスがあるから、この場にいる女性はみな内心それを狙っていたのに違いないのだ。
 サチコは、花嫁が自分の前を行きすぎてしまうと何の未練もなさげに麻衣に向かってブーケを差し出した。
「あげる」
「ええっ? いーよ、サチコがもらったんでしょ」
「難しい恋をしている麻衣に、幸せのおすそ分け」
「……なんですと」
 麻衣の抗議の声もあっさり弱くなる。花嫁のブーケは、やはり憧れなのだ。
 清楚なユリを中心としてシンプルにまとめられたブーケは、くすんだ白いワンピースを着てきた麻衣の手に、しっくりとなじんだ。ウェディングドレスへの純粋な憧れが、麻衣の胸にあふれ出す。
「ありがと……」
「麻衣にも幸運がありますように」
 みずみずしい花の匂いが麻衣の心を一瞬ひどくうるおした気がした。

 ナルが何ということもなく読んでいた本から顔を上げたとき、やけに扉の外が騒がしくなっているような気がした。
 今日も今日とて、事務所には親しくしている同業者たちが押し掛けてきている。親しくしていると言ってもナル個人が友人づきあいをすることになったのは時間による不可抗力である。彼が望んだわけでは決してない。
 始めは仕事に行った先で偶然出会ったというだけの相手だった。その偶然が別の場所でも重なり、時折協力体制を取るようになった中で、事務所のアルバイトであった人なつこい女が彼らになついてしまった。彼女、麻衣はこのオフィスの中で確たる実権を握っている。自ら声をかけまくることでオフィスの人間たちに無理矢理コミュニケーションを成立させ、来客をそのお茶くみの実力によってもてなすことでオフィス内の空気を支配してしまう。所長であるナルに怒鳴られてもまったく応えないということも、彼女の立場を強くしていた。
 そんな麻衣と親しくなった同業者たちは、あくまで麻衣と話すことを目的にして、このオフィスに入り浸るようになった。おいしいお茶が飲めることも一因だろう。そうして集まっては仕事場だということを念頭に置く様子もなく無駄話に花を咲かせる。
 困るのは、彼らがついでとばかり用がないはずのナルに対しても何かと声をかけ巻き込みたがることだ。その必然性は理解できない。よほど彼らが暇だからなのだろうかとナルは常々不思議に思ってきた。
 ともかくも、そんな日々を過ごしながら月日はいつの間にか5年を数えてしまった。馴れ合ってしまっている自分にナルももちろん気付いている。
 特に、麻衣に関しては……
「ナルー。お茶持ってきたよー」
 ノックとともに聞き慣れた悩みのなさそうな声が扉の向こうから投げられた。
「どうぞ」
「お邪魔しまーす」
 いつのものように、麻衣はきちんと断りを入れてから扉を開けて所長室に足を踏み入れてきた。ナルがこの場所を開放することを嫌うから、入った後は必ず扉を閉める。よく気がつく娘だと言わざるをえないだろう。
「今帰ったとこなの、ただいま」
 ナルは首をかしげる。
 そういえば今日は彼女を見かけた覚えがない。
「忘れてるな? 今日は5時まで休みだったの! 昨日ちゃんと言ったのに!」
 ナルはやっと思い出した。
「で、その格好で出勤か?」
「綾子に借りたんだ。……結婚式だったの」
 はにかむように言いながら、麻衣はナルの机の上に紅茶のカップを置いた。ナルは基本的に自分の飲み物(大概は紅茶以外のものではない)を彼女にいれさせる。他意はない。上手いからだ。
 それで、自分自身がオフィスの暇人たちに頼んだことを思い出した。麻衣が出勤してきたら所長室にお茶を持ってこさせるように、と伝言しておいたのだ。それに従って彼女は今真っ先にここへ来たというわけだ。
 何も言わずとも、麻衣が出勤してすぐナルにお茶を出すのは日課なのだが。わざわざ伝言したのは、ひどくのどが渇いていたから、というわけではない。
 ただ一種の物足りなさのような……そんな理由だったとナルは思う。
「綾子に見立ててもらったんだよー」
 服装に関する感想を求めて言われたセリフなのは分かったが、わずらわしいと思いナルは生返事をした。
 麻衣は上品な灰色でくすませたような白い膝丈のワンピースを着ていた。胸元が大きく四角に切り取られていて、その部分には服地と同じ布でできた細い紐が白い十字を作っていた。
 紐で編み上げたような黒いサンダルは高いヒールを持っていて、白い服によく映える。顎より長いくらいに伸ばした髪をいつもと違いアップにしているせいもあるのだろうか、奇妙に大人びて見えた。
「それでね、実は花嫁さんのブーケをもらっちゃったの」
 うきうきとした様子で言われたセリフに、ナルは首をかしげる。
「ブーケをもらうと次の花嫁になれるんだよ。知らない?」
「ああ……」
 よく言われているその俗説を思い出して、ナルは彼女の上機嫌に納得する。
「もう結婚するつもりか?」
「相手がいないもーん。いいじゃない、縁起がいいから」
「縁起?」
「うん。結婚はともかく、恋がかなうかもしれないでしょ?」
 最後の言葉は声のトーンを一段落として綴られた。
 妙な含みだ、とナルは思う。
 化粧のせいか、大人びて見える彼女の目を見つめる。
 どんな返答を期待されているのか。
 期待されていることを模索するしか、ナルにはその問いかけに返答するすべがない。
「……それは結構なことで」
 結局そのような言葉を投げておいた。
 麻衣は、ふっと笑いをこぼす。
「……ということで、せっかくだからここに飾ってもいい? この机に似合う気がするんだ」
 明るい調子で言い、深い木の色をした机を指で叩く。
「給湯室に花瓶があるから。いいでしょ?」
 有無を言わさない調子で否定の返事を待たない笑顔を見せる。
 彼女は一度言い出すとそう簡単なことでは意見を引っ込めない。ことにこういった曇りのない笑顔をしているときは、ナルの反論を予測して言ったそばからそれを封じ込める用意をしているかのようだ。
 ここでくだらない言い争いをするより好きにさせておいた方が被害は少ない、とナルは判断した。
「ご自由に」
 麻衣はありがと、と言うなり花瓶と花を取りに所長室から出ていく。そして、落ち着きのないやつだ、とナルがため息をもらしている間に、大振りな花瓶を抱えた麻衣は再び舞い戻ってきた。
 白く長い花弁を持った百合がいつでも清潔な空気をその身にまとっている麻衣によく似合った。そうして花を運びこみ、麻衣はナルの世界に理論や論議と言ったおなじみの感覚以外の単純さを持ち込んでくる。
 見た目より重たげに麻衣は花瓶を両手で抱え、それを所長室の机に置こうとした。その瞬間、体ごとななめにして机に覆い被さるような格好になった麻衣の胸元から、白いレースの波形が妙にくっきりナルの目の内に残った。
 無防備だ、と苛立つ。
 突然のことにすぐ目をそらすことができなかった自分の性を憎む。
 蠱惑的な白さと対照的なまでに、あどけない女の単純さに失望する。
「よいしょっと」
 ナルの視線にこれと言って意味を見いだす様子もなく顔を上げた麻衣が、さきほどと同じ一点も曇らない笑顔を見せる。
「うん、やっぱりよく似合う」
「ああ、そう」
 そしてナルはようやく自然を装って目をそらすことに成功した。
 その白い装身具を取り払ってしまうことを心の奥で考えた。今さっきの瞬間のまま心おきなく見ていられることを考えた。この笑顔を、じゃあ、と言って仕事に戻ろうとする体を引き止めておけることを考えた。
 それらはすべて、誰にも気付かれぬようしまってなかったことにしたいものであった。
 もう長い間、そのようなものであった。
 それを欲情、という名前で呼ぶことを知っている。もう今では分かってしまっている。自分は彼女を抱きたいと願っているのだと。
「それじゃあ、仕事するね」
 あっさりと(それはあまりにもいつも通りの調子であったからことさらにあっさりとナルの耳に響いた)身を翻して麻衣が所長室を出ていった後、ナルはいつものごとく身の内にわき上がらせてしまった欠乏感を持て余す。
 このような些末事にわずらわされる失態が許し難く、また性的関係があるわけでもない(自分の部下である)一女性を妄想の中とはいえ犯そうという自分の醜さも度し難く思う。
 ざわざわと蠢きだす妄想をできるだけ早い段階で抑えつけてしまおうとする努力は、ひどく体力と精神力を消耗した。それでも、身を任せることは、その情動を認めてしまうことはとてもできなかった。それは、自分の醜さを認め、許容するということに他ならなかったからだ。
 ナルは、完璧だったはずだった。
 他のものには及びもつかない発想、思考力、自制心。そして弱さになびかない、徹底した生き方の指針。それらがある限り他の者の低俗なレベルに落ちることはあり得ないと思っていた。事実ナルはすべてにおいてトップを歩き続けた。半分は才能、半分は自らの努力による名誉だった。
 自分は麻衣の自分とはまるで違う単純な生き方に憧れを持っているのだろうか。
(NO)
 時に自分を従えてしまう毅さに敗北感を覚えているのだろうか。
(NO)
(ただ……なぜか、抱きたい、それだけが分かっている)
 この欠乏感。
 そして、この焦燥感。
 それを消化するすべを、ナルは知らない。

 そんなことをナルが思い始めてずいぶん――ナルはその始まりをいくら思考を巡らせても明確にすることができなかったが、おそらく一年弱から少なく見積もっても数ヶ月だろう ――たち、転機は突然にやってきた。
 その日の嵐が突然であったように。
「……寝ないのか?」
 聞いた相手は、にこりともしないでナルを見返した。
「どこで?」
 ベッドで、という言葉を口にするときに自分の口調にもれてしまうかもしれない複雑さをおそれ、ナルは軽口に聞こえるように言葉を返した。
「ソファがあるが?」
「ベッドもあるよね、当然?」
 彼女の方からベッドを貸せとうながされたことに少々の安堵感を覚えた。
 ナルは話が簡単に決着を見たことを歓迎し、立ち上がる。
「床も充分広いが」
 言いながら寝室の扉を開いた。
「何?」
「こっちが寝室」
 リビングで仕事を続け、気が向いたら寝支度を整えてソファで寝ようとごく当たり前に考えてナルはベッドのとなりに置いてある小さな引き出しから寝間着を取り出した。窓の外ではまだ雨が降り続いているが、台風なら明日には過ぎ去り、この薄氷を踏むような2人きりの部屋から彼女を追い出すことができるだろうと当然のように考えていた。
「このまま寝るの?」
 ふいにそんな言葉が背中の方からこぼされた。
 その言葉にナルは理屈ではなく含みを感じる。それは今まで彼女との会話の中で何度か感じたものだった。
 もし構わないなら抱かせろ、と心の中では答えた。しかしけして口にする気はない。異常をきたしている自分の理性も判断力も自制心も、ナルはこの件に関してまったく信用していなかった。含みだの視線だの、すべては彼の誤認だという可能性があるのだ。
 それを誘いだと受け取ったのがもしも誤解であったとしたら? この上現実に他人を傷つける結果になるのは御免だった。
「そうなんじゃないのか」
「うん、そうだよね」
 身勝手な願いが、期待させるな、と言う。だが、単純な彼女の口からこぼれる言葉に何の責任があるわけでもない。
「すごい雨……外の音が何にも聞こえない」
 意味のない独り言が背中で聞こえている。それだけの言葉が、わずかではあっても2人でいる時間を長引かせる。
「だからといってさみしいというのは理解できないが」
「ひとりでも平気?」
「当たり前だな」
「いつでも?」
「そのつもりだ」
「そう」
 ナルは言葉の切れ目を狙って早急にその場を立ち去ろうとした。この状況に、またも彼女との情事を夢想しかねない。それはナルにとっては何より避けたい事態であった。
 ふいに、電気が落ちた。
 言葉が完全に途切れた。それは、話の続きなどではあり得なかった。
 長い意図のつかめない沈黙にナルは期待を押し殺して、暗闇を越えて麻衣のいるはずの位置をさぐった。
「何のつもりだ?」
 ナルは聞く。意図したよりもさらに静かな声になった。
「それを聞く?」
 感情を殺した声に、ナルは一度まぶたを閉じた。
 抱かれてもいいと、彼女は今度こそ確実に言っている。
 ナルは部屋の扉を閉じるべく歩き出した。リビングにつながる扉は半分開いたままになっていて、そこから細い灯りが漏れている。
 扉近くにいた麻衣の後ろを通るとき、彼女は吐息のような声で呟いた。
「……怒らないの?」
(怒る? 何のために)
 本来眉をしかめてもいいはずの状況に歓んでいる自分を、ナルは冷笑する。
 彼女は知らない。怒るはずもない自分を知らない。彼女の裸体を痴態を考えてしまう自分を知らないのだ。その危険を知らないで、このような誘いをかけ、そして自分はそれを知りながら乗ってしまおうというわけだ。
 扉を閉め、ナルは麻衣の後ろに立った。彼女はまだスイッチの前で彼に背を向ける格好のまま立ちつくしていた。
 ほっそりとした肩に腕を回す。いつも遠い距離から見つめていたその肩にナルはようやく手をふれる。麻衣は力を抜くように息を吐き出した。
 安心する場面ではない、とナルは皮肉に思う。彼女はこれから1人の男の抱いてきた欲の前にさらし者になるのだ、と彼だけは知っていた。だから彼は心を悟られぬよう表情を失くし、口をつぐむ。
 腰に回した片手をゆったりとしすぎたパジャマ(それは彼のものだったから)のすそをたくしあげてなめらかな肌に触れると、いつしか彼は抱いてきた夢の中に迷い込んでしまったような気持ちになっていたのだった。

「あっ、あのね! もうひとつだけお願い聞いて?」
 彼女が言ったのは、怖がる彼女のために行為をしばし中断したあとのことだった。彼に体中でふれている状態に気持ちが慣れてきたのだろうか、いつもと変わらない単純な調子の言葉だった。それはナルにしても言えることで、体を重ねた程度のことでは何も変わらないようだと安堵しつつあった。
「今度は、なんだ」
「う……えーと、その……」
「何」
「……キス、して下さい」
 言って、照れたのか麻衣は目を閉じ、枕に顔を押しつけた。
 少し戸惑ったナルの空気を感じ取ったのか、麻衣はぶつぶつと言い訳を始める。
「だからぁ、そのぅ……ファーストキスより先に最後までいっちゃうのって、何だか……」
「……してなかったか?」
「してないよ」
 奇妙にきっぱりと言い切られ、ナルは思わずため息をもらすのだった。
(馬鹿、焦りすぎだ)
 落ち着いているつもりでいたのだが、自分で思っているよりもずっと性急に事を進めようとしていたらしい。女性の気持ちを考えるならキスは必要だ、といつだったか主張していたのは滝川だろうか。
 ナルのため息をどう解釈したのか、麻衣がふくれる。
「どうせ子供っぽいもん」
 そう思っているなら思わせておこう、とナルは返事をしない。彼女を欲するあまりに理性を飛ばしていたなどと自分から弱みを暴露する必要はない。
 答えない代わりにすねて横を向いた麻衣の顎を押してこちらを向かせ、唇に唇を軽くふれさせる。
 麻衣の腕が背中から頭に回り、ナルの唇を引き寄せる。
 甘いキスが、またナルの頭から理性と罪悪感のすべてを取り払った。
 不思議だ、とナルはどこかで思っていた。
 熱いような、痛いような、めまいがするような、この感覚は快感の得られるはずのないこの行為のどこから来るのだろう。
 もしかしたらこの感情には一般的な名詞を当てはめることができるのではないかと、初めてナルは思い至った。性欲と衝動と苦痛と嫌悪、それらがないまぜになった情動、そんな認識だけしていた。
 もしかすると、それはただひとつの単純な名詞で表すことができるのかもしれない。
 彼女が欲しいと思う。それは、ともすると体だけではなく彼女の笑顔や仕草のひとつにも感じる欲望だった。
 それは、もしかすると……

 ごく短い眠りから覚める。
 寝起きは特に悪くない。急速に冷めていくもやがかった頭とともに、夢めいた陶酔も消えていった。
 ナルはけだるく窓に目をやる。まだ夜が明ける気配はなく、雨だけがわずかにやみかける予兆を見せていた。
 傍らを見れば、麻衣が正体をなくして眠っている。この様子では朝まで起きないかもしれない。むきだしになった白い肌が、ナルの理性に強い違和感を与えた。
 奇妙な状況だ、と思う。
(一体どういう必然性があって、僕は部下であり兄の親しい知人であるこの女と寝ているのだろう)
 彼女が許したから、というのは事実だが、事実の一端でしかないことが今ナルにははっきりと分かる。
 彼女が誘った。では、それは一体なぜだったのか。
 理由はいくらでも考えられる。ナルが望むものの他に、いくらでも。
 そして、もしも兄が生きていたら、とナルは考える。兄がナルの代わりに同じことをしたかもしれない。彼女は怯えることも不安がることもなく身を任せたかもしれない。
 いつだったか、約束された未来に、ひとかけらの不安もない幸福に輝く花嫁のことを話していた麻衣を思いだして、罪悪感にめまいがした。そんな途方もない安心を与えられるわけがない。
 頭痛を感じ、ナルは頭を押さえた。
(僕はなぜ、こんなことに頭を悩ませてるんだ)
 手際よく服を着ると、ナルはベッドを降りた。視線に吸い付くようななめらかな裸身にひどい未練を感じた。からみつく自分の視線を振り切って、ナルはリビングに足を向ける。
 リビングのテーブルには先ほどのまま仕事道具が放り出されている。
 いつも通りの光景だ。ナルの慣れ親しんだ日常の流れが、そのリビングにはまだ残っている。
 その中では、割り切れないことなど何一つない。既存の公式で割れないならば、新しい公式を模索すれば済むことだ。そして、それがナルの仕事でもある。いつかは嘘のようにぴたりとはまる理屈が見つかる。その快感から、ナルは仕事にのめり込み続けた。
 誰かにこの気持ちを定義される、あるいは神に未来を誓う、そんなことで安心を得られる人々にある種の切迫した憧れを感じた。ターニングポイントを持つことで、何が変わるのか。心に名前を付けても、不安の存在を消せるわけではないのに。
 ただ、何もなかった状態に戻ることでしか、不安は消えない。
 この、書類だけあれば思考を釘付けにできた頃に戻るしか。
(僕は認められない)
(彼女に頭の中を乱される自分を、いまだ認められずにいる)
 しかしゆうべ彼を包み込んだ深い安心が、今まで動かずにいた彼の心を初めて揺さぶり、彼はなお苛立ちに沈む。

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