会わないと、忘れてしまう。
 人間の記憶力なんて、実は自分で思ってるよりずっと当てにならない。
(どんな声だっけ)
 どんなに毎日一緒にいたって、結局いざ離れたときに思い出せるのは記憶の断片だけで、
 散らばった欠片を結んで全体像を作り上げるのは、結構難しい。
(どんな顔だっけ)
 もっと、例えばどこにほくろがあったとか、
 紅茶を口に運ぶときの手の動きとか、そういう細かいことはやけに鮮明だったりするのに。
(でも、会えないと忘れちゃうよ)
 記憶の砂は、いとも簡単に手の中からこぼれ落ちていく。
 それを止める術も知らずに、あたしはただ、会えない時間の中で焦るばかりで。

(…会いたいだけ)

 あたしは、ナルに会いたい。





--+--- do please ---+--



BY ニイラケイ






     
 
 一週間ほど前の、ある夜のことだ。
 そのとき、あたしはまさにそのナルのために洗濯物を畳んでいる真っ最中だった。
 以前はリンさんがやっていたナルの身の回りの世話は、この頃ではあたしの役割になりつつある。
 それは、あたしとナルが、とりあえず世間一般で言うところの恋人という関係になって、
 そのことにいち早く気付いたんだろうリンさんが、あたしに少しずつ色んなことを任せてくれたからだ。
 あたしは勿論、ナルの世話をすることに異論なんてあるわけもなかったし、当然ながら家事は一通りこなせる。
 だからその日もいつもと同じように、「帰ったら自分のも取り込まないと」なんて、呑気なことを考えながら、
 ナルのシャツをクロゼットにしまいに行こうと、ちょうど立ち上がった所だった。
 麻衣、と呼ばれて振り返ると、ナルはソファに座って書類を繰っていた。もちろん、こっちは見てない。
「何?」
「正式には明後日からになると思うが、」
「うん?」
「暫くここへ来ないように」
「…はぁ?」
 あたしの間抜けな返答に、ナルは普段通り眉をしかめることで不快さを表現してくる。
 その態度に文句をつけようとあたしが口を開くと、声を出す寸前でナルの言葉がそれを遮った。
「暫く仕事にかかりきりになる。邪魔になるから来るな」
 ほんの1時間前まで触れ合っていた唇から吐き出された言葉に、あたしの思考回路は動作を止めた。
 いつも通り用件だけを端的に突きつけられて、ただ呆然と頷いたあたしをナルは見ようともしなかった。

 ナルの家から暗い帰り道。
 ぼんやりと灯っている街路灯の明かりの下、あたしは恨みでもあるかのように地面を踏みしめて歩いた。
(仕事だって言われたら、こっちは何の反論もできないってのに)
 解ってて、早々と「仕事」の二文字を出したんだ、アイツは。
(ズルイ!)
 考えてるとだんだん腹が立ってきて、あたしはたまたま足下に落ちていた、哀れな空き缶を蹴り飛ばした。




 あの日から、あたしはナルの家に行くわけにいかなくなった。
 例え弾みとはいえナルの言葉に頷いてしまった以上、今ひょっこり顔を出そうものなら、ブリザードどころでは済まない。
(…あー…もう…何であんなのと付きあってんだろ、あたし…)
 ナルはその予告通り、オフィスを休んでまでマンションの自室に閉じこもった。もちろん、その後連絡は一切無し。
(…だろうと思ってたけどさ)
 ナルが休みを取った一週間後、つまり明日から、あたしの学校では中間考査が始まる。
 となればやっぱり、オフィスにはリンさんと安原さんしか居ないことになるから、どうしても二人にかかる負担は大きくなる。
 ナルがそこら辺に考えを向けたかどうかは謎だけど、
 本人に問うてみても多分、そんなこともこなせないのか、とか、
 いつも通りの調子で言われるだけだと解ってるので、誰も問い質すようなことはしなかった。
(自分勝手もいいかげんにしろっての)
 もちろん、あたしは身勝手横暴などっかの誰かさんとは違うから、前もって休みを申告してちゃんと確保してた。
 まあ、多分そんな話をしたことなんて、とっくにナルの頭からは消えてるだろうけど。
 彼の有能な頭脳は、無駄なことは吐き出すようにできている。
(別に良いけど)
 元々依頼客の少ないあのオフィスも、ナルが不在の状態じゃ、依頼が来てもどうせ保留になる。今は大した仕事もないし。
 そんなことを考えながら、仕事帰りのだるい道のりを、あたしはぼんやり歩いていた。
 帰りがけに安原さんがくれた、「テスト、頑張って下さいね」が、乾燥した心に響く。
 あれほど、とまではいかなくても、もう少しくらい心根の曲がっていない人を好きになれば良かったのに。
「あたしの物好き…」
 そんな、今更な呟きを抱えて、あたしは住み慣れたアパートを仰いだ。

 教科書の入った普段より重たい鞄を肩にかけ直して、ポケットから鍵束を取り出す。
 束と言っても、家の鍵とオフィスの鍵と、あとはキーホルダーぐらいしかついてないけど。
 あたしは一番頻繁に使う自宅の鍵を無意識に選び出して、人気のない家の中へ身体を押し込んだ。
(…疲れた…)
 居間兼寝室となっている6畳間に荷物を降ろし、いつものくせでテレビの電源を入れる。
 荷物の重みに耐えたおかげで痛む肩を何度か回してみると、案の定関節が何度か悲鳴を上げた。
 オフィスを暫く休むんだし、今日は頑張らないと、と思ってちょっと掃除や雑用に精を出しすぎた。
 本棚の整理とかはやめとけば良かったかも、と今更にして思うけど、まあとりあえずそれで自分の気が済んだんだからいいとしよう。
 テレビでは、あまり見覚えのない女優と男優が恋愛論に花を咲かせている。
 いかにも経験豊富そうな女優の言葉にしばらく耳を傾けてみたけど、
 どうやら彼女は、優しい年上の男性との恋愛を好んでいるようで、
 今の状況、つまり「毒舌で性格のひん曲がった絶世の美形との男女交際」にはまるで役に立ちそうになかった。
 テレビなんかに簡単に答が出せるような、楽な問題じゃないと解ってるけど、ワラにもすがってみたくなるのが人間ってもんだ。
(すがってみたって、結局ワラはワラでしかないけどさ…)
 あたしはリモコンを使わず、テレビに近寄って幾つかチャンネルを切り替え、当たり障りの無さそうなニュースに変えた。

 冷蔵庫に晩御飯になりそうなものはなかったので、さっきコンビニで買ってきたお菓子を晩御飯代わりにするしかない。
 ついでにお茶を、と台所に立って、ほとんど無意識のまま紅茶を入れる準備をする。
 バイトに行くようになってからというもの、あたしは練習ついでに家でも紅茶を入れていたりする。
 短いとはとても言えない時間を過ごしているあの場所のおかげで、手慣れた作業をこなしながら、
 ふと、ここ暫くナルのために紅茶を入れてないことを思いだした。
(あ、いつ終わるか聞きそびれたな、そういえば)
 オフィスの休みも「無期限休暇」とかって話しだし。
 まあ、あの研究熱心な仕事馬鹿のことだし、今やってる仕事が終わったらすぐにでもオフィスに出てくるだろうけど。
 どうせまた今頃、ボーダーラインギリギリの無茶してるに決まってる。あの部屋で、一人きりで。
 あたしはカップを持って、テレビの音だけが響く居間に戻る。
(一人、か)
 食事なんかはリンさんが世話してくれてると思うけど、ほんとにちゃんと食べてるんだろうか。
 作業に没頭すると、寝食を忘れるのはいつものことだ。今回なんて、オフィスを休んで缶詰めまでしてはまりこんでる。
「大丈夫、だと思うけど…」
 そう自分に信じ込ませるために敢えて口に出した言葉は、口元に持ってきていたカップの湯気を揺らして、
 誰もいない部屋の中に虚しく響く。
 何気なく動かした視線の先に、捲り忘れていたカレンダーがあるのを見つけた。
 先月分の紙を破って新しい日付を表に出す。紙の上を指でなぞってみても、ナルに会えるまであと何日あるのかなんて解るはずもない。
(…勉強しよ)
 用済みになったカレンダーをゴミ箱に放って、あたしはテスト勉強をするべく学校の鞄を開いた。



 そうして翌日。
 あたしの不安を刺激するように、夕刻に沈む部屋の中で電話が鳴った。
 
     






おそらく久々の(って言っても、あんまりそんな感じしないけど)ナルX麻衣です。
しかも、また裏書斎。…清純派を主張していた私は、一体どこへ行ったのか…(遠い幻)
っつーか、またしても続き物でごめんなさいm(__)m
今回は一応、最後まで書きあがっているので、後は直しとアップ作業だけです。
一応、今のところ、3話+オマケ、な感じで進行中です。

てなわけで、次回更新予告。←予定は未定なので、必ずしも守られるわけではない予告ですが(滅)
2002年1月19日 です★
飲みに行ったり、夜遊びに行ったり、ゲームにはまったりしなければ、(←え?)
更新しているはずです。
ので、お暇なときにでも覗いてやって下さいませ〜v

…しかし、ナルの出番少ないな…(淋)