冷たい部屋だ、と思った。
 生活感がないわけじゃない。
 あちこちに積み上げられた、分厚いハードカバーの本。
 雑誌も書類らしき紙も積み重ねられて、ノート型パソコンと一緒に
 机の上を占領している。
 黒っぽいグレーのコートがソファに掛けられていて、
 飲みかけのミネラルウォーターのペットボトルが
 無造作に床に置かれている。
 人が住んでる。それは解る。
 問題は、ここが誰の部屋か、ということだ。
 そして、もう一つ。
 あたしは誰なんだろう。





--+--- 記憶喪失 ---+--



BY ニイラケイ






     
 
 頭の中を探ってみても、何も浮かばない。
 役立たずな頭に匙を投げて、あたしはとりあえずソファに腰掛けた。
 特にすることがなくて、何気なくコートを持ち上げて調べてみる。
 何か、身元が書かれているものはないだろうか。
 名刺とか、免許証とか。
 ポケットを全て漁ってみても、レシート一枚出てこない。
 あたしは身元確認を諦めて、次に、机や床に堆く積まれた紙の束や
 雑誌に目を向ける。
 無理だ。あたしには理解できない。
 どの雑誌も、書類も全て英文で書かれている。
 (何も覚えてないのに、それが英語だと、何故か解った。
 そういうことは解るものなんだろうか)
 ここの部屋の主は外人かもしれない。
 と、そこまで考えて気づく。
 一体あたしはどんな容姿で、どこの国の人なのだろう。
 見たところ、鏡やそれの代わりになるものはないらしい。
 気になったら確かめてみなければ気が済まない。
 あたしはソファから立ち上がった。
 立ち上がる瞬間に気づいた。
 着ているシャツの右の袖口に、赤い染みが付いていることに。



 どうやらここはマンションの一室らしい。
 何の記憶もないのに、ここが自分の部屋じゃないことには
 目覚めたときから気づいていた。
 あたしが目覚めた寝室。そこを出てすぐリビングで、奥に小さなキッチン。
 リビングから続く廊下を通って、トイレとお風呂。
 そして玄関。
 知らない人の家にいるのに、あたしは何故か落ち着いている。
 ここを出ていこうとは思えない。
 だって、あたしは知らなくても、相手はあたしを知ってるはずだ。
 お風呂の手前に洗面所を見つけた。
 上半身が全部映るくらいの大きな鏡。
 そこに自分の姿を映してみる。
 (…よかった、女だ)
 そして、思っていた通り日本人のようだ。
 普通の女の子が、そこには映っている。
 じゃあどうして…?
 どうして、あたしは外国人の知り合いが居るんだろう。
 どう考えても、あたしは英語が話せない。
 読むこともできないようだ。
 そんなあたしが、どうやって知り合う機会なんて持てるの?
 例えば、クラスメートに外国からの留学生が来てて、友達になった。
 その子の家。
 …あり得ない。だって、ソファに掛けられていたコートは男物だった。
 玄関に置いてあった黒い革靴は、あたしにはがばがばだった。
 多分、ここに住んでるのは男の人だ。
 しかも、おそらく学生じゃない。社会人だと思う。
「誰なんだろう」
 考えようとすると、頭の中に霧がかかる。
 軽い頭痛を覚えて俯く。
 やだ、なんか吐きそう。
「どうした?」
 あたしのすぐ後ろに、人が立っていた。



 あたしの背後に気配もなく立っていたその人は、
 倒れそうになるあたしの腕を掴んで支えてくれていた。

 急に声を掛けられて降り仰ぐと、そこに立っていたのは
 同い年くらいの少年だった。
 少年、と形容するほど幼くはないし、青年と呼ぶには
 まだ早すぎる気がした。
 でもそれは後で気が付いたこと。
 彼を最初に見たときのあたしは、呆然としていたに違いない。
「どうしたんだ?」
 もう一度同じことを言って、あたしの顔を覗き込むその人は、
 とんでもなく秀麗な容姿の持ち主だったのだ。
 あたしが何も言わずにいると、彼はあからさまに呆れた顔をした。
「日本語も喋れなくなったのか?」
 は?
 彼は溜息を一つ付くと、ものも言わずにいるあたしをいきなり抱き上げた。
「な…っ!?」
「大人しくしてろ」
 何でこの人はこんなに偉そうなんだ?
 ていうか、この状況は一体何なんだ?
 どうしてあたしが初対面の人に抱き上げられたり、
 命令されたりしなくちゃいけないのよ。
 あ、でも向こうはあたしのこと知ってるんだよな。なんて、
 呑気なことを考えていると、あたしを抱えたまま彼が止まった。
 そこはあたしが目覚めた、あの寝室。
 …ちょっと待ってよ。
 まさかだよね?
 あたしが怯えているのが解ったのか、彼は初めてあたしを不思議そうに見た。
「麻衣…?」
 まい?
「それがあたしの名前?」
 彼は怪訝な顔をした。
「は?」
 胡乱なものを見るような目つきで見つめられたけど、しょうがないじゃない。
 覚えてないんだから。
「まいって、あたしのことよね?」
 違うの?
 不安が体の中を渦巻いている。お願いだから教えて。
「お前以外に、僕は麻衣という名前の知り合いはいない」
 冷たい、突き放すような言葉。
 冗談だと、思っているようだ。
「じゃあ、貴方は?」
 なんていう名前なの?…誰なの?
「ねぇ、ここはどこ?貴方の家?あたし、どうしてここにいるの?
 貴方はあたしの何?あたし、どうして何にも覚えてないのっ!?」
 涙が浮かぶ。不安が溢れ出すような、そんな気がした。
 さっきまでは落ち着いてた。
 きっと、この家の主が帰ってくれば思い出せる、と理由もなく思い込んでいた。
 この人は誰だろう。
 どうして思い出せないんだろう。
 あたしは、誰なんだろう?
 彼の腕の中で泣きじゃくるあたしを、持て余したのかもしれない。
 あたしをベッドに腰掛けさせて、そのまま部屋を出ていった。
 冷たい視線。呆れたような表情。
 彼は、あたしのことが嫌いなんだろうか。
 ここの部屋の主は、彼じゃないんだろうか。
 泣きすぎて頭が痛くなってきて、あたしはそのままベッドに寝ころんだ。
 枕に顔を押しつけると、懐かしい匂いがした。
 誰の匂いだろう。
 あたし多分、この匂いの人が好きなんだ。
 不意にそう思った。



 しばらくして、あたしは目が覚めた。
 寝てたんだ。気が付かなかったな。
 何だか隣の部屋が騒がしい。
 さっき起きてた時は、物音一つしなかったのに。
 あたしは、痛む頭を押さえながら、リビングへの扉を開けた。



「麻衣!!」
 ケバいおねーさんが、いきなりあたしを抱きしめた。
 誰だろう?また知らない人が増えてる。
 おねーさんは、確かにケバいけど派手だけど、
 何故だかあたしはその腕が心地よかった。
「綾子、お前自分だけ良い思いしすぎ。いいかげん麻衣を離さんかい」
「うっさいわね。じじぃは黙ってなさい!」
 おねーさんの後ろから、今度はおにーさんが現れた。
「麻衣、大丈夫か?どっか痛くないか?」
 背の高いおにーさんは、あたしの頭をかき回している。
 そのおにーさんの後ろに、さっきの彼がいた。
「そのぐらいで良いでしょう。このままじゃ話が進まない」
 さっきと変わらず、冷たい瞳は何の感情も灯していない。
「それに、麻衣に何を話しても無駄だ、と先ほど申し上げたはずですが」
 まいって、あたしのことだよね。
 じゃあ、無駄って…?
「全く覚えてない、そうだろう?麻衣」
 急に話をふられて、あたしは口ごもる。
 おねーさんもおにーさんも、あたしを見つめてる。
 覚えてない、って口にするのは申し訳ない気がした。
「遠慮するな。…覚えてないのは、お前のせいじゃないんだ」
 彼は前よりも少し口調を和らげた気がした。
 彼の瞳を見ると、ほんの一瞬、何かが浮かんだ気がした。
「…覚えて、ないです」
 失望の溜息が、すぐ近くで落ちるんじゃないか、と身体を堅くしていると、
 あたしの頭の上に置かれていた大きな手が、さらにわしゃわしゃと頭を撫でた。
「そーか、そりゃあ不安だっただろう。…大丈夫だぞ」
 おにーさんの手は暖かくて、あたしはまた泣きそうだった。
 抱きしめていてくれるおねーさんの腕に縋る。
 おねーさんは何も言わずにあたしの背中を撫でてくれた。



「一から全部説明しても良いが、混乱してるお前の頭で
 理解できるとも思えない。だから、
 お前が記憶を失っただろうと思われる前後の話をする」
 彼が、ここを取り仕切っているようだ。

 リビングは確かに広いけど、これだけの人数がいると
 流石に芋洗いみたいだ。
 あの後次々と人が現れて、あたしが泣きやんだ頃には
 部屋は一杯になっていた。
 あまりの人数に眩暈がしそうだ。
 名前も説明されたけど、覚えたか、と聞かれても自信がない。
「僕たちは昨日まで、泊まり込みで依頼者の家で調査をしてた」
「ちょ、ちょっと待って。調査?依頼者?僕たちって、あたしも?」
 あたしは何をしてた人なんだ?
 彼らは、何者なんだ?
「心霊現象の調査。僕はそういう事務所を開いてて、そこに依頼に来たのが依頼者。
 麻衣はうちのアルバイトをしてる」
 心霊現象の、調査?そういう事務所?
「…そんな事務所、ほんとにあるの…?」
 彼(なる、と呼ばれてるらしい)は、また溜息を付いた。
「今はそんな基本的なことが問題か?」
 なるの言うことは正しいんだけど、妙に腹が立つ。
 けれど、言い返して良いものかどうか逡巡して、あたしは黙り込んだ。
 横に座ったおにーさん(ぼーさん、と呼べと言われた。ここにいる人は
 変わったあだ名が多いのかな)が、なるを制する。
「ちゃんと説明してやらなきゃ、麻衣には解らんだろうが」
 どう見てもぼーさんの方が年上なのに、なるは強気だ。
「なら、滝川さんが説明されたらいかがですか?」
 ぼーさんは言葉に詰まる。
 困っている様子のぼーさんを見上げて、あたしは
 (ぼーさんはたきがわっていうのか)
 などと呑気に考えている。
「調査の時に、お前は霊を見てる。そっちに気を取られているときに…」
「あたしが霊を見たぁ?!」
 何で?!
 言葉を遮られたのが不満なのか、なるはさらにイヤそうな顔をする。
「基本的な疑問は後にしろ。話が進まない」
 はい、すいません。
「お前にしては珍しいことだったから、麻衣自身が混乱していた。
 そっちに気を取られて、自分の足下が見えてなかったお前は、
 近くにあった機材につまづいて頭をぶつけた」
 こけたのか、あたし。
 おねーさんが(あやこ、というらしい。さんを付けたら怒られた)、
 麻衣らしいわねぇと呟くと、そのすぐ横にいる日本人形みたいな
 女の子(まさこ、と呼ばれていた)が口を開いた。
「麻衣ぐらいしか、そんなヘマいたしませんわよ」
 呆れたように放つ言葉は、外見に似合わず結構きつい。
 でも、まさこはこの部屋に入ってきて、まず一番にあたしの
 シャツの染みを気にしてくれた。
 怪我でもしているますの?と心配そうに聞いてくれたまさこの目に
 偽りはなかったと思う。
 その向こうにいる控えめな外人さんが、まぁまぁなんて二人に言っている。
 あたしは、彼がこの部屋の主人かと、すぐに彼に尋ねてみたけど、
 返ってきた答えは、いろんな意味で意外だった。
「ちゃいます。ボクはここまで電車に乗って来てますさかい」
 そう言って彼(ジョン、だそうだ)は微笑んだ。
 すごく日本語が上手だなーとか。
 ジョンは何で関西弁なんだろう、とか。
 でも考えてるうちに、なるがみんなに集合を掛けた。
 そして今に至るわけだけど。



「倒れて意識を失っていれば病院にも行ったが、後頭部にこぶができた
 程度だったから、特に心配もしなかったんだ」
 ぼーさんは納得いかないらしい。
「何で、俺たちに言わなかったんだよ?」
 咎めるような口調にも、なるは平然としている。
「麻衣が黙っててくれと言ったんだ」
「あたしが?」
「また馬鹿にされるから、黙ってて欲しいと。
 もしも体調が悪くなったら必ず言うから、という約束付きでな」
 なるほど。
 つまり、あたしはいつもそんなヘマをしていたということだな。
「理由はそれしか思いつかない。それ以外に変わったことはなかった」
 なるは、病院へ行くか?とあたしに聞く。
「…あんまり、行きたくない」
 すると、なるの後ろに立っていた影のような男の人が口を開いた。
 長身の彼(りんさんと呼ぶことになっているらしい)は,
 なるに向かって何か話している。
 机を挟んで向こうにいるなる達の会話は、あたしの耳までは届かない。
 ぼーさんがあたしの顔を覗き込む。
「それにしても、麻衣。お前、いくら近くに住んでるとはいえ、
 よくここまで辿り着けたな」
 ?…何の話?
「そうよねー。マンションまでは何となく解るかもしれないけど、
 部屋の番号まで解ったのって、ちょっとすごいわよ」
 ここの部屋の番号?
「麻衣は動物的ですから」
 みんながあたしの方を見て笑う。でも、その笑顔はどこか暖かい。
「逆に数字の方が、記憶に残ってるいうこともあるかもしれまへん」
「あたし、ここから出てないよ?」
 みんなが一斉に振り返った。
「あたしの家ってここから近いの?」
 誰も返事をしてくれない。
 仕方なく、なるを見ると彼は何だか知らないけど、りんさんに睨まれている。
「どういうことですか?ナル」
「別に」
 なるは鬱陶しそうに答えている。
 どうしたんだろう。何だかみんなの顔が恐い。
「…起きたときから記憶がなかったんじゃございませんの?」
 まさこの目が暗い。
「うん…」
 何か、言ってはいけないことを言ったのかもしれない。
 もしかして。
「ねぇ、ここって、誰が住んでるの?」
「ナルよ」
 まさこの代わりに、あやこが答えてくれる。
 なるが?
 ちょっと待った。何となく読めてきたぞ。
「ここには、なるが…一人で住んでるの?」
「そうですわ。ナルは他人と一緒にいることを嫌いますから」
 じゃあ、なんであたしはここにいたんだろう。
 導き出される答えは、選択肢としては少なかった。
 綾子が冷たい声でなるに言う。
「…連れ込んだわね?」
 なるは知らん顔だ。
 それまで固まっていたぼーさんが、急にあたしの肩を掴んだ。
「麻衣!お前起きたときはどこにいた?」
 ぼーさんの目がマジだ。
「どこって…?」
 どこって言われても、この家の中で寝るとこなんて一つしかないじゃないか。
 あたしは何となくなるを見る。
 なるは何も言わない。
 あたしはなんと答えたらいいのか解らなくて、困り果ててしまった。
 すると、ぼーさんは話題の矛先をなるに向けた。
 なるは迷惑そうな顔をして、
「答えたくない」とか「関係ない」などと言っている。



 それより、このメンバーは一体何の繋がりなんだろう。
 あたしはそんなにみんなに心配してもらうような立場なのか?
 だって、血が繋がってるとは思えない。
「どんな関係なの?」と、
 ぼーさんに聞いたら、悩み込んでしまった。
 なるに聞いたら「赤の他人」と素っ気なく言われた。
 あやこは「仕事仲間、かな」と言っていた。
 なら、あたしもその中の一人のはずだ。
 なのに、この雰囲気は何だろう。
 どう見ても、これは仕事仲間が交わす会話じゃない、と思う。
 思いっきりプライベートなんじゃないのかな。
 でも、あたしはぼーさんやあやこ、まさこに問いつめられると、
 どうしても嘘を付けなくなってしまう。
 あたしにとってのみんなって何なんだろう。



 どうやらあたしは、なるとはそういう仲じゃないらしい。
 少なくとも、これだけ気安いぼーさんやあやこ達は知らなかったのだ。
 でも、なるは結構手慣れた様子であたしを抱き上げたりした。
 あたしにとってのなるって…?



「とにかく、麻衣は今日はうちで預かるから」
   あやこが言うと、ぼーさんがあたしの頭を抱える。
「狼のいるとこに置いてくわけにいかねーからな」
 まさこが、ぼーさんを横目で見て、
「滝川さんも、ですわよ」
 と、あたしの腕を引っ張った。
 そこへ、ジョンが妙なイントネーションで割り込んだ。
「とりあえず落ち着いて下さい。麻衣さんの意志も聞いてみんことには…」
 そこへなるの声が響いた。やっぱり、なるの声が一番よく通るなぁ。
「麻衣、どうしたい?」
「どう…って」
「とりあえず今日は様子を見よう。明日は病院へ行って、
 精密検査を受けろ。ただ、それまでに体調が悪くなる可能性があるから、
 お前を一人で置いておくわけにはいかない」
「…だから?」
「お前の行きたいところへ行けばいい」
 行きたいとこ?
「誰の所にいても同じだ。差し支えはない」
 誰のとこでも良いの?
「このままここに残すのは、差し支えがあると思うけど?」
「だな」
 あやことぼーさんがあたしを腕の中にしまい込む。
 みんなはすごく優しい。
 なるは、ちょっと冷たい。
 でも。
「あたし、ここにいる」
「麻衣!?」
 みんな、驚いてる。
 そりゃそうだよね。あたしだって吃驚してる。
 でも、気になるんだもん。
 枕に頭を押しつけたときの、あの安心感が。
 洗面台にいたときに後ろから覗き込んでいたなるの、
 優しい瞳が。
 気遣うようなあの瞳が、もう一度見たかった。



 けれど、あたしの言葉を聞いたなるは、
「解った」
 と一言、特に何の感情も込めずに言っただけだった。
 
     






そんなわけで(どんなだ)、表に持ってきてしまいました。
既に読んで下さってる方も多いと思いますが、
まだ見てなかったぞー、という方は、良かったら続きへどうぞ☆

表の書斎へ出すに当たって、加筆・修正はしておりません。
直しだしたらキリがないもの・・・・。(滅)
誤字脱字は、多少いじってあるところもあるかもですが。(曖昧)
これで表の書斎が、少しは「表」らしくなったかな?(なってない)