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控えめなノックの音。
ふと顔を上げると、既に扉は開かれていた。
「麻衣はどうだ?」
見れば解るでしょう。とナルは答えようとしたが、
あまりに心配げな『父親』の顔に、知らず、ため息が出ていた。
「・・・今は落ち着いてる」
「そっか」
泣き疲れたのか、元々眠かったのか、
麻衣は泣き止む前に眠りについた。
ナルに凭れたまま眠ってしまったので、彼は読書もままならない。
それを、迷惑だと感じなくなった己に、半ば呆れてもいるが。
「それにしてもなぁ・・・」
急に声の調子が変わった滝川を見ると、
いやな目つきで腕組みをしてこちらを眺めている。
「何か?」
「麻衣がいつの間にか19だとさ」
「それがどうかしたんですか?」
「いや、時間の流れの速さを痛感してるダケだよ」
いきなり何を言い出したのか。
不振な目線を向けると、滝川の後ろから女の声がした。
「この2ヶ月が、これからのこの子にどれくらい影響するか、
今から楽しみよねー」
誰にともなく語りかける綾子の目には、言葉通りに楽しげな色が浮かんでいる。
所長室の戸口に凭れていた滝川が、首だけを動かして松崎を見た。
「怖いこと言うなって・・・」
うなだれた様子の滝川に、綾子は妖しく微笑む。
「いいかげん、覚悟決めなさいよ。男らしく」
二人の言いたいことは何となく解ったが、いちいち関わる気にはなれず、
自分にもたれ掛かっている麻衣を抱き起こす。
この体勢のままでは、寝違えてしまうだろう。
抱き上げた麻衣を、ゆっくりとソファに寝かせていると、
ふと視線を感じて振り返る。
「・・・何か?」
「べーっつにー」
「何でもねーよ・・・」
綾子のからかい混じりの視線も不快だが、滝川のじとっとした表情よりは幾分かましだ。
ナルは不愉快になりながらも、二人を無視して麻衣に上着を掛け直す。
と、急に綾子が言った。
「麻衣はね、ナルに会いたかったのよ」
ナルは何も答えない。
滝川は部屋の隅に目線を向けて、拗ねたような面もちだ。
「良いこと教えてあげるわ。
麻衣が倒れたとき、あたしんちに泊めてたのよ」
ナルは振り返ろうともしない。
ただ、その雰囲気からこの話しに耳を傾けているだろう事は解った。
「寝言。ずーっとあんたのことを呼んでたんだからね」
無言の男たちに、綾子はにんまりと笑う。
「まだ16、まだ19なんて、甘く見てると痛い目見るわよ。
女って、いきなり女になるのよ。怖いんだから」
滝川が、意を決したようにナルの方を向いた。
「なあ、ナル坊。ここは一つ、腹を割って話そうぜ」
「何をですか?」
滝川が大きく息を吸い込む。いやな予感だ。
「麻衣に手出ししたのか?」
「・・・は?」
「正直に言ってくれ。どうなんだよ、そこんとこ」
ナルは呆れてものも言えない。
(珍しくまじめな顔をしているかと思えば)
この男は掴めない。
意外と賢いのかと思えば、ろくでもないことばかり話していたり。
能力が高いことだけは確かだが、だからといって、
人柄まで掴むには、ナルには人生経験が少なすぎる。
けれど、ナル自身は敢えてその考えを捨てた。
山のようなプライドが、それを許さなかったからだ。
「麻衣本人に、直接聞いてみたらいかがです?」
綾子が茶々を入れる。
「それが出来ないのよ。このバカ親は」
けらけらと笑う綾子を、意図的に無視しているのか、本当に全く聞いていないのか、
滝川は、こちらを凝視したまま動かない。
ナルがまたため息をついた。
「・・・ご想像にお任せします」
滝川が、ナルの返事を不服として、勢いに任せてナルに詰め寄ろうとしたとき、
ソファの上で丸まっていた麻衣が、もぞもぞと動き出した。
「うーー・・・。なに〜〜ーー・・・?ぼーさん、うるさいよぉ・・・」
麻衣がしきりに片目を擦りながら、上半身を起こそうとする。
「ぼーずが娘の素行について、カレシに問い質そうとしてんのよ」
「カ・・・レシ・・・??」
麻衣はまだ目を擦っている。
起きあがりかけた麻衣の肩を、ナルが制した。
「起きなくていい。もう少し寝ていろ」
麻衣はきょとんとした顔でナルを見て、綾子と滝川を見て、
もう一度ナルを見てから、にへらと笑った。
「うん・・・。ねる〜〜ーー・・・」
ぽて、とソファに倒れ込んだ麻衣の手は、しっかりとナルの指を掴んでいた。
また読書が出来なくなったことを秘かに悩むナルに、
綾子が冷たい視線を投げた。
「・・・誰かさんに負けず劣らず過保護ね、あんたも」
滝川は、眠ってしまった麻衣の横に座って、小声で話しかけている。
「麻衣〜・・・」
情けない声で肩を落としている滝川を無視して、綾子がナルを見る。
「・・・で?あんたはどうだったのよ?」
「何がですか?」
「イギリスにいる間、ちょっとは淋しいとか思った?」
「僕が?」
鼻で笑うように聞き返すナルに、綾子は機嫌を損ねたようだった。
「まーね。あんたにそんな感情論を説いても仕方ないのよね。
聞いたあたしが悪かったわ」
ほら、そろそろ行くわよ。
滝川の手を引いて、綾子が所長室から出ていった。
何をしに来たのか、ナルには二人の行動が理解できなかったが、
麻衣が身じろいだので、そんな些少なことはすぐに頭から消えていた。
顔色は、お世辞にも良いとは言えない。
食事もろくにとらず、睡眠不足で。
(馬鹿もここまで来ると、手の付けようがないな)
呆れたような考えの下で、何故か目の前にいる少女を愛しいと思う自分がいる。
『麻衣はね、ナルに会いたかったのよ』
麻衣がこうなった原因は、自分にあるのだ、と綾子は言った。
だったらどうすればいい?
答は簡単だ。
麻衣の心の内は、とっくに知れている。
彼女自身が気が付かなくても、ナルには見えてしまうから。
だからといって、行動に移す気にはなれなかった。
手に入れれば、失うときが来るのは目に見えているから。
けれど。
(感情論)
頭で気持ちは抑えられないのだ。
麻衣の額に触れてみる。
熱はない。
呼吸を確かめてみる。
安定している。
ちゃんと生きている。
それだけで、これ程高揚する気持ちがある。
そっと唇を重ねて、すぐに離す。
まだ、これ以上は出来ない。
彼女が自分で気が付くまで。
麻衣がきちんと自覚するまで。
それは、ある意味危険だ。
麻衣が気が付くまで、ということは、
麻衣が自覚したそのときは・・・?
そこまで解っていて、ナルは敢えて触れるだけのキスを繰り返した。
今はまだ何も知らない少女が、優しい夢の中に微睡んでいた。 |
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