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開いたままの寝室の扉。その向こうから、漏れてくる灯り。
リビングから微かに聞こえる紙を捲る音と、キーボードの音。 雨の音に重なって、それらが小さく彼女の耳に届く。
それは切ない切ない音。
彼が、彼女ではなく仕事を選んだときの音だから。
麻衣は頭から羽毛の布団を被る。身体を縮めて、丸くなって。裸の身体を抱えて思う。
ナルは勝手だ。
研究だけ、仕事だけをしていたいなら、そうすれば良いのに。
何故、手を伸ばしてくるのだろう。
何故、この家に入ってくる麻衣を拒まないのだろう。
(どうして・・・?)
答えはない。答えを持っているはずのたった一人の人は、今は彼女の存在を忘れているのだろう。
切ない音は続いている。
空調の整った部屋。
確か、寝室へ運ばれたときには、この部屋の空気は冷えきっていた。
あまりに寒くて、くしゃみをしたのを覚えている。
寒さを言い訳にして、ナルに擦り寄ったのを覚えている。
今はない温もりは、あの時確かにここにあったのだ。
彼が暖房をつけていったのだ。おそらくは、眠ってしまった麻衣のために。
彼はその温もりの代わりに、無機質に暖められた空気を与えてくれた。
布団から顔を出して、乾いた空気を疲労している肺に吸い込む。
のどの渇きは頂点に達していた。けれど、体を動かす気は一向に起きない。
思われていないわけではない。そんなことは解っている。
好かれていないのでもないだろう。
でも、誰よりも愛されている自信はない。
愛してくれているかもしれない。愛されていないかもしれない。
自信を持つということは、こんなにも難しい。
淋しい。
淋しくて切ない。切なくて悲しい。悲しくて辛い。
けれど、痛む心と、その痛みさえ愛しさに変える想いを、捨てることは出来そうにない。
(我慢すれば良い)
こんな痛みは、きっと比べものにならない。
いつかナルを失うときの痛みを、今こうして考えるだけで涙が出そうになる。
(ナルがジーンを失ったときは・・・?) 辛かっただろうか。それとも、辛いと感じる前に心が麻痺してしまったのだろうか。
強すぎる痛みは、脳が拒否してしまうから。
不意に部屋が明るくなった。
「起きたのか?」
ナルの声が聞こえた。ふと見上げると、ベッドサイドにナルの姿がある。 こんなに近づいていたのに、全く気付かなかったことを考えると、
自分でも気付かない間に、夢と現実の狭間をたゆたっていたのかもしれない。
「・・・麻衣?」
返事がなかったからなのか、ただ呼びかけただけなのか、ナルの声に抑揚はない。
ある程度は心配をしてくれているようにも見える。
ただ何となく声を掛けただけにも見える。
(きっと前者だ・・・)
ナルとベッドに入る前に見た、彼の周囲にばらまかれていた書類の山は、一晩やそこらで片が付くような量ではなかった。
仕事中にナルが集中力を切らすことはあまりない。
たとえほんの少しでも、麻衣に注意を傾けてくれていたのだろう。
だから、微かな物音を発てた麻衣に気付いて、寝室へやってきた。
(・・・希望的すぎるかな)
『だったら良いな』と思う。これは希望だ。
ナルの行動の理由なんて、結局のところ麻衣には解らない。
「何をしてる」
「・・・・眠いの」
掠れた声で答える麻衣に、ナルは冷たく答える。
「じゃあ寝ろ」
感情の欠片も感じさせない声。悔しい。・・・苦しい。
「喉乾いた。お茶飲みたい」
「勝手にどうぞ」
「動けない」
部屋を去ろうとしていたナルが、やっと振り返る。
「動けない?」
「腰痛い。身体怠い。足が立たない」 わざとナルの責任に見せて、口を尖らせる。
しばらくの沈黙の末、ナルが溜息とともに吐き出した言葉に、麻衣はにっこり笑った。
「・・・ホット?」
「アイスティーが良い」
ほんの数回しかないけれど、ナルの煎れてくれたお茶を飲むのは、自分だけの特権だと麻衣は知っている。
少なくとも、いつもの面々にそういう経験はないはずだ。(イギリスから一緒にいるリンは、またちょっと別としても)
だから、ナルの煎れたお茶を飲む時間は、麻衣にとって幸せ以外の何者でもない。
一人では起きられないと駄々をこねる麻衣を、ベッドから抱き起こし、
ナルは渋々煎れてきたアイスティーを差し出す。
「ありがとー」
ニコニコと喉を潤す麻衣に、溜息しか出てこない。
この女は何がそんなに嬉しいのか。
その理由は何となく想像がついたが、麻衣の心理を理解することは出来なかった。
「もう良いだろう」
起こした体を支えて、飲み物を与えてやった。するべきことはした。
彼はリビングに置いてきた書類に意識を切り替えたくて仕方ないのだ。
もうナルの目は麻衣を見ていない。
「・・・・・うん、おやすみ」
再度わがままを言おうかとも思ったが、きっとこれ以上は受け入れられないことを悟り、麻衣は無理に笑った。
零れそうになる涙は、掌を握りしめて耐える。
ナルは一つ頷くと、クロゼットから麻衣の寝間着を一式取り出し、枕元に置いて本当にそのまま出ていってしまう。
寝室の扉は開いたままだ。
ナルは優しくない。
心が裂けそうなほど淋しい想いを、知ってはいても理解しようとはしてくれない。
ナルは優しい。
動けないと訴えた麻衣が、また助けを必要としたときのために、その声が届くよう、扉を開け放していった。
どちらのナルを信じたらいいのか、まだ麻衣には解らなかった。
ただ、切なくて泣きたい自分を抑えることに精一杯で、嗚咽さえ漏らせないこの状況が、辛かった。
太陽が顔を出し、朝が来ても、麻衣はろくに動けなかった。 「熱を計れ」
「ヤダ」 「じゃあ、自分で起きて学校へ行くんだな」
「・・・・意地悪」 「誰が?」
ナルが、と紡いだ言葉は無視される。
電子体温計を片手に仁王立ちをしてねめつけるナルは、明らかに不機嫌だ。
「じゃあ、病院へ行くぞ」 「イヤだ」 むくれてそっぽを向いた麻衣の肩を、ナルが掴んだ。
「ちょ・・・やだってば!」
ナルは問答無用で麻衣の寝間着のボタンを上から2つ外し、体温計を脇の間に挟ませる。
暴れる麻衣を押さえつけて口づける。
暴れ馬封じだ、そんな言葉が、熱で朦朧とした麻衣の頭を微かによぎる。
「熱を計って、今日一日大人しくしていろ。病院はその後だ」
体温計が己の仕事の終了を主張するまで、麻衣はナルに押さえ込まれたままだった。
「麻衣は今日休むから」
突然、年下の上司から投げられた言葉に、リンは一瞬反応しきれなかった。
「・・・は?」
「麻衣。風邪をひいたらしい」
「電話でもかかってきたんですか?」
「まあな」
中途半端に言葉を濁したナルを見て、たった今閉めたナルの部屋の扉を見る。 隣り合わせのマンションに住むナルの部屋に、最近はあまり入室することが無くなった。
昔は時間も日付も忘れて仕事に没頭する癖のあったナルが、最近はあまりそういう性癖を出さなくなっていた。
大人になってきたのだと、リンはどこか安心していたのだ。
(・・・・・・・・・・)
ナルはさっさとエレベーターへ向かう。
疑惑の扉の前に取り残されたリンは、幾度も振り返りながら、沸きだしてくる不安を押さえつけた。
このときの不安が、覆しようのない確かな現実となってリンを襲うのは、季節をあと一つ越えてからだ。
ナルの部屋、寝室のベッドの上に取り残された麻衣は、決して楽ではない呼吸を繰り返していた。
麻衣が暖房の乾いた空気を嫌がったので、暖房と一緒に加湿器がセットされ、更にナルは以前麻衣が教えた湯たんぽを作っていってくれた。
一度しか説明していないのに、ちゃんと覚えている辺りがナルらしい。人の話を、聞いていないようで聞いている。
麻衣は大きく息を吸って吐く。たったそれだけのことが億劫で、酷く疲れる。
喉の痛みは時計の回転毎に増し、ナルが出ていって2時間もした頃には、既に声は嗄れていた。
枕元のテーブルに置かれたミネラルウォーターに手を伸ばすのも怠い。
(眠れない・・・)
疲れているはずだ。夕べも殆ど眠れなかった。
ナルも寝ていない。徹夜で仕事をし、明け方からは麻衣の看病をして、そのまま仕事に出ていった。
彼の体力を心配し、この風邪をナルに移してしまうことを危惧した。 この風邪が、夕べの情事に起因していることは解っている。
夕べ眠れなかった訳も、繋がる先は全て『ナル』だ。
この風邪がナルに移ったとしたら、自業自得と言えないこともない。
行為の末に麻衣の意識を失わせ、冬の真っ直中のこの季節に、裸のまま彼女をベッドに放置したのだから。
(優しくない・・・。ほんとに、とことん優しくない)
麻衣は寝返りを打つ。それすらも身体の悲鳴に耐えつつ行わなければならない。 (ナル・・・早く帰ってこないかな)
ついさっき別れたばかりなのに、もう会いたい。 時計の針は、何かを待っているときは、まるでイヤガラセのように酷くのんびり動く。
元気なときは、やることが沢山あるときは、あんなに早く回転してしまうのに。
(時間の速度が一定だなんて嘘だ) だったら今、何故こんなにも時計が止まって見えるのだろう。
麻衣が孤独とベッドに包まれながらようやく浅い眠りについた頃、
渋谷区道玄坂では、所長非公認のいつもの集会が行われていた。 「ねぇ、そういえば今日は麻衣居ないの?」
最近、頻繁にテレビコマーシャルが流れている某メーカーの化粧品について、真砂子相手にうんちくを垂れていた綾子が、 唐突に麻衣の不在に気が付いた。どうやら愚痴は言い尽くしたらしい。
「もう学校はお休みでしたわよね?」
真砂子が小首を傾げて辺りを見回す。買い物にでも行っているのだと思っていたのに、麻衣はいつまで経っても全く姿を見せない。
冬休みに入る日付が、麻衣と真砂子では微妙にずれている。 麻衣は既に一昨日から冬休みに入ったが、真砂子は明日が終業式だ。(つまり今日は自主休校というやつである)
「風邪だそうですよ」 滝川宛のアイスコーヒーを運んできた事務員こと安原が、にこやかに答えた。
一度に訪れてくれば手間も一度で済むのに、一つ片付いては新たに扉が開いて見慣れた顔が覗き込む。 麻衣が欠席なので、今日の安原は大忙しである。勿論、本人は露ほども顔には出さないが。
「麻衣が風邪?初耳だぞ」
たった今来たばかりの滝川が、『麻衣』と『風邪』の単語に、過剰な反応を示した。
「じゃあ麻衣は、今一人で寝てるんだな?」
よし、見舞いに行って来る。
言うが早いか、自分のコートを手に取るとさっさと立ち上がる。
「やめた方が良いですよ」
安原が勢い勇んでいる滝川のコートの裾を引っ張った。
「何でだよ?」
「僕も谷山さんが一人で部屋にいるのかと思って、一応お昼前に電話してみたんです」
「・・・・電話に出れないほど悪いのか?」
深刻な顔をした滝川に、安原が肩を竦めて困ったように笑った。
「出ましたよ、携帯ですから。声はちょっと嗄れてましたけどね」
「で?なんて言ってた?」
「『一人でも大丈夫だから、絶対来ちゃダメ』」
声色を似せて安原が言ったが、そんな程度では、滝川パパは納得しなかった。
「・・・・気を遣ってるんじゃないのか?迷惑かけないように、とか」
「そうかも知れません。でも、どうしても今日は来てくれるな、と何度も念を押してたんです」
苦笑する安原に、綾子が横から口を挟む。
「つまり、今は部屋に他人が入ってきて欲しくない状況なわけね?」
「おそらくは。どちらにしても、女性の一人暮らしの部屋に、男が突然一人で見舞いに行くのも、 ちょっと世間体を考えるでしょう?」 「まかり間違ったら、麻衣の住んでるアパートの住人に『彼氏』扱いされるわね、ぼーず」
『パパ』と間違われないように気を付けたら?
にやりと人の悪い笑みを浮かべて綾子が滝川を見上げる。
立ち上がったまま何事かを考えていた滝川が次にとった行動は、自分の携帯を取りだし、
メモリに登録しているにもかかわらず、すっかり暗記してしまっている麻衣の携帯b打ち込む。
そして誰が止めるのも聞かず、そのまま電波を発信してしまった。
何度かのコール音。
「・・・・・・・・はぁい?」
小さな麻衣の声が返ってきた。先ずそのことに一つ、滝川は安堵した。
「麻衣?俺だけど。風邪ひいたんだって?大丈夫か?」
「んー?・・・ヘーキだよぉ〜」
眠っていたのか、声が掠れている為なのか、麻衣の返答は鈍い。
「飯は?自分で作れるのか?」
「だいじょーぶ。もう熱もね、下がりかけなの」
普段とは明らかに違うしゃべり方と声に、その言葉が多分に虚実を含んでいることを滝川は悟る。
「行ってやろうか?」
「だいじょ〜ぶだってばぁ。もー、しんぱいしょーだねぇ、ぼーさんは」
どうやら、どうしても家に人を来させたくないらしい。
「麻衣、お前一体何を隠して・・・」
滝川が僅かに声を荒げた瞬間、左手に持っていたはずの携帯が、彼の手中から消えた。
「何をしてるんだ」
背後から厳しい声。
ナルが、滝川の携帯を取り上げて、電話の向こうの麻衣を怒鳴りつけたのだ。 いつの間にか所長室から出てきていたナルは、どうやらかなりご立腹らしい。
「・・・!・・・」
麻衣が何事か反論しているが、何を言っているのかまでは聞き取れない。
おそらく、突然怒鳴るな、とか言っているのだろう。
「・・・・・・・」
「解った、戻る」
麻衣が一方的に話した後、ナルはそう言って電話を切った。
不要になった携帯を滝川に放って、ナルは所長室に戻る。
一同が呆気にとられている間に、ナルは自分のコートと鞄を片手に部屋を出てきてこう言った。
「今日は帰ります。安原さん、リンに伝言を」
「は・・はい?」
「『帰りがけに氷と解熱剤を』。閉める時間は任せます」
用件だけ端的に述べて、ナルはさっさと事務所を出ていった。
後に残された疑問符だらけの彼らに出来ることは、
丁度(運悪く?)出掛けていたリンの携帯に電話し、伝言を伝えた後、
抱えた疑問を胸にしまい、事務所を後にすることだけだった。 |
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