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麻衣が試験休みを取ったその日から、調査依頼が立て続けに舞い込んだ。 しかし、どれもこれも下らない内容で、相手にする気も起きない。
麻衣とほぼ同時に安原さんも試験休みに入り、
普段なら誰か彼かに押しつけている客の相手を、 リンと二人でこなさなければならないのが、かなり鬱陶しい。
やっと客足が切れて、一息つこうと思っても、飲み物は自分で準備しなくてはならない。
考えるだけで面倒くさくて、朝から何も飲んでいない。
食事はリンが買ってきたが、袋に入ったまま机の片隅に置きっぱなしになっている。
その中にボトルのミネラルウォーターが見えるが、手をつける気にならない。
事務所には、いつにない静寂が訪れている。
(・・・不便だな)
せめて、麻衣か安原さんのどちらかがいれば、馬鹿な客に煩わされることもなかった。
このまま来客が続くようなら、事務所にいるよりもマンションで仕事をした方が、よっぽど捗るだろう。
不意に扉に付いているベルが鳴った。
溜息をついて席を立つ。
リンはついさっき消耗品を買うと言って出かけたから、押しつけることもできない。
僕は重い気分を引き連れたまま、自分の席を立って扉の方からやってくるであろう客を待つ。
今日は早仕舞だな、と思いながら。
「こんちわ〜」
現れた人物に、言葉を一瞬失った。
「・・・何をしに来たんだ?」 ぶつけられた言葉に、眉を顰めたのは麻衣だった。
「何でいきなり迷惑そうに言うかな?」
忙しいところをわざわざ来てやったんだから、もうちょっと良い顔してよね!
と、麻衣は頬を膨らませる。
そんなこと、頼んだ覚えはない、と言いかけて、しかし違う言葉を口にした。
「暇ならお茶を入れてくれ、朝から何も飲んでないんだ」
「なんで?忙しかったの?」
「おかげさまで」
「・・・悪かったね、休んで!」
「別に構わない。学生が本業だろう?・・・それよりお茶」
「はーいはいっ。銘柄指定は?」
「ない」
麻衣は鞄をソファに放り投げると、キッチンの向こうへと消えた。
「はい、お待たせしました」
「ああ」 麻衣の煎れたお茶をちらと見て、手を伸ばすと麻衣がわざとらしく肩を竦めた。
「ったく、お茶ぐらい自分で煎れればいいのに。面倒くさがってないで」
「無駄は極力省きたいんでね」
「あたしに押しつけるのか、その『無駄』を」
「暇なんだろう?」
「勝手に決めるな!」
あたしだって、花の大学生なんだからね!などと呟く麻衣を無視して、
ティーカップを口に運んだ。
生きた心地がした。
その後、麻衣は結局自分の机で試験勉強を始めて、
事務所を閉める時間までいつも通りに過ごしていた。
リンが「滝川さんと約束がありますので」と、普段より早めに引き上げたので、
事務所も早めに閉めることにした。
「送っていきましょうか?」
リンが、帰り際に麻衣に声を掛けたが、
「ううん、ナルが送ってくれるって言ってるから」
僕はそんなことを言った覚えはない。
反論を口にしようとすると、麻衣が振り返った。悪戯が成功した子供のように笑って。 「ね?ナル」
結局、無言のまま電車に乗って、無言のまま歩いている。
麻衣と僕の降りる駅は同じだが、駅から歩く方向が違う。
が、麻衣は自分のマンションと逆の方向へ向いて歩き出した。
「どこへ行くんだ?」
「ナルんち」
「・・・何故?」
「晩御飯作りに」
「要らない。明日も試験なんだろう?早く帰って勉強したらどうだ?」
ただでさえ、ろくな点数じゃないんだろう。
声を掛けても、麻衣は振り向かない。
「良いの!さっきいっぱい勉強しといたから」 「回答が帰ってきたときに、後悔するなよ?」
しないよ!
振り向きもせずに先を歩く麻衣の背中に、溜息を落としながらもその後ろを歩き始めた。
食器を片付ける麻衣の横で、ノートパソコンを広げる。
今日出来なかった分の仕事を、片付けてしまわなければ。 麻衣は、食事の後片付けも済まないうちに仕事にかかる僕に、不満げな顔をしている。
「で?食事は終わったが?」
「・・・何が言いたいのかな?」
「帰らないのか?」
パソコンの画面を見ながら続けていた会話が、急に止まった。
僕は、麻衣の方を振り仰ぐ。
「・・・・そんなに邪魔?」
麻衣の目は、微かに潤んでいる。
何を急に泣くようなことがあるのか。
「麻衣?」
「あたし、ナルの邪魔?」
僕が何も答えないでいると、麻衣はその場に座り込んで俯いたまま肩を震わせた。
「何の役にも立てないけど、でも少しでも役に立ちたいの」
「・・・一体、何の話しなんだ?」
「あたしは、ナルの邪魔してるだけで、何の役にも立てないの」
「だから?」
「役に立ちたいの」
麻衣が顔を上げた。
「ナルは、あたしに何をして欲しい?」
その問いは、とても答えに困る質問だ。
何をして欲しいと急に問われても、そう答えられるものではない。
「何かして欲しいこと、ない?」
「今?」
「いつも」
「・・・とりあえず、泣き止め」
麻衣の頬を指で拭うと、麻衣がびくりと身を引く。
顔に指を這わせて、必要以上に麻衣に触れる。
「・・・ナルが、仕事してるのを見るの好きなの」 濡れている目元に、舌で触れる。
「でも、置いていかれてるみたいで、淋しくなるんだよ」
麻衣は逃げようとしない。
身体中の力を抜いて、ただ、されるままになっている。
「邪魔したいわけじゃないけど・・・・」 瞼に唇を押しつけて、わざと目を閉じさせる。
離した唇を、麻衣のそれに重ねる。
唇を閉じさせるために。
ノートパソコンのディスプレイ上で、麻衣がインストールしたスクリーンセーバーが踊る。
微かな光を放つそれを横目に見て、麻衣の腰に回していた手を伸ばして電源を落とす。
「ナル・・・?」
ソファの上に寝かせた麻衣が、潤んだ瞳でこちらを見上げる。
「あの・・・、こんなつもりじゃ・・・」 明日試験だし、勉強が・・・。
しどろもどろに言い訳を重ねる麻衣を見下ろして、僕は口の端を曲げた。
「して欲しいことだったな?・・・大人しくしてろ」
「違う!そういうことじゃなくて、あたしが言いたいのは・・・」
はだいた上着の中に手を滑らせるまで、麻衣は何事かを喚いていた。
結局諦めがついたのか、しばし後、投げ出されていた腕は首に回されたが、
思い切り抱きついてきた麻衣が、耳元に顔を寄せて・・・。
「っ!」
噛まれた。
「ざまーみろ」
紅潮した顔で、僕を見た。
先ほど事務所で見せたのと同じ、子供のような顔。
「・・・いい度胸だな」 「やられっぱなしは、癪だもん」
「仕返しは、状況と相手を見てすることだ」 「え?・・きゃ・・・っ!!!」
麻衣が翌日の試験に遅刻して、単位を落としたことは言うまでもない。 |
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