アリスのお茶会

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Calling

 カツン、と音がしてペンが走った。
 ナルはしらじらと自分の手と、その中のペンを見た。どうも力を入れすぎているらしい。先ほどから似たミスが絶えなかった。理由は分かりきっている。もう1週間もかかりっきりになっている書類の整理がろくに進まないのだ。
 1年半の歳月をおいてナルがイギリスに帰ってきてからちょうど1週間ほどになる。ルエラもマーティンも嬉しそうではあるが、その笑顔はことあるたびに凍りつく。ナルが日本に滞在していた理由、そしてその経過を考えれば当然のことではある。死んだ兄にあまりにも似ている自分、その自分を見ているのは時に辛いのだろう。鏡に近寄らない限り自分の顔を見ることがないナルの方が、逆にその顔につきまとわれている感触は薄い。顔も声も、そしてあまりに一緒にいたため似通ってしまったいくつかの仕草もが、両親を凍りつかせる。それは、仕方のないことだった。ナルにどうすることが出来るわけでもない。
 考え事に沈み、また筆が止まっていた。ナルは数秒の間、目を閉じる。ひどく疲れているような気だけがする。時間を無駄にしている苛立ちがそうさせた。
 目線で時計を確認すると、いましも午前10時になろうかというところだった。見覚えのある数字になお苛立ってナルは椅子を立つ。
 日曜の午前10時にはティータイムがあった。
 世間一般では子供が大きくなるにつれて家族の交流はどんどん薄くなっていく。それは自然な流れというもので逆らっても仕方ないだろうとナルなどは思う。だが、デイビス家の他の人々はそうは思わなかったらしい。ある日日曜日のティータイムが提案され、それは家族会議で即座に可決された。
 9時からの日曜礼拝が終わると、ルエラが大急ぎで帰ってきて庭に茶会の支度をする。丁寧にいれられた紅茶、手作りのスコーンなりクッキーなり。特別な事情がない限り全員が出席することになっていた。もちろん当初ナルは抵抗したのだが……。
 いつだったかやはり仕事が煮詰まって、ペンを片手にすでにうんざりした気分になっていたときもいつものように、ジーンが、迎えに来た。
「用事は、ないんだよね?」
 何がそんなに楽しいのかいつものように楽しそうな笑みを浮かべて、ジーンは部屋の扉の前に陣取った。
「仕事中なんだが、見て分からないのか?」
「昨日見たときから進んでないみたいだけど?」
 余計なところだけよく見ている、とナルは顔を険しくした。
「時間がかかっているから今外に出る気はない」
「気晴らし、って言葉があるの知ってる? 今日はいい天気だよ」
「いい天気だと何か嬉しいのか、おまえは?」
「嬉しいよ。外でお茶が飲めるじゃない。と言うわけで、お茶だけ飲みに行こうナル?」
「今はいらない」
 わっがまま、とジーンが目をつり上げた。
「いつも人にお茶お茶って言ってるんだから、たまには僕らにつきあおうという気はないわけ? 自分だけ要求を通そうって言うのは考えが甘いんじゃない?」
「勝手に世話を焼いておいて、人に恩を着せるわけだ」
「あっ言ったね? じゃあ誰も何もしなくていいんだ? お茶も自分で入れるし、食事も作るし、学校も自力で出席日数稼いで調査の時には僕に頼らないで除霊するんだね?」
 どうだ、と言わんばかりのジーンの目に辟易する。不可能なわけではない、という反駁が喉元まででかかったが、口にするのはやめた。まったく無益な意地でしかないと思えたからだ。
「僕がお茶に出るのがなんだって言うんだ……」
 ため息をついてナルが立ち上がると、ジーンはまだ多少ふくれるような表情のまま横を歩き出した。
「ナルには何でもないことでも、僕にもルエラにもマーティンにも大事なことなんだよ。なにしろ今日のお茶はマーティンがいれるし、スコーンはルエラと僕とで作ったんだ」
「それはご苦労だったな」
 皮肉を込めて言うと、ジーンはうなずいた。
「まったくだよ。ナルは喜んでくれないしさ」
「期待する方がおかしい」
 隣の気配はナルの言葉に苦笑する。
 横を見やっていつのまにか機嫌が直ったらしい兄の顔を認め、ナルは心からあきれた。どういう精神構造をしているのか、不思議でならない。今むくれていたのではないか。
「でも気晴らしにはなるだろう? こういうときこそ誰かがいるありがたさを知ってほしいね」
 そう言って彼は柔らかに笑った。
「大丈夫、僕はできるだけ一緒にいるからね」
 …………――。
 自分がいなくなってもティーパーティは続けられたのだろうか、そんなことを考えながらナルは窓の方に目をやり、見るともなく庭を見下ろした。それは両親に聞くにはあまりにも億劫な疑問だった。
(できるだけ、とはこの程度か、ジーン)
 今日はデイビス家の扉は開け放されている。午後になればたくさんの人々がやってくるだろう。両親は朝から支度にかかりきりで、庭にパーティの準備をする余裕などない。
 もちろんナルに自らパーティをしようという気は毛頭ない。それならば仕事が進まない以上、ナルも両親を手伝うべきであろうというのは承知していた。承知はしていたが実際に足を動かす気にはならず、進みもしない書類に手を入れつづけていたのだ。
 仕事を残して立ち上がったナルは、自らキッチンにおもむき、苦労して紅茶の缶を探し出した。どうも、ナルがいない間にキッチンの整理をしたものらしい。配置が変わっていた。
 ポットに湯を注ぎこむと、書きかけの原稿に目を通しながら注出時間を待つ。
「あら、オリヴァー」
 キッチンを通りがかった女の声に入り口の方を見やり、ナルは慇懃に会釈した。
 近所の女だ。
 今日は早世したユージン・デイビスの葬式がひらかれる。近所の人間が何人も手伝いにデイビス家を訪れていた。もちろん、故人の実弟であるナルも手伝いに参加するべきなのである。だが、いそいそと女が通りすぎてしまうと、ナルは再び原稿に目を落とした。
 書きかけの原稿は出来が悪く、読んでいて楽しい代物ではない。
 文字の列から目を離し、紅茶を傾ける。
 それはこの家にいた頃自分でいれる時はいつも作っていたはずのものだったが、なじんだはずの味が口に合わなくなっている。
「……まずいな」
 ナルはしげしげとそれをながめた。
 日本に滞在しているここ一年以上の間、ナルの飲む紅茶はほぼすべてバイトをしている女がいれている。特別おいしいと思っていたわけではなかったが、いつの間にかそちらの味が口になじんでしまっていたのだろうか。
 それほど長い間日本にいたのだと、ふと感じた。
 そういえば麻衣はいつも何をいれているのだろうか、とはじめてそのことに思い至る。
 これは何だとか、あれは何だったとか、言われたことがあったような気がして、ナルは原稿を無意味に見つめながらなんとなく麻衣の言葉を反芻していた。
 手の中の紅茶がゆっくりと冷えていく。
 失踪したジーンを探して日本にいた一年あまり、彼女がナルに言った言葉は他の誰からのものより多い。ナルが答えなかろうが嫌味を言おうがこたえない。明るい女なのだ。
 彼女がこの場にいたらば、何を話すだろう。
 紅茶の種類くらい、聞けば喜んで答えただろうと思う。どうもナルの好みを彼自身より把握しているようだから。
 そして、それから……。
『少しは素直に泣けばいいのに』
 何の連想だったのか、つい最近言われたセリフを思い出した。
 そう言いながら、確かに彼女自身は素直に泣いた。今日のナルの様子を見れば、彼女はまた言うのかもしれない。
 『泣けばいいのに』と。
 だが、死んでしまったジーンのためなら、彼女が泣いてやった分だけで十分だと思うのだが。
 そういう問題じゃない、とまた彼女は怒るだろうか。
 軽く電話に目を流し、ナルは肩をすくめた。


月曜日

 電話を、待ってる気がした。
 泣きたいくらい待っている気がしていた。

 ぼんやり、目を開けて麻衣は瞬いた。
(電話……?)
 目覚める前、夢の中で確かにそう思っていた。思っていたはずなのに、と麻衣は頭の中を探し回った。
『かけてきて、お願い』
 やけに真剣な夢の中の自分を思い出すと、ぽろりと涙がこぼれた。
 夢の内容は遠い。遠かったが、夢の中の切なさの影だけが残って胸を締めつけた。
 何か、とても悲しい夢を見ていたのだ。最近、たぶん毎晩同じ夢を見ていた。自分で思っているより参っているのかもしれない。
(誰から……かかってくるっていうんだろう)
 麻衣は重い体を引きずって起きあがった。
 仕事があってよかった、と思う。これで暇な身分だったら際限なく眠り続けていただろう。そう思うほど、毎日だるくてしかたなかった。とりあえず仕事がある限り自分は出かけていく気になる。夢のことばかり考えて悲しい気分に浸りきることもない。
 8月が終わるまで、あと1週間になった。ユージンの葬式が終わるまで代理所長であるまどかもなく、受験生のタカも休みにしているので働いているのは麻衣1人だった。
 別段仕事が大変なことはない。どうせ麻衣だけでは仕事も請けられないし、ただの留守居をしているだけである。しかし留守居というのは大した仕事がなくとも、いなければ困る、いることに意義があるものだ。
 遅刻も欠勤も許されないぞ、という責任感が麻衣には救いになっている気がした。疲れてて、などという言い訳は麻衣も言う気がないし、今はいない所長に通じるはずもない。そう思うと少しは気が引き締まるらしく、所長がイギリスに行ってからのこの1週間ばかり、家ではぼけている割りに仕事のミスはまったくと言っていいほどなかった。
(そうか……電話、所長様からかかってこないかとか思ってるのかな、あたし)
 思いついた途端、苦笑がもれた。その期待は筋道が通ってはいるが、あまりにもばかばかしい。そんなこと期待するだけ無駄というものであろう。
 布団をずさんに畳んでなんとか押し入れの中につっこむ。面倒で仕方ないが、布団が見えている限り横になりたくなってしまうので、仕事に行くためにはやるしかない。
 同様に面倒ながら、作り置きのみそ汁でなんとかご飯もかき込む。食欲がないので、3食きちんと食べることを決心していないと、ずるずる食事を抜き続けてしまいそうだった。
(ナルが電話かけてくるわけないっての)
 心の中で呟いて、麻衣は電話に目をやった。もちろん、それは沈黙している。
 最近、朝が一番いやだった。辛い夢のかけらが残っている。なのに眠りに逃げ込むわけにもいかない。ただただ実直に出勤するだけだ。
 のろい動作で服を引き寄せた。これから家に戻ってくるまでの数時間、また起きていなくてはならない。

 月曜日の渋谷は土日に比べ、ずいぶんと閑散として感じられる。今は夏休みなのでそれでも多少人がいるが、これが普段ならさらに顕著な差があるのだろう、ハチ公前を通り過ぎながら麻衣は思う。麻衣自身、普段は平日の朝に渋谷に来ることはない。来るのはいつも夕方か週末、自然にぎわっている渋谷しか見たことがない。ハチ公前を人の壁にはばまれず楽に通過できるなど、奇跡のような話である。
 道玄坂を上り、オフィスにたどり着く。かばんから鍵を取り出しドアを開けようとして、麻衣は鍵がかかっていないことに気がついた。
(……かけた、よね、昨日)
 とうとう仕事にミスを作ってしまったかと思うと、ひやりとした感覚が滑り落ちた。仕事中は平気、なんてただの強がりだったんだろうか。
 おそるおそるドアを開ける。中はブラインドの隙間から射す光以外まっくらだ。麻衣はゆっくり辺りを見回した。
「いらっしゃいませ!」
 唐突に声、そして明かりが一斉につく。
「えっ!?」
「渋谷サイキックリサーチへようこそ」
 語尾にハートマークが飛びそうな上機嫌な声。絶対に聞き覚えのある声だった。
 麻衣は明かりのスイッチの方をぎこちなく振り向く。
「……お客さんだったらどうするんですか、まどかさん」
「だぁいじょうぶよ、こんな朝早くから誰も来ないわ。驚いた? 谷山さん」
 嬉しそうに、本当に楽しそうにそう聞いた美人の女性こそが、渋谷サイキックリサーチの所長代理、森まどか嬢にほかならなかった。おそらく麻衣を驚かせるためだけに早く来たのだろう。
「驚きましたよ……」
「うふふ。ごめんなさいね。それから、1人でお仕事おつかれさま。大変だったでしょう?」
「それほどでもないです。ただ、英語の電話にだけは困りましたけど」
 出発前に所長からとうとう電話とってOK、手紙の選別頼んだ、のお言葉があった。やっとかぁ、と感動したのも束の間、やりつけない仕事は手際が悪くて仕方なかった。もっともそれはすぐに慣れたのだが、ちょっとやそっとでは慣れないのが、英語関連だ。
 英語の宛名、英語の題名、何よりも英語の電話。文字が英語な分にはいい。いくら解読に時間がかかろうと辞書がないと分別もできなかろうと、誰が迷惑するわけでもない。しかし電話となるとそうはいかない。受付は事務所の顔、愛想も仕事のうちだが、麻衣の英語力では敬語表現もおぼつかず、話すたびに気づかずに失礼なことを言っているのではないかとひやひやさせられる。
「ごくろうさま。じゃあ、英語の電話がかかってきたら私に回してくれればいいわ」
「ご厚情、感謝いたします」
 麻衣は深々頭を下げた。
 これがナルなら、『英語の勉強をしてくれないと僕が恥をかく』とでも冷たく言い放つのみであろう。もちろん努力の必要性は感じた、なにもナルに嫌味を言われるまでもなくそのくらい自ら感じている。
 そう考えて麻衣は、ふと、まどかがここにいるということのその意味を思い出した。
「あの、お葬式……終わったんですか」
「ええ」
 まどかは少し苦い顔をした。
「昨日ね」
 そうですか、と麻衣はうつむいた。
 ナルは、きっといつもの無表情で見守っていたんだろう。実の兄との最後の別れを。それは、昨日麻衣が何も知らないうちに終わってしまったのだ。
(もう……埋葬されたんだ)
 もう会えないかもしれない、とジーンは言った。確かに、それが最後の会話になったのだ。それは、とうとう昨日確定した。もう希望はたたれたのだ。
(ううん、あたしが悲しいのより、きっとナルはもっとさみしいんだから)
 神様、時間を流して早くすべての痛みを癒して下さい。
 そう、そっと祈った。

火曜日

 火曜日の朝、また麻衣は夢を見ていた。
 夢の中で、はっきりこれは夢だと分かっていた。
 ジーンが埋葬されたと聞いても変わらず同じ夢を見続けることに麻衣は少し失望した。葬式は、自分の中でいつしか区切りのつもりになっていたらしい。葬式が終わるまでは苦しいかもあるかもしれないが、と無意識に期限を切って我慢していたようだった。
 そんなことを夢の中でつらつら思いながら、麻衣はアパートの床に座っている。膝を抱えて、何を見るでもなくただ寝たいな、と思っている。早くここから抜け出したいと。
(静かな部屋……)
 夢の中だからだろう、本当ならあるはずの音がなかった。他の住人のたてる音、窓の外を通る車や人の音。他の人間がこの同じ世界に息づいてるしるしが、すべて。
(ひとりぼっちみたい……)
 だから眠ってしまいたい。
(夢の中ならかかってくるかもしれない)
 あの、電話。

水曜日

「もしもし。……なんだ、ぼーさん?」
 水曜日はうだるような暑さだった。しばらく案外涼しかったものですっかり油断していた。楽をしていた分揺り返しは恐ろしく、暑さが耐え難い。考えてみれば今は8月で、暑いからと学校は夏休みなのだし、プールに行けばみんな喜んで冷水に浸かっている季節なのだ。
(いいよなぁ、プール)
 とにかく逃げ込むように出勤してきたオフィスは、クーラーの恩恵に授かっていて何とか涼しかったからまだいい。しかし家に帰れば地獄が待っているのだ。家にいれば何もやる気がしなくて無闇に眠りたいばかりだし、もうオフィスに住んでしまいたい。寝るたび、今度寝たら起きあがれないような気がするようになっているのが、自分で怖かった。
 全身全霊で働いて家に帰ったら熟睡してしまうしかない、と麻衣は覚悟を決めていた。ぱたっと寝て、すっきり起きる。そのために水曜日は朝から本棚の一斉整理を行っていた。
 本の量は半端でないし、そもそも一冊一冊がたいそう重いのだ。本棚の整理は大変な重労働で、普段ならやりたくないことの筆頭である。
 受付に身を乗り出すようにして受話器を取りながら、麻衣は汗ばんだ額を拭った。ちっともさっぱりしない。
「オフィスにかけてくるなんて、ちゃんとした用事なんでしょうねー?」
『いやー、オフィス開いてんのかなと思ってさ。悪ぃ、来客中?』
「閑古鳥が鳴いてる」
 客もおらず、相手するのに緊張する上司もいない。だんだん、オフィスにいても暇を持て余すようになりつつある。
「また来る気?」
『麻衣ちゃーん、冷たくしないで』
「あたしの優雅な午後を邪魔する気だろー」
『鬼所長がいなくて暇だろ? ここはひとつ、ぼーさんが無聊をなぐさめに参上してだな』
「鬼所長のかわりに、菩薩天のような所長代理様がいらっしゃいますの」
『まどかお嬢さんにも会いたいなー俺』
 麻衣は小さく息をついた。カウンターの上にひじをついてあごをのせる。
「ま、ナルよりは歓迎してくれるかもね」
 実際、人がいたほうが気がまぎれるのも事実だった。
「コーヒー代に、ちょっと労働してくれるよね、パパ」

木曜日

 木曜日も負けず劣らず暑かった。
 のどから水分を奪っていくような暑い空気を吸いながら、その日も夢を見た。夢の中も暑くて仕方なかった。夢の舞台は自分の部屋なのだから仕方ないのかもしれない。アパートにはクーラーなどという高級なものは存在しない。
 クーラーのない夏は地獄だ。逃げ場がない。息をするのも苦しい世界の中で、ただひたすら安らかな眠りを祈っているしかない。いつかくるだろう秋を待って、体を縮めて耐え続けるしかない。呼吸するだけで体の中の力もあるはずの幸せもなくなっていく気がする。熱い空気があまりに辛くて、できることなら息をしないでいられたらいいと思う。気持ちのいい夢を見て眠り続けていたいと思う。
 そうやって、いろいろ考えながらもなんとかしてやり過ごしているしかない。
 いつかは、全部嘘みたいに楽になる日が来ると知っているから。
(そうだよね……?)
 同意を求めてさまよった視線が部屋の中央で止まった。
 心臓がごとりと音を立てて停止した気がした。体も心も一緒に止まった。その姿をとらえた瞳も止まって、ただ一瞬にして涙が視界を覆い尽くした。
 ジーンがあの大好きな優しい笑顔で、彼女を見つめていた。

 麻衣は目を開くと同時に跳ね起きて、窓に駆け寄った。
 カーテンを開け放して夜の光を入れ、部屋を見回す。
 部屋の中央には乱れた布団だけがあって、どんな見知らぬ影も見つからなかった。そんなことは分かりきっていた。それでも目を凝らして何度も何度もさがした。
(今のは、夢だよ……!)
 脈打つ胸を押さえ、上がる息を殺していたら、とめどもなく涙があふれた。
(ただの夢だよ……)
 カーテンにすがって窓辺に座り込む。曇った視界は、それでも部屋の中央に縫い取られて動かなかった。
 見つめていたら、こもった熱気が、夜の暗闇が今にも彼の姿をとりそうな気がした。「ここにいるのに」そういたずらっぽく優しく、困ったように苦笑しそうな気がした。
(そんなのは、私の勝手なただの……)
 窓の外を、車が唸りを上げて通り過ぎていった。そのリアルな音が冷酷に告げる。
 これは、現実だ。

金曜日

「こんにちは。お邪魔します」
 爽やかな声と笑顔で入ってきたのは安原で、麻衣は少々驚いてそれを出迎えた。
「安原さん。珍しいねー」
「所長がいなくて、谷山さんさみしいんじゃないかと思って」
「……それに関してはかなりせいせいしてますが。お茶いれますね」
「ありがとうございますー。鬼の居ぬ間の何とやらですね」
「ナルがいるとうるさいですからね」
 給湯室に向かう麻衣を安原の声が追いかける。
「谷山さん、おみやげがあるんでフォークを持ってきてくださーい」
「はーい」
 自主的に休憩時間ということにし、麻衣は二人分のお茶をいれた。金曜日の今日は、朝からオフィスの床という床をみがく大掃除をしていた。そのうちやることがなくなるのが目に見えていて怖いが、今は他に手が思いつかなかった。
 相変わらず客は来ない。暑いときに出歩きたくないのは誰も同じなのだろう。よっぽど本気で困っている人間しか来る気にならないに違いない。普段の客はなにか勘違いしているのが多いから、来客が少なくなるのも当然といえた。
「おみやげ。ケーキなんだけど」
「ケっ、ケーキですかっ」
「嫌い?」
「好きですよー。女の子に、それは愚問」
「谷山さんは少し太っても平気ですよ。……まどかさんはいらっしゃいます? 彼女の分もあるんですけど」
「今日は早退だそうです」
「なんだーそれは残念です。……ふたりっきりですね」
「……あのですねー、安原さん」
 安原が笑ってケーキ独特の白い箱を開ける。麻衣はお茶と小皿を机に置いてソファに腰掛けた。朝からの疲れもあって、体がソファに沈み込んでいく気がする。
「谷山さん、なんかやつれたね」
 ふいに静かな調子で言われて、麻衣は顔を上げた。
「そうですか?」
 そう答えたが、本当は分かっている。実際体重は落ちているはずだった。食は細くなっているし毎日重労働しているし、暑い分エネルギーも消費しているはずだ。確か寝るのは案外体力を使うはずで、寝過ぎのきらいがあるからそれも原因の1つだろう。
 鏡を見て自分でこれはやせたな、と思うというのは、いったいどれだけのスピードでやつれていってるものなのか、考えたくもない。まして体重計など怖くて乗れない。ダム湖から帰ってからの2週間あまりで信じられないほど軽くなっているその実数は、確かめたくなかった。
「仕事、ひとりで大変ですか?」
 優しい語調で安原が言う。麻衣は少し微笑んだ。
「そうでもないです。働いてる方が退屈しませんし、よく寝れるんで」
「今日は大掃除なさってたんですね。そんなに寝られないんですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
 心配してくれているのだ、と嬉しくて胸が痛んだ。
「いただきまーす」
 麻衣はケーキを口の中に運んだ。その途端ふんわりと、控えめの甘さが口の中に広がる。あっという間に消えていく後味が、幻のように柔らかい。
「おいしい……」
「でしょう?」
 うなずいて、そっともう一口すくった。
「なんか、生きててよかった……」
「でしょう」
 優しい言葉に、涙がにじんだ。

土曜日

 朝が辛かった。
 毎朝泣きながら目覚めるか、あるいは起きてから泣いた。泣くことでただでさえおぼつかなくなっている体力が削り取られる。そうしながら、これは現実か、とひたすら自分に問い続ける。夢の中で夢を見ていることも多く、目覚めを何度も経験することも多かった。目覚めた瞬間願いはすべて否定されているのだと現実を知らねばならない。その瞬間が、怖かった。現実感が戻ってきて1人きりの実感が身に迫ってくるその時が、辛かった。
(この夢は、ただの夢? それとも特別なあの夢?)
 もう特別な夢は見ないだろうとは思う。しかし、起きるたびに期待してしまうことが辛い。
 眠りが浅くて夜中に何度も目覚めながら、今度こそ起きたくないと思う。暗闇の中で、何か自分の中に巣くう暗い暗いものにただただ抵抗し続けている気がした。
(まだ、負けない。あたしは負けない)
 投げちゃえばいいのに、何をやっているんだろうと疲れて思い、すべてが面倒になってまた泣けてくる。
(いつまで続くんだろう……?)

 麻衣はあわてて電話に飛びついた。
「はい、渋谷サイキックリサーチです」
 言った直後、耳から大量の英語がなだれ込んでくる。早々に勝負を投げ、愛想だけは良く、麻衣は一方的に言い放った。
「Just a moment, please?」
 助けを求めて振り返った背後でまどかがこころえたように手を差し出していた。
 ありがたく受話器をまどかに託し、麻衣はぐったりとソファに倒れ込む。電話をとることでなけなしの体力を使い果たした気がした。
 知り合いからの電話だったらしく、後ろでまどかが驚いたように声を上げた。
「大丈夫ですか?」
「……英語一気に聞いて疲れただけです」
 ぼんやりと返事をしてから、麻衣ははじめて自分の前に人がいたことを思い出した。
(ぼーさんと安原さんだ)
 とうとうやってしまった、と軽く血の気が引くのが分かった。今日は土曜日で、もう気力だけでなく相当に体力も落ちているのが分かっていたから、そのうちやるだろうという気はしていた。
 病的な無気力状態は、もう仕事中も見逃してくれなくなっていた。なにかに、すごい速さでむしばまれている気がした。
「……ごめん、あたしちょっとぼうっとしてるみたい」
 笑おうとしたが、これは明らかにこわばった。うまく笑えない。顔だけじゃない、全身の感覚が鈍かった。
(早く、現実に頭を切り換えなきゃ)
 そう思えば思うだけ疲れていく気がした。もう疲れたと、もうがんばるのは疲れたと心のどこかが言っている。そう思ったらおしまいになる、と分かっているのに。
「谷山さん」
「ごめんね! だいじょうぶだよ」
 拳を握って、やっとその言葉を吐き出す。そして無理にも勢いをつけて立ち上がった。
「あたし、お茶いれなおしてくるね」
「僕がやりますよ」
「ダメです、あたしがやります」
「ダメってことはないでしょう」
「だって、仕事ですから。あたしがやります」
「なるほど。それじゃ、僕も仕事中になるというのはどうでしょう、所長代理?」
 安原が笑ってまどかを見た。驚いて毒気を抜かれ、その視線を追って麻衣もまどかを振り向く。
 電話中の所長代理が受話器を片手にウインクして、GOサインを出した。
「だ、そうですので、僕が行きます」
「少年、俺はアイスコーヒーな」
「天才ですから、おいしいですよ僕のコーヒー」
「そーかい」
 言葉少なに、滝川は安原に笑って見せた。安原を見送ったその笑顔は、茫然とするような優しさのまま、立ったまま動けなくなった麻衣に向けられる。
「まぁ、座んなさいや」
 かくりと膝を折ると、支えを失った体がソファに落下する。
「今日付けで少年がバイトはじめるらしいぞ」
「……どういうこと?」
「もう嬢ちゃんひとりで全部やらなくていいってこと」
「あたし、バイトが辛いわけじゃないよ」
「理由は知らんが、疲れてんだろ? 疲れてるときは休むの」
「……あのね、働いてる方が気が楽なの」
「ナルちゃんとリンがいなくてさみしいんじゃないのかな、などと父は思ってるのだが」
「そりゃ……少しはさみしいけど。でもそのうち帰ってくるんだし。もう会えないわけじゃないもん。手紙だって書けるし……書くなとは言われなかったし。そんなの……」
 イギリスに帰ったナルが兄を失って、両親と3人いるだろうことを思えば、切ない。泣きたいような思いがある。けれど、息苦しいのはそのことじゃない。この先の道のりがとんでもなく重く感じられるような、やりきれなさはそのことじゃない。
「……嬢ちゃんは意地っ張りだねぇ」
 いつのまにか床に落ちていた視線を上げると、斜め前の席で滝川は変わらず少し笑っていた。
「あたしが?」
「そっ。自分に対して意地っ張り。たとえできっこないことでもできるはずだって言い聞かせてやっちまう。やるべきだって決めたら意地はってやりとおす」
「……できっこないほど大変じゃないもん」
「ほらな。また言った」
「……だって」
「お前さんね、死にそうな顔色してるぞ」
「すこーしふくよかになったほうがよさそうですよ」
 いつもの鮮やかな笑顔とともに、安原が紅茶のカップを置いた。さらにさっと取り出される白い箱。
「昨日とは違うお店なんですけどね。食べて下さいね、ケーキ」
 あまりの手際の良さに、麻衣は二人をじっとりとにらんだ。
「……2人とも、裏で手結んでたな」
 安原の満面の笑みが、雄弁にYESと語っている。
「発案者は滝川さんですよ。はい、たくさんあるんで、いくらでもどうぞ。ちなみに滝川さんのおすすめはレアチーズだそうですよ」
「俺のじゃないの、俺のファンの子のすすめ」
「……ナルに許可とったの、バイト」
「事後承諾って奴だな」
 すましていう滝川。さらに飄々とした表情で安原が付け加える。
「明日あたり怒って電話かけてくるんじゃないでしょうかねぇ」
「その電話、あたしがとるんじゃないですか……?」
「いやぁ、所長と一番仲良しさんじゃないですか」
「冗っ談!」
「適当なことを言ってごまかしておいてください」
「無理ですよぉ、ナルごまかすなんて芸当」
「明日まで考える間は十分ありますよ」
 笑いながら、いそいそと安原はケーキを並べる。昨日よりも種類が豊富で、ながめるだけでも楽しい。久しぶりに食欲らしきものが湧いてきた気がした。
「落ち込むのには体力とカロリーが必要なんですよ、知ってました?」
「思い知りました」
「ま、休んで食べるのが一番だな」
 アイスコーヒーのカップをじっと見つめながら滝川がつぶやくように言う。
「誰かと一緒に、ですね。……滝川さんの照れ屋さん」
「やめろっつーの」
 知らんぷりをして電話の相手と話し込んでいたまどかが一瞬麻衣を見たが、本当に短い間だったので麻衣は気付かなかった。ただ麻衣は3人を見まわして、うんと静かに微笑んだ。
「そうだね。……ありがと」

日曜日

 日曜日にまどかは週末営業を宣言した。あまりの客の少なさにすっかり飽きたものらしい。もちろん意味もなく交代で受付に座り続けているバイト2人に異論のあろうはずもない。夏休みだけの処置ということなので麻衣が生活に困ることもなく、営業時間短縮は満場一致で可決された。
 所長が聞いたら凍てつくまなざしは避けられないだろうなぁ、と思いながらやはり目先のお休みが嬉しい。6時を過ぎて、麻衣は1人最後の後片付けをする。そもそも渋谷サイキックリサーチには物を散らかしっぱなしにする所員がいない。いたらいたで文句を言うのだろうが、ちっとも散らかっていないとそれはそれで片付けがいがない。
 気楽にペンやファイルを所定の場所に収め、給湯室を掃除してガスを止めたらもう終わりだ。外はまだまだ明るい。たまには渋谷の街を歩いてみてもいいかもしれなかった。
 電気を消し、久しぶりにわりと軽い気分でオフィスを出ようとしたとき電話が鳴った。
(どうしよう)
 放っておけば留守電が流れる。しかし、ここにいるのだ、自分で謝ればいいだろう。
 麻衣は電話にかけより、受話器を取った。
「はい、渋谷サイキックリサーチです」
 途端流れ込んでくる雑音。電話が遠いようだ。
「もしもし。申し訳ありませんが、電波の調子がよくないようなのですが」
 これで外人だったらどうしよう、と麻衣は心の中で唸った。英語で説明できる自信はない。
「もしもし」
「麻衣?」
 声を妨げていた雑音を割って、ふいにその声はまっすぐ耳に飛び込んできた。いや、心の中に入ってきた気がした。疲れていた心を壊しそうなほど。
(ジーン?)
 そんなわけはない、と思考のどこかで確実にわかっていた。
(ジーン……ジーン……!)
 麻衣は手で口を覆った。
 この電話の意味なら、絶対に分かっていたのだけれど。声の主なら間違いなく分かっていたけれど。
「麻衣?」
 深い声が、もう一度麻衣の名を呼ぶ。耳から深く入り込んで体を震わせる。
 その声が愛しくて恋しくて、麻衣は耳をすました。そして、止められないほど悲しくなって泣いた。ポケットに手を添わせると、小さな固い線が触れた。写真立てが入っていた。
「ごめんね……ナル」
 泣きたいくらい待っていたのは、ナルからの電話ではない。

 ……彼の声が聞きたい。
 わかった、あたしただ彼の声が聞きたかっただけ。
 毎日夢を見て、おぼろな輪郭だけ見て、見た気がしたら消えてしまって、切なく切なくて伝えたいことがたくさんありすぎて、こんなに好きなのに今さらなにもできないからやりきれない。
 もう一度会いたいだけ。押さえてもつくろっても思いがあふれてくるだけ。
 夢がいつか本当になるかもしれない。もっと眠って、そしたらいつか会えるかもしれない。
 せめて、声を。声を。
 あの声を聞きたくて。名前を呼んで欲しくて。
 だからそれが嘘だって分かっているけど、電話が。欺瞞でもいいから、電話が来ないかと。
(あたし平気なはずだったのに、どうしてこんなひどいこと考えてるの?)

「ごめん、あたしが泣いたりして……」
「どういう意味だ。僕に泣く気がないのに、遠慮して譲るわけか?」
「……そっか」
(ナルがうまく泣けないなら、あたしが代わりにナルの分まで泣くからね)
(ナル、知ってた? 人は1人で全部背負ったらダメなんだよ)
「うん、わかった」
「なにが」
 小さく笑ったら涙がこぼれた。
 ケーキは嫌いだろうけどお茶を入れるから、毎日。
 黙って泣かせてくれたナルが何を考えているのか、麻衣には本当のところ分かりはしない。けれど、少なくともジーンを想っているのは、ひとりだけではないのだから。
 麻衣は天井を仰ぎ、目をしばたたいて、涙が落ちるに任せた。
「……イギリス、今は朝だよね?」
 電話の向こうに問いかけた。
 しばらく、雑音だけが流れた。受話器の向こうで彼は何を見ているのだろう、と、思う。
「午前10時」

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