アリスのお茶会

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クリスマス裁判

 がすっ、と鈍い音をたてて頭が落ちて、あたしは初めて自分が寝ていたことに気がついた。
「あいた……」
 ぶつけたらしい額をこすって目を開けると、目の前にはガラスの板。たぶん、リビングのテーブルだ。どうもこのテーブルの端っこに思い切り衝突したようだ。ううう……痛いはずだよ。角っこじゃなかったのがせめてもの救いだ。
 さて、どうしてこんなところに頭をぶつけることになったんだろう?
 はっきり理由を思いついたわけじゃないんだけど、あたしは何かしら説明のつく原因をさがして周りを見回した。
 あたしが今寝っころがっているソファ、本がきれいに重ねて置かれているガラステーブル、くすんだベージュの色をした絨毯。それらは全部とても見慣れたもので、すぐにナルの家にいるんだと分かった。
 そして、ソファのすぐそばには、家主の男。ついさっきソファから立ち上がったかのように腰をかがめたままの姿勢でこっちを見て、いた。
「……あたしのこと落としたでしょ」
 ナルは軽く眉を上げた。
「心外だね。僕は立ち上がっただけだけど?」
「でも、結果的に落としたんでしょ」
「落ちたのは麻衣のバランス感覚が悪いから」
「あたし、寄っかかって寝てたんだよね? 突然立ち上がったらテーブルに頭ぶつけることくらい分かったはずだ。ナルのせい」
「寄りかかって寝ていいと言った覚えはない」
「なんで許可取らなきゃいけないんだよ」
 ナルは皮肉げに目を細める。
「寄りかかられると迷惑だから」
 ……こういうやつなんだよな。
 ナルとまがりなりにも恋人同士(この言葉、実感ないよなぁ)になって、すでに4ヶ月がたつ。たぶんそのうち正味2ヶ月分くらいはナルのうちに泊まっていて、その日数のさらに8割くらいは肌を重ねている気がする。ベッドにいる時以外ナルはほとんど仕事をしているといっても、かなりの時間を一緒に過ごしているのだ。
 今さら、なんで寄りかかって寝るのに許可をとらなきゃいけないって!?
 あたしはソファに体を起こし、素早く手を伸ばしてナルの腕から本を一冊抜き取った。ナルはもちろんすぐに取り返そうとするけど、あたしはその本を自分のセーターの中にしまいこんでしまった。
「ふざけるな」
「ふざけてない。話し合おうじゃない」
「横暴だな」
「あたしはあんたの行動の方が横暴だと主張する!」
「僕はそうは思わない」
「あたしは思う。だから話し合いましょう、座って」
「僕はもう寝たいんですが、谷山さん?」
「あたしだって眠いやい。気持ちよく寝てるところを起こされたんじゃない。どっかの暴力男に」
「……聞き捨てならないね」
「あら、あたし何か間違ったことを言ったかしら。ガラスにぶつけたりしたせいで頭がおかしくなったのかも。あー痛い」
 ナルは憮然としてソファにかけ直した。よしよし。
 あたしはナルに向き直った。けど……今日は12月24日、世間はクリスマスだ。あたしときたら一体何をやってるんだか。
 あたしが今日かなり強引にここに泊まりに来たのは、もちろん今日がクリスマスイブだからだ。別に彼氏と過ごさなきゃイヤってわけでもないし、相手にしてくれないナルと一緒にいるよりは友達とパーティーした方が楽しいに決まってる。でも、21にもなると、みんなそれぞれに予定があるんだよねー。
 パーティーしようよ、って誘いを片っ端から「デート」の一言で断られて、それどころか「クリスマスに友達誘うなんてさみしいやつね」と馬鹿にされて、あたしはため息をつきつつナルを誘うことに決めた。
 学校の友達はもちろん、オフィスのみんなまで相手にしてくれないんだもん。クリスマスに絶対暇だと分かってるのは、ナルくらいじゃない。
 ナルは別に来るなとも言わなかったけど、いつも通り相手もしてくれない。プレゼントやパーティーなんて、望むべくもない。分かってたけどそれでも人恋しくて、あたしは仕事をしているナルのとなりでずっと本を読んでいて、いつの間にか寝てしまったのだ。
 そして、こともあろうにソファから落とされた。
 こんなクリスマスがあっていいんだろうか?
「断固として謝罪を要求する」
 きっぱり言ってやったけど、そう簡単にナルが折れるわけないことはよく分かっている。案の定反応はナシで、嫌な顔すら作らなかった。
「なら、僕は先ほどの暴言の撤回を要求するね」
「女性をソファから落とすのが暴力でなくてなんだ」
「落としたなら、確かにそうだろうね。だけど僕は落とした覚えがない」
「そりゃ直接落としたりはしてないんだろうね。でも、落ちると分かっているのをそのままにした。これは、故意と変わらない」
「まさか僕が立ち上がるのに気付かないほど鈍いとは思わなかったね」
「寝てるんだから鈍いも何もないでしょ」
「あるね」
「大体そのまま寝かしといてやろうという情け心は働かないわけ?」
「残念ながら」
「人間としての思いやりを怠っていると思う」
「何が人間としての思いやりなのかを勝手に決めるわけか? そんな根拠のない主張は認められないね」
 本当に眠いのかもしれない。ナルはほとんど目を閉じて腕を組み、ソファの背にもたれかかっていた。
 半分寝ててもあたしくらい言い負かせるってか。退いてやらないからね。
「じゃあもしあたしが打ち所が悪くて病院に運ばれるようなことになっても、あんたは責任がないって主張するわけ?」
「事故」
「事故じゃない。過失」
「僕がそんな間抜けなミスをすると?」
「もし本当にあたしが落ちるとは思わなかったんなら、実際には落ちたわけだから間抜けな判断だったと言わざるをえないね」
 やっとナルはむっとした顔になって目を開けた。
「もし落ちるだろうと思ったけどまぁいいやってことで立ち上がったんなら、それは未必の故意に当たる。あたしが怪我してたらきっぱり傷害罪だ」
「未必の故意の意味を知ってるのか?」
 むっ。大学教育を馬鹿にしたな。スクールを出てから専門分野しかやってない研究馬鹿と、勤勉な日本の女子大生を一緒にするない。
「積極的に危害を加えたわけじゃないけど、危険だと分かっている行為をして消極的に攻撃した場合、これは故意の一種と見なす」
 ナルは肩をすくめる。たぶん、大体合ってたんだろう。あたしも、完璧に正しいとは思ってないけど…。
 ナルはその件に関しては何も言わず、話しを元に戻して反論をした。
「落ちても大したことになるわけがない」
「へーえ?」
「角度的に真上から落ちればテーブルの平たい部分に落ちるはずだし、角に当たるためには一度ソファに落ちてから転がる必要がある。勢いは完全に殺されて、怪我につながることはありえない。傷害罪? 冤罪だね。これは侮辱だ」
「……なるほどね」
 あたしは自分が寝ていた角度とテーブルの位置を確かめる。
 テーブルはかなり低いもので、床に直接座ってもいいくらいの身長しかない。あたしたちが座ってるソファはというと、これもわりと低いものなんだけど、それでも膝を少し曲げて座るくらいの高さはある。
 テーブルの高さと、ソファの座る部分の高さの差は、なんとか足が入るくらいのものでしかなかった。
 確かに、ソファに座った状態からテーブルの一番鋭い部分に頭をぶつけるためには、曲芸みたいな動きをしなきゃいけない。あたしが今以上に痛い思いをする確率は0に限りなく近かったわけだ。
「僕の勝ちを認めてもらえるかな?」
「なわけないでしょ」
「今の理屈に反論が?」
「それは、ない。傷害罪はありえないね」
「それじゃあもういいだろう」
 どこがいいんだ。
「つまり、落ちた場合のことも考えて正しく判断したわけね? 事前に」
 しまった、というような顔をナルはした。
「立ち上がったらすべり落ちて目を覚ますだろうな、最悪テーブルに頭をぶつけるかもしれない、でもどんなに悪くても怪我をするほどではない、運んでやるのも面倒だ、と。
 こう考えたわけでしょ?」
 ナルは答えない。
「未必の故意、成立。あたしの勝ちね?」
 にっこり笑ってやると、ナルは不機嫌きわまりなくしばらくの沈黙した。
 でも反論があるわけがない。完全に言質を取ったもんね。
 いくらあたし相手だからって手抜いて適当に言いくるめようとするからだ。あたしだってあんたに何年も慣らされてれば、少しくらい頭の回転もよくなるんだい。
 ナルは1cmくらい頭を下げた。
「悪かった」
「慰謝料を請求してもいい?」
「低額なら、認める」
 あきらめたらしい。
「明日のイブ、6時間、あたしにちょうだい」
「長い。2時間」
「4時間」
「……3時間」
「交渉成立」
 ナルはため息をついて立ち上がった。そこら辺の荷物を腕に抱えて、片手をあたしの方に差し出す。
 これはさっき取った本をよこせと言うことだろうなと思って、あたしはセーターの中に確保していた本をナルに返した。
「もう寝るけど?」
「うん、あたしも寝る」
 ああそう、どうぞご自由に、とナルは気のないセリフを返してきた。

「で? あれだけの慰謝料を請求するために僕を引き止めて裁判の真似事をしたわけか?」
 ベッドの中で眠そうにしながら、ナルは聞いてきた。
「あたしには『それだけ』じゃないよ。クリスマスはね、1人で過ごすものじゃないんだから」
 ナルは何も答えなかった。
 みんなが楽しくパーティーをしているクリスマスの夜、にぎやかさに取り残されてしまうそのさびしさを、たぶん彼は知っている。あたしもナルも、まだ少女や少年だった頃に家族のいないクリスマスを過ごしているから。
 無造作に軽く抱き寄せてくれる腕に身を任せて、あたしは今年のクリスマスを一緒にいてくれる人の体温に頬を寄せた。
 プレゼントもパーティーもいらない。
 口喧嘩でもいい。
 あたしは今年、けっこう幸せだ。
「Merry Chiristmas」
 ナルが言った。
「……Merry Chiristmas」
 ――今年は、『かなり』幸せかもしれない。

END

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