アリスのお茶会

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 こんなことをしていたらいつかぶつかる。
 麻衣は焦りを抱えながらハンドルを握っていた。車はリンのものだ。間違ってもぶつけるわけにはいかない。大破はもちろんのこと、ちょっとでもこすってしまったら何万円という単位でお金が飛ぶ。そんな余裕、麻衣にあるわけがない。大体、毎日車通勤しているリンに、修理中どうしろと言えばいいのか。
 ハンドルをこまめに切る。車が車線の真ん中を走るように何度も修正する。戻しても戻してもいつの間にか右か左に寄ってしまうのはどうしてなのだろう。となりの車線に接近しては、慣れない車の横幅が読めず怖じ気づいてしまう。
 ブレーキを細かく踏む。アクセルを押し込んだまま放っておくと制限速度を軽く越えてしまうし、だからといって慣性の法則に任せていると後ろの車にプッシングされる。マニュアル車は速度が落ちるのが早い。
 どうして周りの車は平然として走っていられるのだろう。勝手に走っていこうとするこの車という暴走物を飼い慣らすのが、運転に慣れるということなのだろうか。真剣に尊敬する、と麻衣は思う。
 視界の隅をスピードをつけて流れていくいつもの風景に、感動する暇もない。日常が目に留まることもなく両脇を過ぎ去っていく。ゆっくりと歩けば道端の凝った植木鉢1つにも感動する道なのに、車は怖いくらい速い。
(辿り着かなきゃ。車を壊さないで、周りに迷惑かけないでっ)
 汗ばむほどハンドルを握って、前だけ見据えているから、のんびりペースの物思いなんてしてられない。していられないことに気付きもしない。
 赤信号でやっと気を鎮め、焦る息を吐き出した時、麻衣はふとそれをすごいなと思った。

加速風景

22222hit 東西紀様に捧ぐ

 そもそも、免許を取ったらどうかと言い出したのはリンだった。
 滝川らイレギュラーズが参加しない時の調査では、リン1人が運転をすることが多くて大変だ、という話をしていたのである。
 安原は免許を持っているが、最近彼は調査に参加しないことが多い。その年の3月に大学を卒業して以来、安原は司法試験の勉強に勤しんでいる。将来を決定したわけではないらしくバイトも続けているが、オフィスにいる時間は大学に通っていた頃とほとんど変わらない。弁護士や検事になるのでなければなぜ超難関である司法試験に挑戦するのか、という周囲の疑問に、彼は笑って「資格を取っておくに越したことはない世の中でしょう」と答えた。その程度の動機で司法試験を受けられる辺りが、彼の自信を如実に語っている。
 ともあれそういうわけなので、いまだ運転要員はリンのみだった。調査では日本を横断、ひどければ半縦断することもある。そういう時は無表情のリンの顔にも疲労の色が漂っているから、その負担や推して知るべしであろう。
「ナルも免許取れば?」
 3時のお茶をSPR所員全員で楽しみながら、そんな話をしていた。特別に騒がしくない時はナルやリンも息抜きに出てくることが多くなっている。
「僕はいい」
「でも本当にリンさん大変だしさ」
 ナルの表情をうかがいながら麻衣は作戦に変更を加えていく。
「ナルだって車があれば注文の本取りに行くのだってぐっと楽だよー? 送ってもらうより取りに行った方が早いし、読みたい本がすぐ読める! 遠くの本屋に行く時も、電車に乗るために駅まで歩くロスタイムが減ってお得!」
 まるで営業するサラリーマンのように、ナルのくすぐりどころをついて攻める。あからさまだな、と自分でも思うが、これが案外効くのだから人間というのは面白い。
 案の定ナルは麻衣の言葉に理を認めたらしく、本からカップの位置まで目をわずかに上げた。
(こういう時のナルは、扱いやすくてかわいいわ……)
 いつも言い負かされてばかりいる麻衣は、こんな話題でしか彼とまともに会話できない自分に『とほほ』のため息を内心つきつつ、思う。
 リンの健康がかかっているのだから少しくらい操作してやっても罰は当たらないだろう。
「事務所で外に行く用事だってないわけじゃないんだしさ。リンさん1人しか運転できないって、非効率的だと思わない?」
 言っている自分が笑えてくるような建前だ。
 だが、効果のある誘い文句だ。
 ナルは無口な方だから考える素振りを見せるだけで相づちを打ってはくれないが、明らかに表情が迷っていた。
 あと一押しか、と麻衣はさらなる誘惑を考える。それより早く口を開いたのは、ナル以上に無口な唯一の運転免許保持者であった。
「谷山さんが取ってはいかがですか」
「へっ?」
「どうせ免許を取ってもナルが動き回るわけではないのですし」
「まぁ、確かに雑用はあたしの仕事だけど。あたしが免許持ってるとそりゃ使いっ走りとしてレベルアップでしょうねえ」
 麻衣は少し苦笑した。
「そうできたらいいんですが、ちょっとキビシイんですよね、個人的に」
 自分が役に立てない引け目からか流れを見守っていた安原が、麻衣の言葉に苦笑を返してくる。
「免許取るのもタダじゃありませんからね」
「世知辛い世の中ですよ、兄さん」
「辛いけど涙を拭いてがんばりましょ、谷山さん」
「はいよ安原さん」
 2人してよよよ……と泣き真似をする。こういう時、前ならナルから軽蔑の視線が降ってきたはずだが、最近はそれも少ない。仕事をしている最中なら容赦はないが、こうして和んでいる時は見逃してもらえる。
 いや、愚かなやりとりには慣れたので、そこはそういうものとしてあきらめ、無視されるようになったというのが正しいだろうか。
 ナルは会話のリストから麻衣と安原のやりとりをきっぱり切り落としたように、当たり前の顔で前の話を続けた。
「厳しいというのは、資金面での話か?」
 この質問で、彼の耳に2人の話が綺麗さっぱり聞こえていなかったことがよく分かる。
「うん、そ。免許取るのって結構高いし。車買うなんてことになったらこりゃもう絶望的だね」
「高いとは?」
「値段?」
 麻衣は万の前に2桁の数字がつく金額を口にした。それに車とくれば、いくら中古を探しても桁が1つ上がるのは免れない。自分で稼いだ資金で大学の学費を払っている麻衣には、首をくくりたくなるような数字である。
「いくらまでなら払える」
「いくらまでって……そりゃ半分くらいならなんとか貯金の余裕もあるけどさ。そんな安いとこあるわけないし。あきらめてるからー」
「値段を知っているということは、取る気はあったんだな?」
「かすかな希望はございましたが、そんなものは現実の前にひれふしました」
「確実に取ってくれるのであれば、半分なら貸してもいいが」
「は?」
 麻衣のみならず、安原も目を剥いてナルを見た。
(今、何か非常に信じられない台詞を聞いたような……!?)
 ナルと気遣い。ナルとおせっかい。これは、ふさわしい言葉同士を線で結ぶ問題なら、確実にペケがつく組み合わせだ。
 リンだけは平然としてお茶のカップを下ろした。
「それはいいかもしれませんね」
「ああ。僕としてはかなりプラスになる。確かに麻衣の言う通り足があると便利だ」
「私だけでは効率が悪いのも事実ですしね」
「気になってはいたんだが、免許を取る時間が惜しいし」
「……あたしは事務所の備品かい……」
 要するに善意からの話ではないのだ。『便利だから、自分で取るのが面倒だから、代わりに取れ。そして必要な時にはそれに応じて運転しろ』そういう話である。麻衣が取ることが代わりになると思う思考回路がすごい。用事と言ったら大半が本の運搬であり、半仕事半ナルの私用である。その人使いの荒さ恐るべし、だ。
 安原が向かいの席に座る麻衣に向かって手招きした。麻衣は乗り出して顔を寄せる。
「あのですね、免許にはいろいろ制限がつくことがあってですね」
「はい?」
「僕の免許には、ほらここに『眼鏡を着用すること』ってあるでしょ」
 安原がポケットから取りだした運転免許には、『免許の条件等』という項目があり、確かに眼鏡を着けて運転するように書いてあった。
「これが……?」
「谷山さんが免許を取ってきたら、僕ここに書き加えてあげますね。『運転はオリヴァー・デイビスが必要とした場合に限る』って」
「……2度と運転できない目にしてやる」
「いやだなぁ、ジョークですよ、ジョーク。いやん、谷山さんたら目がマジ」
 ナルが2人のじゃれ合いをさえぎるように聞こえよがしのため息をついた。
「で、取る気はあるのか?」
「えぇと、いやでもね、気持ちはありがたいけど学校もあるし。免許取りに行ってたらバイトあんまり来れなくなっちゃうよ」
「別に構わないが」
「あたしが構うの! 生活費に困るんだってば」
 実際、1年くらいかけてのんびり通うなら資金も何となるのではないかと思い、麻衣も調べてみた。だが免許を取るには時間制限が設けられている上、何10時間と教習所にいなくてはならないのだ。
 教習の資金を稼ぎつつ学費生活費をまかなうのは、かなり厳しい。無理だと言ってもいい。
「合宿に行ったらどうですか?」
 言ったのは安原だ。
「生活費云々は約1ヶ月分気にしなくてOK。家賃とかはかかるでしょうけど、教習料金も低コストだし、安上がりなのは確かだと思いますよ?」
「ちょっと、その間学校は?」
「免許取得の最短は16日。それ以上行くと宿泊の追加料金もかかるし、当然最短で取るでしょう? 2週間ばかり学校休んだって、問題ありません」
「えええ? そんな、むちゃくちゃな」
「3年なんだからもう授業なんてほとんどないんじゃないですか?」
「ゼミがあるんだから、2回続けて休みたくありませんよー」
「夏休みに行ったっていいですけど……料金が上がりますよ。ピークだから」
 ぴくり、と麻衣の耳が反応した。身に染みついた貧乏性というやつである。
「じゃあ、多少混むかもしれませんが、GWを挟むように申し込んだらどうです? それなら1週間の休みで済みます」
「それは……いいかも」
「確か教習料金自体も万単位で安いんですよ、合宿って。それで食事と光熱費の心配がいらないなんて、願ったり叶ったりでしょ?」
「うーん……それなら野垂れ死にはまぬがれそうだなぁ」
 現実に野垂れ死にしそうになったら助けてくれるあてがいくつもあるが、麻衣はそれを分かっていて頼りたくはない。好意を利用するみたいで嫌だからだ。安原たちもそれを分かっていて何も言わないのだろう。
 自分の可能範囲内で死にもせず免許が取れるなら、それは願ってもないことだ。ナルからお金を借りるのは迷惑をかけることになるが、今からこき使うつもりでいるらしいからその分の迷惑料前借りすると思えば罪悪感もない。
「行ってみようかな」
「所長、だそうですけど?」
 ナルは無感動にうなずいた。麻衣は一応お願いの体裁を取ることにする。
「所長、免許を取りに合宿に行きたいんですけど、16日間お休みをいただいてもいいですか」
「どうぞ」
 あっさりと許可を出し、ナルは話が終わるのを待っていたのか本を持って立ち上がった。お茶はとっくに飲み終わっている。それを合図にしたように、おのおの自分の持ち場へ帰るためソファを立った。

 合宿所を選び、申し込みを済ませ、荷物の準備も終わった出発の前の日、麻衣はナルの家に滅多にかけない電話をかけた。
 用事もない電話だが、ナルは苦笑しただけで文句を言わなかった。

「……さびしい?」
「お前がか?」
「平気だもん」
   馬鹿馬鹿しいほど、分かりやすい嘘。   「……長い間会わなかったら、あたしのこと忘れちゃわない?」    シンプルで、その分強い疑問。
 ナルは沈黙の後話を逸らして、結局答えなかった。

 安原は自宅で昼間のノルマをこなした後、いつも通り事務所へ向かった。今日からはしばらく麻衣がいない。元から仕事が少ないオフィスではあるが、それでも1人減れば多少忙しくなるだろう。
 ちょっとした罪のない期待を胸に事務所のドアをくぐった安原は、正面のソファに紅茶のカップを傾ける美貌の所長を見た。
「おはようございます、所長」
 ナルは目線を上げることで返事の代わりにし、また本を読み始めた。
 リンの姿はない。ちょうど3時のお茶の時間だが、麻衣が呼びに行かなければわざわざ出てきてお茶を一緒にしようとは思わないらしい。それとも、飲もうとすら思わないのだろうか。
「後でリンさんにお茶を持っていきますね」
「ええ」
 本の文字を追いながらだが、ナルの返事がある。
「僕、今日からは谷山さんの代わりを務めようと張り切ってたんですが、ご自分でいれてしまわれたんですね」
「お茶ですか?」
「ええ。珍しいものを見てしまいました」
 麻衣がいれたもの以外を口にしているナルは、非常に珍しい。オフィスに麻衣の姿がないこと自体が珍しすぎるから、安原としては初めて見た姿かもしれない。
「僕が手出しする必要はないかな」
「いえ、今は結構ですが後で所長室に持ってきてください」
「あ、はい。でも所長の方がお上手かもしれませんよ、お茶」
「飲めれば構いません」
「所長のお口に合うものをお出しするよう、努力します」
 ナルはごく軽く会釈をし、飲み終わったらしいカップを置いて所長室へ帰ってしまった。事務所に出ていたのも、安原がいない間受付の代わりを務めていただけのことなのだろう。麻衣が高校に行っていて毎日忙しかった頃にはよくあったことだ。最近は安原も麻衣もいないことは非常に少なくなっていた。
 ナルは自分でできることも他人が問題なくできるなら任せる人間だ。多少上手いからと言ってお茶くみに手を煩わせるわけがない。
 安原はナルの残したカップを片づけながら無人の事務所で苦笑した。
 さて、とにかく自分のわずかな楽しみは成立しなかったようだ。
「そんなかわいい人じゃないか」
 もしかすると麻衣以外のいれたお茶は口にしないのではないかと勘ぐっていたのだが。だとしたら麻衣がいない間たっぷりと楽しめるなと期待していた。
 現実には、ただ静かでとどこおりない日常が始まっただけだった。
(やっぱりつまらないので、早く帰ってきてくださいね谷山さん)

 風景が飛び去っていく。
 ハンドリングとアクセルの踏み込みに神経の全てをつぎこむ。
 頭が動いていないわけではない。高速回転中。
 周りが見えていないわけではない。涙が出てきそうなほど凝視している。
 ただ、周囲を歩いていく人々とは、視界が違うだけ。
(ああ、こういうことかもしれないな)

 インターホンを押すと、半月ぶりの声が『はい』と答えた。
 聞きたかった声が当たり前に出てきたことに、麻衣は単純に感動する。
「あたし」
 少し間が空いたのでナルも感動してくれたのかと淡い期待を覚えるが
「なぜ入ってこない?」
 疑問に思って黙っただけだったらしい。
 麻衣はオートロックの暗証番号を知っている。それどころか部屋の鍵ももらっている。普段なら玄関のチャイムすら鳴らさず入っていくのだ。
「突然来たから都合悪いかもと思って遠慮しただけ。あんたと違って常識があるんだよ」
「憎まれ口を叩きに来たのか?」
 軽い音を立ててエントランスのドアが開く。ナルが操作をしてくれたらしい。礼を言う前にインターホンは切れてしまった。いいからさっさと来いということらしい。
 感動の再会を期待するだけ馬鹿だったかと悟りきった気分で思いつつ、麻衣はありがたく中へ入った。部屋の方は、もうチャイムを鳴らしたりせず合鍵を使って開けてしまった。
 ナルは半月前と何も変わらずソファで本を読んでいた。オフィスでもまったく同じだったのだろうと容易に予想がつく。これほど長い間会わなかったのは初めてだというのに、何の変わりもないことに拍子抜けした。合宿が終わったその足で駆けつけてきた興奮が嘘のように静まっていく。
 背後から近寄って、ソファの背に腕をかけながらナルの横顔を見つめる。忘れてしまいそうだと思っていたが、つまらないくらいあっさり日常が戻ってくる。
 『見慣れた横顔だ』。それだけだった。
「ただいま」
「免許は取れたのか?」
 本から目を離さないまま、一応ナルは会話に応じてくれる。
「うん、おかげさまで。借りたお金はのんびり返すねー」
「ああ。負担にならない程度に」
「ありがと。恩は働いて返しますので」
「その予定」
「知ってるとも」
 麻衣はふとナルの前にあるカップが空なのに気付いた。
「お茶、いる?」
「ああ」
 カップを持ってキッチンへ行き、そこが案外綺麗に使われていることにまた拍子抜けを味わう。料理を作っていたとは思えないが、お茶は毎日自分でいれていたはずだ。キッチンを使わなかったわけではないだろう。
 しかしシンクには皿の1つも置かれていないし、水切りのかごには洗われてからそう時間の経っていないティーポットがさかさまにされている。ナルは神経質なほど綺麗好きだ。
(あたしってば、本当に役立たず?)
 いや、役には立っているはずだ。本人でもできるお茶くみと掃除と洗濯を肩代わりしてやり、ナルの大事な読書の時間を保護している。嫌な顔をされながらも彼の栄養と睡眠に気を配って、健康を維持している。ついでに夜の相手もしてやって……
(こういうのって、『してやってる』って思い始めたらキリがないな)
 やかんに入れた水をガスレンジの上で温めてやる。
 棚に並んだ茶葉を選びながら、麻衣はひっそり苦笑した。
(一生懸命やったら認めてほしくなるけど、ありがたがられたくてやってるわけじゃない)
 手は素直にナルの好むお茶を選び出して、やかんのとなりに置いている。
(してあげたいだけ。ヤツに何かをしてあげたいだけ)
 そうやっていつも目の前のことに悩んでいたら、こうなっている。
(ああ、こういうことかもしれないな)
 ここに向かう途中でも思ったことを、また思う。離れていた分見えたこともあるのかもしれない。
 いれたお茶を持ってリビングに戻り、麻衣はくつろいだ様子で本をめくるナルのとなりに座った。急ぎの仕事はないようだ。
「はい、お茶」
「ああ」
 返事をする気はあるようだから、それほど重度の集中状態にはないらしい。
 麻衣はカップを手に取るナルを相手に、予定通りおしゃべりを始めた。
「今日ねー、リンさんから車借りて乗ってきたんだよ。ほら、リンさんの鍵。最初にオフィスに行ったらナルはもう帰ったって言って、鍵貸してくれたの。どんどん乗った方が上手くなるからって。緊張しちゃった」
 ナルは気のない相づちを打つ。麻衣は構わず話し続けた。
「……でね、リンさんの車教習車より大きいから、車幅感覚が完全にずれちゃってドキドキもんだったんだよ。でもこれからはリンさんの車か、事務所のバンを運転することになるんだもんね。慣れなきゃっ」
「麻衣」
「はい?」
「お茶のお代わりを」
「……はいよ」
 聞いているのやらいないのやら、判断が付かない。麻衣も期待はしないことにしている。聞いていたらラッキーだ。8割から9割の確率で聞いていないだろう。
 半分残っている自分のカップはそのままに、空になったナルのカップだけを持ってキッチンへ逆戻り。電子ポットを使って時間短縮を図ることも考えたが、せっかくなのでとびきり美味しくいれてやろうと思う。
 1杯目の銘柄を考え、2杯目にふさわしい茶葉を選び出す。先ほどと同じ手順でごく丁寧にお茶をいれて、オプションにお土産の菓子をつけてみる。どうせ食べないだろうから麻衣は出すだけ出して自分で食べるつもりだった。
「お代わりでございます、所長」
 ことさら慇懃な口調でふざけた麻衣に、ナルは馬鹿にした視線を送ってきたがあえて文句を言うほどのことではなかったらしく、そのままカップを受け取った。
「それでね」
 と、麻衣はまだまだ話を続ける。
「今まで何にも思わずに歩いてた道だけどさ、車で運転したきたら、いつも曲がってた道が一方通行の出口で入れなかったり、長く感じた直線があっという間で気が付くと曲がり角通り越してたりして、不思議な感じだったー。車運転してると、どんどん先のこと考えて車線変更していかなきゃいけないんだよね。早めに寄っておかないと、周りの車に邪魔されて角曲がれなくってさ。運転する人がよく道を覚えるって当然な気がするな。道のつながり一生懸命考えてるもん。飛び出す歩行者に気付かないのも、なんか分かる。道見て、標識見て、スピード見て、周りの車見てー。それだけ集中してると事務所からここまで来るだけで疲れちゃった」
 横目でうかがったナルは、決められた動作を繰り返すだけの人形のように、綺麗な顔で本を読み紅茶を飲んでいる。麻衣の話す内容に特別耳を傾ける必要を感じていないのだろう。
 彼は自分のやるべきことをまっすぐにやっている。
(そういうことなんだよ)
 麻衣はあきらめの苦笑が浮かぶのを感じた。
 彼は自分の走る車線の先をまっすぐに見つめている。
 麻衣は自分の歩く道の周りをきょろきょろ見回している。
 同じ道を進んでいても、視線が違う。スピードを上げて走っていたら、走り続けるために考えなければならないことがたくさんある。歩道に並んだ店は、見えていても目に留まらない。

 アクセル。ブレーキ。
 ハンドルを握って、シフトチェンジに気を配りなさい。
 標識をよく見て、車線変更のチャンスを見逃さないで。
(はい、教官)
 ――でも、少し休んでもいいですか。あたしには、そんなに急いで行きたい場所なんてないかもしれない。
(だけど周りの車はスピードを出して走っていく。ぶつからないためには、跳ね飛ばされないためには、神経を張りつめてアクセルを踏むしかないみたい)
   ゆっくり歩くあたしは、加速度をつけて前へ向かうあなたの、足手まといですか?

 急に黙った麻衣に、ナルが目も向けないまま声をかけてくる。
「どうした」
「ううん、別に。ちょっといろいろ思うところがあって」
「日本には……」
「え?」
「日本にはこういう言葉があると聞いた気がするんだが。下手の考え休むに似たり、と」
「喧嘩売ってる?」
「別に」
 本当に何も考えず言っただけらしいナルに、麻衣はこめかみがひきつるのを感じる。感じたままを言っただけ、ということか。手に負えない。
「どーせあたしは馬鹿ですとも。あんたから見ればね」
「視点を変えると馬鹿じゃないのか?」
「そう。ただノロマなだけ」
「大した自信だな」
「あたしから見れば」
 こほん、と咳払いをして自分でも勇気があると思う発言をする。
「ナルは無神経の学者馬鹿だね」
「……ほう?」
 ナルの口調に剣呑なものが混じる。本気で馬鹿にしたわけではないと分かっているのだろうが、それでも腹が立つらしい。よくよくプライドの高いことだ。
「でもそれはたぶんスピードが違うだけで」
 麻衣はやっと空になった自分のカップを置く。
「あたしは同じ道をゆっくり歩いて、同じ家に帰れればそれでいいなぁ」
 ナルがやっと麻衣の方を見た。その表情はかすかに困惑している。
「それは何かの比喩か?」
「そうだけど?」
 比喩じゃなければ何なのだ、と思って、麻衣は自分がきわどい比喩を使ったことに気付いた。『同じ家に帰る』? 比喩じゃなければプロポーズだ。
(し……まった。あたしったら何を……っ)
 ナルが困惑するのも当たり前だ。困惑している程度で迷惑した顔をされなかったのがまだ救いだが。
「……たとえ話だからね」
「ああ」
 すでに納得したらしく、ナルの表情はまた綺麗に整っている。
(つまんない)
 追及されても今度は麻衣が困ったのだが、それでもやっとこちらに興味を向けさせられたのにと思うと残念な気がした。困らせるか怒らせるか、それ以外に無視を免れるすべはないのだろうか。
 長い不在すら何の打撃も与えることができずに。
(あたしは、さみしかったのに)
 扉1つ向こう側に存在を感じながら仕事をする時間。いつでも声をかけられるとなりに座って黙って本を読んでいる時間。ふれられながら眠る時間。それがどんなに大切か、あらためて充分に思い知ってきたところだったのに。
 白い指がついと動いて、カップを麻衣の方へ押し出した。
「麻衣。お代わりを」
 麻衣は少し奇妙な気分でナルを見た。
「また?」
「何」
「3杯目だよ?」
「……そうか」
「喉乾いてるの? アイスにしようか?」
「いや、ホットで」
「そう……?」
 首をかしげつつ麻衣は先ほどと同じようにカップを立ち上がる。
 こんな短時間で2度もお代わりを頼まれたことが今まであっただろうか? ナルはどちらかといえば時間をかけ、それなりに味わっている様子で飲む方である。味わっていると言うよりは本を読む合間に、思い出したように飲んでいるというのが正しいとは思うが。とにかく麦茶の変わりに紅茶を消費するようなことはない。
「3杯目ね……」
 キッチンに向かっていた麻衣の背後で苦笑したような声がしたかと思うと、あろうことかナルはくつくつと声を上げて笑い出した。
 麻衣は思わずぎょっとして立ち止まってしまう。
「……何がおかしいの?」
「別に」
(理由なくて笑うか、あんたは!)
「大丈夫? あたしがいない間無茶したんじゃないでしょうね。いや愚問か。愚問だな。体おかしくしてない?」
 つい頭の調子を疑ってしまうあたりが、一般人への対応とは違う。ナルはまともに耳に入れていないのか、怒ることもなく肩をすくめた。
「僕はよほど紅茶が好きなのかな?」
「あたしに聞かれても」
 キッチンへ踏み入れかけていた足をソファの近くまで戻し、麻衣はナルの顔をのぞきこんだ。ナルは妙に素直に困ったような顔で苦笑していた。
 今さらナルの顔の綺麗さで衝撃を受けることは少ない。だが、いくら慣れた麻衣でもこんな見たことがない顔をされてしまうと衝撃的だった。
(ホレナオシタ カモ)
「ナル?」
「今日は帰るのか?」
「いや、よければ泊まらせてイタダケレバと……」
「そう」
「何だよ?」
「別に。麻衣、お茶を」
 不可解さに首をひねったまま、麻衣はおとなしくソファを離れるしかなかった。
 3たび同じ手順を踏んでお茶をいれると、ナルのところへ持っていく。3度目の動作でカップを差し出すと、ふいにちょっとした期待が浮かんできた。
 ナルがカップに口を付けたのを見て、それをそっと口に出してみる。
  「美味しい?」
   ナルは苦笑して答えなかった。

 ――加速していく風景の中で。
 ――あたしの何かがあなたの目に留まるなら。
   ――通り過ぎていく人々の中で。
 ――あなたを目に焼き付けるあたしがいるなら。
   ――見失わずに同じ場所へカエリタイ。

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