アリスのお茶会

  1. Top
  2. GH Home
  3. Novel
  4. I HATE IT

I HATE IT

 渋谷の道玄坂を上り、ブルーグレーの扉を開けるとそこには、えもいわれぬ心地よい空間が広がっている。
 同じ世界に生きるもの同士の、無言の労わり。押し付けがましくない程度の明るさ。他人行儀と礼儀の違いを知っている、気持ちのよい仲間たち。
 彼、滝川法生はそこの常連だった。
 本来喫茶店でもお悩み相談所でもない、れっきとした事務所に常連がいるのはおかしい。しかし下手な店より居心地のいい事務所なのだから、常連ができてしまうのも仕方ないことであろう。
 その日も滝川は道玄坂を上って、彼のごひいきの場所へ足を踏み入れた。
 扉を開けた先は接客用を兼ねたオフィスになっており、ソファが二つ、テーブルが一つ、その向こうに事務用のデスクが二つ置かれている。
 現在オフィスに出ているのは事務の青年だけだった。
 勤めて数年になる彼は当然滝川と顔見知りで、驚いた様子もなく迎えてくれる。週に数回訪れているのに今さら驚くわけもない。
「よ、安原少年。暇そうだねぇ」
 彼は眼鏡を押さえる仕草でなぜか顔を隠しながら、ため息をついた。
「暇ですねぇ。シーズンも終わっちゃって、幽霊のみなさまにお出ましいただくには少々寒すぎる季節になりましたしね」
「おいおい。霊はクーラーじゃないだろうが」
 とはいえ、夏に怪談が流行るのは背筋がうそ寒くなるからというのもあるだろう。寒い冬にわざわざ怪談話などして震えたいと思わないのは当然の人間心理だ。
 実際の霊にしても、出現すれば辺りの温度を下げる。幽霊談などというのは、虚実問わず夏向きのものなのだ。
「最近有機クーラーもあまり発動しませんしねぇ」
「有機クーラー?」
「ええ。たんぱく質や水分などの有機物で構成されたクーラーなんですが、オフィスにあるとしばしば心の底から寒ぅい気持ちになれるんですよ」
 滝川は、視線をゆったりと奥の扉に向けた。
 オフィスの奥には、作業用の個室が二つ扉を並べている。
 左は資料室、いつでも幽霊のようにぬぼっと存在する有機物が生息している。
 右は所長室、いつでも氷のような視線を振り撒く有機物が生息している。
「……どっちだ」
「あちらです」
 安原は誰かに気付かれるのを恐れてでもいるような動作で、そっと首を動かした。彼の目は右側を向いている。
「現在、僕らのアイドルが涼みに行っていらっしゃいます」
「お茶汲み娘は不在かい」
 滝川はどっかりとソファに腰かけた。
「麻衣ちゃんのコーヒーが飲みたくて来たのになー」
「僕でよろしければおいれしますよ?」
「越後屋のコーヒーにゃ何か入ってそうだから、やだ。麻衣ちゃんのコーヒーが飲みたい」
「ひどいっ。僕だって、谷山さんの紅茶を夢見ながらこうして待ってるっていうのにノリオったら!」
「だからそれ、やめろって」
 ひとしきり笑うと、安原は席を立った。
「本当に僕がいれますよ。さっき入っていったところなんで、当分出てきませんから」
「当分出てこないって、何してんの、あいつらは」
 SPR誇る優秀な有機クーラーと、常連たちに愛されるお茶汲み娘は信じられないことに恋人同士らしい。
 この事実に対し、彼らは『だと思う』という言葉を付け加えなければならない。もともと気安い仲ではあった二人だが、傍からは良くしても友達、百歩譲って兄妹止まりにしか見えない。
 暇なのをいいことに勤務中個室にこもって愛の交歓、などという想像は、あの有機クーラーの威力を知っている人間ならとても思いつくまい。
「最近、所長も暇らしくてですねえ。毎日なんですよ」
「だから何が」
「いっつも二人きりで、部外者シャットアウト」
 わざと気を持たせるように安原は言う。
「それで何を」
 さすがの滝川もわずかに眉をひそめた。
 安原のノリ、そして所長様の性格を知っているにも関わらず、である。
 安原は得たり、とばかりに微笑んだ。
「トランス状態の訓練だそうですよ。飽きもせずに」
 さらりと告げられたのは、何の面白みもゴシップ性もない、日常のお話だった。
 滝川は乗り出しかけていた体をソファの背に戻す。
 安原は真顔に戻って眼鏡をいじっている。
「……暇なんだな、お前も」
「ものすんごく、暇です」 

 夏の間は季節を逆に感じさせるほど寒い所長室だが、冬となればしっかり季節感ある温度を保っている。
 アメリカ生まれイギリス育ちの所長ナルは、日本の暑さが大変応えるらしい。所員に暑苦しいと言われ続ける黒服も体感温度上昇に一役買っているだろう。温度調整には向かないかもしれないが美貌を引き立てる黒一色の姿で、彼は優雅に腰かけていた。
 机の向こう側では、目下彼の部下であり個人的付き合いをしている女性でもある麻衣が、座る姿勢を模索している。床へ直に腰を下ろす際、短いスカートが気になるらしい。
「こうも毎日同じことをしてるのに」
 ナルはため息をついた。
「お前の脳は、ふさわしい服とそうでない服を判断することもできないのか?」
 麻衣は、きっと顔を上げた。
「だぁから椅子に座らせてって言ってるじゃない。こんなところに座ると服が汚れるんですけど、所長」
「へぇ、椅子に座るか? 落ちても助けないが」
 トランス状態に入った時、意識は外界から切り離される。椅子の上でバランスを保っていられるのは、平衡感覚の賜物だ。意識を失ったら、間違いなくバランスを崩して転落するだろう。
「助けないんかい」
「ああ、これはすみません。そもそも谷山さんがうまくトランス状態に入れたという実績がありませんね。今日も大丈夫でしょう。椅子を持ってきましょうか?」
「……あたしが思うに、ナルの椅子ならトランス状態になっても落ちたりしないはずだね」
 所長であるところのナルは、いわゆる社長椅子に腰掛けている。背中も肘掛も充分な幅とクッションを持っていて、確かに意識不明の人間でも受け止めてくれるだろう。
「僕に? ここを退けと?」
「うん」
 満面の笑顔。
「いい度胸だ。馬鹿なことを言ってないで、1度くらい実績を出してみたらどうだ!」
 麻衣は肩をすくめ、舌を出した。
 ダメでもともと、頼みというよりどちらかといえばジョークで言ったのだろう。ナルがどんな性格かは、彼女が一番よく承知している。
 余計なおしゃべりをあきらめたらしい麻衣は、ニットを脱いで足元を覆うのに使った。ニットの上から腕を回し、体育座りの体勢になる。
 麻衣の全身が緊張する。
 デスクの向こうから見守っているナルにも、それがはっきり見て取れた。彼女の指導霊であるジーンから習ったという、トランス状態に入る方法だ。
 彼女はこの方法でぶっつけ本番の浄霊をやってのけたが、その後トレーニングで何度やらせようとしても失敗ばかりしている。状況が緊迫してゆっくり集中どころではないと思われる時ほど、なぜか成功する。典型的な本番に強いタイプなのだ。
 どうせ今日もダメだろう、と期待はしていない。とりあえずおとなしく訓練に入ったのを見届けて、ナルは書類に戻る。
 人の気配が気になってはかどらないが、目を通したい書類はこのところやたらと少ない。だからこそ、暇つぶしにトレーニングを見てやっているのである。普段ならトレーニングをするべきだと思いついても資料室のリンや客であるはずの滝川に任せていただろう。言うなれば気まぐれか。
「……麻衣?」
 切りのいいところまで片付けてから、ナルは声をかけた。放置してから最低でも十五分以上経っている。
 返事はない。昨日までの例ならば、やっぱりダメだったと照れ笑いでもしてくるところなのだが。
(真実か、[ブラフ]か)
 今までの実績を皮肉ったところである。意地を張って答えないのかもしれない。どちらかといえば、その可能性が高い。
 ナルは、トンと書類を指で叩く。
「麻衣」
 ナルが背にした窓から、午後の光が注ぎ込まれる。
 麻衣の白いセーターが陽光に映えている。
 柔らかい髪に隠れた表情は見えない。どこかの世界にさまよっているのか、あるいは笑いをこらえているのか、はたまた眠ってしまったのか。
 機械をつなげて脳波を測ればすぐに分かることである。それを嫌がったのは麻衣だ。トレーニングだからと免除してやったナルは、充分に彼女を甘やかしていたと思う。
 何度か実験に付き合せたことはある。冷たい機械につながれている彼女は、ひどく緊張して見えた。ナルが誘導してやっても、実験は一度として上手くいかなかった。それが、機械を使わない表向きの理由だ。
「……最後のチャンスをやろうか?」
 ナルは立ち上がる。
 デスクを周り、扉のそばで膝を抱えている麻衣のところまでゆっくりと歩いていく。
 上から見下ろしても、彼女は肩を震わせることすらしなかった。
「……麻衣」
 返事は、ない。
 ナルは薄く笑んだ。
 床に膝をつき、彼女の頬に指を沿わせて髪をかきあげる。
 するりと顎に手を回し、そのまま持ち上げた。
 閉じたままのまぶたが、ぴくりと震える。頬に走る緊張は、意識のない人間ではありえない。
 笑い、彼は一方的に深い口付けを与えた。
「……んっ!」
 暴れる手足を押さえつけ、奥深くまで侵入してやわらかい唇をむさぼる。
「んーっ!? んんーっっ!」
 たっぷりと時間をかけた後、彼は嘘つきの部下を解放して冷たい眼差しを注いだ。
「で? 反論は?」
 赤く上気した顔でぜいぜいと息を整えると、麻衣はたまらないといった様子で盛大な叫び声を上げた。
「な、何すんだよナルのエッチーっ!」 

 滝川と安原は、コーヒーを傾けていた手を止めた。
「今、何か不穏な発言が聞き取れましたねぇ」
「何やってんだ、あいつら。仕事中だろうに」
 言い終わるかどうかというところで、資料室の扉が開いた。
 バタンッ! と、常連の滝川およびベテランバイトの安原ですら聞いたこともないような激しい音がした。
 そこから出てきた天井を突くような長身の男は、その身長に見合うだけのコンパスでずかずかとオフィスを横切る。
「お目付け役のチェックが入りましたね」
「あの度胸は尊敬に値するな」
 我関せずとコーヒーをすすり、傍観する滝川たち。
 ドンドンドン! という大きな音を立てて、所長室の扉が鳴った。
「ナル! 一体何をしているんですか!」
 扉はすぐに開き、弾丸のように二人の人物が飛び出してきた。
 と言っても、走っているわけではない。不機嫌さをあらわにした結果、歩幅が広がり、脚の動きが早くなっているだけである。早足で出て行った麻衣を追いかけるように、ナルが続いていた。
「言っとくけどね! そーゆーのはセクハラって言うんだよ、覚えときなよね!」
「へぇ。じゃあ言わせてもらうが、お前のやったことは立派な偽証だ」
「ちょっとしたお茶目じゃない!」
「仕事中だが?」
「その仕事中にキ、キ、キスとかしたのは誰よ!」
「この僕がわざわざトレーニングに付き合ってやっているというのに、くだらん意地で煩わせたのは誰だ」
 待ち構えていたリンもお構いなしで、外へ出て行こうとする。
 オフィスの面々は、ほとんど呆然として見送るばかりである。
 ずず、と安原が一人コーヒーをすすった。
「なぁんだ……キスですか」
 その言葉で我に返ったのか、リンがやっと声をかける。
「ナル! 嫁入り前の娘さんに何てことを!」
 彼も混乱しているようである。
 とっくにキス以上の、本来『嫁入り前の娘にしてはいけないこと』が指すだろうことをやっていると思われる男は、立ち止まった。
 そして、非常に不愉快げな、心外そうな目でリンを一瞥する。
「僕は、麻衣が一番看過できない行為を選択しただけだが?」
 完全に当たり前と思っている口調に唖然とする一同。
「あーっ! なんなんだよその嫌がらせ精神は!」
「当然の報いだと思うが?」
「腹立つぅーっ! ちょっと来なよね!」
「だから歩いてるだろう、さっきから」
 麻衣や、と声をかけたのは滝川だった。
「どこへ行くんだよ、二人で」
 ふんとナルは鼻で笑う。
「外に出るように見えないか、ぼーさん?」
 憤然として麻衣も胸を反り返す。
「喧嘩してくる。ここは一応オフィスだし」
「まったく、いい迷惑だ」
「あーらごめんなさい所長様」
「部下なら少しは言うことを聞いたらどうだ」
 カチャ、バン! すたすた。バタン!
 嫌味とじゃれあいを一対九くらいでブレンドした口論が遠ざかっていく。オフィスに残された人々に、それを黙って見送る以外の何ができただろう。
 嵐が去った。まさにそうとしか言いようのない状況だった。
 彼らに、自分たちの行動を分析する思考力は残っているのだろうか。
 しばらくして、リンがぽつりと呟いた。
「若いというのは、いいですね」 

 二人が向かったのは、ビルの非常階段だった。
 そこならばほとんど人が来ることはなく、他のオフィスの業務を邪魔することもない。肩を怒らせた麻衣が適当な場所まで来て立ち止まり、くるりと後ろを向いた。
 ナルは冷え冷えとした眼差しで見返してくる。
「もとはといえば、ナルが皮肉ばっかり言うせいだからね」
「仕事と私情を混同しないでもらいたいね」
「こちらこそ、仕事中のこととプライベートのことを混同しないでもらいたいよっ。言っとくけど! 部下のちょっとしたいたずらにキスで報復するなんて、セクハラだからね! 明らかに! しかも、あ、あんなディープなの……」
 麻衣は口ごもる。
 彼女たちが付き合ってそこそこの時間が経っているが、麻衣はいわゆるディープキスというものが苦手である。何しろ、恋人同士のキスがあんなに生々しいものだなんて、誰も教えてくれなかった。気持ちいいのどうのというより、ひたすら恥ずかしい。
 そういう麻衣の反応をよく知っているナルは、あっさり冷笑した。
「だからこその、報復だろう?」
「卑怯だっ!」
「せっかく機械測定を免除してやったのに、それを逆手に取るのは卑怯じゃないとでも?」
「確かにあたしは卑怯だった。でも、ナルの方がより卑怯だっ!」
「その判断基準はどこにある」
「あたしとナルの腹立ち具合を冷静に比べた結果」
「へぇ。冷静? お前が? それは知らなかったな」
 話し合いは、完全な平行線をたどる。
 麻衣はしばらくナルをにらみながら唸っていたが、ふといいことを思いついたようにニヤリとした。
 決して自分にとっていい結果をもたらさないだろう笑みに、ナルは思い切り眉をひそめる。
「……この報復は、やっぱりするべきだよね」
「ふざけるな」
 一言で切り捨てるナルに構わず、麻衣は彼のシャツの胸元をつかんだ。つかみあげる、というには少々身長が足りない。
 だが、それで充分なのだ。
 つかんだシャツを思い切り引き寄せ、仕返しもやはり同じようにキスで。
「……!」
 ナルの顔色が変わる。
 突き飛ばすように麻衣を離したが、彼女はにこにこと笑っていた。
 この上なく楽しそうに彼女が言い放った言葉は。
「ざまあみろ」 

 話を聞いた滝川たちは、暇に明かせて突っ込んでしまったことを心の底から後悔した。もちろん、ナルやリンはとっくにそれぞれの陣地へと帰っている。
「……で、麻衣ちゃんや。それのどこが報復になるのか、おじさんにも分かるように説明してくれんかね」
 麻衣は興奮した顔で、得意そうに笑った。
「いやーナルってさ、キスされんの嫌いなんだよね。自分からするのはいいんだけど、あたしからされるとすっごい嫌がるの」
「……へぇ……」
「にっがぁい顔してにらむんだよ。いい気味」
 朗らかに言って、麻衣は紅茶をごくごく飲んだ。
 やっとありつけた麻衣のアイスコーヒーを味わいながら、滝川はしみじみ言ったのだった。
「麻衣や、俺の知る限りナルは嬉しくてもにこにこ笑うやつじゃないと思うんだが」
「そうだね。それが?」
「どっちかというと、そういう時困って顔をしかめるんじゃないかね」
 麻衣の表情がなくなった。
 安原もまた、感慨深く言葉を紡ぐ。
「いやいや、谷山さん。日本には素晴らしい寓話がありますよね。いたずら好きの坊主が、嫌いなものは何かと聞かれて、『まんじゅうが嫌いだ』って答えるんです。坊主は実はまんじゅうが大好物で、上手いことたくさんのまんじゅうをせしめるんですよ」
「……何が言いたいんですか」
 滝川と安原は、二人して盛大なため息をついた。
「お前ら、どっちも嫌がってるように見えん!」

 

――I HATE YOUR KISS.

おしまい(汗)

 パソコン入れ替えていて発掘したSS

  1. Page Top
  2. Menu
  3. Home
mailto:alice☆chihana.net