体温計
ピッ、と体温計が鳴る。
それがあたしの眠りの、本当の終わりだ。
体温を測るのに5分もかかるこの子を、あたしは目が覚めてすぐ口にくわえなくてはならない。起きあがってもいけない。布団の中で体操して暇をつぶすなんていうのは、もっといけない。起きたばかりで何もしてないときの体温を計らなきゃ行けないんだ。当然ながら、とても眠い。
一応目覚まし時計の音で起きるんだけど、起きるとまず枕元に置いてある体温計に手を伸ばす。入れ物から抜いて、舌の裏に放り込んで、5分間。ついうとうととまどろんでしまう。ピッ、と音が鳴る、それが本当の目覚まし。
他の何を忘れても、これだけは欠かせない。毎日やらなきゃ意味がないからだ。今日の体温が測りたいわけじゃなくて、毎日の体温がどうなっているか表にしたいのだ。
あたしは「ピッ」を聞くと、5分間で頭に迫ってきた眠気を追いやるために、できるだけすぐ表の今日のところへ書き込みをしておく。表だってもちろんいつも枕元に置いてある。
「36.45……」
寝起きの体温はわりと一定している。これはいつもと大して変わらない体温なのだ。昨日の分も一昨日の分もその前も、36度半ば辺りに点が打ってある。先月の分をめくると、同じように打った点を、線を引っ張ってつないで折れ線グラフにしてあった。
グラフは、月末あたりを境にして上と下に向かって台形を作っている。
基礎体温、というやつだ。
あたしは伸びをして、思い切りよく足でタオルケットを跳ね上げた。夜もまだ蒸しているくらいだから、朝になると暑くてしょうがない。
とにかく窓を開けよう、と素足を畳についた。
「ハイ、こちらいつもの書類でございます」
あたしが差し出した封筒を、ナルはありがとうでもお疲れでもなく、ただ1つうなずいて受け取った。
少し……特別な顔してくれるかなって期待したんだけど。
少なくともあたしには特別だったんだけどな。
ナルとそういう関係になってから、初めての提出だったから。恥ずかしいから断っちゃおうかとも考えた。でもそういうわけにはいかないんだよね。これも仕事だから。
封筒の中には、あたしが毎日眠気と戦って付けている基礎体温表が入っている。ナルはそれを本国研究所へ送るわけだけど、本人が見てないってことはないと思う。
ナルにも仕事なんだってことだろうな。仕事に私情を挟むのはナルらしくない。
ちょっと拍子抜けで、ちょっと安心した。
あたしが基礎体温なんてものを付け始めたのは、3年前、高校3年の時だ。
彼氏はいなくて、別に病気もない。
基礎体温表を見ると生理の時期や排卵の時期が分かるわけだけど、多くの場合これは避妊に使うらしい。危険日を避けて、妊娠しないようにするの。
でもあたしの場合は違った。
ある日ボスが唐突に聞いたんだ。「基礎体温は付けてるか?」って。何かの調査の後だったと思う。
付けてるわけないでしょ? そう言ったら、「できれば付けてくれ」って。
昔から巫女さんや占い師なんかは生理の時期休暇を取っていたらしい。それは生理痛から来る生理休暇なんかじゃなくて、その時期彼女たちの持っている不思議な能力は格段に減少してしまったからだとか。
巫女さんは処女じゃなきゃいけない、っていわれたのと同じ理屈で、生殖に関することは汚れとされていたのだとナルは言った。
今でも女性の能力者研究に生理との関係は必須だそうで、ちゃんとした研究者に見守られてる女性能力者はほぼ必ず基礎体温を付けてるんだそうな。
つまり、安全日だの危険日だのとは関係なく、生理の時期を知るため。自己申告するのは正確じゃないし恥ずかしいから、基礎体温表を見て資料にするんだって。
そういうようなことをナルからざっと説明された。
それで、本国に送るから基礎体温を付けてくれないかと。あたしは、どういう風の吹き回しかは知らないけど、研究する価値のある能力者として認められたわけだ。
なんで他人に生理の時期を教えてやらなきゃなんないんだ、とは思ったけど、別途特別謝礼を出せるというナルの言葉に、あたしのかわいらしい羞恥心は吹っ飛んだ。
現金だというなかれ。固定収入は家計の要なんだ。
その月からあたしの給料明細の中に「謝礼」の2文字が入り、あたしは毎日体温計を手放さなくなった。
事務所の終業時間が間近になると、ふらりと真砂子が現れた。
普段イレギュラーズが集まるのはお昼前後が多くて、解散も夕方前になることがほとんど。夜まで人が残っていることは滅多にない。けれど、今日はあたしと真砂子で約束をしていたのだ。
「こんばんは」
「いらっしゃい、真砂子。もうちょっとで終わるから」
ソファで本を読んでいたナルが少し視線をあげる。お客が一段落してうるさい連中も来なかったから、安心してオフィスの方へ出てきていたのだ。
「今日、真砂子の家に遊びに行く約束してるの」
ナルの視線に応えてあげると、
「別に聞いてない」
と、けんもほろろの返答。
さよーですか。
「お茶でもいれるから、ちょっと待っててね。片づけちゃう」
「分かりましたわ」
真砂子のために日本茶、ナルに紅茶をいれてあたしは残りの仕事を適当にやっつけた。どうせお客のない時はあたしに重要な仕事なんて回ってこない。
真砂子を待っていたのだ。
「それで、話って何ですの」
真砂子の家で荷物を下ろして落ち着くと、真砂子は何の前置きもなしに本題をうながしてきた。
あたしは少しため息をつく。
話があると言って時間を空けてもらったのはあたしの方だ。真砂子にだけは話しておかなきゃいけないだろうと思った。真砂子だから。でも、やっぱり気が重い。
いや、緊張してるんだろうか。真砂子の反応が予測できなくて。
「ナルのことですの?」
核心をついてきた。
あたしは観念した。ナルを好きなことはとっくにばれてる。そして、真砂子は長年ナルが好きだったのだ。他の誰でもない真砂子に改まって話なんて、気が付かれても仕方ないだろう。
「あのね」
「ええ」
「簡単にいうと、うまくいった」
真砂子は理解できなかったように瞬いた。
「ナルと?」
「うん」
「好きって言われたんですの?」
「言うと思う?」
「思いませんわ。他の言葉では?」
「なーんにも。笑えるくらい」
「それなら、確実だと言えますの?」
思いきりよく投げられた疑問に、あたしはちょっと虚をつかれて真砂子のきれいな顔を見た。
どうして美形っていうのはこう躊躇なくきついことを言うかね。
ナルの白くて冷たい顔を思い出したけど、あたしは首を横に振って笑った。
「確かに、根拠はないけど。間違ってたらあたしが馬鹿なんだよ」
「もとからおっちょこちょいでございましょ」
「そうだけどさー」
「祝福しておいてすぐになぐさめることになるのは嫌ですわよ」
「そうなったら真砂子にはすがらないとお約束します」
「そうして下さいまし」
澄まして言った真砂子は、すぐ顔を和らげた。
「おめでとうございます、と申し上げさせていただきますわ。いいんですわよね?」
「うん。ありがと」
「あたくしのことを気にしてるんですの? それとも、あたくしに取られそうで心配かしら」
べーっと舌を出してやった。
「黙って取られてやるほど親切じゃないやい」
「あたくしはいいんですのよ。もう。……少しは、さみしい気がしますけれど」
そう言って真砂子が淡く微笑んだので、あたしは1つうなずいた。
譲ってあげることはできないし、真砂子ができなかったのにあたしはうまくいってしまったんだから、何も言えることなんかない。
真砂子は他に好きな人ができたと前に言っていたけれど、初めて好きになった人がいつまでも大切な気持ちはあたしにだって分かる。ナルは、真砂子にとってどんな時も特別な人なんだろう。それなのに、あたしと真砂子と、道は分かれていってしまった。
そのまま少し沈黙になって、真砂子は座卓の上にあった湯飲みを口に持っていった。
「……優しくしてくれます?」
ぽつりと言った言葉が静けさの中に響いた。
「してくれると思う?」
「思いませんわ」
あたしたちは少し笑った。
「どこまで行きましたの」
真砂子が何でもない口調で言うので、あたしは首をひねった。
「どこ……?」
「キスくらいできまして?」
飲みかけたお茶を吹きそうになった。そういうこと聞くかなー。聞かれる覚悟はしてたつもりだけどさー。
「えーと」
「あたくしの方がお付き合いを始めたのは先ですけど、そのくらいはしましてよ」
「おぉっと。してるんだ」
「ええ。21にもなってファーストキスですけど」
真砂子が女の子らしいことにこだわるので、あたしは思わず笑ってしまった。
「何がおかしいんですの。あなただってそうでしょ」
「そうです……」
「キスしたんですのね? ナルと」
「はぁ。……その先も」
こそっと言うと、今度は真砂子がお茶にむせそうになった。
「待ってくださいまし。付き合っているのは、いつからの話ですの」
「えーと……正確には、一緒にイギリスに行った時かなあ」
「そんなの数日前じゃありませんの! 早すぎますわ!」
「だよねぇ」
あたしたちは何となく2人して照れてしまった。
今まであたしこういう話に縁がなかったんだよね……。
咳払いをした真砂子が、突然まじめな顔で言う。
「避妊はしてるんですの」
「はい!?」
「その……大事なことでしょう」
「そ……だね」
そしてまた2人して照れてしまう。
「避妊かぁ……そういえばしてないな」
「言ってみるべきですわ。それで何もしてくれないなら、麻衣が何か考えるべきですわよ。まだ子供を作る気はないんでしょう?」
「うん」
「一生のことなんですからね」
何だか真砂子がそういう風に真面目に取り合ってくれるのが嬉しかった。
そんな話を寝るまでした。真砂子の彼氏の話とか。
真砂子はロケで知り合った普通のサラリーマンと付き合ってるんだけど、これがナルとは正反対と言ってもいいような誠実で優しい人らしいんだ。当てつけのようだ、と思ったりもする。でも幸せそうだった。
こうして進んでいくんだなぁ、と思う。
あたしは……それでもあたしは、毎朝体温計をくわえるちょっと不格好な毎日を歩んでいる。
その日の朝、かばんに体温計を入れた。
今日中には帰らないかもしれないと思ったからだ。
大好きな人の腕に抱かれることに、それでも躊躇もあれば怖さもある。
ナルとのセックスは優しい。
穏やかだと思うし、気を遣ってくれるのも感じる。キスを望めば静かに口づけてくれる。抱きしめていてほしいと言えばいくらでもそうしてくれる。甘い言葉だけはくれそうにないけれど、あたしを気遣う言葉ならいくつもくれる。
ナルと抱き合ったのはまだ2回、だからまだ優しいのかもしれないけど、きっと彼の性格なんだと思う。生真面目で、責任感が強い、彼の。
それで何が怖いのかは、自分でもよく分からない。
もしかすると、突然手のひらを返されるのが怖いのかもしれない。
それとも、それが女の本能なのかもしれない。
ナルの部屋で文庫本を読みながら夜が更けるのを待って、さりげない、紳士的な誘いに軽口を返す。
それは、嫌だからじゃない。その時が一番怖いから。緊張するから。
「嫌なら別に帰って構わないけど」
と、ナルはそっけなく言う。
「何にもなしに泊まっちゃいけないの?」
「どういう意味だ?」
「泊まりたいなら、エッチ……しなきゃダメ?」
ナルは少し驚いたような顔をした。
「そうは言っていない」
そして、眉をひそめて、
「迷惑なのは確かだが」
「……迷惑なんだ?」
「ベッドは1つしかないので」
それは、寝る場所がないと言うことだろうか。それとも、同じベッドにいられるといろいろ困るってことだろうか。
「で、嫌なのか?」
あたしはためらったことの言い訳を探して少し口ごもった。
「いや、その……ちょっと」
「何。生理中ではないだろう」
かっと顔が熱くなって、あたしは思い切りナルの胸を叩いた。ばちん、とけっこういい音がした。
「麻衣」
「そういうことは! 知ってても女の子にいうもんじゃないの!!」
「へえ、そう」
彼はそれでも殴られたことに納得がいかない顔をしていたが、構うもんか。
あたしの方は、それで有効な言い訳を思いついた。
「つまりね。ほら……何の準備もしてないから」
「は? 何か準備が必要だったのか?」
「……避妊」
ああ、とナルはやっと得心がいったようだった。
とっさに思いついたことだけど、これはこれで聞く必要があったから、いいだろう。
ふいとナルの目がそれて、ついていないテレビの方へ向いた。
「……準備なら、してるから」
「へ?」
困ったような表情になる目が、少し幼く見えた。
「前は、そのつもりもなかったから配慮を忘れた。すまない」
「ああ……うん」
前、そんなつもりがなかったのはあたしも同じだった。
本当にその場の成り行きだったから、そんなことを言って止めたらそれきりになりそうでどちらも何も言わなかった。ナルだけが悪いんじゃない。よくない話では……あるけど。
「今回は、そのつもりがあったんだ?」
恥ずかしくて、なんだか茶化してしまう。ナルは嫌そうな顔をして答えなかった。
「とにかく、そうだから。心配しなくていい」
「使い方知ってるの?」
「授業でやるだろう」
そういえば、やった。保健体育の授業で。
「そういえば基礎体温も測っていたな。併用すればほとんど100%妊娠しないはずだが」
「うん、そう。あたしはそっちだけ使おうと思ってたんだけど」
あたしは何かが胸にたまるような気分になって、うつむいた。
「……避妊、協力してくれるんだね」
「当たり前だ」
さらに嫌そうな顔になる。
「お前は母親になる用意があるのか?」
「ないけど」
「だったら当然だろう。感傷でどうこうしていいことじゃない」
そうだね。あたしはうなずいた。
あたしはほとんど片親に育てられた。それがどんなに大変なことか分かってる。不幸だったとは思ってないけど、おかーさんもあたしも、たぶん普通よりちょっと大変だった。
ナルとあたしは今のところ結婚するつもりがあるわけじゃない。それを、今の一時の気分で子供ができてもいいなんて、言っていいわけがない。あたしなんか、自分が生活するだけでもいっぱいいっぱいなのに、子供が育てられる自信なんかない。ナルを夫にするなんて、決心はまだとてもつかない。ナルだってそうだろう。
「……子供育てるって、簡単なことじゃないしね」
「そうなんだろうな」
「ナル、理解あるね。ちょっと意外だな」
「そうか? 本当の両親はいわゆるネグレクトだったから」
あたしは思わずナルの平静な横顔をまじまじと見てしまった。
ネグレクト……育児怠慢。それも、過度のものを言う。
あたしも孤児だったから、子供と親の問題については興味があって少し知ってる。ネグレクトは消極的な虐待だ。ぶったり蹴ったりするわけじゃないけど、たとえば食事を作ってやらなかったり、不潔な着物のまま放っておいたりすることで、子供の体はぼろぼろになって、最悪栄養失調などで死んでしまう。
孤児だったことは知っていた。
でも、本当のご両親がどうしたのかなんて……今まで聞いたことなんかなかった。
手を伸ばして。
ナルの少し細い体にしがみついた。
「何」
「あたしね、いつか子供が産まれる時は最高に幸せにしてあげたいな」
……しまった。この言い方では、ナルの子供が産みたいみたいじゃない。
そう思ったとき、ナルが苦笑するのが分かった。
「それはいいな」
ぽつりと、小さな呟き。
その時、この人を選んでよかったかも、と思った。
目が覚めると、とにかくまず体温計をくわえなきゃいけない。
いつもの場所に体温計を求めてぱたぱたと手を動かすと、畳が見つからず手のひらは宙に浮いた。
「はれ……?」
「何を探してるんだ?」
皮肉っぽい声。あたしは状況を悟り、慌てて目を開いた。
「お、おはよ」
「そろそろ起きろ」
「体温……基礎体温、測らなきゃ」
鞄はどこにおいたっけ? あたしが体を起こそうとすると、ナルに額を小突かれて枕に押し戻された。
「起きあがるなら、僕の目に触れないところで服を着てから、どうぞ」
「……照れてんの?」
かなりきつくにらまれた。
ナルは部屋の隅からあたしの鞄を見つけて持ってくると、あたしに許可を求めてから中を探って体温計を取りだしてくれた。
「舌下体温計……口に入れればいいんだな」
口に体温計の先を入れられたので、おとなしく舌の下にはさんでいつもどおり体温を測った。ナルのきれいな指が、そのまま軽く唇にふれてそこをなぞる。
「やめてよ」
あたしは舌っ足らずに文句を言った。
「体温が上がるでしょ」
ナルの目が少し笑った。
優しくしてくれます、と真砂子の聞いた言葉を思い出して、心の中で答え直す。『考えてくれるよ。ナルなりにね』。
こんな何でもない毎日。不格好でもこんな風に続いていくなら、それはきっととても幸せなことだと思った。