アリスのお茶会

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 喉の奥に封じ込めた、コトバ。
 コトバは出すためにあるはずなのに、コミュニケーション手段であってココロのカタチではないはずなのに、属性を無視したコトバは喉と胸の間につっかかっている。
 昔食べていた魚の小骨くらいに尖っているので、口から出すつもりもなく何度も生唾を飲み込んでやり過ごそうとしている。
 顔を顰めてばかりいるのはそのせいか。
 取れない痛みだとあきらめるには神経をこすりすぎる。

 3回目に呼ばれたのを無視したら、麻衣は「もうやめようか」と言った。

「なんかやっぱり、無理したってしょうがないよね」
「それでいいなら、好きにすれば」
「それだけ?」
「それだけ」
「簡単。シンプルだね」
「Simple is the best だそうだからな」
「違うな……。simple、じゃない。easy、なんだ」
「何が違う?」
「分からないなら、いいよ」

are you missing me? -unrequited love-

 simple - 単純。簡単。容易。または、飾り気のないこと。
 easy - 容易。易しい。または、安易なこと。

 言葉の意味は知っている。僕が麻衣よりもニュアンスを解さないなどということがあるはずはない。
 だが、その言葉を口にした意味が分からない。
 そもそも言葉は一種の暗号と考えることができる。
 何かを伝えるために、人は同じ暗号系を覚えている人間へ文章を渡す。渡された人間は、暗号を解読して自分の感覚に置き換え理解する。感覚そのものを受け渡しすることができないのだから、間にワンクッション入るのは仕方がないことだ。
 暗号を共有している人間たちは、本来名前もなくただ存在するだけの物たちに勝手なラベリングをする。付けられた名前を知らなければ言葉は通じないし、名前を知っていてもその物を知らなければやはり通じない。非常に条件の厳しいコミュニケーションである。言葉を話すとき、人は相手がその意味を解することができると期待した上で行う。分からないだろうと思えば指さすなり何なり、原始的なボディーランゲージで会話する以外にない。
 これが人工物の名前ならいい。パーソナルコンピュータはパーソナルコンピュータ以外の名前で呼びようがない。そう呼ばれる物の特徴と条件は明確に定められている。形態はせいぜい会社の数X数10であり、それは誰が見てもパソコンだ。
 形容詞の確定となると微妙である。麻衣が「simple(単純)」と言う。僕から見れば麻衣の行動の9割は単純極まりない。しかしさすがに幼稚園児が見れば「複雑」で理解しがたいだろう行動も時折見られる。麻衣の言う「単純」のレベルはどのくらいに設定されているのか、それが分からない限り暗号はぴたりとはまらない。本来名前もなく存在しているものに便宜的に名付けただけのものだから、本質を捉えることはできない。
 ところが、共通の暗号系を持っているがために、人はしばしば思いこむ。
 「この相手には暗号がすべて通じる」と。
 暗号の解読時に大きな歪曲が加えられていることを、忘れがちだ。

 3時になっても麻衣がお茶に呼びに来ないので、仕方なく僕は自分から出ていった。あの問答の後だから彼女がすでに帰ってしまっていることも考えたのだが、それは現実になっていた。僕に断らず早退したのは初めてのことだ。
「あの馬鹿は」
 オフィスでアイスコーヒーを飲んでいる2人の男に問いかけると、正面にいた安原さんが顔を上げ、手前にいたぼーさんが振り向いた。
「よっ、ナルちゃんお邪魔してるぜー」
「谷山さんならさっき携帯に電話があって、帰りましたよ。所長は事情を知ってるはずだけど一応謝っておいてくれという伝言です。これで分かりますか?」
「分かりました。安原さん、お茶をもらえますか」
「あ、これは失礼しました。今」
 安原さんが席を立ち、いつも麻衣がしているように給湯室へ姿を消す。
 僕はぼーさんのとなりに座った。いつも僕が座っている位置をぼーさんが占領している。僕がいない時は麻衣が座っていることが多いのだが、彼女がいない以上そこを空けておくと同じソファに安原さんと並んで座ることになる。それは話しにくいだろうから、この配置は当然だろう。
「なんかあったか」
 ぼーさんが前を向いたまま呟いた。
 僕は皮肉に笑う。
「ぼーさんには関係ない」
「そりゃそうだ。だが、愚痴の相手には最適だと思うぞ」
「へえ? 僕が、愚痴を言うと?」
「ついそう言っちまうだろう? ましてやリンになんか相談できるわけないよな。その点俺は部外者で、安全だぞ」
「必要ない」
「ことこれに関しちゃ、俺の経験値が上だ。それは認めるだろ」
「1つくらいは長所を認めてやってもいいけど、それを認めようか?」
「意固地だねぇ」
 ぼーさんの手の中でグラスが冷たい音を立てた。クーラーのきいたオフィスの中で、その音は寒々しい。
「なくさずに済むもんは少し努力してもなくさん方がいいと思うけどね」
「そうとも限らない」
「さっき麻衣の携帯に電話してきた相手な、大学の男友達らしいぞ」
 ぼーさんは僕の反応をうかがうようにこちらを見やる。衝撃を受けてほしいのかもしれないが、そんなものは存在しない。もうやめようと言い出した麻衣が何をしようが、僕の口出しすることじゃない。
 いや、どんな状況下であってもだ。麻衣の行動は彼女の自由で、僕の束縛すべきことではない。
「別に構わないが」
 処置なし、とぼーさんが両手を上げた。
 処置があるなら自分でそれを見つけることくらいはできるはずだ。僕に見つけられない解決策がぼーさんに見つかるなら、敬ってやってもいい。
 ぼーさんがポケットからマッチの箱を取り出し、僕の前に放った。
「今晩はそこにいる。気が向いたら飲みに来い」

 マンションに帰ると、郵便受けにキーが入っていた。
 僕は必要ないダイレクトメールと一緒にそれを拾い上げ、ポケットに入れた。麻衣はわざわざこれを届けに来たらしい。ということは、携帯に連絡してきたという男と会っていたとしても、それほど時間をかけずに別れたということだろう。
 彼女にキーを渡したのが1年近く前の秋で、以来麻衣は同居人のようにこの家へ出入りしていた。特に不愉快ではなかったが、それは彼女が細心の注意を払って僕の仕事を妨げないよう行動していたことに由来すると思う。
 ちょうど栄養が足りなくなってきた頃に、僕が空腹を覚えるより早く食事が並べられている。意識を飛ばして眠り込んでしまうと、ごく当然のように毛布がかけられている。
 母親か何かかあの女は。
 現在母親という立場であるルエラが昔同じようなことをしてきた時、僕はひどく混乱したのを覚えている。
 ある時、夜中まで本を読んでいることをしつこく注意されついには叱責を受け、僕はジーンから止められていたにもかかわらず威嚇のために手足を使わず本棚の本を床へなぎ落とした。当時僕らの能力は最高期で、ジーンの助けを借りなくてもそれだけのことができた。
 今では相手の意図くらい汲んで行動するべきだったと後悔しているが、とにかくその頃は能力を誇示することで自分の意志を通せることに有頂天になっていた節がある。孤児院の『先輩』たちから受けた屈辱を間違いなく自分の力で跳ね返せるという暗い快感に舞い上がっていたのだ。
 ほんの数日前に人が入った、新しい僕の部屋にはまだ少しの荷物しか置いていなかった。実家と孤児院にいる間に地道に集めていたわずかな本が、しつらえてもらったばかりの妙に大きな本棚から鳥が羽ばたくような音を立てて雪崩落ちた。
 僕の視線から誰の仕業か気付いたのだろう、ルエラは表情を凍らせた。
 今の対応次第で主導権を握れる――僕はその機をうかがって冷静にルエラを観察していた。
 『勝たなければ負ける』。それが当たり前のことだと思っていた。
 十数秒の硬直から解放されたルエラがしたことは、全身を震わせて息を吐き出すことだった。
「ああ……驚いた」
 そして、半ば感動したように空になった本棚を下から上へながめていった。
「話には聞いてたけど、サイキックパワーを見るのは初めてだわ。すごいものねぇ。その力で、これ片づけられないの?」
「怖くないんですか」
「怖かったに決まってるでしょ! もう脅かすのはやめて頂戴!」
 『怖い』ではなく、『怖かった』とルエラは言った。
 その力を使った僕が『怖い』のではなく、目の前で起こった超常現象が『怖かった』のだ。僕は半ば困惑していたと思う。
 物音を聞きつけたジーンがとなりの部屋から駆け込んできて、中の様子を見ると物言いたげに僕をにらんだ。
「ナル、いい? 物事には筋道っていうものがあるの。物を散らかしたら片づけなきゃいけないわ。悪いことをしたらごめんなさいと言わなくてはいけないの。それが嫌なら、後悔しなきゃいけないようなことは初めからしないこと。分かる?」
「もちろん、分かります」
「それで、片づけはどうするの? テレビみたいにサイキックパワーで片づけられるわけじゃないのよね……?」
「できません。僕が片づけますので」
「僕もやるよ!」
 僕はこれ以上の叱責を受けない内にと床にしゃがみこみ、本を拾って棚の端から並べ始めた。ジーンもあわてて僕の側に座り勢いよく本を放り込んでいく。逆さまになっていてもおかまいなしだ。文句を言いたかったが、ルエラの手前殊勝に拾って見せた方がいいだろうかと僕は内心考えていた。
 2冊目を拾った時、ルエラも目の前にしゃがみこんだ。そして僕の顔をじっと見つめるので、僕は大層困惑した。
 きちんと片づけている。自分の始末は自分でつけられる。だから口出しをしないでほしかった。
「ナル。それから?」
「何ですか」
「悪いことをしたらどうするの? あなたは悪いことをしなかったの?」
 顔をしかめる。確かにそうだった。僕は、こういったことへの免疫もなく特に間違ったことをしたわけでもない女性を脅しつけたのだ。
「……乱暴をしてごめんなさい」
 当然怒っていいはずのルエラは、その言葉を聞くとにこりと笑って床の本に白い手を伸ばした。片づけを手伝おうというのだ。
 ジーンが焦ったようにルエラを止める。
「ルエラ、いいんだ。僕たちがやるから」
「何言ってるの。3人でやった方が早いでしょ」
 何を言っている、はこちらの台詞だと僕は思った。
 孤児院の先生は自分のことは全部自分でやりなさいと言った。母親に至ってはそれすら言わなかった。僕の咎でやってしまったことの後始末をするのは、僕とジーンだけだったのだ。ジーンがやった時には当然僕が手伝う。そちらの方が圧倒的に多かった。利害関係の一致と考えればいいだろうか。
 文句も言わず片づけをしているルエラを見て、僕はなるほどと思った。手伝っていると言うことは、いつか必要があれば僕のできることを全部して恩返しをしろという無言の要求なわけだ。そう考えておけば僕の罪悪感も少ない。
 この恩は返すから、しばらく貸しておいてくれ。
 僕と同じようにルエラを見ていたジーンが、ふいに泣き出しそうな声で言った。
「ごめんなさい、ルエラ。僕たちを見捨てないで」
 僕は横目でジーンを見た。
 こいつは僕と違っていつか恩が返せるだけ立派になる自信などないだろうから、情にすがるのは仕方ないだろうなと思った。それがジーンのアドバンテージでもある。
 ルエラは柔らかく笑って僕とジーンの頭を叩いた。
「……大好きよ、ツインズ」
 ジーンがぽろりと涙をこぼした。

 なぜ!
 僕は心の中で叫んだ。
 好かれるようなことは何もしてない!
 因果関係の明確でないことは嫌いだ。法則性を見つけなければ自分の才覚で安全地帯を確保することができない。成り行き任せ、相手任せ、そういうことを憎悪している。
 いや……恐怖している。
 選択の自由もなくくだらない親の元に産まれ、捨てられ、選択の余地なく最低の孤児院に入った。力もなく流されるしか脳がなかったからだ。やっとここしばらくで、同情を得る方法を、力で圧倒する方法を学んだというのに、それが彼女には通じない。
 理由なく与えられたものを、どう受け止めればいい。手に入れる方法を知っていなければ失うかもしれない。
 何か返すことを無言で求められているのではないか。笑顔を見せるなりなつくなり。子供らしいかわいらしさでも。しかし今僕は笑いもせず仏頂面で謝っただけだった。
(それでなぜ好きだと言う? なぜ世話を焼く?)
 それが本当に好きということかもしれないね、と後でジーンが言った。
 返してもらえるから優しい気持ちになれるのは、誰に対しても同じだ。本当に好きな相手だから、返してもらえなくても好きだと思えるんだ。
 そして、たくさんの子供たちは、そういう本物の愛情を親から注いでもらって慣れているんだよ。うらやましいね。

 1人で帰ったマンションの部屋は、ひどく静かで落ち着ける場所になっていた。朝出勤する時にカーテンを開け放しておいた窓から青白い街の明かりと月光とがそそぎ込んでいる以外、特にうるさく目を射るものもない。
   強い光は目を壊す。
 用を為さないコトバは会話能力を混乱させる。
 なくても生きていけるものは、ない方が生きやすい。
 生きていくことだけに集中していれば、無力感もない。他人への責任もない。
   何のために話す?
 何のために笑う?
 それで辛くなっていることに、気付いているだろうに。
  (気付いたから、やめようと言い出したのか)
 そうか、とそこまで考えがいくと可笑しいくらい納得した。
 これほど単純明快な解に辿り着くのに、数分の時間を要した。筋道も推論もいらない、一方通行の結論だ。
(彼女は自由だ)
 これで自由になった、のではなくそもそも彼女は自由だったのだ。たまたま僕に愛情を向けていただけ、それが消えていっているだけ。何も与えられないのに束縛するなど、みっともないことはできない。自分のものにするということは、相手の全部に責任を持つことと切り離せない。そんな責任は負えない。
 彼女は自由だったのだ。
(そして、僕は自由になった)
 麻衣に振り回されるココロとコトバから、自由になった。

 ぼーさんにもらったマッチをゴミ箱に放って捨てた。
 ゴミの溜まらない家だからあれを片づけるのはいつになるのだろう、と空洞に落ちてやけに響くマッチの音を聞きながら思った。

 翌日オフィスに行くと、先に来ていた麻衣が振り返って「オハヨウ」と笑った。
「……おはよう」
「おおお、出血大サービス! こりゃ今日の運は使い果たしたな」
 麻衣がデスクから立ち上がると、1年前より少し伸びた髪が跳ねた。
「お茶入れるね」
「ああ」
「ここで飲む? 所長室持ってく?」
 ここで、と所長室で、が同時に口から出ようとして牽制し合って止まった。
 麻衣が返答をうながすように首をかしげる。
 麻衣をとなりにしてお茶を飲むのはごく自然なことに感じている。その習慣から出ようとしたコトバが「ここで」。
 今近くにいれば昨日の話題に気を取られる危険性が高い。とっさに働いた理性が選び出したコトバが「所長室で」。
 どちらが正しい僕の意見か。どちらのウェイトが重いのか。
 それが分かれば苛立つこともない。
 確実に3秒間は答えなかった僕に、まるで助け船を出すようなタイミングで麻衣が口を開いた。
「よければ、こっちで飲まない? ちょっと話したいことがあるんだ」
 不本意だが、その提案に安堵したことは認めざるをえないだろう。
「暇だから、どうぞ」
 麻衣が軽い笑いを残して小走りに給湯室へ向かう。疑問に思うほどフットワークが軽い。
(単純明快に生きればよかったのか、僕も)
 何となく苦笑がもれた。
(いくら麻衣でも昨夜は泣いたかもしれないが)
 いや、それは推論ではないだろう。直線的だからこそ、悲しい時には怖いくらい泣くのが彼女だ。
 悲しみを凝り固めて液体化したような、涙。僕はそれを癒すすべを知らず、ただ目の前で泣かれることでその単純さに気が楽になっているのを感じるだけだった。
「はーい、お茶です」
 目の前に紅茶の香りが飛び込んできて、僕は物思いから引き戻された。
 かがみこんでティーカップを置く麻衣の顔をさりげなく観察したが、とりあえず涙の跡が目につくことはなかった。今日は化粧をしてきたようだからどちらとも判断はつけられない。
「それで」
 麻衣はこの1年2人きりならとなりに座ってきたが、今日は当然の顔をして向かい側に回った。
 僕にうながされて、彼女は軽くうなずいた。
「お休みをもらいたいんだけど」
「いつ、どのくらい」
「来週の真ん中辺りに、2日くらい。日にちはいつでもいいんだけど」
「特に仕事もない。どうぞ」
「うん、ありがと」
 話があるというほどのことでもなく、あっさりと沈黙がやってきた。立ったままでもできる程度のやりとりだ。
 ふと、麻衣が苦笑した。
「ナルってさー、休むって言っても絶対理由聞かないよね」
「興味がない」
「興味云々じゃなくて、普通仕事なのに無条件で休ませたりしないでしょー」
「忙しければ断る。それは無条件と言わないだろう」
「まぁ、それは確かに。うんとあれだね、イエスかノーなんだな」
「他に何がある」
「だから、条件つきイエスと条件つきノーだよ。ナルがノーだと思ったら無条件でノーなの。交渉の余地なし。その代わりイエスなら無条件でイエス」
「イエスかノーで訊かれているんだから、当然だな」
「そうかなぁ?」
「訊かれている内容は、僕が休日を許可できる状況にあるかどうか、だろう。麻衣は休みが欲しいという要求を言ったが、これは僕の意見を求める発言じゃない。こういう要求があるが、不都合がないかと訊いたんだ。許可できるならできるわけだし、できないならできないに決まっている。何の疑問が?」
「……単純すぎてよく分からん」
「お互いの都合を言い合っただけ、ということ。そこからどうするかはまた別の問題」
 麻衣は難しそうな顔をして腕を組んだ。
「……要するに、ナルは考え過ぎなんだよね」
「どこが?」
 僕は眉をひそめた。
 条件を付けた返答を期待する麻衣と、単純な主張を述べる僕とではどちらがシンプルな考え方なのか。
「何もさぁ、訊かれたことにばっちり答えなくても、感想を言えばいいんじゃないのかなぁ? 機械に聞いてんじゃないんだから」
「訊かれたことに答えなくてどうする」
「うん……なんか、うまく説明できないな。何か聞かれたらそれについて思ったことを返す、ってあたしには当たり前なんだけど。どっちも当たり前っていうのは、考え方の違い、かな?」
「かもな」
 イエスかノーで聞かれれば、イエスかノーを返す。感想を聞かれれば感想を返す。感じたことを答えさせたいなら、感じたことは何かと聞けばいい。それは当たり前のことじゃないのか。
 なるほど、彼女の考え方には因果関係というものが確立していないのだ。日常生活に不自由するほど勝手な考え方をしているわけではないようだが、完全に問いと解が一致した行動をしているわけでもない。
 突然麻衣の携帯電話が音を立て、彼女は僕に一言断ってから席を立った。
 給湯室に入って通話を始める麻衣を見送って、僕は所長室へ行くことにした。
「あ。……くん?」
 男の名前だな、とごく短い間に思う。
「あのね、来週休み取れたよ」
 所長室の扉が開いて閉まるまでの間、それだけの言葉が聞こえてきた。
 来週の休みというのは、人と出かけるために取ったらしいと推測できた。
『休むって言っても絶対理由聞かないよね』
 聞けばやめたのか、止めればやめたのか、と思考の表層的なところで考えた。
 望まれていたかもしれない時聞かなかったものを、今さら言っても始まらない。

 扉が閉まって、僕は当たり前の日常に戻る。

 壊れつつある関係に彼女が何を思っているのか、僕には分からない。
 築いていた関係に彼女が何を思っていたのかすら知らないのだから、分かるわけがない。
 彼女が僕を好きだと言った。
 理由は知らない。
 それがどんな感情に名前を付けられたものなのか、知らない。
 僕の考える因果関係からは一足飛びに飛んだところにある彼女の事情だから、僕の思考で追えるものでもない。
 優しくした覚えもないし、好かれる努力もしていない。どうやってその状態を獲得したものだったか、因果の糸は途中でぷつりと切れて、なぜか続いていた。だからたぐりよせることは叶わない。与えて与えられるものではない。
(だから、帰結の明確でないことは嫌いだ)
 突然手に入って、また突然失おうとしているものに困惑しながら、僕は椅子に腰かけて書類を取りだした。
 ページをめくる一瞬の空白にふと思った。
 僕の感情は言葉で表すなら、こうだろうと。

 unrequited love ―― 報われない想い

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