アリスのお茶会

  1. Top
  2. GH Home
  3. Novel
  4. サンクチュアリ

サンクチュアリ

 夢を見た。
 しとしとと、雨。
 色とりどりの傘の水玉模様。
 やわらかい灰色をした雲がいっぱいの、空。
 遠くに見える煙突も今日は沈黙を守る。
 ひっそりと静まって人々が歩いている。
 通り過ぎるタイヤの跳ねる水のしぶき。
 すべてが雨の音。
 メトロノームのような雨の音。
 雨。
 雨。
 雨に護られた、サンクチュアリ。

 夢から覚めると、現実の朝はやけに静かに思えた。
 麻衣はゆっくり体を起こし、カーテンを開けに立つ。
 カーテンに隠れていた空はうっすらと曇っていて、どこまでも灰色が続いていた。その雲に隠れてどこかに昇った太陽が光を放っている。空は光るように明るく、町全体に朝独特の静かな明るさをなげていた。
 眠りに半分後ろ髪を引かれて現実に対応しきれずにいるから、朝はいつも静かに感じる。うるさい雨の夢から覚めて、その静けさが際だって思えたのだろう。
 仕事に行かなくては、と麻衣はぐしゃぐしゃ頭をかき混ぜながらテレビのリモコンを叩く。振動するような音がしてテレビの電源が入ったが、それはひとまず放っておいて布団を片づけた。短い時間で出かける支度をしてしまわなければならない。
 台所にゆうべ作っておいた味噌汁と、夕食の残りの煮物がある。耳だけをテレビが流すニュースに向けておきながら、麻衣はガスをつけて鍋を温め始めた。いつも、朝食ができるまでの時間で着替えをすましてしまうのだ。
『……の、大型台風が関東一帯を直撃します。今日はお出かけにならない方が安全かもしれません』
 麻衣は思わずタンスに伸ばしていた手を止めた。しかし、そう言われても仕事に行かないわけにはいかないのだ。肩をすくめて着替えを引っぱり出す。
 予知夢のように雨の夢を見てしまったな、とも思った。
(台風かぁ……)
 傘を忘れないよう頭に刻んで、麻衣はため息をつき、パジャマのボタンに手をかける。

 ――雨は嫌い。
 と、聞くもののいない呟き。

「信じらんないよ、なんでこりないかなアンタっ!」
 怒鳴りざま麻衣が勢いよくスープ皿を取り上げると、怒鳴られた方の男は平然と顔を上げた。
「まだ言っているのか?」
 彼の無表情は、怒られている態度としては決してふさわしくない。
「あったりまえでしょ、あんたが理解するまで言うよ。説教っていうのはそのためにあるんだよ、知ってた?」
「それは知っていたが、麻衣が僕に説教できる身分だとは知らなかったな」
「なんだと?」
「……わかった、と言っているんだが」
 うんざりしたようにナルは言うが、そんなことで麻衣の怒りは収まらない。
「反省だけならサルでもできるんだよっ」
「サルが反省できるわけはないと思うが……?」
 本気で困惑したように言うナルに、麻衣は、反省できるサルは著名な次郎くんだけか、と気付いたがそんなことをいちいち説明するのもしゃくに思えた。
「日本じゃ有名な言葉なのっ」
 その一言で済ませて、ぷいと横を向いた。
 テーブルから下げてきた皿を手に、麻衣は台所へ足を向ける。勝手知ったる他人の家、だ。
 そうして麻衣が背中を見せてしまえば、ナルはそれ以上何も言ってこなかった。こちらが退いてくれるなら好都合で、食い下がる気などないと言うことだろう。
 麻衣はいらだちが募るのを感じ、乱暴な動作で皿を洗いにかかった。
 なぜ上司の食事の面倒まで見てやらなければならないのだ、などとはすでにあまり疑問に思わない。問題は、健康のために最低限必要な手助けすら拒もうとする彼のわがままさにある。
 ガス台の火を止め、煮物をひとつつまんで出来を確かめると、麻衣は鍋にふたをして手を拭きながらリビングへ戻った。
 他にできることはないか考えつつ麻衣が辺りに目をやると、オフィスにいるときと変わらずいつも通り本に目を落としていたナルが、麻衣の気配に気付いて視線をよこす。
「麻衣、もういいから帰れ。何時だと思ってるんだ」
「終電あるもん。まだ帰らない」
 ナルはやたらに重たそうなため息をつく。
「いつまでいるつもりだ?」
「あたしの気が済むまで」
「迷惑だ」
 身も蓋もない言いように、今さら腹を立てる隙間もないほど麻衣はいらついている。
「そう? あたしに世話焼かれるのが嫌なら、イギリスからリンさん呼び戻す? 事情話せばきっとすぐ来てくれるよ?」
 ナルはその言葉に秀麗な眉をひそめる。
 それはそうだろう、と麻衣は思う。今回リンが日本にいなかったのはナルにとって大変な幸運だったに違いないのだから。ナルは、彼の助手という立場にあるリンを信頼しつつも、お目付役としての彼に一種の軽い疎ましさを感じているようなのだ。
 そのリンがいたなら大目玉を食らっていただろう事件は、昨日まで続いていた調査の際にあった。
 ナルは、なりゆきでPKを使ってしまったのだ。
 ナルのPKは彼自身の命を危うくする。そのことにやきもきしているのは本人よりいつでも彼の周りにいる人間の方だ。一触即発で彼の心臓を止めてしまう、ひやりとするような刃。誰もが彼のPKを警戒している。
 ナル自身がけろりとしているのがまた嫌になる。
 麻衣にしても、無事だったからこそ怒ってもいられる。今回は大したことをしたわけではないから、気軽に世話を焼きに来て、それで済んでいる。だが、もしかしたら今頃彼は死んでいたかもしれないのだ。
 せめてオフィスに出てくれば、まだいい。
 オフィスでは麻衣が四六時中近くにいるから、引きずっても脅しても昼食そして夕食に連れ出す、ということができないではない。私的付き合いを相当に嫌うナルではあるが、最近ではその程度の付き合いはできていた。長年の努力が実ったのか、はたまたお互い成人もして多少は大人になったのか。
 だが、今日のように仕事を休んで家に引きこもられてしまっては、手が出せない。
(死んでほしくないと思うから、しているだけなのに)
 しかしナルはそんな麻衣の気遣いを拒んで顔をしかめるのだ。
「早く気を済ませて帰ってくれ。邪魔だ」
「仕事の邪魔はしてないでしょう。世話くらい焼かせて」
「そこにいられるだけで充分邪魔なんだ。帰れ」
「いや」
 麻衣は半ば意地になって言い放った。
「どうせちゃんと健康管理してって言っても聞いてくれないでしょ?」
「そのくらい」
 できる、と言いかけたナルの言葉に構わず麻衣は続ける。
「どうせ止めたってまた夜中に仕事するんでしょ? それで具合悪くなったってオフィスこれ以上休まないでしょ? また何かあったらPK使って、あたしたちを死ぬほど心配させるんでしょう。何にも分かってない。あたしたちがどれだけ心配してるのか、ナルは全然分かってない。世話くらい黙ってさせてくれたっていいじゃない!」
 無表情な冷たい瞳が、一気に吐き捨てた麻衣を少しの間黙って見つめた。その静かなことと言ったら、正論を述べたはずの麻衣の方が居心地悪く感じ、わずかにたじろぐほどだ。
 やがて何でもないことのように口を開き、ナルは返事にならないようで明確な返事となる言葉を綴る。
「帰れ。お前には関係ない」
 麻衣は思わず彼が悠然と座るソファを蹴りかけた。自制したのは、少しでも大人として理性が残っていたからだ。
「……ええ、どうせ赤の他人でございますから」
 ことさらに丁寧に言い、麻衣はソファの、ナルから離れた位置に置いてあった自分の荷物を素早く取り上げた。
「帰る。お邪魔しました」
 ナルは何も言わない。引き止めるそぶりも全くない。わずかな期待もあっさりと裏切られて、麻衣は言葉通り玄関に向かってきびすを返さざるを得なかった。こうなれば後のことは彼女の知ったことではない。そう思って台所に作りおいた料理のことも口に出さなかった。
 しかし、麻衣が玄関で履きにくい紐靴と格闘していると、無言のままリビングから出てきたナルがとなりで自分の靴を取り出し始める。きょとん、と麻衣は彼の静かな横顔を見上げた。
 視線に気付くとナルは嫌そうに眉をひそめた。
「……何だ」
「こっちのセリフ」
 ナルはため息混じりに自分の腕時計を示す。終電まであといくらもないような時間だ。
「何時だと思ってる」
「送ってくれるの?」
「駅まで」
 少しうつむいて靴紐に視線を戻すふりをしながら、麻衣は気付かれないよう小さな吐息をもらす。
(こういうところが、ナルはずるい……)
 後から来て先に靴を掃き終えてしまったナルが、立ち上がって麻衣を見下ろす。
 その視線を意識しながら、それにしても考えの読めない行動をとる人だ、と麻衣は思う。しかしおそらくそこには悪意も故意も存在せず、ただ仕事以外のことを深く考えていないだけなのだろう。
 最後の蝶々結びをしナルのとなりに立った麻衣は、さも今思い出したかのように、あ、と言った。
「料理、作り置きしてあるんだ。たくさん作ったから、あっためて食べて」
 瞬間ナルは懲りないやつだと言いたげな視線を麻衣に投げてきたが、結局あきらめたように小さくうなずいた。
 彼の開いた扉の外、マンションの廊下の向こう側では、豪雨がすべての音を消し去るように荒れ狂っていた。

 ――雨は嫌い。
 と、聞こえないように心の中の呟き。

 台風が来ます、台風が来ます、とテレビはやかましく言っていたのだ。
 たまには言うことを聞いておくべきだったかもしれない、と半ば呆然として半ば自嘲気味に麻衣は胸の内で呟いた。いくら台風と言えど仕事を休むわけにいかなかったのだから、仕方ないことではあるのだが。
 目の前を途切れない雨の筋が塞いでいる。
 傘を無用の長物にしたのみで飽きたらず、使い物にならぬまで破壊した怪物的雨が、町を覆い尽くしている。まるで夢に見た豪雨のごとく。
(雨の町は苦手)
 麻衣たちが雨宿りした軒の前を、深夜だというのに何人もの人間が走り去っていく。あるいは手をかざし、あるいは果敢にも邪魔にしかならない傘をかかげて。闇の中、水を跳ねて抜けていく車のテールランプだけが、雨の隙間にかすかに赤い。
 ただ、水の音だけ。
(誰も顔が見えない。誰も周りを見ない)
 雨が沈黙を作る。人を1人ずつ孤立させていく。
 こちらに注意も向けず駆け抜けていく人々のまとった服の色だけ、目に残る。
 雨の音。沈黙の音。
(雨は嫌い……)
 となりに立った朴念仁はさっきから何を言うでもない。疲れているのだろう。麻衣もあまり話したいとは思わない。ただこんな雨の中に連れ出すことになって悪かったな、と少し思う。そして、2人きり雨の町に取り残されているのにこの沈黙は重すぎる、とも、思う。
「時間……終電、終わったね」
 濡れた時計を見ながら、麻衣は沈黙を断ち切って呟く。
「帰っていいよ、ナル」
「……帰ってどうするんだ」
「どうって」
 ナルの低い声は、間近にいたからとても体に響いた。その距離感に麻衣は少し驚く。
「寒いでしょ」
 これにはまた沈黙が返ってきた。
 先ほどナルのマンションを出てまっすぐ駅に向かったとき、すでに電車は止まっていた。全線不通、の放送の前にどうしようがあっただろうか。そもそも終電間際の時間だったのだ。
(そりゃああたしだってこんな台風の中運転すんのヤダしな……)
 すぐにタクシーを拾いに出たものの、これは満員御礼でまったくつかまらない。タクシー会社に電話しても、いつ回れるかわからないとひどくつれなく言われただけだった。
 しかし歩いて帰るには少々遠すぎる。いくら夏の名残の熱気があるとはいえ、濡れネズミで雨風にさらされ続けて夜の町を歩けば、いくら丈夫な麻衣でも風邪を引くだろう。
 そう思っていたら麻衣より先にとなりのナルがくしゃみをした。
(……珍しいものを見てしまった気がする)
 今声をかけたら嫌がられるだろうか、と思いつつも麻衣はおそるおそる彼の顔をのぞき込む。ただでさえ彼は今PKのせいで体力が落ちているはずなのだ。
 ナルはのぞきこんだ麻衣の視線に目を合わせようとはしなかった。
「……ねぇ、やっぱり帰って?」
「僕の気が済むまでいる」
 どこかで聞いたセリフに麻衣は頬を膨らませた。
「『迷惑だ』よ」
 ナルは町の方に目をやったまま、かすかに笑った。
「これでナルが具合悪くしたら、あたし何しに来たかわかんないじゃない。これ以上役立たずになりたくないよ、あたし」
「その格好で放り出すわけにはいかないだろう」
「あ、ちょっとセクシーすぎ?」
 濡れて体に張り付いたシャツに目を落とし、麻衣は茶化して笑う。
「呑気もそこまでいけば立派な馬鹿だな」
「うるさいやい」
 ナルは笑わない。もとより冗談を言う男でもない。
 麻衣は少し戸惑って目をうつろわせた。急に自分が女だと言うことを意識した。
「麻衣はどうするんだ」
「あ、予定通りここでタクシー待ち」
「泊まっていくか」
 振り向いて見たナルはいつも通りの横顔を見せ、吹き荒れる雨をながめている。
(……それは、まずいんじゃないの)
 わずかに、麻衣はうなずいた。それから見ていないかなと思い返事を呟いた。
「……そうする」
 嵐が来る。
 人を、ひとりきりにする嵐が来る。

 マンションに戻ると、麻衣はバスルームに押し込められた。ここは素直に感謝してシャワーを借りることにする。
 冷えた体になんとか体温が戻ってくる。
 ざあざあ叩きつける水を浴びていたら、まだ雨の中にいる気がした。
 外の音は聞こえない。自分も見ようとはしない。ただ無防備な裸でぼんやり立っているだけ。
(……結局、何もできないで迷惑かけっぱなし、か。先にシャワー借りちゃったしな)
 こんなに小さな弱い体で、何もできるわけないのだ。
 圧倒的な雨の中で、そう思う。

 濡れた髪を梳かしてかき上げていたら、見慣れない鏡に映っている自分を妙に意識してしまった。麻衣は髪の隙間から現れた細い首筋をそっと押さえる。
(どうして、泊まるかなんて平静に言えるの)
 考えの読めない上司に心の中で呟く。
 彼はさっき『女』に対する態度を取っていた、と思う。それなのになぜ泊まるかなどと言えるのか。
 大きく首を振り、麻衣は借りたパジャマを何とか着こなした。一回り体の大きいナルのものだから、麻衣には大きすぎる。空きすぎた胸元は努めて気にしないようにした。
 リビングに出ていくと、男は何事もないかのように相変わらずソファで本を読んでいた。
 その横顔があんまり平坦なので、麻衣はため息をついた。それで気付いたのか、ナルは顔を上げて麻衣を目にとめる。
「さっさと寝るんだな」
「……お茶でも入れるよ」
「結構だ」
 にべもない。
 その綺麗な顔を見つめながら、彼はいつもこうだ、と麻衣は思う。人の好意を拒む。誰かの、何かをしてあげたい、という気持ちはいつも彼に向けられているのに、彼はそれを受け取ろうとはしない。彼には彼なりの考えないしスタンスがあるのだろうと思う。
 だが、それは相手そのものを拒むことに近く感じられる。
「……となり、座っていい?」
 短い沈黙のあと手で軽く横を示されたので、麻衣は少し間を置いてとなりに腰掛けた。革張りのソファがぎゅっと音を立てる。ナルがわずかに視線をよこし、また本に戻る。
 ガラスのテーブルの上では閉じられたパソコンが場所を取っていて、その周りを大小のファイルが取り込んでいる。何も書いていないレポート用紙も広げられていて、その上には万年筆が転がされていた。
 オフィスを休んで何をしているのかと思えば、別の仕事をしていただけらしい。PKのせいで具合が悪かったと言うより、それを口実にして喧噪から家に逃げこもっていたのだろう。
 ちゃんと休みなよ、という言葉を言いかけて麻衣はそれを飲み込んだ。もうその問答はやり疲れた。どうせ聞きはしない、いや聞くだけで実行はしないに違いない。
(ナルはきっと……理解だけはしてる)
 麻衣やリンがしつこいほどに注意している内容も、麻衣が怒った理由も、それが心配や好意に起因することも。しかし、彼には崩す気のない価値観があり、変える気のない態度がある、そういうことなのだろう。それは余計に質が悪い気がした。
 ひっそりと麻衣が目を伏せたとき、ナルが珍しく逡巡した声で言った。
「お前は、なぜ」
 振り向いたナルはひどく深い色の目をしていた。
「何?」
「……いや、いい」
 麻衣は続ける気もなさそうに打ち切られた問いに目を瞬く。
(なぜ……?)
 なぜ、さっさと寝ないのか?
 なぜ、彼の誘いを断らずここについてきたのか?
(あたしは、なぜ)
 その問いが先ほど麻衣が彼に対して抱いていた疑問とひどく似通っていることに気付き、麻衣は呆然とした。麻衣は彼を男として意識していたのに、なぜついてきたのか?
 その疑問は麻衣の心を乱した。
 なぜ、こんなことになっているのか。
 自分の心に戸惑いながら努めて普通に、麻衣は当たり障りのない話題を持ち出す。
「……テレビがあるんだよねー。ちょっと意外。何見るの?」
 無視はされなかったが、返答は一言だった。
「ニュース」
「それだけ?」
「そう。……リモコンならそこ」
 特に見たいわけでもなかったが、手持ちぶさたなので示されるままリモコンを手に取る。
 他愛もないバラエティー番組を見つけて、小さな音にしてしばらくぼうっと見ていた。テレビの音に集中して、しばしうるさいくらいの雨の音が麻衣の耳から遠のく。
 何も言わず、ナルはじっと本に目を落としている。麻衣は時々テレビから目を離してそれを横目で見ていた。
 口を開くきっかけは、結局番組がひとつ終わったあとになった。
「本さ」
「本?」
「本、さっきから全然進んでないよ。……何、考えてる?」
 パタン、とナルは本を閉じた。簡単なその動作に、やはり読む気がないらしい、と麻衣は思う。
「ジーンのことを」
 麻衣は思わず目を見開いた。
 まじまじと見つめる麻衣に少し目をやって、ナルはソファにもたれた。
 ジーンのことを思い出していたことではなく、ナルがそれを口に出したことが驚きだった。
「あいつがいれば、こんな面倒な事態にならずに済んだ」
 自嘲するような響きが麻衣の耳を打つ。それがどういう意味を持つのか、麻衣には分からない。
「……それって、PKで具合悪くしたこと? それとも、あたしを泊めるハメになったことでしょーか」
「どうとでも」
 言って、彼は口の端に小さな笑いを浮かべる。
 この柔らかい態度は何だろう、麻衣は半ば呆然とする。
 放送終了の映像を流しているテレビを切った。部屋に、沈黙と激しい雨の音がふたつながら流れる。
 そうしてジーンのことを、麻衣もまた思う。
 彼女が初めて恋をした少年のことを。
「あたしね、雨の日って好きじゃない。みんなうつむいてて雨の音ばっかりうるさくてさみしいから。兄弟とかいたら、さみしくないかな?」
「ジーンはさみしがっていたようだが」
「雨に閉じこめられたみたいじゃない。なんだか、さみしいよ」
「そう言っては抱きついてきた」
「そっか」
 軽く笑いをこぼしながら、麻衣はナルを見つめる。
(どうしてそんなに静かに話すの?)
 いつになくナルは問われるまま昔の話をする。
「やっぱり、似てたのかなぁ、あたし」
 これには嫌味のない沈黙が返ってきた。
 麻衣は顔をうつむけた。
(ナルも、時には寂しいと思うだろうか)
(昔、抱きしめてくれる人がいた雨の夜に)
(あの、本当にあたたかかった夜に)
 窓の外には雨。うつむいた人々、今日ばかりは静かに思える車の音。
 窓の内には、雨に閉じこめられていた部屋。
 自分と、それから……あの、尊いあたたかさ。
(『関係ない』他人じゃなく、何になれば、あたしに『何か』ができるの?)
 昔ジーンがナルに与えていただろう極上のあたたかさを想う。
 棘のない静けさが、なんだかもどかしかった。
 PKよりももっと負荷をかけているものにも、やはり何もできない。どうにもできないのがもどかしすぎたから、こうして世話を焼きに来たのに。
(不思議……ジーンの話をしてるのに、ナルのことの方を考えてるなんて)
 おかしいのは自分もかもしれない、と麻衣は深く思う。
「……寝ないのか?」
 再び聞いてきたナルのその口調は、どこか静かに響いた。
「寝るってどこで?」
「ソファがあるが?」
「ベッドもあるよね、当然?」
「床も充分広いけど」
 うそぶきながらナルは立ち上がって奥の扉を開き、麻衣に視線をよこした。
「何?」
「こっちが寝室」
 麻衣も立ち上がり、示された部屋に入った。
 扉とちょうど向かい合う位置にある窓にかかったカーテンの向こうから、激しく雨の音が入り込んでいた。部屋の中央には大きめのサイズのベッドがひとつ。ベッドの脇に小さなタンスがひとつ、作りつけのクローゼットが右手の壁際にひとつ。
 片づきすぎるくらい片づいた殺風景にも思える部屋がナルらしかった。
 ベッドサイドの引き出しから自分の分の着替えを出しているナルを、麻衣は扉の脇に立ちつくしたまま見ている。そして小さくこぼす。
「このまま寝るの?」
「そうなんじゃないのか」
「……うん、たぶんそうだよね」
 ナルだけではない、自分の声もあまりに平静で、麻衣は逆に体の中だけが沸騰するように動揺しているのを感じていた。
「すごい雨……」
 うるさいような、うるさすぎてひとり孤立するみたいな、好きじゃない、嵐。ひどくうるさい、動悸。
 麻衣は立ちすくむようにその場を動けずにいた。
「外の音が何にも聞こえない」
「だからといってさみしいというのは理解できないが」
「ひとりでも平気?」
「当たり前だな」
「いつでも?」
「そのつもりだ」
「そう」
(他人じゃない、何になったら……)
 兄弟にはなれず、親子にもなれない。関係ない? その通りだ。
 白い壁にスイッチを見つけて、麻衣はそっと近寄った。
 パチリ、という軽い堅い音とともに、瞬間視界が真っ暗になる。闇が降りて、ただ、雨の音。
 麻衣はほとんどにらみつけるように暗闇に沈んだ壁を見ていた。リビングから来る灯りが目を慣らすまで、そうして黙っていた。
「何のつもりだ?」
「それを聞く?」
 部屋に背を向けた体の後ろに足音を聞いて、麻衣は少し身をすくめた。
「……怒らないの?」
 左手にある扉から来ていた灯りが急に細くなり、消えた。
 扉が閉められたのだと分かり、振り向こうかと思った時、肩に軽く腕が回されたのを感じた。
 麻衣はどこかほっとしてうつむいた。泣きそうになった。

 かすかに、麻衣は震えた。
 熱い吐息がふたつ、決して寒いわけがない。もちろん、寒くはなかったのだけれど。
 麻衣の躊躇を感じたのだろう、窓からのわずかな灯りで浮かび上がる人影が、動きを止めた。
「……だいじょうぶだ」
 低い声に驚いて、麻衣は目を見張った。吐息がふれあう至近距離で彼女を見つめるナルの深い瞳に、麻衣は戸惑う。
 そのセリフは、時々調査中に彼からかけられた記憶があった。危険な状況、恐怖にパニックを起こしかける麻衣に、ナルは時折その言葉を口にする。ただ抑揚のない口調でそう繰り返す。
 そこにいるのがナルなのだと、麻衣は初めてはっとさせられるように強く意識した。
「……うん」
 麻衣は強ばった息を吐き出した。
 久しぶりに声を聞いた気がした。ふと気付けばもうずっと互いに無言でいたのだ。ナルがまったくしゃべる気がなさそうなので、麻衣もなんとなく黙っていた。いや、それは表向きの理由かもしれない。言葉を交わしてしまったら最後、夢から覚めてすべてが幻になる気がして、怖かったのだ。
 ナルは黙って、体を重ねるように麻衣の肩を抱く。大きな体に包まれて、少し呼吸が楽になるような気がした。そんなナルに対して、怖いと口に出せずに麻衣は唇を噛む。
「……ね、お願いがあるんだけど」
「なに」
「あのね、しばらく……そのままでいてくれる?」
「……ああ」
 耳元で響いた声のあとは、また静寂が戻ってきた。
 ぴったりと寄り添った体から違う鼓動が感じられるのが、ひどく奇妙だった。他人の息づかい。しかも相手は生涯の敵とでも言えそうな鉄面皮の皮肉屋なのだ。
(どうして、どうしてこんなことしてるんだろ……)
 ふいにそんな疑問が怖さにまぎれて這い上がってくる。
 見ない振りをしていたはずの諸々がゆっくり頭をもたげ、そして麻衣は普段ありえない距離で他人とふれあう怖さを、思う。今彼は麻衣に何をすることもできるのだ。そんな体勢に麻衣は自分を預けている。
(どうして、この人と……)
「……やめるか」
 押し殺したような声に、麻衣は彼の黒い瞳を見上げた。闇がその表情を覆い隠している。
 やめたいのだろうか、それとも……麻衣はぼんやり彼を見る。
「……大丈夫、だよ?」
「そう」
 ふいにシーツの上に投げ出していた麻衣の手に、あたたかい体温がふれた。大きな手が暗闇の中麻衣の腕をたどり、その手にふれると長い指をからませて包み込む。
 視界がうるんで、涙がひとすじこぼれ落ちた。
(馬鹿……あんたの優しさってわかいにくいよー)
 涙を散らして瞬く麻衣のむき出しになった肩に、もう少年とはかけ離れた頬の輪郭がふれる。まるであたたかさに身を寄せるような仕草で。
 すべてを弾くように雨の音が聞こえる。
 雨の音だけ。
 窓の外では雨の音。何もかもを孤立させるように。
 窓の内では、雨に閉じこめられた部屋に、ふたりきり。
 雨が……外のすべてからふたりを切り離す。
(ああ、なんだか初めてこの人の……孤独にふれたような気がする)
 広い背中に自由な方の腕を回した。とても抱きしめきれない体を、せいいっぱいの力を込めて、抱いた。
(あたしが……抱きしめてあげられる人に、なれたら……)
 あの本当にあたたかい空間を知っている人なら。

 夢を見た。
 しとしとと、窓の外には、雨。
 色とりどりの傘の水玉模様。
 やわらかい灰色をした雲がいっぱいの、空。遠くに見える煙突も今日は沈黙を守る。
 透明な空気をした部屋でぼんやりひとり遊びをしていた。
『今日はお外に行けないね』
 髪をなぜる優しい手に麻衣はうっとり目を細めた。
『うん』
 窓の下をひっそりと静まって人々が歩いている。傘。ただ傘だけ。
 通り過ぎるタイヤの跳ねる水のしぶき。
 すべてが雨の音。
 今いる部屋だけが、広い広いはずの空の下にあるような気がする。ご飯の匂いと、あったかい腕だけが、麻衣のそばにある。他には何にもない。
『お母さん、遊んであげられなくてごめんね』
『ううん、お仕事でしょう?』
『うん、でも私あなたに何もできなくてちょっと悲しいわ』
『うーんと、じゃあ、だっこしてー?』
 ふうわり、花がほころぶように母は笑って、娘の体を両腕で包み込んだ。
(さみしくても、平気だよ)
 冬の毛布に頬ずりするように、少女はあたたかい柔らかい腕でとろとろ目を閉じる。まんまるにくるまれて、大事に抱きしめられて、その時だけとんでもない深い安心の中にいられた。
 窓の外では雨の音。
 窓の内では、雨に閉じこめられた部屋に、ふたりきり。
(すごい、魔法みたい)
『……ああ、こうしてあげられる時間があるだけで、奇跡みたいなことね』
 雨の日は、ふたりきり。ふたりは、さみしいことじゃない。

 目を開けると知らない匂いの中で枕に埋もれていて、麻衣は少し驚いた。
 知らない部屋の匂いだ。
 夜は明けているようだったが、カーテン越しになんとなく白っぽく入り込む光が、まだ早朝だと告げていた。台風は過ぎていったらしい。もう雨の音はしない。
 陶酔の残滓のように痛む体を起こして、軽く頭を押さえた。辺りを見回した。
 ナルの姿がない。
 麻衣は服をつけ、髪を整えながらリビングへ足を向けてみた。
 扉を開くとすぐ、リビングのテーブルに突っ伏したパジャマの背中に目がとまった。
(……仕事してるしね、こいつは)
 起こさないようにソファに近寄る。
 昨日は閉じられていたパソコンのふたが開いている。書類は散乱し、その脇に、夜読みかけて途中で放り出していた本が置かれていた。挟まれたしおりはゆうべ見たときよりもずいぶん先に移動しているように思えた。
 この様子ではまったく眠らずリビングに出てきたのだろう。テーブルなどでダウンするはずだ。
 麻衣は、一番ナルの手元近くにあったレポート用紙を取り上げた。書かれた文字を目にした途端、麻衣は息を詰めた。ちっともナルらしくない、書き殴られた文字。さらにせっかく書いたその上には斜線ばかりが引かれている。
 あわてて他の資料も手に取ってみる。どれも書き込みをしては消してばかりいるようだった。進んでいる様子はまるでない。
(調子、悪いんだ)
 レポート用紙をそっと元の場所に戻し、ふと目をやったパソコンの横に、鏡があった。
 鏡、そこに映った伏せた黒髪、それを見て麻衣は一気に脱力するのを感じて床にしゃがみ込んだ。その鏡像の示す意味を、知っている。
 夢が覚めれば、またこうしてすれ違う。
(なんにもできない、あたしの思いはなんにもならない)
 起きないでほしい、と祈った。
 せめて笑っていたいから、こんな悲しいさみしさに気付かないでほしいから、今は起きないでほしい、と。起きる頃には笑っているから。
(それでも、一瞬だけでも……あたしは安心を、あげられた?)
 魔法のような、あたたかさを、あげられたでしょうか?

  1. Page Top
  2. Next
  3. Menu
  4. Home
mailto:alice☆chihana.net