アリスのお茶会

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海の匂い

第一夜

「それじゃ……」
 滝川が持ち上げたグラスには、蜂蜜色のワインが満たされていた。
「僭越ながら、俺が音頭を取ります」
「嬉しいっ」
 野次を飛ばしたのは安原で、彼は真新しいスーツを着ていっぱしの社会人の顔をしている。他の面々もそれぞれに着飾っており、一見して特別なパーティーなのが知れた。いつもなら激怒するだろう渋谷一也所長の姿は、どこにもない。リンの姿も同様になく、彼らが欠けた代わりに穏やかそうな西洋人の紳士が会場の隅にいた。
 オフィスのソファやら何やらはすっかり端に寄せられ、SPR事務所はちょっとしたパーティー会場に仕立て上げられている。一応事務所だからものの数は多く、そうそう片づいてはいなかったが、それでも中央あたりは大きく場所が開いて立食パーティーの成立を助けている。
 周囲を取り囲むように書類の入った段ボールが置いてあるのが現実感を呼び戻すが、他に置く場所はなさそうだ。それくらいに段ボールの量は多かった。
「このたび正式に就職先が決まった我らが親愛なる安原少年と新生SPRの、これからの道行きを祝って……乾杯」

 その知らせを聞いたとき、麻衣は笑って『おめでとう』を言うのに1秒のブランクを要した。それは内容を理解するのに要した時間でもあった。安原が申し訳なさそうに、反応をうかがうように笑って顔をのぞき込んできて、麻衣はやっと満面に笑顔を浮かべた。『おめでとう』と狂ったように連呼した。
 そのわずか数時間前、彼女は所長のイギリス帰還の決定を聞いたばかりだった。別離と、それを突然聞かされたショックに彼女は自失していた。泣くこともできなかった。責めることも頭に浮かばなかった。
 ただ、うまくものを考えられない頭に仕方ないのだとそれだけを言い聞かせて、彼女が起こした行動は一心に笑いを浮かべることだった。離れていく2人に『おめでとう』を繰り返し告げた。
 以来2週間と少しが過ぎ去り、発表して数日で嵐のように帰国してしまったナルとリンの姿が見えなくなっても、麻衣はいまだ呆然としている。
「麻衣は、このままここに就職か?」
 乾杯の後いつの間にかとなりに立っていた滝川が、そんな風に声をかけてきた。それで麻衣は、自分がおしゃべりの輪から外れてしまっていたことに初めて気付いた。
「んー、そのつもりだったけど。去年の調査の時、ナルにはそう言ったし」
「卒業したら就職って?」
「そう。だから就職活動も何にもしてない。ナルが所長じゃなくなったのに雇ってもらえるのかな、あたし」
「大丈夫だろ。もし渋られたらナルかリンに連絡して口利いてもらえ」
「うん」
「新任の所長はさっきまでいたやつなのか?」
 麻衣が見回すと、先ほどまで確かにいた西洋人の男性がいなくなっている。かなり長い間惚けていたらしい。
「一応あの人は中継ぎで来てるってことなんだけど。リンさんが、イギリスに発つ前たぶん自分が後任になるって言ってたよ」
「何、リンが日本支部の所長!?」
「可能性としては一番高いから、心配しないようにって」
「……楽しくなるなぁ」
 滝川は目を輝かせる。そうだね、と答える麻衣は彼ほど無邪気に笑えていないことを自覚している。
 確かにリンは充分な実力がある。能力者としてもゴーストハンターとしても能力は突出していて、ナルのような青二才の下についているのが不思議なくらいだった。もちろん、ナルがあれほど天才的な能力を持っていなければ所長であってもおかしくなかったのだ。
 日本の心霊現象は面白い、と以前ナルが言っていたが、SPR本部はどうやらその言葉を認めているようだった。こうしてナルが帰ることになっても日本支部がつぶされる様子はなく、中継ぎの所長が派遣されてきている。おそらくナルが充分なデータを本国に送っていたのだろう。このまま存続することに疑いの余地はなかった。
 日本支部が存続するなら、所長は最低限日本語ができなければならない。以前ナルとリンが帰国した際には森まどかが代理として派遣されてきたが、今回は直接の部下であるナルとリンの本国帰還に関する手続きが忙しいらしく当面来る予定はない。用事を終えて彼女が来るか、あるいは副所長的な立場にいたリンが所長に就任するか。どちらであっても日本語はできるし、日本支部のメンバーとも面識があって問題ない。
 そして、日本支部関係者たちにとってすこぶる重要だったのは、どちらにしろナルよりとっつきにくい所長ではないということだ。
 それなのに麻衣は新所長の就任を楽しみにしているとは言い難かった。理由は、本人のみならず関係者の全員が知っていた。半月前に所長を辞して本国へ帰っていったナル――オリヴァー・デイビスは、彼女の恋人だったのだ。
「リンさんが所長になるなら、あたしも就職先に困らないし」
「だよなぁ。俺も茶飲み先に困らない」
「何か、たった1月でばたばたって変わったね。ナルの荷物はまだ結構残ってるけど……」
 オフィスに置き去りになっている大量の書類と本は、大半がナルの私物だった。ナルは本当に取るものも取りあえず帰国してしまい、残った荷物は送ってくれと言って寄こしたのだ。まどかがじきに手伝いに来るらしいが、最後まで人使いの荒い男である。
「前さ、ジーンが見つかってナルがイギリスに帰った時……あたし、ナルの仲間になれなかったんだって落ち込んだけど」
「そんなこともあったね」
「覚えてる? 1年以上付き合ってたのにプロフィールさえ知らなくって、気付いたらショックだった」
「ま、あれは事情があったしな」
「あたし、今はナルの住所も電話番号も知ってるし、仕事先も分かってるし、それどころかご両親と知り合いで年刻みに言えるくらい生い立ちも全部知ってるけど」
「ああ」
「大事なのは、そんなことじゃないね」
 滝川が先をうながすように目を細めた。
「そんなこと、ストーカーになれば調べられることだもん。友達じゃなくたって、仲間じゃなくたって……恋人じゃなくたって。番号を知ってるけど電話しない。住所を知ってるけど訪ねていかない。どんな仕事をしてるか知ってても、どうやって仕事をしてるか知らない」
 滝川は黙ってうなずいた。
「住所や電話番号を知ったからって、何が近くなったわけでもない。訪ねていけないなら同じだもん」
「でも、訪ねていこうと思えば行けるっていうことでもあるんじゃないか?」
「もちろん、会いに行けば会えるの。生きてれば会えることだってあるの。遠くに行っちゃうことは本当の別れなんかじゃない。どっちかに会う気がないことが、別れるってことなんだな、と思う」
 滝川がなだめるように麻衣の頭を叩いた。この人はナルがいなくなり安原がいなくなっても、明日また会いに来てくれるだろうかと思う。おそらく、来るだろう。本人の言葉からもその予定でいることがうかがえる。来なくても会いに行けばいい。それをさえぎるものは何もない。
 でも1日2日と少しずつ足が遠のいて。麻衣は思う。
 やがて時の流れるままに別れが来るのだろう。

 明日もあると信じていた場所は、簡単に瓦解した。
 2週間前から、夜が大嫌いになった。

 麻衣の家の中央には、折り畳み可能な座卓が置いてある。
 食事から課題の執筆まで用途は様々だが、これがあると寝る場所に困るので毎晩片づけ、毎朝引っぱり出すことになっている。その習慣上、その上にものが出しっぱなしになることは本来ありえなかった。
 ところが、この2週間というもの常に机の上に置き去りにされているものがある。それはつまり机を出し入れするのと同じ頻度でそれが手に取られているということであった。
 何の変哲もない、薄い青の便せんだ。宛名も、本文も空白のまま。
「何も、書くことなんてないよなぁ……」
 ペンだけは手にしていても、それで何かを書いたことは1度もない。
 たとえば当たり障りのないあいさつを書いて表書きに『Air Mail』と記して投函すれば、返事がなくても彼は読んでくれているだろうと思う。それなりに穏やかな様子で目を通して、苦笑してゴミ箱に捨てる。続けて何度か送っていれば、少なくとも彼は彼女のことを忘れない。それが目に見えるようである。
 だが、それでも書けなかった。
(忘れられてもいいじゃない)
 忘れられて、自分も忘れて、前に進んでしまえば。
(忘れないで)
 手紙が来なくても、電話をしなくても、時々思い出してほしい。
(どっちが本当の気持ちか、なんて……)
 もう彼に言いたいことなど何も見つからない。
 もともと、『食事をして』と『ちゃんと寝て』以外に言いたいことなどあっただろうか? では、そう言って手紙を書いてみるか?
 だが、聞き入れてもらえないことが分かっていて書くのはあまりに馬鹿馬鹿しく思えた。
 何の問題もなさそうにオフィスで帰国を告げられた時から、望みなどあるわけがないことが分かっている。

 それは、新年早々のあいさつとしては最悪のものだった。
 年末年始のわずかな休みが終わった後、仕事始めに出勤した所員たちが事務所に呼ばれた。ナルからの呼び出しは非常にめずらしい。あるとすれば大きな調査が入ったときにスケジュールの確認をされる時だったから、彼らは何となくそれを予想して事務所に集まった。
 麻衣と安原、リンまでが何事だろうという疑念を浮かべてナルの顔を見た。ナルは調査資料らしきファイルも持っておらず、本当にただ話があるという風情だった。
 全員がソファに座ったのを確かめると、ナルは軽く彼らを見回した。
「急な話なんだが、イギリスに帰国することになった」
 これには、全員がなるほど、とごく真っ当にうなずいた。ナルの帰国はめずらしいことだが、国籍は今もイギリスにあるわけだからおかしいことではない。そして、所長の帰国となれば所員への報告と協力要請があるのは当然だった。
 全員の質問を代理したのは安原だった。
「その間、オフィスはどうするんですか?」
「近々代理の所長が来ると思います。指示に従ってください。それまでは、安原さんと麻衣で通常通り開いておいてください」
「代理の所長が来るってことは、長いの?」
 軽く眉をひそめた麻衣は、もちろん離れている期間を苦痛に感じてそう言ったのだったが、ナルの返事は彼女の不安をなだめるどころか致命的に爆発させるものだった。
「こちらに戻る予定はない。僕は日本を引き揚げる」
 誰もが目を見開いた。困惑と驚愕の沈黙が流れた。
 聞いていたのだろうか、という風にそれぞれがとなりの人間の表情を確かめる。そしてそこに自分と同じ困惑を見つけて、気持ちをぶつける相手に困り黙った。
 それはあっておかしくないことだったが、あると思っていなかったことだった。ナルは日本での研究に没頭しており、両親の呼び出しにもなかなか応じないほどで、帰国の意思を見せたことはこれまで1度もなかったのだ。
 それは、と安原が困ったように口を開いた。
「決定ですか?」
「ええ」
 ナルの言葉は素っ気ない。リンも初耳らしく、次の質問は彼が引き取った。
「それは、本部からの要請で?」
「そうなる。理論チームに戻ることになった」
「帰国はいつ」
「できるだけ早く、ということだったから。遅くとも来週のミーティングには間に合うように帰る」
「急ですね」
「チームを新設するという話があっただろう。あれが本格化して、チーフに推薦を受けた。確実化するためにミーティングから参加してほしいということだ」
「分かりました。安原さんと谷山さんに任せるということは、私も同行した方がいいのですか」
「日本支部の今後の運営も話し合うらしいから、おそらく。今日にでも正式な連絡があると思う」
「では、準備をしておきます」
「そうしてくれ」
 ナルは一同を見渡した。その相眸は、興味を持てる現象や論文に対峙している時のように深みを持っている。この仕事に彼が意欲を持っているのは明らかだった。もちろん、そうでなければ日本での自由な仕事を投げ出して帰ったりはしないだろう。
「他に、質問は」
 質問、と麻衣は呟く。
(あたしは?)
 それはこの場でするべき質問ではないと、彼女の頭に叩き込まれたプロ意識が盛んに主張していた。それ以外の理性がすべて沈黙していて、彼女はそれしか思うことができなかった。
 昨日までナルの生活態度やら卒業論文やらに悩まされていた頭に、世界的な研究機関や新進気鋭と呼ばれる学者の都合など入り込む隙はなかった。
(あたしはどうなるの?)
「事情は分かりました」
 安原が息をついて、少し悩む様子を見せてからナルをきっぱりと見た。
「所長、ちょっと個人的にお話ししたいことがあるんですが」
「ここではまずいことですか?」
「まず、所長だけにご相談したいんですけど」
「では所長室で」
「はい」
 麻衣は立ち上がる2人を交互に見た。嫌なことはまだ何も終わっていない、と彼女の中の何かが告げていた。
(ここんとこ、卒論で忙しくてあんまりナルの家に行ってなかったな)
 何の関係があるのかよく理解しないままに、そんな思考が頭をめぐる。リンが知らないということはナルの自宅に連絡があったのだろう。今発表されているということはおそらく昨日か一昨日。そしてその日麻衣はナルの家にいなかった。
(その場にいたらすぐ教えてくれたんだろうな)
(そして、いなかったからわざわざ教えてはくれなかった)
「ナル」
 麻衣が呼び止めるとナルはわずかに視線を戻す。
「オメデトウ」
「ありがとう」
 ナルはどこか満足そうに微笑した。

 そこまで反復すると、麻衣はあわてて台所に駆け込んだ。
 ひどい吐き気だ。体の全部が何かを強力に拒んでいるように、奥から嘔吐感がこみ上げてくる。気分が悪くなる程度のことではない、本当に吐いてしまう。
 台所のシンクにすがって、委細構わず吐けるものを全部吐いてしまう。何もなくなれば吐き気は治まる、とそれしか考えられない。息を吸い込むたび空気に溜まっている汚物を体の中に吸い込んでいくような気がする。悪いものが体に入っていく。それが体をかき回す。だから吐くしかない。
 夕食に食べたものを全部出してしまって唾液しか出なくなると少しずつ治まっていく。何分経っているのかも分からない。時間感覚も何もかもすべて置き去りにして吐くことしか考えられない、そんな感じだ。短いのかもしれないし、長いのかもしれない。
 治まると雪崩れるように膝が崩れた。全身に力が入らない。
 半月もの間毎日だった。妊娠したのかもしれない、と疑って先週意を決し妊娠検査薬を買ってきた。心当たりがないわけではない。
 しかし、結果は陰性だった。
 100%の結果ではないと知っているから、あと1週間続くようなら産婦人科に行ってみようかとも思っている。だがおそらく妊娠ではないのだろう。食べ物に反応しているわけでも、匂いに反応しているわけでもない。自分の思考に、反応しているのだ。
(……こんなことが続いたら、死ぬかもしれない)
 栄養が足りなくなっていることを感じている。オフィスで昼食をとる時にはなんともないから死にはしないかもしれないが、体調を崩すことは避けられないだろう。
 抜け殻のように力の入らない体を持て余して、麻衣はしばらく台所の床に座り込んでいた。
(ナルのことなんか、考えなければいい)
 そう思うが、『別離』は本当に怖かった。体調を崩すことなどよりずっと。
 頭にふたをして、恋愛もさよならもなかったことにしていれば、少しは楽になるかもしれない。
 オフィスで過ごした6年間の日々と。
 第2の家族とも思った人たちとの暖かい記憶と。
 愛した人の傍らにいることを許された夜と。
 永遠を信じていた友情と。
 全部を終わったことに分類して目を閉じてしまえば、いつかは忘れていくだろう。手紙を出さなければ、ナルからの連絡はないだろう。これを機会にオフィスをやめてしまえば、思い出もずっと少なくなるに違いない。やがては自分の生活が忙しくなって、会うことも少なくなって、そのうち過去の人になる。
 生活を変えれば新しい友人ができる。ジーンを亡くした痛みが時に任せて癒えていったように、オフィスをナルを失くした痛みも癒えて、新しい仲間と新しい恋を見つけるかもしれない。
 そしてすべてがどうでもいいことになって、許せる。
(イヤ……)
 それぞれの道を歩いている仲間たち、振り返りもせず進んでいく恋人。たとえ会えなくなっていっても、自分がその場を動いてしまうことはそれをあきらめてしまうことだ。
 ああ久しぶり、と言うようになった時、もう引き返せないことに気が付くだろう。
(それとも、もう引き返せないのか)
 ――時は進んでいっているのだから。

 夜中、仕事が終わった後1度自宅に戻ってからナルのマンションを訪ねると、彼は少しも表情を変えずに彼女を迎え入れた。
「荷物……取りに来たの。それから、鍵を返さなきゃと思って」
 ああ、勝手にどうぞ、と彼は言った。
 マンションの中は段ボールだらけになっている。ほんの1週間ほど前来た時とは別の場所のようだ。これがあと1ヶ月もすれば別の人間が入ってきて、さらに違う部屋になってしまう。もうそうなれば、彼女の知っている面影など何もないだろう。
 たとえば、正体をなくすほど酔った時に、自然に足が向いてしまうくらい通い慣れた場所なのに。
「簡単だね」
 書棚から本を抜き出して段ボールに詰めていたナルは、リビングの中央で立ちつくす麻衣を見た。
「何が」
「引っ越し」
「まぁな」
 会話に応じながらも、ナルは手際よく荷物を片づけていく。よほど気力が充実しているらしい。調査の時ならともかく、自宅でこれほどてきぱき動くナルは滅多に見られるものではない。いつもはソファにゆったり腰かけて、どこかの社長か何かのように優雅に仕事をしているのだから。
 だからだろうか、麻衣は駆け寄って抱きつくこともできない。
「……鍵、テーブルに置いとくからね」
「何?」
「鍵! テーブルに置いとくから!」
「ああ」
 乱暴に鍵を置いて、寝室に足を向ける。部屋に入って扉を閉めてしまうと、リビングの慌ただしい物音はほとんど聞こえなくなった。ナルが、日本での生活をさっさと片づけてしまおうとしている音。
 代わりに、彼と何度も抱き合った部屋に1人で取り残された。
 その部屋も、整理の手を逃れてはいなかった。寝る場所だけを残して、クローゼットの扉も開けたまま衣類や小物が引き出されて床を散らかしている。彼の部屋がこんな風に雑然としていることは今まで1度もなかった。荒らされたみたいだ、と麻衣は思った。
 大事に大事にしてきた場所を荒らされたみたいだ。
「麻衣」
 ガン、と背中に扉が当たった。
 扉の前に座り込んでいたから、ナルが開けられなかったのだ。
「何をしてるんだ」
「嫌がらせ」
 散らかった寝室をぼんやりながめながら、わざと大きな声で言った。
 新しいチームのチーフに推挙されて本国へ呼び戻されるというのは、栄転と言っていいだろう。人に分かるくらい喜んでいる彼と、本当は一緒に喜んでやるべきことだ。これが日本国内の話なら。所長を辞めて地球の裏側へ行ってしまい、もう1人の所員までオフィスからいなくなるなんてことでなければ。
「馬鹿なことはやめてほしいね」
「見送りには、行かないからね」
 苛立ったようなナルの言葉はあえて無視した。
「もう……会わないんだろうね」
 否定してほしくて言った。『また会える?』と聞くには勇気が足りなかった。
「だろうな」
 と、彼からはいつも通りの静かな声が帰ってきた。返事の前に少しの沈黙があったが、それでも声は平静だった。

 ふと目を開けると台所の床にいた。
 激しい嘔吐の疲労でそのまま居眠りをしてしまったらしい。ただでさえ体力が心許ないのだから、寝るなら布団で寝るべきだと、麻衣は重い体をひきずって居間に戻った。
 六畳一間のアパートで、寝るためには座卓を片づけて押し入れから布団を出さなければならない。その面倒を考えると一気に力が抜け、麻衣は寝るのを延期した。
 とりあえず暇つぶしにとつけたテレビが折悪く気分の良くない番組を映していた。『青少年の自殺特集』。
 参った、と思う。すぐチャンネルを変えたが、嫌な気分はしっかり胸の中に落とされてしまっていた。
(あたしは死なない)
 滝川や綾子たちがどれほどに悲しんでくれるか、わざわざ自分を傷つけて試してみるまでもなく分かっている。
 生きている限り前に進んで、離れていかなければいけないと分かっていても。会わなければ忘れてしまうくらい、心は弱いものだと知っていても。こんなに簡単に壊れてしまう日常だと思い知らされても。
(死にたいわけじゃない)
 ただ……

 毎日はあわただしく壊れやすい日常で作られている。
 少しずつ積み重なって、人生を作る。
 たまたま今日一緒にいる人と明日も一緒にいて、今日やる仕事があって明日やる仕事がある。そんな風に進んでいく。
 変化のひとコマは誰かの小さな決心で動いていく。歯車が噛み合っているから、どこかの歯車では大きな齟齬が出てしまう。
 それだけのこと。
 人生は毎日の繰り返し。
 たった1日会わずにいられないほど恋しいわけじゃない。
 だからそれが1週間でも平気。それが1月になって一生になっても、きっと生きていける。

 なら、どうしてこんなに辛いの?

(どうして、なんて)
 たぶん、知ってる。

 こんなことを繰り返していたら死んでしまう。
 ――死にたいわけじゃない。
 彼のことを思い出すたびに吐き気が襲う。
 ――それは会いたいからじゃない。

 幸せを壊した人を憎んでいるから。
 憎んでいる自分が憎いから。

 急に電話の音が夜の静寂を切り裂いて、麻衣は飛び上がりそうなほど驚いた。
 電話がかかってくることはめずらしい。麻衣は大学とオフィスとナルのマンションを往復していて家にいる時間がひどく少ないし、いるとしたら夜中や早朝だから、誰も家にかけてはこない。携帯にかかってくることならあるが、その番号もあまり教えていない。
 時計を見ると12時を越していた。ますます不思議だ。
 それでも受話器を取ったのは、もしも緊急の連絡だったらと思ったことと、暗闇のような物思いを断ち切ってくれたことがありがたかったからだ。
「はい」
 女の1人暮らしなので念のため名前は名乗らない習慣がついている。
 さてどんな声が飛び出してくるかと身構えたが、そこから聞こえてきたのはもっとも予想から遠い声だった。
「起きてたか?」
 と、ひどく静かな声が。
「……ナル?」
 半信半疑、ごく小さな声で呟く。
 麻衣に同情したジーンが霊界からナルの物真似で電話回線をつないできた、という方がよほど信じられる。しかし、その次のあきれたような声がそれを否定した。
「他の人間に聞こえるのか?」
「だって……あたし、夢見てんのかな?」
「聞かれても困る。僕は寝ているつもりはないが」
「疑われる程度にはあんたの素行が悪いってことだよ」
 憎まれ口を叩く。
「……麻衣」
 ため息混じりの声が、耳元で彼女の名前をささやいた。
 彼としては彼女を黙らせようとして言ったのだろう。しかし、麻衣は聞き慣れたその言葉に、響きに、テンポに、口調に、思いがけず泣き出していた。
「――会いたいよ……」
 それは、自分でも気付かなかった、押し込めてしまった本音だった。
 考えたことは、憎む気持ちも、何ひとつ嘘ではない。けれど、会いたい気持ちも嘘などではなかった。
 ナルは、そう、と静かに答えた。
「……あ、しまったこれ国際電話だよね。ぐずぐず泣いてる場合じゃないや。どうしたの? ごめんね、用があったんだよね」
 とにかく涙声でも話を進めようとした麻衣に、ナルが言ったのはさらに信じられないような話で。
「やり残した仕事を思い出して。来週1度戻るんだが、時間は空けられるか?」
 と。

 流れた涙は、いつかの海の匂いがした。

第二夜へ

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