アリスのお茶会

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 ガラス張りのカウンターに当たってカシャンと音を立てるグラスが、やけに綺麗に見えた。
「あー酔ってきたわ」
「知ってます、知ってます」
 綾子がノースリーブのワンピースからむき出しの腕でカウンターの上に自分のあごを固定すると、となりの男はいなすように笑った。
「アンタ何で素面なのよ」
「素面じゃないって。お前がハイペースで飲み過ぎなの」
「いいでしょ、飲みたいんだから放っといてよ」
「放っといてるでしょ」
 肘をついているのと反対の腕を伸ばしてグラスを揺らすと、琥珀色のウイスキーがからりと氷を転がした。それが妙に綺麗な様子で誘うから、綾子は置いたばかりのグラスを再び持ち上げて酩酊した頭にだめ押しのアルコールを叩き込む。
 カウンターの端に両腕を預けているとなりの男は、目にかかるほど長い前髪の奥からウイスキーの色に似た瞳を綾子に向けた。とがめるでもなく、あおるでもない。そうやって先ほどから彼女に付き合い続けているのだ。
「……アンタが金持ちならねー」
 綾子が呟くと、男は笑った。
 彼はミュージシャンであり、金などあるはずがない。
「もし金持ちでもお前に貢いだりしないぞ、俺は」
「別に貢いで欲しいわけじゃないのよ。誤解してんじゃないわよ」
「そりゃ初耳」
「あーやだやだ。こういう程度の低い男ばっかり。金持ちと付き合いたいって言ってるだけで人を悪女みたいに言って」
 綾子は苛立ってカウンターにふれるほど長い髪を何度も背中に払う。乱暴な手つきのせいか、何度やってもまた手元に落ちてくる髪にまた苛立ちを募らせていると、男の手が伸びて、ごくさりげなく綾子の後ろ髪を整えた。
 落ちてこない。綾子は満足して笑った。
「アリガト」
「どーいたしまして」
 やけに素直じゃねーか、と笑いを噛み殺す男の言葉は、聞かないふりをした。
「気が利いてることは認めるわ」
「そりゃどーも。お前に認められても嬉しかないが」
「大丈夫よ。気が利くだけの男なんか興味ないから」
「金持ちでないとな?」
「そーよ。だってあたしお嬢さまなんだから」
「ちやほやされなれてるってか」
「もちろんだわ」
「巷にはこーゆー女をつけあがらすヤツがいるから始末に負えねーわ」
「アンタみたいのもいるけどね」
「『見る目がある、いい男』?」
「『馬鹿』よ」
 実際、蝶よ花よと育てられた綾子は、金がなければ話にならない。大事にされたいだけの話ではない、綾子には800円のワインを平気で口にできる神経が信じられなかったし、わざとらしい下手な造花で感動できる感性も持ち合わせていない。
 今いる場所のような静かで趣味のよい、その分少々割高なバーで飲むのが格好良さだと勘違いしている貧乏野郎には付き合いきれないのだ。
 美味しいお酒を飲むのは趣味の問題だろう、と綾子は思う。美味しければレストランだろうが居酒屋だろうが構わない。旨さを学ぶまで金をかけていこうという思い切りがないから綾子は貧乏人と付き合わない。
「滝川さん、どうぞ彼女に」
 バーテンが新しいグラスをカウンターに乗せる。いつの間にか彼が頼んだのか。
 とにかく、こういう味も品もよい店のバーテンに名前を覚えられているのだから、彼は綾子にとって合格点の飲み友達だった。いいバーテンは味の分からない客が嫌いだ。ただ見栄のために金を出して通っているだけなら名指しで声をかけられたりはしない。
「綾子」
 滝川がバーテンから渡されたグラスを綾子の前に押し出した。
 綾子はそれを一気に煽った。さすがにもう味は分からなかった。
「……馬鹿みたいな飲み方して、悪いわね」
 グラスを磨いているバーテンに呟くと、彼は笑った。
「そういう気分の時もあります。今度、楽しくお酒を飲みたい時にまた来てくださいね」
「ええ」
 綾子が化粧室に行くために立ち上がると、背中で滝川が「チェックして」と言っているのが聞こえた。普段なら無駄を承知でおごれと言ってみるところだが、今日は逆に綾子が出すつもりでいた。珍しくおごってやる気分の時に出そうとするとは、天の邪鬼な男だ、と思う。
 それが彼一流の優しさというものなのだろう。今日は女扱いするというわけだ。
 狭い化粧室に入ると、半分鏡張りになった扉にもたれて、綾子は今日何度目かのため息をこぼした。

 

 綾子が次にはっきりと思考を取り戻したのは、静まり返ったオフィス街でタクシーを降ろされた時だった。
 ゴーストタウンのようなビル街の中を、タクシーが走り去っていく。それを呆然と見送りながら、綾子はなぜここにいるのかよく考えてみようとしたが、理由よりも先に吐き気が湧いてきた。
「……吐きたい」
「ちょっと待て。このビルの上が部屋だから。歩けるか?」
 カウンターに座っている時はまだ飲めるつもりでいたのが、立ち上がって移動すると途端に酔いが回ってもう限界であったことを知る。アルコールの攻め方はそういうものであるが、綾子はもうずいぶんそんな奸計には引っかかっていなかった。
 まるで高校生の時のように飲んでしまった、と思う。
 滝川の腕に支えられてビルの裏口に入り、暗いエレベーターホールでしゃがみこみながら吐き気に耐えてエレベーターを待つ。下手に背中を叩いてなぐさめようとして嘔吐を呼ぶような真似を、滝川はしなかった。大丈夫かと聞いて口を開かせることもせず、黙って一緒にエレベーターを待っている。
 綾子は、一緒に飲む男を寝てもいい男と嫌な男に分けている。それは自分が酔ってもいいかどうかと同義だ。どっちにしろ正体を無くすほど酔うわけにはいかない。
 滝川は、綾子にとって飲み友達であって男ではなかった。だから平気で酔ってしまったのだろうと思う。ベッドの心配はいらないし、面倒を見てくれることは分かっていた。
 自分からは手を伸ばさないが、綾子が腕にすがると当然のように支えて歩いてくれる。
「ここ。トイレはあっち」
 短い言葉で指し示された場所に綾子は駆け込んだ。
 10分近く洗面所に居着いて幾分ましな気分になると、そこが普通のオフィスビルであるということに遅ればせながら気付いた。彼の家に連れてこられたのではなかったのか、と疑問に思いながらその階にある唯一の扉を開く。と、その中はしっかり家になっていた。
 広々とした殺風景な部屋の真ん中で、滝川がコーヒーメーカーと一緒に座り込んでいる。小さな猫も焦げ茶の液体が落ちるのを待っていた。
 ろくな家具がない。ベッドすらなく、ベッド用のマットレスがベッドとソファの2役を演じている。これが彼の趣味だとしたら、彼は周囲が思っているよりもずっと特異な性格なのだろう。
「ん? 少しは楽になったか?」
「寝かせて」
「コーヒーいれてるから少しはアルコール薄めとけ。ウーロン茶1杯しか飲んでないだろ」
「いつ、ウーロン茶なんか」
「最後、マスターが出したヤツ」
「どーりで。お酒の味がしないと思った」
「そりゃそーだって」
 この家の中ではソファと呼ばれているのだろうマットレスに、綾子は横になる。シーツを掛けて枠組みに乗せれば立派なベッドになるのだろうが、むきだしで床に置かれているとまるで別物だと思う。
 体育館の床に寝っ転がっているような、不思議な感覚。
 部屋がだだっ広いから余計にそう思うのかもしれない。
 マットレスの縦幅分、1m50cmの間を空けて滝川が座ってコーヒーをいれている。学生に戻ったような綾子の錯覚を裏切る広い肩幅、年の分だけ荒っぽい肌、擦り切れそうに染め続けられた長い髪。
 滝川の長い指が膝に甘える猫を撫でる。
「仕事仲間だよ。綾子、話したことがあるだろ」
 彼の紹介に応えて、猫が円い目を綾子に向ける。
 それが細くなって微笑ったように見えたのは、酔った綾子の思いこみかもしれない。
「こいつは梅吉。家族だ」
 綾子が梅吉の挨拶に律儀に応えて微笑を返すと、猫はまた滝川に向かい直り、にゃぁと鳴いた。
「ん? ……いや、違うって。俺は夜中に呼び出されて、コイツのやけ酒に付き合ってたの。おねーさんは素行不良で彼氏に振られたんだと。いて、ホントだろ」
 手を伸ばして届いたものを投げつけると、滝川は顔をしかめた。
 彼の指が猫から離れて、落ちたものを拾い上げる。彼の手の中で遊ばれるそれをよく見ると、ベースを弾くためのピックだということが分かった。深い緑色が無骨なほど大きな手の中で転がる。
 猫がにゃぁにゃぁと楽しげに鳴いた。
 滝川はまるで猫と話すように笑う。
「おいおい、いいって。さすがに夜は冷えるぞ?」
 得意げに一声鳴くと、梅吉はするりと身を翻して滝川の膝から逃げた。動物のしなやかな動きで広い部屋を遠ざかっていく。茫洋とかすむ綾子の視界で猫は小さな穴に吸い込まれて消えた。
「何よ、どこ行ったの」
「気を利かせて消えた」
「はぁ? 猫がぁ?」
 そんな気はしていたが、改めて言われるとあまりにも非現実的なことだったので、綾子は体を起こして猫の消えた方を見た。
 そこには入ってきた扉がありさらに、小さな猫用の扉がついていた。
「そーいうヤツなの」
「ふぅん……使えるヤツね」
「まぁな?」
 滝川の目が笑い、探るように綾子を見る。
 続く言葉はなく、彼はいれたばかりのコーヒーを起きあがった綾子に差し出した。綾子も黙って受け取り、口をつける。
「……飲めないことはないわ」
「いちいち素直じゃない女だな」
「だから振られたらしいわよ」
 滝川は喉の奥で笑った。
「前言撤回。今日は素直だ」
「あ、そ」
 綾子は居心地が悪くて目をそらす。滝川からこき下ろされることには慣れているが、ほめられることには慣れていない。
「で?」
「で、って何よ」
「誠実ぶってんの」
「アンタの、どこが」
 滝川は構わずに言葉を続けた。
「で、俺も梅吉に倣って気を利かせた方がいいのかな?」
「そうしてもらおうかしら?」
「別の気の利かせ方を期待する気分みたいだな」
「分かってんならつまらないこと聞くんじゃないわよ」
「心優しいのだが、おしゃべりが玉に瑕」
「よく言うわ」
 滝川の手がカップを置いた。
「飲み終わったんだけど?」
「だけど、何よ! いちいち聞かないでくれる。嫌な男ね」
「じゃあ許可をいただくのはやめましょーか。……来いよ」
 さて、これが楽しくナンパされた相手ならかわいらしく従ってみせるのだが、と綾子は滝川の顔を見つめた。
 これを相手に見栄を張っても今さら底が知れている。
 だからつんと顎を反らせて見せた。
「アタシがぁ?」
「そう来たか」
 滝川は少し考えた後、マットレスの半ば辺りを指した。
「譲歩しろ。そこまで来い」
「どうしようかしら」
「電気は消した方がいいよな?」
「聞くなって言ってるでしょ」
「聞かずにどうするんだ、このわがまま」
「さっさと消せばいいのよ」
「ああそう」
 電気を消しに滝川が立ち上がる。
 蛍光灯が消えても、ブラインドを降ろしただけの窓からは月明かりが流れ込んでくる。それでも人気のないオフィス街だからだろう、綾子の家よりはよほど暗かった。
「お前、避妊薬は飲んでるの」
 驚くほど近くで声が聞こえた。
「飲んでないわよ。人を遊び人みたいに言わないでくれる」
「そりゃ偏見」
「どうだか」
「じゃ、ちゃんとスルってことで」
「当たり前でしょ」
「当たり前だと思ってんならお前、相手は選べな?」
「説教しないで頂戴」
「悪うございました」
 さまよった腕が物体にふれた。固い体だ。男の体をしている、と親しんだ仲間を綾子はやっと認識する。
 ふれた腕をマットレスに押しつける力の強さも。
「でさ」
「……いいから黙って抱きなさいよ」

 

 いつの間にか目が慣れた、と綾子は高い天井を見つめながら思った。
 ぽつりと音がして離れたところにあったらしいランプがついた。ぼんやりと浮かび上がる辺りの様子を見ると、ベッドサイドに置かれていたもののようだ。
 滝川がタバコをくわえたままランプから手を放す。ジーパンだけ穿いている。それなりには見栄えにも気を回すらしい。
 ベッドから毛布を投げてきたので、綾子はそれを体にかけた。だるくて起きあがる気はしない。何をやっているのか、とは幸い思わずに済んだ。1人で家に帰るよりよほどよかった。
「アタシにも頂戴」
「何?」
「タバコ」
 滝川は綾子の枕元に腰を下ろした。
「吸うのか?」
「気分なの」
「気分ねぇ」
「アンタが美味しそうに吸うから欲しくなっただけよ」
「子供か、お前は」
 火をつけたばかりらしく、滝川のくわえるタバコはまだ長い。
 それを口から放し、滝川は横になっている綾子の口元に寄せた。
「どーぞ」
 疲れた体を横たえたまま、口に入れられたタバコを吸い込んだ。
 普段吸うことはなくてもむせるほど子供でもない。
 やはり苦いだけだったが、肺を満たす満足感があった。
「悪くない」
 滝川は綾子に横顔を見せたまま口元だけで笑い、煙を吸い込むと交互に綾子にも吸わせた。
「悪くないわ」
 小さく、繰り返す。
 分け合えるものがある相手も。

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