アリスのお茶会

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  4. 白い手の

 昔、トリスタンとイゾルデという二人の物語があった。
 トリスタンは、金髪のイゾルデを愛したが、その思いがかなうことはなかった。
 そこで彼は、白い手をしたイゾルデを見出す。
 誰かの身代わりに愛された人間も、誰かを身代わりにせずにいられなかった人間も、物語の中に悲しく映る。

白い手の

『悪霊はひとりぼっち』より
初出:1999.7(D.D.連合さんに寄稿)

 ナルが部屋に入ると、そこでは相変わらず姿勢ひとつ変えないリンが、ただ黙々と命の吹き込まれていないヒトガタを作り続けていた。
 長身の背中は壁のごとくそぴえ、彼の表情を隠す。
 脇には、すでに小山のごとくヒトガタたちが積み上げられていた。
 緑陵高校の生徒、数にして六百人。明朝までに彼らすぺての分のヒトガタを作り終えなければならない。その作業は、リンとナルにとっても造作もないとは言えなかった。
(この分なら明日には間に合いそうだ)
 部下の仕事ぶりにナルは内心うなずき、リンの後ろに控える形で静かに座った。
 この段になってナルにできることはいくらもない。リンの能力は把握していたし、その実力にナルは何ら問題を感じない。
 今ナルがするべきことはせいぜい資料の再検討、情報の見直し程度のことである。
 どっちにしろ一刻を争うことではないのだから、一番優先されるべきはリンの集中を妨げず、その仕事を円滑にすることであった。
 時計はすでに深夜を指していた。昼間の喧騒は遠く、ここ数日面倒にかかずりあっていた緑陵高校も今は遠い。
 仕事をともにしていた面々の誰も知ることがないこのホテルには、どんな邪魔も入ることがないだろう。
 ナルがゴーストハントという仕事を始めるようになり、もう幾年もの年月が過ぎている。
 実際に現場に降りるフィールドワークを始めたのは、ゴーストハンティングに関わるようになったその時よりしばし後のことではあるが、それでもずいぶんになる。
 ゴーストハンティングは俗に幽霊と呼ばれるものを確かな存在として狩り出そうという試みだ。
 霊というものに関わりつづけるその仕事の性質上、それは従事する彼らをいつでも生と死を見つめる立場に立たせる。
 ナルにとっては幼い頃から否応なく適応させられてきたことであったし、また真っ向から見つめ、判断するだけの精神力と分析力を彼は充分に持ち合わせている。
 だが、中には究極の選択ができない人間たちもいる。
 人並外れた能力の持ち主のナルとて、限界があることとを知らないわけではない。ゴーストハンティングは一人でやるものではない。それが分かっていればこそ今までもずっとチームを組んでその中でやってきた。
 問題は、そのチームの人間たちだ。
 すべての人間がナルのようにいかないことなど承知している。だが了解はできても実際に足を引っ張られれば腹が立つのは当然のことだ。
 ましてや彼を助けるべき存在である専属の部下が今は一番の引っ掛かりであるとなれば、苛立ちは頂点に近かった。
「……後悔なさっているのでは?」
 声をかけてきたのが誰なのかはかりかねて、ナルの返事は一瞬遅れた。
「……なにをだ?」
 無口な彼の助手はその姿勢を寸分動かすことなく、無駄口に似合わぬ冷厳とした動作で作業を続けている。
「リン?」
「墨を買ってきていただけますか」
「は?」
「墨です。足りそうにありません」
「……ああ、分かった」
 答えてから、ナルは助手の広い背中をにらみつけた。
「話をそらすな。後悔とはどういう意味だ」
「それは、ナルもよくお分かりでしよう」
「回りくどい言い方はやめてくれないか」
 わずかに、リンは苦笑したようだった。
 気配でそれを感じて、ナルは眉を寄せた。
「墨をよろしくお願いします」
「リン」
 とがめる声を出すが、目の前の背中は揺らぐふうもなく、振り返りもしない。
 自分で考えろ、とでも言いたげな背中としばらくにらみ合いが続いたが、あきらめたのはナルの方だった。
 この年かさの助手の意固地なことを彼はよく知っていた。
「行ってくる」
 憮然として言ったが、これにも返答はなかった。
 別段期待したわけでもなかったのでナルはそのまま部屋を出る。
 ホテルの重い扉を閉めると、どんな音も空気も遮断された。
 扉の閉まるその鈍い音と同時に、ナルはすべてから離された気がした。面倒な助手や、世話のかかる部下や、やかましい同業者たち、彼が後にして歩いているすべてのものから。
 静けさの中ナルは長い廊下を歩き出した。
 その静けさが心地いいのか物足りないのかが、なぜか彼の中で曖昧に感じられたが、その理由など思索する価値のないことだと思われた。
 するべきことだけははっきりわかっているのだから、それでいいと、思われた。

 二十四時間営業のコンビニエンスストアで墨を見つけて購入し、ナルは帰路についた。
 真夜中の闇に染まった新宿の街は、それでもまだわずかに明るい。
 オフィス街にほど近い辺りであったので繁華街のにぎやかさがあるわけではないが、この時間まで仕事をしている人々が目につかないことはない。何もナルばかりが働いていているわけではない。
 そうして歩きながら、ナルはふと違和感を覚えた。
 その正体にはすぐに思い至った。ナルが自ら買い出しにおもむくのが非常に久方ぶりであったのだ。
 ナルは雑用が極端に嫌いだった。
 それが必要なことであっても、誰にでもできる雑用をわざわざナルがする必要はないのだ。
 同じ時間に人の何倍もの働きができるナルが雑用をすることは、団体にとって時間の無駄でしかなく、言うまでもないことだがナルにとっても有益なことは何ひとつない。
 SPRに入ったばかりの頃は、それでも手際よく言われたことをこなして見せた。やくたいもない雑用を片端からこなし、もちろんそのかたわら自らの研究もおこたるはずがなく、ナルはほどなく雑用免除の身分を得た。
 予定通りだった。
 日本に来てからも部下はいた。雑用は彼に任せればよかったし、ほどなく雑用係を見つけることもできた。
 雑用係に連れてきた少女は非常にやかましく口うるさいことこの上なかったが、骨惜しみせずによく働くので重宝した。何の知識もないためろくな役に立たないとは言え、いて邪魔なことはない。
 彼女が、麻衣がいないのは久しぶりだった。
 ……そこまで考え、ナルは足を止めた。
(そうだ……あの時に似ている)
 途端に重くなった足に、気付かないふりでナルは再び歩き始めた。
 目を伏せたのは一瞬、目の裏にとある光景がよぎったのも一瞬だった。
 その光景の中には義母がいた。
 イギリスの家があった。
 空を覆うビル街はなく、日差しが注いでいた。
 庭に大きな木があった。
 その下で兄が泣いていた。
 ナルには、泣いているように見えた。
 麻衣によく似た兄だった。
 感傷に浸るでもなく、ナルの足は正確に迅速に彼をホテルへと連れ帰った。
 リンはヒトガタの山の横で姿勢を正して座していた。精神集中をしているようだったが、ナルが近づく足音を聞きつけたのか、威厳すら感じる動作ですでに下ろしてあった筆を取った。
「資料を」
 ナルはうなずき、用意してあった六百人の生徒の膨大なプロフィールを手に取った。

「あやまっていらっしやい」
 ルエラは生来優しげな顔を悲しくさせて、ナルを見つめた。
「ケンカをした時にはあやまらなくてはダメ。あなたたちは2人ともとても頭がいいのだから、分かるでしょう?」
 頭がよくても分からないね、という言葉は言わずにおいて、ナルは黙って義母を見返した。
「ナル」
 そう言って触れてきたルエラの指は柔らかく優しく、ナルは苛立ちを隠して目を伏せた。
「……僕が悪かったとは思えないんだが」
「悪くなかったの? 本当に?」
 ナルはため息をつく。
「ジーンの言う通りにしていれば死者が出ていた可能性がある。やれることもやらずにいることは僕にはできない。確かに怪我人を出したのは僕のミスかもしれないが、それに関して、わめいていただけのジーンに謝罪する必要は感じない」
 不意に、ルエラのすみれ色の目がうるんだ。
 焦り、思わず知らず手を伸ばしかけ、ナルはすっかり参ってしまい彼女を見つめた。
「……悪かった」
「どうしてあやまるの?」
 見つめてくるルエラの瞳はあくまで優しく、ナルは憮然としながらも答えないわけにいかなかった。
「……酷い言い方をした」
「いいのよ」
 ふわりと徹笑み、ルエラはナルの肩に触れていた手で庭を示した。
 そちらに何があるのか、ナルは分かっていた。
「ジーンにも、そう言ってあやまっていらっしやい?」
「……」
 兄は、彼を責めているであろう。何もしなかったくせに、何かをしたナルを責めている、それは悔しいというよりいっそのこと不愉快だと言ってもいい。
 足はひどく重かったが、成り行き上仕方なく、ナルは庭へと向かった。
 外は嫌味なほどの快晴で、ナルはさらにうんざりした。
 日差しを避けて玄関ポーチの壁に背中を預ける。人の生命を懸けた徹夜仕事が明けたばかりで、ナルも充分に疲れていた。
 ただ落ち込んでいただけのジーンとはわけが違うのだ。
(しかし、これでジーンが霊視を拒むようなことになったら困るな)
 世の中には本物の霊能力を持つ人間は少ない。その点でナルはジーンの能力を買っているのだ。
 だが、力があったとしても実際問題としてナルの邪魔をするのであれば、役に立たないことに変わりはない。
 玄関を避けて勢いよく日が降り注ぐ。
 庭一面の芝生はスプリンクラーの水を受けてまぶしく光っていた。庭のはじを示す柵の向こうを競い合うように駆け抜けて行く、ナルと同世代だろう少年たち。
 とても明るい風景だ。
 しかし、ナルの耳に音は聞こえていなかった。
 兄は、家の門の近くにいた。
 一際大きな木の軒の下で、ナルがしてるように日光のシャワーを避けて、 彼はひとりの女の子を抱きしめていた。
 彼女には見覚えがある、とナルは目を細めてふたりを見つめた。
 柔らかい金髪を三つ編みにした少女の腕には、真白い包帯が日を跳ね返すように巻かれていた。今朝、除霊の際に血しぶいたあの、傷であろう。
 さすがに記憶に新しい。大量の血も、肉の断面も、泣き叫ぶ声も、ジーンの涙も。
 ゆっくりとしたリズムで、少女の小さな手が兄の背中を叩いていた。幼い胸に顔を埋めたジーンの表情は遠く、窺い知れない。
 こんなことで有能な霊能者を失うことになるのだろうか、ナルは苛立ちにまかせて彼らを遠くからねめつけた。
 ジーンはいい、感情的に責めて喚いて、気のおもむくままのことをしていれば周囲の人間が許してくれる。
 ナルにはできない。
 するべきことを投げ出すことはできない。
 彼女を傷つけたのはナルかもしれないが、命を救ったのもナルだ。
 だと言うのに、これ以上彼の仕事を滞らせる真似をするな、と思う。
 静寂のうちに時間は過ぎていった。
 うっとおしいほどの日は少しずつかげり始めた。
 変わらず、ナルは玄関ポーチに立ちつくしていた。
 少女から腕を放して送り出し、やっと家へと重い足を向けたジーンは、ナルを見て困ったように立ち止まった。
 そっくり同じ顔が、彼を待っていた弟を見つめる。
 黒い双眸をナルは静かに見返す。
「……僕はやれるだけのことはやった」
「うん」
「あんな子供になぐさめられて、恥ずかしいと思わないのか」
「うん……ほんとに、そうだよね」
 日差しがかげるように柔らかなまなざしがかげり、ジーンは目を伏せた。
 その視線は何か思わしげにポーチのはじを見つめ、宙をさまよい、それからまっすぐにナルを見た。
 ジーンは、はっきりと口を開く。
「ごめん」
 ナルは、呼吸を止めた。
「……酷い言い方をたくさんした。ナルは一生懸命やったのに、悪かった」
 ゆっくり、息を吐き出す。そうする間にいらえを用意しようとナルは思考を空転させたが、吐く息とともに思考も流れ出していくようで何も、言うべきことが思いつかなかった。
 先程の苛立ちはどこへ行ったのだろう?
 自分の気持ちが今は怒りなのか悔しさなのか、後悔なのかさえ判別がつかなくなっていた。
 突き上げてくる困惑に、ナルは目をそらした。
 優しい兄はその弟の肩に軽く額を付け、抱きしめるような動作をしてから離れた。
 彼が顔を上げたことで微笑んだその瞳がナルの目に飛び込んでくる。
 扉をくぐるジーンの姿が視界から消えて、数秒間ナルはその場に立っていた。
 言うべき言葉をなくした、その喪失の感触が胸をかきまわしていた。
 視界のはしで、見る間に太陽が落ちていった。

 緑陵高枚のグランドには人影がない。
 グランドに立ったナルは、いつかの午後のように大きな木を見つけた。
 似たような状況の後、期せずして似たような行動を取っている気がし、ナルは皮肉に感じてその木を見やっていた。
「……言ってくれれば、よかったのに」
 隣に立った麻衣が呟いたので、ナルは軽く肩をすくめた。
「転嫁は難しい。いくらリンでも、全員助かるとは断言できないからな」
「……だって」
 またやかましく言い募ってくるかと思ったが、予想に反して麻衣はそれだけ呟くと顔を伏せた。
 そちらを見やるが、彼女は何を言うでもない。
 柔らかな髪に隠れて、披女が泣いているような気がした。
 そのうつむいた静かな姿に、あの日の黒髪の少年の涙がフラッシュバックした。
 ナルを見つめた、ナルを抱きしめた微笑みが浮かんだ。
 あの大きな木の下に、まだナルが謝罪するのを待っていてくれるような錯覚がひどく強くよぎって……
 瞬く間に消えた。
 彼はもう死んだのだ。
 ナルはゆっくり、グラウンドの方へ向き直った。
「……悪かった」
 グラウンドの一角を支配した大きな木を見つめる。木洩れ日の注ぐその軒下を見ていながら、ナルはどこか実際よりも遠くを見ている気がして、そこから目をそらせなかった。
 すぐそばで驚いたような気配がした。
 眼裏に、目を見開いてこちらを凝視する兄の黒いまなざしを思い浮かべて、ナルは次に続くぺき言葉を探した。
 いつでも隣に立っている人間の息遣いを感じた。
 ナルの言葉を聞いて、微笑うであろうその柔らかな微笑みを、いったい誰のものかもわからない笑顔の印象を、いつか思い浮かべていた。
 あの日に見つけられなかった言葉を、失ってしまった言葉を、まるで繰り返すように。
「ずいぶん酷い物言いをした。すまない。麻衣はすぐに他人にのめりこむから……」
 あの日に泣いていた兄に、言うべきだった言葉を。
「辛かったろう。悪かった」
 うん、ナル、そう笑うはずだった兄がいない。僕こそごめん、そういう言葉を聞くはずだった。
 僕が悪かった、などとそんな言葉をナルは聞きたかったわけではなく……
 ナルの行為を肯定して欲しかったわけではなく……
 ただ、感情を捨てて、苦味を捨てて、仕事をこなしただけだったのだ。
 むしろ奇妙だと、ナルは思う。
 なぜこの言葉を他人に言っているのだろう。
 麻衣は怒るだろうか。
 それとも許すだろうか、兄がするはずだったように。
 もしもナルがあの時こう言いさえすれば、彼が必ずそうするはずだったように。
 ――許すだろうか?
「……ずるいっっ!!」
 不意をついた大声に、ナルは瞬間放心した。
「……は?」
「あたし、あやまろうと思ってたのにっ! 先に言うなんて絶対にずるいっっ!」
 競争する問題ではない、と思える。
「あのな……」
「ナルってば、そ−やっていっっつもオイシイとこぱっかとってくっ!
ずる−いっっ」
「こら」
「だって、ずるいもんっ」
 臨戦態勢を取った麻衣の額を軽く指で弾き、とりあえず黙らせてみる。さして痛くもないだろうそれに小さく首をすくめる麻衣は、犬猫と思えば愛らしいと言えなくもない。
 ナルは小さく笑みを浮かべた。
 やわらいでいく麻衣の顔には、いつしかそっと徹笑みが浮かべられた。それは兄のものではなく、語られる言葉も兄のものではない。
 ただ……
『……許すだろうか』
 その問いへの返答には違いなかったと思う。

 ことりと静かにカップが置かれ、ナルはしばらく読み続けていた本から顔を上げた。麻衣がいる時には自分でお茶をいれる必要もないのだ、と改めて気付いた。
「ど−ぞ、お茶です」
「ああ」
 ナルのそっけない返事に笑顔を返して、麻衣はもとの仕事の書類整理に戻っていった。体力が有り余っているようによく動くその後ろ姿に、ナルはふと思い出す。
「麻衣」
「は−い?」
「こないだ、調査の時。学校に忍び込んだと聞いたが?」
「ああ」
 バツの悪そうな政をして、麻衣は軽く視線をそらせる。
「うん、まあね。実は……自力で除霊できないかと思って」
「なるほど。馬鹿か、お前は」
「……返す言葉もございません」
 滝川たちが迎えに行ったとナルは聞いていた。なるほど、そのような無茶をしたのなら、彼らの助力がなければ今ごろ麻衣は死んでいただろう。
 ここにいてお茶をいれることもなかったわけだ。
 麻衣がいれた紅茶を一口飲み、わずかに眉をしかめてナルはその茶色の液体を見つめた。
 いつも変わることなく彼の所望に応えて提供される、それら。当たり前に今もあるとは限らないのだと彼は知っていたはずだが、本当のところ知らないでいたような気がした。
 あの日に、そして先日の調査の後にナルに投げかけられた笑顔が見えたように思った。
その笑顔の印象を何と表現していいか、ナルは知らない。少なくとも超心理学とは遠い次元の問題に思えたので、模索する気もさらさらない。
 ただ、その笑顔と好意とが、迷惑させられながらもその調子で隣にあるものだとどこかで思っていた。
 あの日は、そう思っていた。ひょっとしたら今も、そう思っている。
 『人殺し』と叫んだ麻衣の、ジーンの表情はナルにとって不愉快だったが、そうさせたのは自分なのも確かだった。
 飲み終わった紅茶のカップを持って、ナルは立ちあがってみた。
 それに気付いた麻衣がぱたぱたと寄ってきてナルの手からカップを取り上げる。
 今のところいつでも彼の前に差し出される、その白い手を見た。
「ありがとー」
 そう言って、いつにもましてこぽれるように笑う。
「どーしたんだ、今日はサービスいいじゃない。いつもこのくらいしてくれると助かるんだけど?」
 答えずにただ肩をすくめて、ナルはソファに戻った。
 いつもと同じ音が、彼女のカップを片づける動作を知らせていた。
 許される、ということ。それは都合を認めることと引き換えに見ないふりをしてやることとはいささか違うように感じる。
 麻衣にまで死なれずに済んでよかったように思った。
 彼女の手はいまだに差し出されている。
『――許すだろうか?』
 そしてナルはソファに戻って本を開き、もう決してナルを許すことができないあの日の兄を、一人思う。

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