アリスのお茶会

いつか、木の下で

半年前――九月後半

 浅いまどろみの波が彼女の意識をさらっていった。
 眠ったのか、と彼はごく小さな声で呟く。そうすると彼女はわずかにまぶたを上げて、はしばみ色の目をのぞかせる。口元が動く。起きている、と言いたいらしい。だが、彼が何かを答えようとするとまた静かにまぶたを閉じてしまうのだ。
 疲れたのだろうと思い、彼は枕元から本を取り上げた。
 少しでも時間があったら読書をする習慣がついているため、常に近くに本を置いておくくせがあった。枕元のサイドテーブル、食事をするテーブルの脇にあるサイドボード、書斎の机にはもちろんのこと。紅茶を入れるついでにキッチンに置き去りにした本さえある。彼女はいつもそれを見て苦笑するが、とがめようとはしない。彼女はいつも勝手に彼の部屋を片づけるのだが、仕事道具には手をふれようとしない。だから、それらの本だけはいつもこぎれいな部屋の邪魔者のように置き去りになっている。
 二人でいる時に退屈を感じて本を読み始めても、彼女はたいてい何も言わない。あきれているのかもしれないが、放っておいてくれることはただありがたかった。
 おそらく一人にされることにそれほど抵抗感を持たない女なのだろう、と彼は思う。健康のことや仕事の姿勢についてはうるさく口を挟んでくるおせっかいな性分の人間だ。男女交際の在り方というものについても、文句を言おうと思って言えないことはないはずである。しかし、現実としてその点についての要求を突きつけられることはほとんどない。となれば、言う気がないと考えるのが自然だろう。
 両親も兄弟もいない孤児だと聞く。一人には慣れているのだろうと彼は考えていた。
 それは彼にも理解しやすい理由だった。
 自分の時間を持つことをお互い知っている。だからこそこれほど近くにいても気に障ることが少ない。
 実際、彼女の位置はここのところ年を追うごとに近くなっていっていた。上司と部下の関係から、近年はある種の友人に。そして一年ほど前からはなしくずしに恋人と呼べる立場に。
 物理的にも精神的にも、明らかに距離は縮まっている。彼女はほとんど毎日のようにマンションに泊まりに来る。同じテーブルで夕食をとって、それほどの誤差のない時間に同じベッドに横になる。
 夜中はかつて彼にとって読書の時間以外の何物でもなかった。その時間になって1m以内に人がいたことなど、片手で数えるほどだ。たった一人の兄弟ですら遠慮して放っておいてくれたものだ。兄と別れてからは、もともと数少なかった機会も完全に途絶していた。
 兄が死んで、もう七年近くになる。
 遮光カーテンを閉めた窓の外は、静まり返っている。夜中の一時を過ぎた住宅街で外を歩いているのは、不規則な時間に帰宅するサラリーマンくらいのものだ。深酒に理性を壊された場合を別として、彼らはやかましい音をたてて歩きはしない。
 ベッドサイドランプ一つをつけたベッドルームは薄暗く、静けさを際だたせる。となりには規則正しく呼吸している女が布団に埋もれている。
 それが、最近の彼の夜だった。
「もし……ねえ、ナル?」
 ささやき声に、彼は本から顔を上げた。
 少女のようにあどけない女の顔は、いつの間にか彼の方に向けられていた。
「起きてたのか」
「起きてる、って言ったじゃん……」
 半分眠った声で彼女は文句を言う。寝ぼけているのかもしれない。
 彼は、本に目を戻してゆっくりとした速度で文字を追いながら、言葉の続きをうながした。
「もし? なんだ?」
「もし、たまには一緒に寝ようよって言ったら、たまには一緒に寝てくれる? たまには」
 言いながら顔だけでなく体ごとこちらをむく女の気配に、彼はゆるく頭を横に振る。
「僕は眠くない」
「あたしは眠い」
「寝れば」
「寝るけど……だからー」
「寝てしまえば一緒だろうが一人だろうが変わらないだろう」
「たまには。ねー?」
「麻衣。寝ぼけてるのか?」
 ナルは彼女の額を小突く。
 麻衣はその指をつかんだ。
「ねーってば。どうしてもダメ?」
「眠くない」
「じゃあ……」
 と、呟いて麻衣はナルの袖を引く。
「『眠くさせてあげる』……っていうのは?」
 きわどいことを言う、とナルは思う。おそらくは大人の方法を使うという意味合いなのだろう。それはもちろん彼としてもやぶさかではないし、今どうしても寝てはいけない理由があるわけでもない。
 あからさまにならぬよう慎重に本を閉じながら、言葉を選んだ。
「そういうご希望なら。お付き合いしましょうか」
 にこり、と麻衣が笑う。その拍子に、肩にふれそうなほど伸びた髪が柔らかく首からすべり落ちて、仰向いた首筋があらわになる。
「……エッチ」
「何か?」
「何でもないですよ」
 いたずらめいて舌を出した彼女が、ベッドから半身を起こして彼の肩に両腕を回し、抱きついてきた。
「たまにはね」
 ともすると乱暴になりがちな彼のキスとは違う、彼女からの子供っぽいキス。照れているのか、少し笑いを浮かべて。
 首筋に、胸元に、おもちゃのように柔らかい唇が降ってきて、彼の肌にほのかに熱を持ったものを刻み込んでいく。人はそれを、いたわりや愛情と呼ぶのかもしれない。思考の硬度をゆるめていくような彼女の世界に、彼は意識の半分が溶かされていくような気になる。
 そこまでして一緒に寝かせて、彼女に何の得があるのか彼は知らない。彼女が何を考えてたまにはと言ったのかも知らない。
 彼は、聞いてみようともしなかった。

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