アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月二十二日――午後十二時半

 滝川たちは最低限の荷物だけを持ってロンドンヒースロー空港に降り立った。
 ずいぶん遅くなってしまった、と誰もが思っている。連絡をもらってからゆうに五日以上が過ぎていた。本当はすぐにでも飛んでいきたかったのだ。しかし、仕事を持つということは容易なことではない。全員が予定を無理矢理調節して数日の休みをもぎ取るのに、それだけの時間が必要だった。
 噂には聞いていたロンドン。ここに来るのはナルと麻衣の結婚式に呼ばれるときだろうと、約束もないのに滝川たちは信じていた。こんな形で訪れることになろうとは、もちろん考えてもみなかった。
 共に飛行機に乗ってきたのは、滝川、綾子、リン、ジョン、真砂子、安原の六人。日本SPR関係者の全員である。手配をしたのは旅行慣れしている綾子で、ロンドンの案内役はリンと決まっていた。英語圏の人間が二人も混じっていることが旅支度を多少容易にした。
 リンの指示に従って入国手続きを済ませたあと、六人は言葉少なにヒースロー空港を出た。
「リンさんや、その病院てのは近いのかい?」
「一時間もあれば。この空港はロンドンといっても中心部から離れていますので」
「面会時間には間に合いそうだな」
 滝川は大きな鞄を抱えなおした。
 リンは香港の出身だが、長くイギリスに暮らしていた。今も本当の家はケンブリッジにある。ケンブリッジからロンドンまでは電車で一時間と少し、当然出てくる機会も多い。その彼が示すまま、一行は足を進めた。
 ロンドンはアンダーグラウンド(地下鉄)に支えられた街である。彼らはロンドンの風景を楽しむ間もなく黙って地下に潜り、ロンドン中心部へと向かった。
 麻衣が入院しているという大学病院へ、ただ急いで。



 Mai Taniyamaと書かれた扉をくぐったのは、真砂子が一番始めだった。
 彼女は、受付で部屋を聞いたあと一番足早に歩き、真っ先に部屋へ入っていった。
「こんにちは」
 病室には、飾りのないベッドと椅子、サイドテーブルが一つあるだけだった。どれも病室に備え付けのものらしく、ものを増やした様子もない。サイドテーブルの上の花だけが後から持ち込まれたものだろうか。
 真砂子が声をかけると、ベッドで眠るように目を閉じていた女性が億劫そうに顔を動かした。
「……真砂子」
「あんまりお加減がよろしくないのかしら?」
 続いて、滝川やリンなどがどやどやと病室に入っていく。麻衣はそのたび細く開いていた目を大きく見開いていった。
「嘘」
「何が嘘なんですか?」
 安原が代表していつも通り笑い、そつなく花を差し出した。来る途中で買ったものである。
「お見舞いですー」
「うそぉ……聞いてないよ」
「俺ぁ言ったぞ。ナル坊に」
 滝川が頭をかく。
「聞いてない。嘘、ナルひどい」
「あんたひどい声ね。はい、おみやげ。」
 綾子が差し出したのは、親の実家で作ったというはちみつだ。病人にはこれだと日本を出るとき強固に主張していた。
「俺からのみやげ。重かったぞー」
 滝川は重い鞄をどさりとベッドのそばに置いた。個人の荷物とは別に持ってきたものだ。
「ありがとー」
 今にも泣きそうに麻衣が礼を言う。段々実感が湧いてきたらしい。安原から渡された花と綾子から渡されたはちみつのびんをベッドの上でしっかりと押さえ、彼らを見回した。
 遠い日本から駆けつけた面々は、顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。
「ごめんね、今ちょっと熱が高くて起きれないの。起きたらナルに容赦なく怒られちゃう」
「いいわよ、また体調の良さそうなときにでも来るから」
「うん。いつまでいれるの?」
「真砂子とそこの少年以外は、当分いるわ。ひまだしね」
「また、来ますわ」
「不義理ですみません」
 真砂子と安原が申し訳なさそうに言う。
「ううん、ごめんね忙しいところを。もう、ナルが言っといてくれたらがんばって元気になっといたのに」
 麻衣は力のない声で、それでも一ヶ月前に日本を出ていったときと変わらない明るい話し方をした。
「その、ナルは? 付いててくれてないわけ?」
「ナルならね、今仕事中。病院のどっかにいるよ」
「病院のどっか?」
「うん。ここの怪談を調べてるの」
 あまりのことに、誰もがあきれて声を上げた。
 病院には怪談がつきものだが、何もこんな時まで仕事に精を出さなくてもいいではないか。いったいどういう神経をしているのだろう。
「あ、違うの違うの。依頼があったの」
「待って。待ちなさいよ、だからってね」
「ナルだって病院のありふれた怪談なんか調べたくないってさ」
「じゃあなんで調べてんのよ。あんたのこと放ってまで」
「うん、依頼人はここの病院の院長で、ウィルソンさんて人でね。ウィルソンさんてナルみたいな仏頂面なのに、けっこう迷信ぶかい人なの。病院の怪談が気になってしょうがないんだって。前から調査を依頼してたんだよ。ナルはつれなく断ってたけどさ」
 ナルの仕事の選び方を知っている面々は、その点に関して深く納得した。
「あたしの入院てそのウィルソンさんて人に直接頼んだらしくてね。埋め合わせってことで、形だけでも調査してるらしいよ」
「あー……なるほどね、それならまあ」
 理解できる理由である。
 彼らは再会を喜び合い、しばし近況報告に時間を費やした。
 麻衣によれば、ナルも当初は本当にずっと彼女に付いていたそうだ。彼女に話し相手ができて、やっと放っておけるようになったのである。ウィルソン氏はその間彼に何度も調査を頼んでいたらしいが、今はその状況ではないと頑として断っていたそうである。
 それにしてもナルというのは、イギリスにいようが婚約者が病気だろうが、まったく変わりのない男である。
 ほんの十分ほどの再会の後、遠慮がちに滝川が率先して席を立った。
「じゃあ……俺はナルを探してくるわ。あんまり大勢いても麻衣が疲れるだろう」
「分かった。ありがと、またね」
「また後でな」



 滝川を先頭にほとんどの人間が部屋を出ていき、後に残ったのはベッドの麻衣と真砂子だけになった。
 真砂子は安原の花を予備の花瓶に生け、ベッドのすぐ近くに椅子を持ってきて座った。
「話すのが辛くなったら言ってくださいね」
「もちろんそうする。ナルから厳しく言われてますから」
 真砂子がナルに厳しく言われながら仕事をしたりしたのはもう三カ月以上前のことで、何やら懐かしく思えて少し笑った。麻衣にはまだそれが日常なのだ。
「ナルは、少しは優しくして下さいます?」
「少しはね」
 麻衣ははにかむように笑った。
「病人相手だっていうのに、全然手加減してくれないよ。ナルらしいよね」
「そうですわね」
「でも、たぶんね。ナルが一番辛いんだよ」
 その物言いに、真砂子は胸を衝かれて麻衣を見た。
 麻衣は眠そうに、ゆっくりと瞬きながら話す。
「ナルは調査に行ってるとき以外ずっとここにいてくれるの。あたしが眠ってても、発作を起こしてお医者さんとか看護婦さんがいっぱい来てるときも。なんか、ウィルソンさんにすごく無理言ってるみたいだけど。でも、あたしほら、英語うまくないから。だから付き添いが絶対必要だって納得させてるんだよね」
「ええ」
 異国の病院で寝たきりになっている彼女の不自由さを真砂子は思う。それを考えれば奇跡のように彼女は前と変わらない。
「あたしは一日ほとんどうとうとしててあんまり時間を長く感じないけど。でもナルはずっといてね。まぁ本読んでて構ってくれないんだけど。だけど目を開けていつもナルがいるから、すごくほっとする。勝手に、愛されてるなぁなんて思っちゃう」
「愛されてますわよ」
「だよね」
 ふふふ、と麻衣は笑う。
「でも、ナルは具合の悪いあたしをずっと見ててくれるから。言わないけど、きっと辛いんだよ。発作の後は、あたしより暗い顔をしてる」
 麻衣はそっと目を閉じる。
 言葉通り、一日中眠いのだろう。寝かせておこう、と真砂子は静かに立ち上がった。
「……人はいつか死ぬ、ってナルが言ったけど」
 目を閉じたままごく小さな声で麻衣が呟き、真砂子は足を止める。
「……だとしたら、あたしは今ただ普通に生きてるだけだと思える。まだ死んでないもん。死なないかもしれないもん。ナルの、そういういつも通りの態度がね、あたしはすごく……すごく……」
 真砂子は続きに耳を澄ましたが、それきり麻衣は黙ってしまった。疲れて本当に眠ってしまったようだった。
 すごく、に続く言葉は何なのだろうと思いながら、真砂子はそっと部屋を出ていった。



 滝川たちは、内科病棟の一角でナルの姿を見つけた。麻衣の病室からそう離れていない。ナルは、病室の一つから何やら礼を言いながら出てくるところだった。
 おそらく一つ一つの病室を訪ねて聞き込み調査をしているのだろう、と彼の調査に引き回されてきた滝川はすぐに察しが付いた。
「ナル坊」
 滝川が声をかけると、ナルはここが渋谷のオフィスで滝川がいるのも何ら不思議ではない、というような顔をして振り向いた。
「ぼーさん。来てたのか」
 一応まがりなりにもその場に立ち止まって彼らを待ってくれたナルの方へ、滝川は手を上げて三カ月ぶりのあいさつをしながら近づいていく。
「来てたさ。遅くなった」
「別に待ち合わせをした覚えはないけど?」
「交代要員なしで詰めてんのは厳しかったろ?」
 素直にうなずくナルではない。彼は肩をすくめただけだった。
「話を……聞かせてもらえるのかな?」
「聞いても楽しいことはないと思うけど」
「俺らには人の情ってものがあってね」
 ナルはため息をつき、滝川らが来た方向を目で示した。
「どこかに座ろう」

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