アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月二十二日――午後二時

 病院の待合室には老人を中心に人が腰掛けておとなしい声で話していた。一般外来の受付は終わっているはずなので、特定の予約患者か入院患者なのだろう。
 この病院は実績のある最先端の病院だが、それほど歴史があるというわけでもない。建物も新しく、日本と変わらない雰囲気が滝川たちを少しほっとさせた。
 ナルは他の人間の邪魔にならなそうな端の席を選んで腰掛けた。滝川たちもそれに倣う。
「で? 一体どういう病気なんだ?」
 ナルからの電話がかかってきたのは、滝川のところだった。麻衣の関係者として真っ先に思いついたのだろう。
 突然の電話に驚いた滝川に、ただ簡潔に「麻衣が倒れた。かなり高い確率で死ぬそうだ。会いに来るなら、一ヶ月以内に」とだけナルは告げた。もちろん滝川は説明を求めたが、いちいち全員に説明するのが面倒、聞きたければイギリスまで来いとつれなくナルは言った。
 麻衣の退屈しのぎになる本か何かを持ってこいと命令して。
 滝川が抱えてきた大きな荷物は、全員で選んだ大量の本だった。
「ナイトメア。と、僕は聞いた。悪夢を見ている気分のうちに死んでしまうからだそうだ」
「聞き覚えがねぇな」
「僕もだ。知名度も発症率も低いらしい」
 そしてその代わりに毒性が強いというわけだ、と滝川は呟いた。
「医師の言葉を信じるなら、遺伝性のDNA異常が原因。破壊細胞を産出するDNA情報があって、それが活性化すると発症する」
「破壊細胞?」
「神経の働きを阻害する細胞。これが筋肉や臓器の働きを鈍くする、あるいは止める。足や手ならともかく、臓器に作用すると致命的」
「臓器が一つ一つ使いものにならなくなるってことかな?」
「いや、阻害するだけ。抗体ができれば徐々に機能も回復していくそうだ」
「回復例は、あるんだな?」
「数千人中に、三十人ほどね」
 それは、滝川たちが思っていたより多少低確率だ。しかしまったく希望の持てない数字というわけでもない。
「一ヶ月ってのは、どこから来た」
「医師の判断を信じるなら、としか言えないけど。この細胞の繁殖速度から心臓までの到達時間を予測したものらしい」
「早いな」
「早い。だが、繁殖力のわりには非常に弱い細胞らしい。抗体ができれば回復も早い。時間と体力の勝負だ。病気が体を弱らせるのが先か、体が抗体を作るのが先か」
「……ああ」
「ただ……麻衣の場合、どうも胃から発症したらしいから。心臓が近い」
「……なるほど」
「説明はこのくらいでいいかな?」
 ナルは皮肉に笑う。確かに、彼の言うとおり説明を聞いても暗い気分になっただけだ。
 滝川は肩をすくめた。
「抜き差しならない状況だってのは、よく分かった」
 病気の説明を聞いたところで、麻衣がどれほど苦しんでいるのか彼らに分かるわけでもない。体の中が壊されていくその気分など、分かるはずもない。
 その場でナルの話を聞いていた全員が重いため息をついた。
 綾子などは鼻をすすっている。
 背中を叩いてやろうかと滝川が手を伸ばしかけたとき、ナルがぴしゃりと言った。
「松崎さん。麻衣の前で泣くくらいならその前にさっさと日本へ帰って下さい」
 綾子だけでなく、ジョンも驚いたようにナルを見る。
「気持ちは分かりますが、何もそこまで言わはらんでもよろしいん違いますか?」
「彼女の病気はストレスが癌なんだ。本人も助かるかもしれないと思っているから何とか気力が保っている。近くで暗い顔をされたのではたまらない」
「それは……」
「僕があなたがたを呼んだのは、麻衣に日本語の通じる気張らし相手が必要だと思ったからです。落ち込むだけが能の人間なら必要ない」
 綾子は口をつぐんで目元を拭った。
 確かにそうだ、と滝川は思う。彼らにとっては今聞いたばかりのショッキングな事実だが、麻衣はそれを乗り越えようとしているのだ。
「……分かったわ。アタシも信じる」
 そうしてください、とナルが言いかけたとき、近くのナースステーションが急にあわただしくなった。
 滝川たちは誰からともなくそちらに顔を向ける。中で看護婦たちが何かを言い交わし、一人が外へ飛び出してくる。その後ろから別の一人が彼女に声をかけた。
「先生だけじゃなくて、付添人を呼んでちょうだい! 内科病棟にいるって言ってたから!」
 ナルがはっとしたように立ち上がり、ナースステーションから飛び出してきた看護婦を呼び止めた。
「デビー」
「ミスター・デイビス! ここにいらしたんですか」
「発作?」
「ええ」
 看護婦はそれだけ言うとまた走り出す。ナルは滝川たちを振り返り、また後でと言って彼女の後を追った。



 用事を置いて駆けつけてきたウィルソン医師が病室を去り、処置を終えた看護婦たちが去るのを、ナルは一礼して見送った。
 こうしてこの部屋に駆け込んだのは一体何度目なのか彼にもよく分からない。そのくらい頻繁に麻衣は発作を起こした。一回一回の時間は短く、たいていの場合痛み止めと鎮静剤を注射することで治まる。だが、その間の苦しみ方をそばにいて見ることや、聞こえているとは思えない彼女に医師の言葉を通訳してやることは、ナルにとって空虚で苦痛、としか表現できない時間だった。
 本当はここでその衰弱を見守っている自分が一番、彼女はもうすぐ死ぬのだと信じているのかもしれない、とナルは思う。よくなるどころか怖ろしい勢いで進行していく病状をじっと見つめながら、彼は静かにその病気の進行速度などについて考えていた。
 おそらく彼女を追いつめたストレスの原因は、ほとんど自分の責任に帰すことができるだろうとナルは考えていた。それがひどく後ろめたい。
 今彼女がどう思っているのか、どう感じているのか、それは知らない。今度こそ負担になっていないことを祈るのみだ。
 できることがあるなら、してやるのは当然だ。
 だが、特にない。
 だから彼はただここでいつも通り彼女との時間を過ごしている。
 それはそれで不満はないが、時々その時間が惜しくなるのは事実だった。
 ナルは部屋の隅に移動させていた椅子から立ち上がり、ベッドの脇に立った。
 麻衣は青白い顔色をしているが、よく眠っている。薬による眠りだから、眠っているというよりは昏睡しているという方が近い表現かもしれない。以前に比べると相当やせたと思う。ほとんどベッドに寝たきりでいるから、腕や足から筋力が落ちて怖いほどに細い。
 珍しく話したいと思うときに起こすことができないというのは、物足りない思いがするものだ。
 眠りに沈んでいる意識にさわらないよう、なでるように頬にふれる。
 温かい、というよりは熱い。最近は始終熱を出している。その熱が体力を吸い取っていくと分かっていても、今は体温があることに少々ほっとする思いを抑えられなかった。
 たわむれに唇を重ねようと腰をかがめた時、ナルは何かがベッドの下に落ちていることに気が付いた。何かアクセサリーのようなものに見える。
 発作で激しく動いたせいでどこかからすべり落ちたのだろうと思い、かがみこんでそれを拾い上げる。小さな木片だった。
 一度呼吸した後、ナルはすばやくそれを懐に入れた。
 鋭い動作で麻衣を振り返り、彼女がまだ眠っていることを確認する。不用意に見られるわけにはいかなかった。
 体が緊張に堅くなっていた。



 滝川らは、突然置きざりにされて仕方なくそのまま待合室で時間を潰していた。ホテルに行ってしまってもよかったのだが、ナルはまた後に会うつもりだったようなので、一応待ってみることにしたのだ。
 ナルが帰ってきたのは、いなくなってから三十分ほどしてからだった。
 つかつかと足早に滝川たちに近づいてくるナルの、その厳しい顔に彼らははっとした。
「ナル、麻衣は大丈夫だったの?」
「麻衣?」
 彼らの前にたどりついたナルは軽く眉を上げた。
「麻衣なら、別にいつも通り。薬で寝てる」
「なんだ……びっくりさせないでちょうだい。アンタが怖い顔してるから何かあったんだと思ったじゃない」
「何かあったには違いないんだろう? どうした、ナル」
 問うた滝川に、ナルは先ほど懐に隠した木片を差し出した。
「ぼーさん、リン。確認してくれ」
 顔を見合わせ、滝川とリンがそれをのぞきこむ。二人の顔が険しくなるのに、二秒とかからなかった。
「ナル、いいですか?」
 リンがそれを手にとって裏返してみる。じっと表書きされたものを見て、顔にかかった前髪を軽く払った。青い目が髪を透かしてうっすらとのぞく。
 彼の右目は、青眼と呼ばれる特殊な目である。その名の通り色が青いのだが、それだけではない。普通の人間に見えないものが見える、生まれつきの才能なのである。
「リン?」
 ナルがうながした。
 リンは丁寧な動作でそれをナルの手に返す。全員の視線が集中した。
「ヒトガタですね。どう見ても」
「だろうな」
 ヒトガタ、と彼らの間に動揺が走る。
 それは、心霊現象の調査をしていた彼らにはあまりにもなじみのあるものであった。
 ヒトガタは特定の人間の身代わりとなるものだ。病気や災厄を本人の代わりに身に受けて人を助ける。だが、これには逆の使い方もある。本人の分身であるその人形を傷つけることで、本人をも傷つけるのだ。
 SPRでなじみ深いのは、後者の用途で使われるヒトガタの方だった。つまり、呪いの人形である。
「よい願いが込められているんだといいんだが?」
「残念ながら、呪いをかけてありますね」
「対象は?」
「場所に対してかけられたもののようですが。これは、どこに?」
「麻衣のベッドの下」
 綾子と真砂子が小さく悲鳴を上げた。
「今まで見た覚えもないし、どこかから落ちたんだろう。ベッドの裏にでも貼り付けてあったかな」
 言いながらナルはやっと椅子に腰を下ろし、人の形を模したその木片を滝川に渡した。
「燃やしておいてくれ」
「ああ」
 厳しい表情で滝川がそれを受け取る。
 綾子が口元を押さえ、青ざめて呟いた。
「まさか、麻衣の病気は誰かの呪いのせい……?」
「いや、幸か不幸かそれはない」
「どうしてよ」
「あなたの頭は飾りですか? このヒトガタは麻衣のベッドを呪っていたんだ。入院したのは発病の後。発病以前に呪いをかけたなら麻衣個人にかけていなければならない」
「途中で切り替えたのかもしれないじゃない」
「それもないと考えていい。麻衣に直接かけることができるなら、今もそうした方がいい。ベッドに貼り付けるなんて見つかりやすい方法ではなく。それをしていないということは、つまりできないんだと考えていいだろう」
 ジョンが複雑そうに答えた。
「前にも、似たようなことがありませんでしたか」
「あったな。タカの高校であった事件だ」
「今回も、犯人は麻衣さんの名前を知らない、ゆうことなんでっしゃろか」
 滝川はナルから受け取ったヒトガタをにらみつける。
「かもしれない。だが、今回はちとばかり事情が違う」
「事情が?」
「ここはイギリスだ。日本じゃない。そして、麻衣は日本人だ」
「つまり……?」
「ジョン、お前さんは麻衣の名前が書けるか? 正確に、だ」
 ああ、とジョンは呟いた。そして少し考えて首を横に振る。
「無理やと思います。手紙や何かで漢字を調べる、ゆうことはできる思いますけど、漢字は難しいです。正確に書けるとは思えません」
「そういうことだな」
 と、ナルもうなずいた。
「犯人は麻衣の名前を知らない赤の他人、あるいはイギリス人で漢字が書けない」
「赤の他人が麻衣の病室に出入りすることはありえるのか?」
「ありえるな。麻衣は病室のドアを開けっ放しにして来客を大歓迎していたから」
「嬢ちゃんらしいことだね」
 ナルは複雑な顔でため息をついた。
「とにかく、発病はともかくとしてここ数日の病状の悪化は呪いのせいである可能性がある。麻衣の回りを警戒する。ぼーさんと松崎さんは護符を」
「了解」
「もちろんよ」
「すでに霊が憑いている可能性も考えなくてはならないが……原さん?」
「少なくともあたくしには感じられませんでしたわ」
 ナルはうなずいた。
「前回の経験からして、原さんには見えていないということも考えられる。ぼーさん、一応除霊を」
「ああ」
 黙って聞いていた安原が、そういえば、と口を開いた。
「ここの病院の怪談っていうのは? この件にはまったく関係ないんでしょうか?」
「さぁ」
「どういう怪談なのか、聞いてもいいですか?」
「ありふれた怪談です。いちいち説明する気にもならない」
「まぁそう言わず。三人寄れば文殊の知恵って……ああ、大勢で考えるといい考えが浮かぶって言いますよ」
 ことわざの苦手なナルのために、安原は言い直す。アタシも聞きたいわと綾子も加勢し、ナルはため息をついた。
「病院の怪談としては、ごく一般的。死んだはずの患者が他の患者を訪ねてくる。そうすると、その患者は数日中に死ぬ。または、寝ていると誰かが枕元に立って一緒に死のうと誘う。返事をすると死ぬ。または、看護婦がナースコールで呼ばれて行くとそのベッドには誰もおらず、同室の人間は口をそろえて知らないと言う。同じことがいろんな部屋で起こる。または、消灯後ある時間になると車椅子の音が聞こえる」
 確かに、オリジナリティのない怪談である。特に引っかかりを覚えるような部分もない。
「そうですね……確かに、ここには何人かの霊がいらっしゃるようですけど……」
 真砂子が考えながら言葉を紡いだ。
「あたくしには無害な霊に見えますわ。病院にはよくあることですし」
「関係ないんかね。調査を依頼したっていうここの院長が臆病なだけか」
「そう思えるね。興味のある現象もない」
 ただ、とナルは呟いた。
「ウィルソン氏は一見したところあまり怯えているという風ではない。それが気にならないでもないが」

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