アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月二十二日――午後三時

 ナルたちが病室に着くと、麻衣はすでに目を覚ましていた。まだ少し意識が飛んでいる様子ではあったが、彼らを見て口をとがらす。
「もーっ。誰もいないから退屈だったじゃん」
「たまにはおとなしく寝てれば」
「さみしいのは病気によくないんだぞ」
 そしてナルの後ろの滝川らにえへへ、と笑う。
「みんなまだいたんだー。どしたの? 難しい顔して」
 ナルがため息をつき、後ろを見る。その目が話を促していた。
 滝川が進み出て、上着のポケットに入れていた木片を麻衣に差し出した。
「何、これ?」
「やーな話をしに来た」
「……ヒトガタ? だよね」
 麻衣もまた、プロの心霊調査員である。滝川の持つそれを見てすぐにそう言った。
 滝川はうなずき、ヒトガタを元通りポケットにしまった。
「これは、お前のベッドの下からさっきナルが見つけた」
 麻衣の顔から笑いが消える。その意味するところを、彼女は察することができたに違いなかった。
「……でも、あたしの名前は書いてないみたいだけど」
「場所を呪ったもんだな。だから、名前指定ナシだ」
「なんでわざわざ」
「犯人はお前の名前を知らない、あるいは漢字が書けない」
「ああ、なるほど。じゃあ、少なくともナルでもまどかさんでもないね」
 冗談めかして麻衣は顔をしかめてみせる。
 ふと滝川はナルを見た。
「ナル、お前さん麻衣の名前が正確に書けるか?」
 ナルは黙って滝川をにらみつけた。
「滝川さん、そのジョーク笑えません」
「……の、ようで」
 滝川は場をつくろうように引きつった笑いを浮かべた。
「まぁそれは冗談としてもだ」
 もちろん、ごまかしたところでナルのきつい視線は変わらなかったが。
「誰かがお前さんに害意を持ってるみたいなんだ。逆恨みかもしれんし、何か麻衣の存在が邪魔な理由があるのかもな」
「ほんとに『やーな話』だね」
 麻衣はため息をつく。
「だが、一応本人が注意してないとな。後で護符を作るから、肌身離さず持ってるよーに」
「はぁい」
 不承不承という感じで麻衣がうなずくと、ナルが首をかしげて口を挟んだ。
「お前はここで霊を見たことはないのか?」
「ここで? 病院で?」
「そう。原さんには見えるらしいが」
「あるよー。時々話に来たりする」
 滝川がぽかり、と麻衣の頭を叩いた。
「あいたっ」
「どーしてお前はそういう体力の消耗をするんだ」
「話すだけだもぉん」
「話すだけでも! 疲れることは分かりきってるだろ」
「そんなこといちいち気にしてたら、あたし病院にいられないよ」
 その言葉には真砂子が肩をすくめた。
 霊視の能力者には、他の人間とは違う苦労がある。霊は彼女たちの意志に関係なく当たり前のように視界に入ってきて、勝手な要求をしていく。人のよい麻衣のような人間にはとても無視はできないだろう。
「話すだけと言うことは、彼らは無害なんだな?」
 ナルが確認し、麻衣は肯定した。
「ちょっとさみしいだけの人たちだよ。人を呪ったりとかは、しない」
「当たり前だ。呪いをかけたのは生きた人間に決まってる」
「やっぱり?」
 ナルは顎に指を当て、少し考えるようにした。
「麻衣、ここに二回以上一人で訪ねてきた人間は、どのくらいいる」
「二回以上、一人で? それは少ないよ」
 麻衣は天井を見上げて少し考える。
「松田さんと、エミリと……デビーと。たぶんそれだけ」
 ナルはうなずきかけ、ふと眉を寄せた。
「エミリ?」
「うん」
「一人で、だぞ」
「体調の良さそうなときには一人で来るよ」
「エミリって誰よ?」
 綾子が強引に口を出した。
 ナルはうっとおしそうに返事をする。
「この病院に入院してる、麻衣の客の一人」
「日本人の旦那さんがいてね、日本語はしゃべれないんだけどとっても優しいおばあさんなの」
 麻衣が言葉を添える。ふぅん、と綾子が納得すると、ナルは話を続けた。
「そんなことは今関係ない。その時、車椅子は?」
「一人の時は使ってないみたいだなぁ。歩いて来てる」
 ナルの視線が厳しくなる。
「エミリが歩けるとは思えない」
 麻衣はきょとん、とした。
「だって、歩いてるよ?」
「初めて会ったとき、僕が車椅子にぶつかってしまったんだ。その時、エミリは膝もつかずに倒れ込んでいた。自力で車椅子に戻ることもできなかった」
 彼女か、とナルは言った。
「今度一人で来たら何とかして追い返せ。彼女の体にも負担がかかる」
「まさか」
「麻衣、僕の聞いている限りエミリの体調はかなり悪い。たとえ歩けたとしても一人で頻繁に出歩けるとは思えない。デビーから聞いた話では、昏睡状態でいることがほとんどだと」
「だって……何度も来てた。幽体離脱……?」
「だろうな。いわゆる、生き霊。昏睡の多い病人にはよく聞く話だ」
「エミリが、何で」
「僕が知るわけない」
 滝川が麻衣の頭をぽんぽんと叩いた。
 情けない顔をして麻衣は滝川を見上げる。
「ぼーさん」
「悪気はないのかもしれないさ。そんだけ具合が悪くて長いこと入院してたらさみしくもなる。今度会ったら、はげましてやれ」
「うん……」
 滝川の手でくしゃくしゃと髪をかきまぜられて、うにゃぁと麻衣は小声で文句を言った。
「でも、その方はイギリス人でいらっしゃるんでしょう? どうして陰陽道の呪術を?」
 真砂子の疑問に、ナルは肩をすくめた。
「くわしいことは松田さんかエミリにたずねるしかないが。ただ、夫の松田さんによれば、彼女は病気を治したいがために一時期まじないに凝っていたらしい。その線じゃないかな」
 とりあえず予定通りの防御策をとろう、とナルが言ってその場は解散することになった。ヒトガタを早く焼き払ってしまう必要があったため、滝川らは焚き火をする場所を探さねばならなかったのである。
「退院するか?」
 と、最後にナルが麻衣に向かって聞いた。
 それは、薬の副作用と霊の脅威からの解放、そしてそれと引き換えに最新医療の試用をやめることを意味していた。
 麻衣はナルの顔を見上げた。



 松田はそのところしばらく、病院で知り合った日本人の若夫婦のところに出入りするのを楽しみにしていた。
 妻の入院生活が長引き、彼も妻も疲れていた。エミリの病状は悪化してはまた持ち直しを繰り返し、何度も医者に覚悟をうながされた。松田はもちろん妻の長生きを祈っているが、助からないものならもういっそ、と思うこともある。
 病気がわかった頃、エミリはいろいろな健康法に手を出した。民間療法と言われるジンクスのようなものから、健康食品、体操や東洋医術、果てはまじないまで。
 松田は若い頃雑誌に物を書いて売る仕事をしており、家には山のような蔵書があった。松田の仕事を手伝っていたエミリは、それらの本にそれぞれどんなことが書いてあるのかおおよそ把握していた。そして松田に本を貸してもらえるよう頼み、その中から健康を取り戻せそうな方法を求めたのである。
 黒魔術まで試し始めたときには、松田もさすがに驚いてエミリを止めた。エミリは松田の心配にくすくすと笑って、試してみるだけよと言った。彼女は昔から好奇心の旺盛な性格で、何度も松田を驚かせた。迷信深い日本人である松田にはとても考えられないことなのだが、西洋人の考え方とはエミリのようにあっけらかんとしたものなのかもしれなかった。
 だが、努力に反してエミリの病気は悪化していった。
 最近の彼女は死んだ後のことばかり口にする。葬式には好きだった歌を歌ってくれとか、一人でお墓に入るのはさびしいとか、天国には昔の仲間もいるだろうかとか、そういった話だ。聞いている松田も、柄にもなく死んだ後のことを考えがちになる。彼も充分に高齢であり、看病に疲れていた。先は見えているように思った。
 エミリが死に、松田が死に、二人で天国に行けば昔の仲間とまた演奏会ができるかもしれない。それは松田の夢だった。彼が彼の人生を幸せだと定義するに至ったほど満たされていた日々の、再現だった。
 松田が定年で仕事をやめたあと、彼はそれ以前から組んでいた音楽仲間とよく庭でセッションをした。エミリと結婚した頃からの仲間だ。戦争はとっくに終わり、新しい時代は大きなよい波に乗っていた。
 戦争の心配もなく、仕事の心配もなく、妻とも仲間とも最高にうまくいっていて、彼はその頃もっとも満たされていた。三十年ほど前の話だ。
 もう人生はこれで終わりだろうと思っていた。最高に幸せな人生だったと。最高に満たされた老後の過ごし方ができたと思った。
 それからさらに三十年もたってしまった。
 妻も仲間も、もう歌は歌えない。本当にさびしい老後が来たのは、やっと八十を数えてからだった。
 そんな日々に、ふとしたことから若い、微笑ましい恋人たちと知り合った。頭がよく将来のある男性と、朗らかで可愛らしいフィアンセ。彼らが日本人であったことも手伝って、松田は彼らと話すのが楽しみになった。
 松田は少なくとも一日に一回、彼らの部屋を訪ねた。女性はいつも明るく歓迎してくれたし、松田を見て堅い表情をほんの少し和らげる男性も、彼にはひどく愛しいものに思えた。
 妻の昏睡状態が長いこともあったのだろう。彼は、その日も彼らの部屋に足を向けた。
 病室の前でいつも通りノックをしようとして、中から人の話し声がすることに気が付く。麻衣の友人たちらしき人々が大勢来ているようだった。
 友人との会話を老人が邪魔することもないだろう、と松田は思い、その場は遠慮することにした。眠っているエミリのそばについていてやろう、とそっときびすを返す。
 おそらくはその遠慮深い性格が彼の人生を分けた。
 若い友人たちにわざわざ日本から見舞客が来たらしいことが嬉しくて、松田は気分良くお気に入りの歌を口ずさみながら妻の病室へ帰ろうとした。
「スカボローフェアね」
 突然そんな風に声をかけられて、松田は辺りを見回した。
 確かに、彼が歌っていたのは、前に仲間とよく演奏していたスカボローフェアという名前の曲だった。とっさに、エミリか、と思った。が、廊下に見慣れた妻の車椅子はない。
「またあんな風に楽しく過ごしたいわね」
「エミリ?」
 松田は、廊下の曲がり角が作ったわずかな暗闇に妻の姿を見つけた。そして、なぜ彼女の姿を見つけられなかったか分かった。
 エミリは廊下に一人で立っていたのである。
 長いベッドでの生活から、彼女は足が萎えて松葉杖どころか車椅子がないと移動できなくなっていた。
「エミリかい?」
 松田は夢を見ているのかもしれないと思い、何度も目を瞬いた。
 エミリはあの庭の木の下に差し込んでいた日の光のような顔で、笑った。
「ねぇ、あなた。もし私たちが死んだら、またあの大きな木の下で演奏会をしましょうね」
 そうだね、と松田は答えた。寝惚けたような声になった。

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