アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月三十日――午後九時

 ナルは、麻衣の退院後もひまを見て病院に足を向けては怪談の調査を続けていた。ひまを見て、と言ってもほとんど時間はないというのが事実である。消灯前にロンドンまで行く時間がとれない日はもちろんしょっちゅうであったし、だから調査も遅々として進まなかった。
 代わりに彼は病院内にいくつかの機材を設置し、結果のチェックをリンや滝川に依頼して交代で行わせた。以前は何の反応もないだろうとたかをくくって行わなかった機材設置だが、今は事情が違う。
 犯人と目されていたエミリが死んだ。それだけならともかく、エミリより後に松田までもが死んだ。松田は自殺を考えているような様子はなかった、とナルは思う。
 死病に冒されている麻衣に呪いをかけるというきわどい行為を行ったことから見ても、エミリが道連れを求めていたのは間違いないと思われる。そのエミリが死んだ直後、死ぬ理由がない松田が死んだ。
 これは非常に危険な話だ。エミリは、どういった形でか知らないが、人に害を及ぼすことのできる悪霊になったのだ。しかもその対象はごく親しい人間に限られているわけではない。相手の限定があるなら松田を殺して気が済んだとも考えられるが、実際には面識の浅い麻衣をも巻き込もうとしていた。次が他の入院患者でないとは言い切れない。
 ナルは病院に霊を捉えるための機材を配置し、エミリが現れる時を警戒した。
 真砂子がいればそんな面倒をしなくても霊を見てもらうことができたが、彼女は仕事が忙しくすでに日本へ帰っている。そうそうイギリスに来てもいられない。
 SPRには何人かの霊視能力者がいたが、ナルが間違いなく本物だと認めている者はいない。高名な超心理学者であるオリヴァー・デイビスの前でいい格好をしようとでっちあげの情報を渡されたのではたまらない。
 もう一人彼が信用をおく霊視能力者といえば他ならぬ麻衣がいたが、彼女を連れていけるかどうかなど審議する価値もないことだ。
 本来なら病院に日参したい状況である。しかし、麻衣はまったく予断を許さない体調だった。そちらを放っておくことはどうしてもできない。
 せめて、ということでナルは収集したデータの管理や整理を病床の麻衣に任せた。麻衣の近くにいなければならないという要件と、調査を進めたいという要件を同時に満たすことができる、もっとも効率的な方法であると思われた。
 麻衣は退院して以来、発作を起こす時をのぞいておおむね気分がよいようだった。家にいて難しい英会話を迫られることもなく気楽に過ごせるのがよかったようだし、病気の進行を止めるためにあれもこれもと投与されていた薬や医療処置の副作用がなくなって気持ちの負担は相当軽くなったようだった。病院を棲み家としている霊たちに体力を削り取られることもなくなったのだから、当然だろう。
 もちろん、薬で抑えられなくなった病気が進行しているのは間違いない。
 退院に反対しなかった麻衣の心中でどんな葛藤やあきらめがあったのか、ナルはそれを正確に察することなどできない。
 彼女は入院中しばしばナルと大声で言いたいことを言い合ったし、時には不安を吐露して泣くこともあった。だが、一時の激情が去るといつもけろりとしてにこにこ笑っていた。ナルは彼女にとって、本音を言える、一種のカウンセラーとしての役目を持っていたのかもしれない。
 そんな様子だったから、ナルは以前と同じく彼女を助手に仕事をした。ナルにしてみれば頭の回転が遅く、有益な助言もしない、ただの下働きのような手伝いである。しかしそれは彼女が使えないということとは違う。ナルにブレーンはいらない。必要なのは彼の指示を聞き取ることのできる利口な助手だ。
 そう言ったら麻衣は「どうせ無能ですよ」と舌を出した。だが、それは友好的なジェスチャーであった。
 最後の一週間はそんな風に過ごした。ナルに特別悔いはない。
 そして、その日、四月三十日、彼はとうとう病院に乗り込んだのである。



 消灯前の病院は、かすかな慌ただしさと静けさを同時にはらんでナルを迎え入れた。
 彼の後ろではリン、滝川、ジョンという慣れ親しんだメンバーが緊張したように辺りを見回している。綾子一人を麻衣のそばに置いて、残り全員でここに来たのだった。もちろん、それだけこの病院には危険のある可能性が高いということだ。
 何も知らない患者たちは、看護婦に追い立てられて自分の病室に戻りつつある。ナルたちを見て不思議そうな顔をする看護婦もいたが、幸い患者に間違えられることはなかった。寝間着ではないこともあるし、ナルが麻衣の入院中看護婦の間で目立ち続けていたせいもあるのだろう。ウィルソン院長が彼に怪談の調査を依頼していることまで知っている看護婦はごくごく少数であろうが。
 今日こうして大勢で押し掛けることは、ウィルソンにも許可をとってのことだった。場合によっては、除霊を行う大騒ぎにもなり得たからである。浄霊をできる真砂子と麻衣はいない。このメンバーで対応策を講じられれば問題ないし、霊に説得がきくならそれでもいい。
 しかし、除霊に頼ることになる公算は高かった。
 ナルは内科病棟のとある一角で立ち止まる。
 その病室にはネームプレートがかかっていない。しかし、ナル自身何度か見舞いに訪れた部屋だったので彼はそこに何が書いてあったか、はっきりと記憶していた。
 今は白いだけのネームプレート。ここには、一週間ほど前までエミリ・マツダと名前が記されていた。
 空白の病室は、入る予定の患者がいないわけではなかった。
 エミリが死を迎えてこの部屋を去った後、入院を待っていた別の患者がすぐに入った。しかし、彼は突然病状を悪化させてまもなく息を引き取った。ウィルソン氏はその後ナルの報告を聞いてその病室を空室にした。
 彼女の呪いにそれだけの威力があったことは、滝川らを動揺させた。同じ呪いを受けた麻衣がまだ息をしているのは、ひとえに彼らの迅速な対応がなんとか間に合ったためである。
 それらの呪いの元凶が、まだこの部屋にいる。
 扉の前に立つと、彼らは誰からともなく視線を合わせた。
「確認できる霊視の能力者がいないってのは、こんなに頼りないもんだったんだな」
 滝川が呟く。他にあいずちを打つようなものもいないので、その言葉にはジョンが応える。
「最近は原さんや麻衣さんのいる調査に慣れとりましたからね」
「昔はいつも一人で除霊してたなんて、信じられないぜ」
「何や、昔は危険なことをしてたゆう気がしてきます」
「まったくだ」
 七年前にSPRに出入りするようになってから、彼らはナルという司令塔を持っていた。安原の情報収集がナルを助け、真砂子と麻衣が危険を察知し、リン、ジョン、滝川、綾子、それぞれ違う方面の除霊能力者たちでそれをカバーすることができた。
 一度知ってしまった仲間のありがたみは、失くしてみると非常に頼りなく感じられるものだった。
 彼らがそろって心霊現象にあたるのはこれが最後だろう、と誰ともなく思っていた。いや、麻衣も真砂子も安原もそろわない今の彼らは、すでにチームとは言えなくなっているのかもしれない。
「開けるぞ」
 ナルが静かな声で言い、彼らはそれぞれにうなずいた。
 扉は何の抵抗もなく、普通の扉と同じに開いた。
 そこは麻衣が入っていたのとほぼ同じ作りの個室であった。ベッドが一つ、その脇にサイドテーブルが一つ。折り畳んだ椅子が壁に寄せられている。違うのはその部屋には麻衣が振りまいていたような生気が少しも感じられず、冷たく静かで暗いことだった。
 ベッドの向こうには広い窓があり、入院患者もいない今はカーテンが大きく開けられてその向こうの景色を透かして見させていた。窓から見えるのは病院の中庭だ。昼間は患者たちが日に当たりに出てきてにぎやかなそこも、消灯前の今は無人の芝生をさみしく照らし出す電灯が目に飛び込んでくるだけだ。
 その部屋でしばしば観察されたような低温は、今は発生していないようだった。
 ナルはためらいもなく部屋の中に踏み込み、扉のすぐ横にあったスイッチを押して電灯をつけた。
 冷たくも明るい光が照らし出した病室の中には、特に目を引くようなものもない。私物のたぐいが一切ない部屋では、見るものがないのも仕方がない。家具だけしかない部屋というのは奇妙に見えるものだなと思いながら、ナルは辺りを見回した。
 数日前までは、そのベッドにエミリが寝ていた。ナルはその様子をはっきり思い出すことができる。となりにはいつでも松田が座って小さな声で歌を歌っていた。さみしいメロディーの、あの曲だ。
 すでに二人ともこの世にいない。
 ナルはため息をつき、何か次の行動を指示しなければならないと後ろの滝川たちを振り向いた。
 と、ナルはそこに不思議なものを見た。
 彼が今入ってきた扉が、閉まっているのである。
 ナルのすぐ後ろにはリンたちがいた。彼の後に従って入ってくるのが当然である。いたずらをするような年でも時でもない。
(音を聞いた覚えがない)
 扉が閉まるときには、それなりの音があっていいはずである。たとえよほど注意してそっと閉めたのだとしても、彼は今辺りの動きを警戒していた。気付かないとは思えない。
 ふと吐いた息が、白かった。
 背後に何かいる気がした。
 彼は振り向いた。
 エミリが、萎えたはずのその足を使い、彼から一m離れた場所に立っていた。
「また遊びに来てくれたのね。一人でさみしかったのよ」
 優しげな貴婦人は言った。
 彼女の背後で、背中を丸めた老人が椅子に座り、歌っていた。



 ナルが真っ先に病室に踏み込んでいったあと、滝川はすぐに扉を押さえておこうとした。
 このような建物内の調査のケースでは、霊たちはよくどこかに閉じこめるという方法を使って邪魔者を分断しようとする。滝川たちはプロである。プロが警戒するというのは、そういうケーススタディによって得た対応策をいつでも張り巡らしておくということであった。
 ナルの背が部屋の中央近くまで遠ざかり、滝川が手を伸ばしかけた、その時だった。
「……ゃ――ぁ」
 遠くで、何かが聞こえた。
 まるで悲鳴のような、何かが。
 滝川は鋭くそちらに視線を投げた。リンもジョンも、同じものを聞いて同じようにしたようだった。
 そして、全員の視線が扉から逸れた。
「……しまった!」
 舌打ちしたのははっとして扉を見直した滝川が一番始めで、その声にリンもジョンも扉を見た。
 ほんの手のひら分の距離で、扉は閉まっていた。
「ナル!」
 リンが扉を叩く。
「きゃぁ――っっ」
 今度は先ほどよりはっきりと聞こえた。場所が近い。先ほどと反対方向だ。確かに悲鳴だと分かった。
 どちらを優先すべきか、彼らの視線が扉と悲鳴の方向に揺れた。
「……敵は分断作戦だ。どうする」
「患者の命が優先、でしょうね」
「ジョン、ここを頼む。リン、向こうを」
 リンはかすかにうなずき、近い方の悲鳴へ向かって走り出した。滝川は反対へ足を向ける。遠かった。おそらくは、となりの病棟か何かだろう。
 しかし一体何が現れたんだ、と思考がかすめたのは一瞬だった。滝川の脳裏に、病院の怪談とそれを疑うナルの言葉が思い出される。
 幽霊は、エミリと松田だけではなかったのだ。
 個々には害意を持たない、エミリの呪いに巻き込まれた霊たちがその病院にはさまよっていた。
 『死んだはずの人間が患者を訪れる。その患者は、数日以内に死ぬ』――怪談は、おそらく事実だった。
 死んだ患者の数を、その理由を、ウィルソンは正確に明かさなかった。
 彼は臆病者だったわけではなく、この病院の怪異に真剣に悩まされていたのである。



 にこにこと笑顔を浮かべてどこからか取り出した菓子を勧めるエミリに、ナルは慎重に断りの言葉を並べていた。
 少しずつじりじりと扉に向かって後退し、ノブを回そうと試みる。たとえそれを回したとしても、いや扉を叩いたとしても外の人間に聞こえるかどうかははなはだ怪しいものだったが。
(外の連中は何をしているんだ)
 無防備に一人で部屋に踏み込んでしまったナルとしては、かれらをあまり強く責められない。ナルもまた仲間と呼べる彼らを信用して背中を預けていた、そういうことなのかもしれない。
 もっとも二度と信用しない、と彼はエミリと向かい合いながら心に刻んでいたが。
「マイを連れてきてはくれないの? あなたはいつも彼女を独り占めなのね」
 ナルはエミリを刺激しないよう、努めていつも通りに肩をすくめてみせる。
「別に独り占めはしてませんよ」
「あら、してるわよ。贅沢な人ね。彼女はいつもあなたを見てるわ。あなたはそれを当たり前のことだと思っていない?」
「それが、独り占めですか?」
「そうよ。私だって、彼女が大好き。私が男だったら絶対彼女を妻にしていたわよ」
 その彼女の夫は、姿の透ける霊になって今彼女の後ろで歌を歌っている。二人が本当に幸福だった頃を思い出すように。
「一人はさびしいわ。二人が一人に減ってしまうのはもっとさびしいわ。二人でいるのにさびしくなるのは、一番さびしいわ」
 エミリがナルの頬に向かって腕を伸ばしてくる。されるがままになってはいけないというのは分かっていた。
 ナルは右手の拳を握り込む。近くに鏡か、その代用になるものはないのか。
 窓ガラス以外に考えられなかった。しかし、窓にたどり着くためにはエミリと松田の横を通り抜けなければならない。他に方法がない。
(やむを得ない)
 彼が意識を握った拳に集中させ始めた、その時、彼の背後で何かの風が破裂した。
「……ぞけ。神の御名において命ずる!」
 ナルの耳に届いたのは、詠唱の最後の部分だった。外の音が聞こえている。ジョンの祈祷が結界を破り、音が届いたのだ。
 弾けるように開いた扉から、ジョンが飛び込んできた。
「渋谷さん!」
 エミリの顔が、ジョンを見て険しくなった。
「誰?」
「友人ですよ」
 ナルは言ったが、すでにそんな言葉ではエミリを怒らせずにいることは無理だと彼も思っていた。
 エミリの瞳は暗い闇に閉ざされ、しわだらけの細い指がナルの体をめがけて迫ってくる。
「邪魔をしないで」
「エミリさん。これ以上罪を犯してはいけません」
「罪じゃないわ! 私はさみしいだけ!」
 床に手をついて低姿勢を支え、ナルはジョンが抑えている隙にエミリの横を抜けて窓へ向かって走った。
 ベッドの横では松田が一人で歌っている。
 ナルはその脇も走り抜けた。
「神様は必ずあなたを許してくれる。もうやめて下さい」
「祈ったわ! でも私は一人だった。神の国に行っても一人なんだわ。一人はいや。一人はいや。一人はいや!」
 ガラスにはおぼろげにナルの姿が映っている。
 ナルは衝突するようにガラスに手をつき、全身ですでに亡い彼の半身を呼んだ。
「ジーン! 出てこい!」
 ジーンが彼の呼び声を認識するのかどうか、聞こえたところで自由に出てこれるのかどうかも分からない。それを確認するひまはなかった。ガラスに映ったエミリの背中がナルを振り返り、形相を変えて迫ってきているのが見えた。
 ナルは体に蓄えた力を手のひらに送り込む。理屈など知らない。そうすればいいことを彼は経験で知っていた。
 鏡に叩き込むようにした力は、爆発的に増幅されて彼の手のひらに返ってきた。ジーンが、そこにいるのだ。
 そして、もう一度。
「あなたも……一緒に……!」
 エミリの手が、鏡に映った自分の真上に見えた。
 ナルはじりじりしながら力が返ってくるのを待った。振り返りざま、手をよけて胴体に叩き込むしかない。間に合うのか。よけられるのか。
 力が返ってきた。
「ナル!」
 部屋にリンと滝川が駆け込んできたのを鏡像で一瞬確認し、ナルは振り向いた。
 迫ってきているはずの手をかわそうと上体を沈める。鏡で確認した位置に入り込もうと踏みだし――彼はすんでのところで相手に飛び込むのを止めた。
 信じられないものを見た。
「ダメ。除霊は待って、ナル」
 認めがたかった。
 幽体離脱は極端に体力を消耗する。よほど体調のよいときでもその後休息を必要とするのが普通だ。それを行うには、事前にしっかりとコンディションを整えておく必要がある。
 今の麻衣が、それをしていいわけがなかった。
「ここで何をしてる――麻衣」
 麻衣はエミリをかばって両手を広げ、ナルの前に立ちはだかっていた。本人が来られるはずもない。幽体なのだ。
 彼女にはその能力があった。自由にコントロールできる、幽体離脱の力が。ケンブリッジからロンドンへ、そんな長い距離を飛び越えられるほど強い力が。
「ナルを助けに来たんでしょ? あたしのありがたみが少しは分かった?」
 何でもないことのように笑い、麻衣はエミリに向き直った。
「マイ……久しぶりねぇ」
「えへへ、久しぶりです」
 その部屋にいる誰もが――リンも滝川もジョンも、ナルも――動きを止めて麻衣を見ていた。彼女が放つ、場違いに明るい光を。
「エミリ、お願い、あたしの大事な人を連れていかないで」
「大丈夫よ。あなたも一緒に来ればいいんだわ。デビーも呼びましょう」
「ダメ。あたしはまだ生きてます」
 きっぱりと麻衣は言い放った。
「まだ生きていたいから、一緒には行けない」
「それじゃあ、さみしいわ……」
「うん。一人はさみしい。それは、あたしにもよく分かります。とてもよく、分かると思う」
「なら」
「でもエミリ、ここにいたらずっと一人なんだよ?」
 麻衣は少し首をかしげ、辺りを見回した。
 ベッドの横では松田が一人歌っている。
「ここに、松田さんもいるよ。あたしには見えてる。あのね、さっき向こうで、リンチさんにも会った。マイケルにも。エミリ、見える?」
「見えないわ」
「でしょう? ここにいるとね、他の人が見えないんだって。悲しいことばっかり思い出しちゃうんだって。違います?」
「そうなの……」
 エミリはさみしそうにぽつりと呟いた。
「なんだかどんどんさみしくなっていくみたい」
「松田さんと、また演奏会するんでしょう? 松田さんが見えなかったら、できないですよ?」
「彼も、ここにいるの?」
「いますよぉ。歌を歌ってます。きれいな歌。スカボローフェアですよね」
「あら、知ってるのね」
「学校で歌ったんです」
 ふふふ、とエミリは笑った。
「学校で歌うような曲になっちゃったのね」
「変わった学校で。でもあたしはこの曲、好きだったな」
「ええ、私も。私たちの得意曲だったのよ」
「へぇ」
 エミリは耳を澄ますようにする。
 病室には静かにスカボローフェアのメロディーが流れていた。しかし、彼女には聞こえない。
「最近は一人で歌ってるのよね。コーラスがきれいなのに」
「前は一緒に歌ってたんですか?」
「私はギターを弾いてたわ。友達のトニーがコーラスをしてた。とてもきれいだった。とても幸せだった。私はこんな終わりを迎えるために生きてきたんだと思っていたわ。なのに、それは終わりじゃなかった……」
 エミリはベッドに手を沿わせる。彼女が最後の年を生きた場所だ。きれいに整えられたベッドは、彼女の手がふれても形を崩すことはなかった。
「結局、一体何のために生きていたのかしら……」
「それは、分かりません。意味なんてないのかも。でも、あたしは今……」
 急に、麻衣の輪郭が歪んだ。
 はっとしてナルは立ち上がる。
「あたしは……今、あなたにこれを告げることができて……あなたを……」
 声がとぎれがちになって、姿がかすみ始めた。
 体の限界がきているのだ。
「麻衣、もういい。自分の体に帰れ」
 は、と麻衣が息を吐き出した。その体が苦痛をこらえるように引きつる。
「あなたを……消してしまわずに済んで……」
 それまでだった。
 かき消すように麻衣の輪郭がなくなる。
 ほぼ同時にエミリが消え、松田が消え、歌が途切れた。
 病室には静寂が戻った。
「……浄霊、できたか?」
 滝川が呟いたが、霊たちに取り残された彼らは顔を見合わせるしかなかった。
「……そんな感じは、しませんでしたけど」
 頼りなげに、ジョンが答えた。

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