アリスのお茶会

いつか、木の下で

五月一日――午前0時

 ナルがその後の処理を済ませケンブリッジの自宅に帰ってくることができたのは、もう日付が変わろうかという時刻だった。
 リンは同じくケンブリッジにある自宅へ、滝川とジョンはホテルへそれぞれ帰った。
 ナルはロンドンを出るとき綾子に連絡を入れ、やはりホテルへ帰ってもらった。綾子によれば、その夜麻衣は深い眠りに落ちていて一度も目覚めなかったということだった。発作を起こしていなかったことにナルは安堵の息をついた。今度発作が起こればどうなるか分からない。
 ルエラとマーティンはすでに寝ているようだった。
 暗い家の中、できるだけ電気をつけず寝ている人間を起こさないよう気を遣いながら、ナルは自室へと戻った。
 寝室に寝ている麻衣にはもっとも気を遣い、ベッドサイドランプもつけない。暗い中手探りで服を寝間着に着替え、まっすぐにベッドに倒れ込んだ。あまりに緊張を強いられたため、やった仕事のわりに体はかなり疲れていた。
 毛布を胸まで引き上げ、ナルは体を反転させた。
 となりのベッドには麻衣が眠っている。呼吸が乱れているということもない。眠った状態で幽体離脱し、そのまま昏睡状態になっているのだろう。

 このまま、もう二度と目覚めないかもしれない。

 どきりとした。
 だが、覚悟はしておくべき事態だ。
 ナルはいつもと同じにため息をつく。
 それ以外に、何をすることがあっただろう。



 ナルは夢を見た。
 実に他愛ない夢だ。そして、その他愛なさが罪深い夢だった。
 三ヶ月前彼がオフィスを構えていた渋谷の道玄坂で、彼はいつも通り本を読んでいた。彼にとっては何にも代え難い至福の時だ。
 道玄坂のオフィスには彼が必要なものはたいていそろっており、足りないときにはイギリスに言って補充することも容易だった。まあ、そんなことも滅多にない。機材は調査研究の目的でかなり豊富にそろえてあったし、それを扱うメカニックは優秀だ。
 所長室にこもればたいがい邪魔をされることはなく研究に没頭していられるし、うるさいながらも客は多く、なぜか進んでナルの健康管理に努めてくれる。問題のない毎日だ。
 一週間に一回、イギリスから国際電話がかかってくる。おせっかいやきのジーンがナルを心配しての定例コールだ。ナルは面倒で、いつも適当に答える。しかしジーンは気にしない。そして最後は麻衣に換わってくれと言う。
 麻衣は何が楽しいのかしょちゅうナルの家に入り浸っており、勝手に一人で学校の課題をしたりテレビを見たりしている。それだけいるならここに一緒に住めばいいのにとナルは思うが、わざわざ言い出すほどのことでもないので放っておいている。案外ジーンからの電話に出るのが楽しみなのではないかと時々思うが、やはりわざわざ言うほどのことでもないので好きにさせておく。麻衣の家族は鷹揚な人々で彼女の生活に口出しする気はないらしい。
 不思議なのは、その麻衣の家族がナルを気に入っているらしいことだ。顔と経歴が立派なのは確かだが、電話で話したことしかないころから妙に気にいられていた。さすが麻衣の家族、と言わざるを得ないだろう。この分では結婚を反対される心配もない、と思いながら結局面倒なのでプロポーズもしていない。麻衣も別に聞かない。
 麻衣は明るく、文句も多いがその分隠し事をされることはないので面倒がなかった。
 日本での仕事は楽しい。協力者たちの能力も充分であり、イギリスよりもいいくらいだ。ジーンの能力だけは惜しいが、彼は日本に来る気がないのだろうか? 最近ではその辺りだけが気になっていた。
 もっとも、イギリスには両親がいるはずだから……。
 両親は……両親はどんな人々かというと……――
 そんな夢だ。


 毛布をはねのける勢いで、ナルは飛び起きた。
 悪夢だった。
 軽く息が切れた。嫌な感じに眠気が頭に残っている。ベッドに上体だけ起こして片膝を立て、ナルは額を押さえた。
 そんなことを望んでいるわけじゃない。
 彼は唱えるように頭の中で呟いた。
 そんなことを望んでいるわけじゃない。
 そんなことを望んでいるわけじゃない。
 なぜそんな夢を見たのか。自分の無意識とやらに憎悪すら抱き、ナルは唇を噛む。
 幸せなど真面目に定義したこともない。安泰な研究生活以外に何かを望んだこともない。何かを、それほど多く失った覚えもない。
 なぜ、夢のような夢を見たのか。
(疲れているんだ)
 自分に言い訳を呟く。それが言い訳になるのかどうかも分からないが、理由付けなしには「仕方ない」と言えない。
(仕方ない)
 その言葉で、彼はいろいろな物事を片づけることができた。
 生みの親との不和も、兄の死も、仕事上の問題も、妻になろうという女の病も――。
 まったく、どれも彼にどうにかできることではなく、仕方のないことだった。幸運か不運かの問題では定義できるかもしれないが、幸福か不幸かは決められない。決める必要もない。そういう人生なのだ、と思い定める以外にない。抵抗したところで仕方ないのだから。
「……ナル?」
 彼は顔を上げた。
「起きてるの?」
 となりのベッドに視線をやる。
 彼の視線の先で、小柄な女が見上げるようにして彼を見ていた。
 ナルは自分の感情の何かが揺さぶられるのを感じた。
 妙な夢のせいだ、と彼は理由を付ける。
「……そっちへ行っても?」
「え? うん、いいよ」
 彼はベッドを抜け出し、すぐとなりの毛布の中へ滑り込んだ。
 温かい体温が間近にある。彼はそれをひどく必要なものであるかのように抱え込んだ。
「どうしたの?」
 驚いたように麻衣が言い、ナルの返事がないとなるとわずかに苦笑して、彼の胸に額を寄せた。
「なんであんな無茶をした」
「幽体離脱のこと? 言ったじゃない、ナルじゃ頼りなかったから。エミリを……除霊させたくなかったの」
「そんなことを言ってられる状態か」
「好きにしてていいって言ったじゃない。エミリが消えて、あたしがそのショックで死んだらどーするのよ」
 その言いぐさはどこか結婚届けを出すことを承諾させた時のナルの言葉に似ていたので、彼は苦笑した。
「そうだな」
「そーでしょ?」
 麻衣は、結局明るいままだった。
 この一月弱は彼女を大きく変えはしなかった。
 そのことにナルは少々安堵する。寄り添っていながらどこか噛み合っていなかった松田とエミリ。自分もそうなってしまわないとは言えなかった。
 さみしい、というエミリの言葉が麻衣の涙に重なる。自分はその言葉を正しく理解できたのだろうか、ナルは自問する。この一月、やれることはやったし、やれないことはやらなかった。彼女はこのまま死んでしまったとき、仕方ないと言えるだろうか。
「……もう、目が覚めないかと思った」
「少しは、さみしかった?」
「いつかもそう聞いたな」
「聞いたね。いつだっけね」
「さぁ」
 麻衣は細い腕をそっとナルの腕の中から抜き出し、彼の背中に回した。
「人はいつか死ぬって言ったよね」
「言ったな」
「今でもそう思う?」
 是が非でもさみしいと言わせたいのだろうか、とナルは疑問に思う。だが、嘘をつく気はなかった。
「思う」
「仕方ない?」
「仕方ない」
「そっか」
 ふふふ、と案に相違して麻衣は楽しそうに笑った。
 ナルは少し腕をゆるめ、彼女の顔を見る。
「何?」
「あたしが今死ぬのが仕方ないことならね、あたしはこれを不幸に数えなくて済むなって」
「不幸に数える?」
「長くても短くても、あたしは生きてた。まだ生きてる。それで充分。終わりが誰にでも来るなら、あとは、その人生の質だよね」
 ナルは肩をすくめる。
 それは彼女の人生に対する定義であって、彼の定義ではない。しかし否定する必要はまったくない。
「それで、じゃあ短いかもしれないけどあたしの人生はどうかな、と思うと……」
 麻衣はくすくすと笑った。
「いろいろ楽しいことも多かったなって」
「それは何よりで」
 笑顔の麻衣が、ナルの胸に手を当てる。
「……『I'm lucky because of meeting you』」
 ナルは息を吐いた。理由は分からない。肩に入った力が抜ける気がした。
「この場合、使用法が違う」
「え、違う? 情けないにゃぁ」
「言うなら、こう。『I'm fortunate being with you』」
「じゃあ、返事は『Me too』……で」
 ナルは瞬く。それでは、一体どっちがどっちに言っている言葉なのか判然としない。
 むしろ、どちらでも同じだろうということなのだろうか。
 いたずらを含んで笑う麻衣に、ナルは首をかしげて考える。
「その後の返事を言うなら?」
「んーと……『I love you, darling』。返事は?」
「『So do I』」
 ナルは彼女の唇に小さな口づけを落とす。
 くしゃり、と彼女の顔が歪んだ。
「……死ぬなら今がいい」
 もう一度、今度は腰を引き寄せて深く唇を奪う。彼女の舌が応える。
 身じろぎした麻衣の手がサイドボードの方に伸ばされて、何かが破ける音がした。しかしナルは深く気にとめることもなくゆっくりと深いキスを続けた。
 今彼女の小さな口が彼のものであるように、彼女全部が彼のものになればいい、そんな風に思いながら、深く。甘く。






 彼の歌が聞こえる、とナルは思った。
 あの少しさびしい旋律の曲だ。

 彼の家には大きな木があった。
 松田とエミリと、そしてナルの知らない誰かとが、その木の下にピクニックのようなシートを広げ、思い思いに座り込んでいた。辺りには老人やら若者やら、その演奏会の客らしき人々が腰を下ろして、彼らのハーモニーに耳を澄ましている。
 エミリがギターをかき鳴らす。
 少し重い、渋みのある弾き方をする。エミリの手はギターに吸い付くようになじみきっている。弦を弾いてつむぎだされるなめらかにもの悲しい旋律と、エミリの楽しげな表情が奇妙に映る。
 松田はエミリのギターに乗せていつもの歌を歌っていた。深く、かすれかけたよい声で。あきるほど歌っているのだろう、彼の声にはどこにも迷いがなく、美しい歌を歌い上げていた。
 もう一人の男は、松田の声が乗り始めた頃コーラスに入る。からみあっているようないないような、人を酔わせるバランス。松田の声と彼の声が響きあう。
 これから世間に忘れられようという老人たちが、心から幸福そうな表情で小さな演奏会を開く。
 まるでレクイエムのような曲だ、とナルは思った。
 松田が旋律だけ歌っているのを聞いた時には、そうは思わなかった。しかし、声とギターの絡み合いが美しすぎて、この世ならぬ気分になってくる。そんな曲だった。
 曲が途切れる。客たちがやんやと騒いで老人たちをほめたたえる。美しい曲を歌ったその老人たちは、客の賛辞に照れたように顔を見合わせて笑いあう。
 その時間が自分の幸せだった、と松田が語ったことをナルは思い出す。
 いつか木の下で笑いあえるような、こんな時間を人生の先に持てるなら、確かにそれまでの人生を肯定できるかもしれない。何もかも笑えるかもしれない。
 らしくもなくナルは思う。
 ただし、こんな時間を持てるなら、だ。
「ナル?」
 声をかけられて、ナルは少々驚いた。
 驚いたのは相手も同じようだった。
 客の中で一番端にいた少年が立ち上がり、ナルの方に駆け寄ってくる。それは少年の頃のナル、いや少年のまま死んだ、彼の双子の兄だった。
「どうしてここにいるの? ここは、麻衣の夢の中だよ」
「麻衣の?」
 言われてよく見れば、客の中には確かに麻衣がいる。老人たちの演奏に手を叩いて笑っている。老人たちが一人ずつ、彼女に何か耳打ちをする。そのたびに麻衣は本当に嬉しそうに笑った。
 すでに死んだ老人たちに囲まれて。
「ジーン、お前は」
 ナルははっとして彼の兄を見た。
 すでに死んだ、兄を。
 兄は、少し首をかしげて笑顔を浮かべていた。

 アンコールに応えて老人たちが再び演奏を始める。
 レクイエムのような歌を。

 ジーンも、老人たちにならって麻衣に何かささやいた。
 麻衣は、輝くような顔で笑った。




 ナルは再び飛び起きることになった。
 外は少しずつ白みはじめている。
 腕がふれる位置に、麻衣が眠っている。
 ひどく静かな呼吸で。
 ナルは辺りを見回し、それを見つけた。
 サイドテーブルの上に、けして離すなと滝川が麻衣に渡していた護符が置いてあった。彼女はそれをずっと近くに置いていたのだ。
 しかし、護符は真ん中で破けていた。
 『死ぬなら今がいい』と、麻衣は言った。
 あの時、あの時彼女は――……
 キスをしながら腕を伸ばして、この護符を破った。




 目覚めるだろうか?







 『スカボローフェア』が耳の奥でこだましている。
















 老人たちは、ジーンは。
 彼女を連れていってしまったのか。
 もしかしたら違うかもしれない。









 目覚めるだろうか――?
 目覚めるだろうか?

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