アリスのお茶会

いつか、木の下で

六月十日――午後三時

 滝川たちは、二度目のイギリスの地を踏んだ。
 前に来たときは、本当にずっと病院に詰めていた。観光する暇はもちろん、真砂子や安原に至ってはそこまで来てナルの家すら見ていない。こんな風にどんな脅威に追い立てられることもなく歩くことはなかったのである。
 ケンブリッジの町並みを見て歩きながら、彼らはいつかの日と同じように言葉少なだった。誰もがある種の感慨を抱いてその町を見ていた。
 写真の中に見たようなヨーロッパの味を、この町は充分に残している。そりたつ壁、細い道路。暗い路地を抜けた先には開けた芝生が敷かれ、澄んだ水を流す川が町を分けている。いたるところに古びた、そして信じられないほど美しい教会が建っている。
 その町にはナルがずっと住んでいた。そして、ほんの三ヶ月ほど前、麻衣もここを第二の故郷にするために越してきた。
 彼らは、死と闘う麻衣を見舞うために、ここに来た。
 そして――



 デイビス家は町のはずれにある。
 中心部の住居は土壁の四角い建物ばかりで構成されている。中心部から離れるほど庭の面積が増え、青々とした印象のディタッチドハウスが多くなっていく。デイビス家は、そんな明るい印象の一軒家だった。
 前庭を抜け、玄関の呼び鈴を鳴らす。
 ナルの、なかなかに懐かしい姿は、すぐに彼らの前に現れた。
「本当に来たのか」
 突き放したような言葉もまた、懐かしい。
 滝川はむっとすることもなく、片手を上げて彼にあいさつした。
「当然だろ」
「何の必然性も感じられない返答だな」
 ナルは肩をすくめ、玄関の扉を開け放った。
「どうぞ」
「二階に上がらせてもらってもいいんかね?」
「ご自由に」
 滝川、リン、綾子、真砂子、ジョン、安原、前に来たときと同じSPRの全関係者たちは、ナルの案内に従ってデイビス家に入った。以前にはもちろん立ち入らなかった二階は、ナルと麻衣に住居として割り当てられた場所だと彼らは一応聞いていた。
 二階には二つの扉がある。ナルが示したのは、奥の扉の方だった。おそらくは寝室だろう。
 いいのか? と滝川は少しナルをうかがったが、彼はあごをしゃくって中を示す。
 その時、中から大きなものが倒れる音がした。
 途端にナルが顔をしかめ、滝川らを待つことなく自分で扉を開けた。
「何をやっているのかな?」
 部屋の中には、シングルベッドが二つきっちりと間を開けて置かれていた。その回りにクローゼットが二つ、サイドテーブルが二つ。几帳面なまでの分け方だ。
 その、ベッドとベッドの間辺り、滝川たちがわざわざ会いに来た女がべったりとしりもちをついていた。
「あーっ! ぼーさん!」
「何をやってるんだ、と聞いてる」
 滝川の姿を見つけて顔を輝かせた麻衣に構わず、ナルはつかつかと彼女に近寄って真上から見おろす。
「何って、リハビリ」
「リハビリは一時間だけだというのが、お前は、いつになったら分かるのかな?」
「だってー。暇なんだもん、あたし元気なのにー」
「一人で歩けない人間を、元気とは言わない」
「それは筋力が落ちてるだけだもん」
「体より先に頭を治したらどうだ?」
 むくれた麻衣が、滝川たちの顔をうかがう。
 『ほんと相変わらずでしょ』と、その表情が言っていた。



 ナルがさっさと書斎に引っ込み、麻衣は綾子に肩を借りて階下に下りてきた。
 お茶をいれにキッチンに立とうする麻衣を全員で叱りとばして思いとどまらせ、許可をとって綾子がいれた紅茶でのティータイムになった。
 麻衣は一月半前の様子が嘘のように明るく、元気だと主張する言葉にも偽りはないようだった。
「とりあえずは、ご結婚おめでとうございますと申し上げますわ」
 真砂子があでやかに微笑んだのを皮切りに、みんなが口々に祝福を述べた。
「ありがとー」
「でも、そんな様子で結婚式だなんて、大丈夫なの?」
「ん、まぁね。ナルの気が変わらないうちにやっちゃわないと」
「確かに、二度はないわよね」
 半月ほど前、突然麻衣から全員に結婚式の招待状が届いた。ナルの了解をもぎ取ったからすぐにやります、と明るい言葉と共に。
 麻衣は紅茶をすすって、少し苦笑いを浮かべた。
「あれでもね、いろいろ思うところがあったらしいよ。最近、とても優しい」
「あれで?」
「あれで」
 麻衣の回復は奇跡だと言われた。彼女は百分の一の確率と、呪いの威力に勝った。回復の方向に向かっている、という医師の診断を聞いたときのナルは、その場に居合わせた滝川の目から見ても泣くのではないかと思えたほどだった。
「よく、助かったわね」
 かみしめるように綾子が言う。
 それは、全員に共通の思いだった。
 麻衣は目を細めて微笑んだ。
「うん……助けてもらったの」
「助けてもらった? 誰に?」
「松田のおじいさんと、エミリと、そのお友達のマイケルと、リンチおじさんと、名前知らないおじいさん。それから、ジーン」
 麻衣は紅茶をもう一口飲む。綾子のいれたお茶というのはなかなか珍しい。このメンバーでいるときはまず間違いなく麻衣が給仕係だからだ。
「あの日、あたしが体を抜けてロンドンまで行った日ね、ちょっとした勢いで護符を破いちゃったの」
「おいおい」
「エミリたちはあたしを連れていかないと思った。でも……少し、疲れてたのかもね」
 滝川はため息をつく。それは仕方のないことかもしれない。
「そしたら、夢で松田さんたちに会ってね。夢だったっていう演奏会を聞かせてくれたの。きれいだったぁ」
「あのご老人が歌ってらっしゃった歌ですか?」
 ジョンが言い、麻衣は笑顔でうなずく。よほど感動したらしく、その目は輝いている。
「松田さんたちは、あたしに少しずつ力を分けてくれた。たぶん、そうだったんだと思う。霊は魂なの。魂には、体が生きるために必要な力が入ってるんだとあたしは思う。松田さんたちは、それをあたしに少し分けてくれたの」
「へぇ……」
 そんなことがあるのかどうかは誰にも分からない。しかし、彼女の回復が奇跡なら、その裏にそのくらいの奇跡があったとしても不思議ではない。
「エミリは、『また演奏会ができたのはあなたのおかげよ』って言った。リンチおじさんは『これで妻に会える』って。マイケルは『苦しかった病気のことが忘れられそうだ』って。松田さんは……」
 麻衣は目をうるませ、口元を押さえた。
「松田さんは、『オリヴァーは初めて会ったとき、君の話をして泣いてたんだよ』って」
 えへへ、と笑って麻衣が目元を拭う。
「ジーンが、『帰って』って言ってあたしに道を示してくれた。あたしは、それでちゃんと自分の体に帰って来れたの」
「そう……」
 綾子までが涙目になって、あいずちを打つ。
「嬉しかった。生きたいと思った。本気で思った。ナルのためにも。あたしが治ったのが奇跡だって言われたけど、だとしたら」

「みんなに会えたことと、みんながあたしにしてくれたことが、奇跡だったんだよ、きっとね」








 それは、一つの奇跡の話。

 それは、一つの幸せの話。





end

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