アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月十日――午後三時

「大変申し上げにくいのですが……この一ヶ月が勝負になるでしょう」
 と、ウィルソン医師は言った。
「今さら言っても栓のないことですが、発症してすぐここにいらっしゃるべきでした。この病気は医者もぞっとするほど進行が早い。ある日突然発覚し、悪夢を見ている気分のうちに死んでしまう。それで私たちはナイトメアなどと呼んでいます」
「聞いたことがありません」
 と、ナルはウィルソンと同じ調子の静かな声で答えた。
「ええ、それはそうだと思います。現在までの発症例は、世界中で二百人前後。近年発見されたばかりの症例で、医師でも知らないものがいるくらいだ。発覚せず完治、ないし死亡に至ったと思われる例を含めても、数千人単位だろうと推定されています」
 ウィルソンはしばしカルテをながめた。続ける言葉を探しているようにも見えた。
「前にかかった病院では異常なしと診断された、とおっしゃってましたね?」
「ええ、心因性の胃痛だろうと」
「あなたも、そして彼女もそれを信じた?」
「彼女は重度のストレスを感じていたようだったので」
 彼女は強い腹痛を訴えていた。聞いた限りでは、ナルにも医師の治療が必要だと思えた。しかし、各種検査を行った医師の判断は『異常なし』だった。
 おそらくは、二人ともがファントムペイン――幻覚痛の恐ろしさに対する知識を持っていたことが災いしたのだろう。前の病院の医師もだ。心は、時に起こるはずのない痛みを生み出す。その痛みは考えられないほど激甚であることもあり、ひどくすると原因のない傷が現れる例すらある。既存の病気に当てはまらないのであれば幻覚痛なのだろうと、二人は特に疑問もなく納得した。未知の病気など疑ってみなかった。そういうこともあるかもしれないと思った。
 ウィルソンはため息をついて上体を倒し、自分の膝に腕をついて支えた。ナルの方に顔を寄せるような案配になる。
「それは間違いとも言い切れません。確実とは言えませんが、今のところナイトメアの発症はストレスが引き金になっていると思われることが圧倒的に多い」
 ウィルソンは机に出されていた本をナルに差し出した。ストレス病に関する簡単な解説書である。ナルに見せるために用意しておいたのだろう。
「ナイトメアは、どうやら遺伝性のDNA異常です」
「ということは、先天的な病気であったと?」
 ナルは眉をひそめた。
「キャリアであった、と想像してもらえれば分かりやすいかと思います。たとえば、HIV感染者とエイズ患者の違いです」
「ああ」
「特定の条件下でしか働かない、ある種の時限爆弾ですね。ある日突然この異常なDNAが活動を始め、ナイトロフィロシスを産出する。ナイトロフィロシスは、本来人間の組成には含まれていない細胞です。神経の伝達を阻害する働きを持ちます。これは同時に、隣接した細胞に汚染を広げて、正常な細胞を変性させる機能を持つ汚染源でもある。変性された細胞は新たな汚染源になり、徐々に体を支配していく」
「神経の伝達を阻害……」
「一つ一つの阻害作用は小さなものです。しかし、汚染が広がれば体の機能が低下し、臓器不全を起こす。心臓に到達すれば打つ手がありません」
「その前なら、手は」
「これが、もともと体にない細胞であることが、唯一の救いです。免疫機能が働いて、細胞の増加を止めることができるでしょう。ストレスが引き金になることが多いと申し上げたのは、この免疫機能の問題です。ストレスが免疫機能を低下させる。体に侵入した細胞を撃退する力がなくなる」
「免疫機能が正常なら?」
「すぐに抗体が作られ、破壊細胞は抑えられます。初期のうちに免疫機能が働けば、症状が顕現する間もなく完治することもあるでしょう」
「ストレスがそれをさまたげる」
「そういうことです。心と体の体力勝負になるでしょう」
 二人はしばしストレス病についての論議をかわした。
 ナイトメアとガンと違い、その進行の早さについて。
 感情が麻痺していたのかもしれない。そんな馬鹿なと食ってかかることもせず、落ち込むこともせず、いつも通りでいる自分にナルは違和感を持つこともなかった。
 ウィルソンもまた、感情を露わにする質の人間ではないようだった。患者やその家族に死病を告知するときには、医師も辛いと言う。彼は見事なまでに表情のない顔をしていた。
 結論を出す気もない空虚な論議が尻つぼみに終わって、二人は数秒間黙った。
「……とにかく、治癒する可能性はあるんですね」
「今までの例から言うと、百分の一というところです。そして、勝負の制限時間は一ヶ月前後、ですね」
「なるほど」
 ナルは膝の上で指を組み替えた。
 無機質な情報のかたまりだけが脳の中に入ってきた。
「百分の九十九の確率で、麻衣は一ヶ月すれば死ぬわけだ。対応策もなく」
 言ってみても、同じだった。
「奇跡を期待しろ、と……」
「あなたがたは、奇跡を研究しているのではないのですか」
 半分責めるようなウィルソンの言葉は、何の意味だろう、とナルは皮肉に笑った。
 彼とて患者の死を避けられるものならそうしたい、そういうことだろうか。彼の手には負えないからナルに期待しているということだろうか。しかし、超常現象を過信されても仕方ない。
「超心理学は、奇跡じゃない。……今は、残念ながら、と付け足したい気分ですが」

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