アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月五日――午後八時半

 遅いな、と時計を盗み見ながらナルは心の中でひとりごちた。
 同行してきた麻衣が、ちょっと具合が悪いの、と化粧室に立ってから二十分近くたっていた。パーティーの雰囲気に慣れないのか、そういうことはよくあった。しかし、今日はやけに長い。
 それを口実にここを離れようか、と最善の努力で作った口元の笑いを意識しながらナルは思った。
 社交場に引きずり出されてタキシードやドレスを着たタヌキたちの質問に答えながら、彼の内心は疲労だけに支配されていた。この手のデモンストレーションは、彼がもっとも嫌うところだ。これがパトロンへの必要充分な機嫌取りであり、ひいては研究のためだと思えばこそなんとか我慢していられる。
 今も某家の某令嬢が空々しい言葉で彼の研究をほめている。この頭の悪そうな女に、彼が何を目指し何を研究しているのか理解する気があるとは到底思えない。一応言葉だけはもっともらしく彼を持ち上げているので、ナルはせいぜいうやうやしく礼を言ってみせる。たとえ慇懃な言葉であっても、ナルが丁寧な口調でものを言うだけで彼女たちはやけに盛り上がって喜ぶのだ。
 ナルは顔がよい。客観的に見て相当よいらしい。
 パトロンたちは、超心理学における業績や才能を評価するのみでなく、彼の飾りものとしての価値も買っているらしかった。こうして社交に出席し、着飾った姿とわずかばかりの愛想を公開することが、数人いるパトロンたちの共通のお望みであるのだった。
 ナルに否も応もあるはずがない。その数時間が数十万ポンドに化けるのだ。
 つまり、これが彼のイギリス生活での唯一にして最悪の苦痛であった。この一ヶ月ばかり彼の同伴者として常に連れ歩いている麻衣もまた、同じ面倒に巻き込まれている。
「……ですのに、博士ったら日本へ行ったきり帰っていらっしゃらないんですもの。いくらあなたと言えど忘れられてしまいますわと、みなさんでお話ししてたんですよ?」
「それは、失礼をいたしました」
 いっそのこと本当に忘れてくれればよかった、とナルは思う。
「イギリスのSPRはとても素晴らしい設備を整えていると聞きましたわ。日本にはもっと博士のご興味をそそるものがありましたの?」
「日本には設備というほどのものはありませんね。ただ、とてもよいサンプルの取れる国でしたから」
 そして、日本には彼女たちがいなかった。
 それは彼にとってとても興味を引くポイントである。
「まぁ、そのようなことを」
 さざめくような笑いが辺りの女性に広がる。
「日本の女性にご興味をひかれていたのではなくて?」
「そうですわ、まさかあんなかわいらしい婚約者をお連れになるなんて」
「私たちとても悔しい思いをしましたのよ」
 またその話か、と彼は大変に力が抜けるのを感じた。
 最近はどこへ行ってもその話題ばかりである。彼が婚約者となった麻衣を連れてイギリスへ帰ってきたのはすでに一月も前のことなのだが、社交界の話題はなぜか他人の色事や昇進を好む。あまりに言われるのでそろそろ無難なかわし言葉も尽きかけているほどだった。
「何も婚約者にばかりかまけていたわけではありませんよ。ご心配いただく必要はありません」
「彼女、ミス・タニヤマとおっしゃったように思いますけれど、英語はあまり得意でいらっしゃらないんでしょう? それでも博士に見初められるなんて、うらやましいわ」
「僕は日本語が話せますから」
「まぁ、そうですの」
「ぜひ聞いてみたいわ。日本語って、とても不思議な響きの言葉ですわよね」
 聞かせてくれ、と周囲が壁のように迫ってくる。彼女たちの好奇心というものは、まったく手に負えない。
 ナルは抵抗しないことにしていた。この社交場で人気を取るのは彼の仕事の一環である。日本語を話すくらいの簡単な仕事をいちいち渋って、パトロンの機嫌を損ねる理由はない。
 彼にとって日本語は母国語とそう変わらない程度にしゃべれる言語であり、何がそれほど珍しいのか困惑するばかりだ。彼女たちは、世の中に英語圏の人間しかいないとでも思っているのだろうか。
 要するに彼女たちは、英語に不自由している彼の婚約者をあなどっているのだろう。
 まったく、面倒な時間である。
 日本には彼を何かと巻き込んで馬鹿騒ぎをしたがる仕事仲間たちがいた。坊主である滝川、神道の巫女である綾子、キリスト教司祭のジョン、霊能者の真砂子、事務員の安原、そして同じく事務員をしていた麻衣。誰も彼も口うるさく、彼を放っておいてくれないのはイギリスの連中と同じだった。しかし、今この場にいる人間よりマシだったのは確かだ。
 彼らとは時々ではあるが実りのある会話が成立することがあった。少なくとも、イギリス人のナルが日本語をしゃべる様子や、すでに発表した研究の評価程度などという愚にもつかないことには興味を示してこなかった。
 もっともその代わり彼らはナルの私生活に躊躇なく踏み込んできてくれたわけだが。
 だから、日本へ戻りたいとは思わない。
 しかし、日本にいるときにイギリスを恋しく思ったこともなかった。どちらがよりよいかなど、彼にはとても言えない。
「みなさんの中で、日本語がお分かりになる方はいらっしゃらないんですか?」
「日本語なんて、とてもとても。アジアの言葉はまったく分かりませんわ。フランス語とイタリア語なら少しだけ話せるのですけれど」
 なるほど、と彼はもっともらしくうなずいてみせた。
『他国を馬鹿にするしか能がない人間はイギリスの恥なのですが、いい加減にしていただきたいものですね』
 笑顔で言った彼に、まぁすごいと拍手が起こる。
 どうも、とナルの方でも優雅にお辞儀をしてみせる。
「今、何ておっしゃいましたの?」
「確かに日本語はイギリス人には難しいようですね、と申し上げました」
「本当ですわよね。イギリスと日本はそれほど国交も盛んではありませんし、日本人は英語を話せない方が多いみたいですもの。きっと離れた言葉なんでしょうね」
「そんな言葉を流暢にお話しになって、博士はやっぱり私たちとは頭の作りが違うんでしょうね」
「ええ、本当」
 とにかく、何かを言っては笑う。
 いつでも笑い続ける人間には慣れたつもりだった。麻衣が笑顔を絶やさない種の人間だからだ。しかし、同じ種類の中でも微妙に系統が違うのだろう。麻衣の笑顔には、特にいらだちを覚えたことはない。
 その麻衣はまだ戻ってくる気配はない。
 健康さのない優雅な笑いたちの中で、ナルはただ早く家に帰りたいと思いながら、帰ってこない同行者を少しばかり気にかけていた。



 具合が悪いと言って会場を辞してきた麻衣は、洗面所に逃げ込み吐き気に任せて胃の中のものをすべて出してしまった。食事が口に入る気分ではなく、ほとんどアルコールしか取っていない。赤いワインが血の色に見えて、めまいを起こしそうになった。
 パーティーの時には、よく耐えかねて吐いてしまう。
 羨望と嫉妬の眼差し、巧妙でさりげない皮肉の数々。英語が堪能でない麻衣にはうまくかわすことができない。できないことでまた馬鹿にされる。満足に返答できない麻衣にかさにかかって言い募ってくる彼女たちの、意地の悪いことと言ったら!
 馬鹿扱いされること自体がそこまで辛いわけではない。ただ、麻衣の言うことやることには婚約者であるナルの面子がかかっているのだ。『妻の恥は夫の恥』という日本の言葉が実に重くのしかかった。
 ふざけるな、と言ってしまえたら楽だった。
 吐いた余韻で涙のにじんだ目を拭いながら、麻衣はそこに座り込みたい気分になった。
 いつになれば、この雰囲気と緊張に慣れるだろう。
 無理な気がした。
 日本に逃げ帰ろうか、と何度も思った。
 しかしナルと離れて過ごした二月の間どれほど辛い思いをしたかを考えると、とても決断できそうになかった。あの思いはまだ麻衣の中で鮮明なのだ。あれはもう嫌だ、と思うのに充分なくらいには辛い時間だった。
 ナルはイギリスに帰ることが決まった時、すぐに麻衣を連れて帰ろうと考えたわけではなかった。少なくとも麻衣はそんな話を聞いていない。実際に彼女がイギリスに来たのは、ナルが帰ったのより二月あとだ。だから本当はナルが麻衣を連れて帰ってきた、という表現は正しくないのかもしれない。麻衣がナルを追いかけてきた、この方が事実に近い。
 連れて行ってほしかったと泣いた。
 ナルは来るか、と聞いた。
 年季の入った建物の薄汚れた洗面所で、麻衣は泣きたい思いをかみしめる。
 婚約者として正式に紹介されている今、麻衣が勝手に日本に帰ったりすればナルにどれほどの迷惑がかかるか、そのくらいのことは分かるつもりだ。そのくらいの分別がつくほどに、麻衣は大人になってしまっていた。
 仲間をおいて。友達をおいて。
 ひどく面倒な滞在手続きをして麻衣は今イギリスにいる。日本に家族はいない。帰る場所も方法もない。
 すごい決断をしてしまったのだと、最近になってやっと気付いたときには逃げ場がなかった。これからも『デイビス博士の婚約者』としての重責からは逃げられないのだ。
(がんばらなくちゃ……がんばらなくちゃ……)
 それを自分に言い聞かせて、もう一ヶ月になる。
(ホームシックかな?)
 努めて明るく考えようとする。
 我慢が限界に来ていることは感じていた。だが、考えないようにしている。
 勢いをつけてトイレのそばから立ち上がり、麻衣は個室から出た。手を洗い、鏡の前で念入りに化粧を直し、もう一度会場に戻る気持ちを固める。
(よし)
 顔色の悪さは、なんとかファンデーションでごまかせた。
 厚塗りして許されるドレスを着ていることが救いだ。
 洗面所の扉を開けてみて、麻衣は思わず言葉を出すのも忘れてしまった。なぜか、すぐそばの壁にナルがもたれかかっていたのだ。
「遅い」
 容赦のない一言が飛ぶ。しかも、嫌味のように英語である。
「待てなんて言ってないよ」
 麻衣も英語で返した。
「僕は待たされた」
「勝手に待ってたんでしょ。……日本語でしゃべってよ」
「簡単な言葉を使ってるだろう。使わなければ覚えない」
 そういう理由で、一ヶ月間彼は日常会話でも麻衣に英語を強要した。おかげで確かにうまくなってはいると麻衣は思う。だが今だけは、英語を聞く気分ではないのだ。
「戻るぞ」
 ナルの背が壁から離れ、麻衣から遠ざかってしまう。麻衣は仕方なくそれを追いかけた。
「探しに来たの?」
「ウィルソン氏が麻衣と話したいというから」
 彼は面倒そうに一つの名前を挙げた。確か、ナルのパトロンの友人であると聞いたのを麻衣は覚えていた。ロンドンにある大病院の院長であったと思う。そんな相手に所望されたのであっては、労力を払ってでも麻衣を連れに来るだろう。
 また観察の視線にさらされるのだと思うと、麻衣は再び吐き気がこみ上げてくるのを感じた。
 下手な英語を返して恥をかけば、ナルに迷惑がかかる。そう思うととにかく言葉少なにしているしかない。イギリスには、そうしなければならない相手が多すぎた。
「具合は」
 ナルが無愛想に聞いてくる。
「うん……少し、マシになった」
「それは結構。彼にあいさつをしたら先に帰っていいから」
「気をつける……あれ、違う?」
「『注意する』? 『努力する』?」
「あ、『がんばる』」
「Do my best」
「あ、なんだそれでいいのか」
 麻衣はナルの横顔をうかがった。
 心配してくれているのだろうか。それにしてはいつも事務的すぎる彼の対応に、さみしい思いが吹き抜ける。
 他に頼る人がいない自分のさみしさを察してほしいと、そんな風に思う気持ちはいつも裏切られると麻衣は知っていたけれど。

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