アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月五日――午後十時

 パーティーは妙に長引いた。
 あとから思うと、それはそのあとのべつまくなしにナルを悩ませた不条理感の一番始めだったかもしれない。
 麻衣を先に帰したのが九時過ぎだったろうか。ほどなく終わるかと思われたパーティーは、十時になっても終わる気配を見せない。彼はすでに充分苛立っていた。
 場内を給仕係が走り回っているのを見たのは、その頃だった。
「デイビス博士はいらっしゃいますでしょうか。こちらに、デイビス博士はいらっしゃいませんでしょうか」
 ナルは眉をひそめ、彼を呼び止めた。
「デイビスは僕ですが」
 給仕係はほっとした表情を見せると、突然呼び出した非礼を丁寧に謝った。
「お電話が入っております。至急とのことです」
「電話?」
「はい。病院からです」
 嫌な感触が走る言葉だった。ナルは眉をひそめ、小さくうなずいた。
「すぐに行きます。電話はどこですか?」
 話していた相手に退席を告げ、給仕係の案内に従って会場の事務所へと足を急がせた。
 その場を辞す口実が見つかったと喜ぶわけにもいかない。病院からの至急の電話など、よいことであるはずがないのだ。彼の家には高齢という年ではないが両親がいる。
 会場を出ると、長い廊下を経て入ってきたのとは別の細い廊下へと折れた。中央廊下から見えない場所へ来ると、急に雰囲気が飾り気のないものになる。本来客を入れる場所ではないのだろう。
 整った会場の内装とうってかわって雑然とした事務所の中で、ナルは渡された受話器を取った。事務所には働いている人間がいて、ナルに一瞬視線を向けてくる。
 その非日常的な状況は、胸の内に起こった嫌な感触をふつふつと沸き立たせた。
「お電話代わりました。デイビスですが」
 よかった、と電話の向こうの誰かが言った。女性だ。看護婦だろう。
 受話器の向こうであわただしく人が立ち働く気配がしていた。病院の空気が電話ごしに流れ込んでくる。それはけして気持ちのいいものではなかった。
「至急と言うことでしたが?」
「先ほど、奥さんが救急車でこちらに運び込まれました。今、処置室に入っています」
 実に簡潔な言葉に、ナルはしばし返すべき反応を見失った。
 驚いた、という言葉がもっとも近いのだろう。
 ただ、妙に青ざめて見えた先ほどの麻衣を思い出した。
「妻……ですか」
「マイ・タニヤマというお名前の方です」
 妻というわけではないのだが、それを今看護婦に説明しても仕方がない。婚約をしている以上いずれは妻になる予定であるわけで、大きく事実と異なっているというわけでもない。
「ええ、間違いありません。運び込まれたとは? 事故ですか?」
「いえ、外傷はないようです」
「外傷はない? どんな様子なんですか?」
「それが、よく分からないんです」
「分からない?」
 彼は刺すような苛立ちを感じた。
 この看護婦は一体何を言っているのだろう、と思う。
「タニヤマさんは混乱してらっしゃる様子で、医師との意志の疎通が困難でして。その、うちには日本語が分かる人間がいないんです」
「……ええ」
 答えた声が低くなった。
 救急車を呼ぶような事態で、自分の状態を説明できない。病院にいても処置が受けられない。最初の感触以上に深刻な状況であることが少しずつ理解されてくる。
「今すぐ手術が必要という外傷のたぐいではありませんでしたので、とりあえずトランキライザーと鎮痛剤を投与しているはずです。とにかく、医師と話が通じておりません。すぐにいらしてください。患者さんがあなたを呼ぶようにと」
「分かりました。すぐに行きます。そちらの場所を確認させて下さい」
 正確な所在地を聞き、十五分ほどで着く旨を告げると、ナルは電話をおいた。
 いったい何の話だ、と小さく呟いた。
 緊急事態だという実感などない。麻衣は、つい数時間前までいつも通り彼の近辺にいたのだ。体力だけが取柄のような若い女だ。それが、外傷でもなく病院で処置を受けていると言う。
 自分は今どんな顔をしているのだろうか、と他人事のように思った。



 ナルが病室に入ると、麻衣はやつれた顔に安堵の表情を浮かべた。ほんの数時間前より、数段顔色が悪い。ごまかしに厚塗りしていた化粧が落ちたから、という理由があることにナルは気付かなかった。
「I'm sorry …… for taking your time」
 麻衣はかすれた声でそう言った。
 日本語で話しかけられると思っていたナルは少し面食らった。何もこんな時まで英語の訓練をする必要はないと思い、その時初めて彼女が重ねていた遠慮と努力と忍耐に気付いた気がした。
 それははっとさせられるような認識だった。
「日本語でいい。何のために僕を呼んだんだ」
「あ、よかった……。仕事中に、ごめんね?」
「……具合は」
 ナルは何を言っていいのか分からず無難な言葉を口にした。
「うん、そうだね……良くはないけど」
 堅い表情で麻衣は笑おうとする。
 笑うからだ、とナルは思った。笑うからそれほど悪いなんて思わなかった。分かっていれば、いくらなんでも一人で帰したりしなかったのに。
 ベッドに歩み寄り、その端にナルは腰を下ろす。
「英語が分からなかったって?」
「うん……」
 横向きに寝たままナルに向けた目が、うるんでいるように見えた。具合が悪いせいか、不安のためか。
「おかしいね。ちゃんと勉強したはずなのに。いざとなったらパニックしちゃって」
「おかしくはない。よくあることだ」
「うん……」
「それで、どこが悪かったんだ」
 麻衣は迷うように瞳をさまよわせる。
「どこだっけ……おなかが痛くて……」
「ああ」
「すごく気持ち悪くって。でも、吐いたからそのせいだと思って」
「ああ」
「帰ろうとして歩いてたらね、急に吐きそうになって座り込んだの。そしたらおなかが痛くなってきて、本当はもっと前から痛かったのかもしれないけど最近多いからあんまり気にしてなくて」
 そんな話は聞いていない、と思いながらナルはただうなずいた。おそらくは、ずっと英語で会話していたから伝えるタイミングがうまくつかめなかったのだろう。
「治るまでじっとしてようと思ったらどんどん痛くなってきて、なんだかすごく寒くなってきたの。体が引きつったみたいになって、頭がくらくらして、怖くなって近くにいた人に助けて、って言ったら救急車を呼んでくれた」
 ナルは麻衣の額に手を当てた。相当熱がある。寒いと感じたのはそのせいだろう。高熱で引きつけを起こした。たぶん、そういうことだろう。
「救急車で周りの人がみんな、たぶん『どこが痛いんですか』って言って。でもよく分からなかった。英語、英語、全部英語で頭がパニックして、おなかが痛いなんて簡単なことも言えなくて……ねぇ、何て言うんだっけ?」
「……My stomach hurts seriously」
「それだよ。あたしバカだな。やっぱりダメだ……。がんばったのに。がんばってたのに」
「知ってる」
「知らないよ」
 麻衣は顔をゆがめた。
「ナルは全然知らないよ。あたしが一人で病院に連れてこられてどれだけ不安だったか、お医者さんの話が分からなくて何されたのかも分からなくてどれだけ怖かったか、このまま死んじゃうかもしれないと思って痛くて苦しくてどれだけ……どれだけ……あ、しまった痛い……」
 勢いが続かなくなって麻衣は体を丸める。
 その背中をさすってやるのもためらわれた。だから、ナルは立ち上がった。
「……医者に、話を伝えてくるから」
「……行かないでよ」
 彼は眉をひそめた。
「とりあえずすぐ戻ってくる。けど、ここは完全看護で夜間の付添いは不可だ。看護婦には簡単な言葉で話してくれるよう言っておく。大丈夫だな?」
 麻衣は泣き出しそうな顔をして、それを隠すように枕に顔を埋めた。
「麻衣」
 うながすと、頭が少しだけ上下に動いた。
 ナルはうまいいたわりの言葉も探せずに、黙ってその場を離れた。

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