アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月九日――午後四時

 麻衣は、一日検査のために入院するとすぐに退院を許された。これといった病気の兆候が発見できなかったからだ。
 痛みの強さや寒気、だるさなどの症状の重さは、数値にして測ることができない。病院でできるのは、採取できる資料と既存の病気に照らし合わせて、その結果専門的な看護が必要と思われた患者を収容することである。そして、その結果で言うなら麻衣に入院の必要性は認められなかった。患者が強く訴えれば入院の継続も可能であったかもしれないが、麻衣はそれを望まなかったのだ。
 体調が悪いのは事実なので、病院とのパイプ役は当然のようにナルに回ってきた。より詳しい検査を依頼し、その結果が出たのが退院して三日後のその日だった。
 疲労を抱えてナルが家に戻ってきたとき、リビングではルエラが雑誌を読んでいた。
 ナルはこの家に兄とともに八才で引き取られてきた。ルエラは養母であり、八才から十六才まで共に暮らした家族である。再びナルが帰ってきたのが去年十二月、実に六年間の不在を怒りもせず当たり前のように彼を受け入れてくれた。そして、先月には彼の婚約者である麻衣が来た。彼女をも、ルエラは家族の一員として屈託なく迎え入れた。
 兄のジーンが減った分を補って四人、新しい家族はそろって家にいるときよくこのリビングに集っている。ルエラも、養父のマーティンも、未来の嫁をとても気に入っているようだった。麻衣の方でも初めて得た家族というものにとても嬉しそうな顔を見せ、ナルよりも家族らしくこのデイビス家に溶け込んでいた。少なくとも、当人以外の三人にはそう見えていた。それが事実だったかどうか、彼らは今疑問を抱き始めていたのだが。
 ナルはリビングを見渡したが、あってもいいはずの姿がリビングにない。
「麻衣は?」
 彼女は倒れて病院に運ばれた日から仕事を休み、家にいるはずであった。おそらくはルエラとおしゃべりでも楽しんでいるだろうと考えていたのだが、その予測は当たらなかったようだ。
「あら、お帰りなさい。マイなら上にいるはずだけど。体調が悪いって寝に行ったわ」
「そう」
 それならわざわざ起こしに行く必要はないだろうと、ナルはソファに腰を下ろした。
 ルエラは読んでいた雑誌を閉じて立ち上がり、キッチンからカップを取ってきた。テーブルの上に置いてあったポットから紅茶を注ぎ、ナルの方に進めてくれる。カップからは暖かな湯気が立った。いれたばかりだったらしい。
「それで、どうだったの? お医者さまに会いに行ってたんでしょう?」
「うん」
 ナルは紅茶を一口飲み、息をついた。
「精密検査の結果、やはり何も問題はない、と」
「問題はない? だって、あんなに顔色が悪いのに」
 救急車で運ばれた翌日簡単な検査が行われ、どうやら腫瘍らしきものも潰瘍のたぐいも認められないようだ、という結果が出た。熱が出ているのだけは確かだったので、過度の疲労がたまった結果ではないかという話になった。
 それでも念のために精密検査を依頼した。今日ナルが聞きに行ったのは、その結果だった。
 別段、重い病気に違いないと思っているわけではない。ただ、麻衣の様子は深刻で、倒れた時の話を聞けばナルも慎重にならざるをえないものを感じた。胃潰瘍とか胃炎とか、胃膨張、そういう病名すら出てこないのが少々引っかかったのだ。
 しかし、医師の診断は結局異常なし、ということだった。
「心因性の……つまり、ストレスが引き起こした幻覚痛ではないかという話だ」
「幻覚痛? 実際には痛くないのに、痛い気がするってことかしら?」
「痛みというのは、結局脳が作り出しているものだから。実際に痛みを感じてはいるはずだ」
「本当はどこも悪くないのに、脳が痛いはずだと考えて、痛みを感じさせてる?」
「そう、それ。不登校児が学校に行きたくないと思うあまり、実際に熱を出すのと同じ理屈かな。あれは幼児並みの知能しか持ってないから」
「そんなことを言わないの」
 たしなめられ、ナルは軽く肩をすくめた。
 ルエラは首をかしげ、言われたことを吟味するような顔を見せる。
 ナルはその間に紅茶を飲む。ルエラは向学心の旺盛な女性だから、まだまだ質問を重ねてきて彼の紅茶を飲む時間を奪うおそれがあった。
「……あのね」
 ゆっくりと、ルエラが話し出す。
「はいはい」
「マイのストレスの原因を私がどうこう言うものではないと思うけど、それでも彼女の原因は具合を悪くすることで避けられるものなのかしら?」
「つまり?」
「つまりね、そう、それってポルターガイストを起こすのと同じ原理でしょう? 何かに気付いてほしかったり、何かを避けたかったりしてその手段として無意識がそれを行うわけよね?」
「そういうことになるね」
「マイは何にストレスを感じているのかしら? 新しい環境、新しい職場、新しい家族、母国ではない国での生活、ストレスを感じる原因が彼女にはたくさんあると思うわ。でも、それは具合を悪くすることで避けられること? 思い当たることはある?」
 ナルは少し考えた。
 心因性の病気の多くはストレスが体の機能を低下させた結果疾患にかかるというものだ。それはストレスを感じていること自体が問題なのであって、理由がなんであろうと関係ない。
 だが、麻衣の場合は何かに感染したり発病したりしたわけではないという。幻覚痛は無意識の防衛として行われたはずだと考えられる。だとすれば、無意識は幻覚痛を起こすことで何かを回避しようとしたのだ。その何かとは、彼女が負担に感じているが、行動して改善することが難しい何かである。
 ファントムペインで避けることができる、あるいは気付いてもらえる、彼女が負担に思っている何か……?
(英語、という可能性が高いか?)
 実際、病院で英語が通じなかったという騒ぎのあとこの家では英語教育が後回しにされている。それこそ、病人の彼女にストレスを感じさせないためだ。
 しかし、それでは矛盾が生じている。
 『英語は現在使われていない』のだ。彼女は仕事を休んでいる。そこそこ日本語の話せる家族としか話していない。無意識が英語を拒否しているとするなら、今は拒否すべき問題がなくなっているはずだ。それなのに、『現在も具合が悪いと寝に行っている』。
 英語が原因と思うのが間違いなのか、それともファントムペインであると診断するのが間違いなのか。
 ルエラの言う通り、麻衣にはストレスを感じてしかるべき要因が多くある。生活習慣の大きく違う場所での生活を余儀なくされ、慣れ親しんだオフィスを離れて異国語の飛び交う職場に通うことになった。今までの友人たちと会えないのも彼女には苦痛だろう。新しい家族に対し屈託があるのかもしれない。
 だが、体調不良を訴えることでそれを永久的に回避できるだろうか? 一時的に職場を離れることはできるが、それならば発熱程度の症状でいいはずだったし、しばらく休んでいいと言われている現在には英語と同様理由がない。
 あるいは、ポルターガイストを起こす子供によくあるように、周囲の視線を向けさせたかったからということも考えられる。だが、ルエラやマーティンは、ナルから見ればうるさいほど麻衣をかまっている。ナルの無関心無愛想は今さらである。これが理由だとすれば、二人きりで過ごすことの多かった日本の頃、とっくに幻覚痛を起こしているべきだ。
 そこまで思い巡らした時、ふいに二階で何かが叩かれたような大きな音がした。
 ナルもルエラも、思わず階段を見る。
「……マイかしら」
「見てくる」
 一人で立ち上がり、ナルは二階へのぼった。
 二階の廊下は少々気味が悪いほど静まり返っていた。あれだけ大きな音をたてたはずの麻衣は、そのあと動いていないのだろうか。何かを落としたのだとすれば、あわてて片付けている音がしていてもいいはずだ。
 ナルと彼女が寝室に使っている部屋の扉を、二度ノックする。
「麻衣? 入るぞ」
 コツン、と返事のように扉が鳴った。
 ナルは顔をしかめ、小さめに扉を開けて部屋へ滑り込んだ。彼の思ったとおり、麻衣は扉のすぐ脇の壁にもたれかかるようにして膝を抱えていた。腕だけを伸ばして扉を叩いたのだろう。
「麻衣」
 そばに膝をついて彼女をのぞきこみ、ナルは一瞬ぞっとした。彼女の顔色は、白いを通り越してほとんど土色と言ってもいいくらいのひどさだった。
 事情を聞く必要はなさそうだった。彼女に今必要なのは日本語でも彼でもなく、医者と薬だと思われた。
「医者を呼んでくる。ベッドに横になってろ」
 言ってきびすを返しかけ、動く気配もない麻衣に眉をひそめる。
「立てるか?」
 麻衣はごくわずか首を横に振った。
 気力を振り絞って扉までたどりついたのだろう。そう判断したナルは、負担を与えないよう注意しながらその体を抱き上げる。麻衣はただ口を押さえてじっとしている。体は焼けたように熱く、蝋を流し込んだように堅くなっていた。
 刺激を与えないように筋力を総動員してベッドに横たえると、布団を肩までかけてやる。
「吐き気がひどい?」
 口元から手を外さない麻衣に、口早に聞く。麻衣はかすかにうなずいた。
 嘔吐の可能性があるなら、洗面器のようなものが必要だろう。ナルは早足で部屋付けのバスルームに足を向ける。イギリスの家ではひとつひとつの部屋にバスルームやシャワーがついていることが多い。この部屋にもトイレとシャワーのある小さなバスルームが続いていた。
 その中に入って、ナルは思わず足を止める。
 彼の目に入ったのは、トイレの周囲を赤く汚した、かすれたような跡だった。単純に嘔吐した痕跡が残っているだけではない。血を吐いたとしか思えない。それも、かなり深刻に。
 動揺が、手の震えに現れた。
 洗面器を取って麻衣のそばに戻るときにはそれが落ち着いているよう、ナルはかなり本気で自分の気持ちを抑えねばならなかった。
 麻衣は目に涙をためて、ベッドの中で体を丸めている。
「なぜもっと早く呼ばなかった」
 低く言った言葉に、麻衣は再び首を横に振る。
 何が言いたいのか、ナルには分からない。
「……電話をかけてくるから」
「……行かないで」
 かすれた言葉と裏腹に、よろめくほど強く袖口がつかまれる。ナルはたたらを踏んだ。
 麻衣の目は真剣だった。
「麻衣」
「一人にしないで……怖いよ」
「医者を呼びに行くんだ」
「病院は嫌い」
 数日前の体験がよほど強いトラウマになったのか。そういえば彼女の母親も病院でなくなったのだったかと思い出す。
 しかし、この状態の彼女を医者に見せないわけにはいかない。彼には対処のしようがない。
「すぐに戻ってくる。二分。今度はずっと付いているから」
「いや……」
「麻衣」
「ここにいて」
「少しだけ待ってろ」
「お願い」
「冗談じゃない。死にたいのか」
 低い恫喝に、麻衣は肩を揺らして黙る。
 沈黙した目から、一粒涙がこぼれる。
 ナルは何も言わずに彼女の手を放させ、飛び出すように部屋を出ていった。



 階下へ駆け下りたナルは、真っ先にホームドクターに電話をいれて呼びつけた。ただしこちらには大した期待はしていない。通話を終えると、受話器を置くこともなく別の医院のダイヤルを回す。
 電話を取った受付の看護婦に、問答無用で院長を出すよう言う。依頼の言葉を選んだが、後から思えばそれはほとんど脅迫じみていた。
 幸い、呼び出した院長はそれほど忙しい時間ではないようだった。
「ウィルソンですが」
 電話の声は、数日前にパーティー会場で話した男のものだ。
 礼儀を鑑みている場合ではない。不躾であることは承知であいさつのほとんどを省き、ナルは彼にごくごく手短に事情を言った。
「……で問題なしと判断されました。しかし、本当に心因性のものだとしても症状が重すぎる」
 ウィルソンは返事に時間をおかなかった。
「うちで引き取りましょう」
「埋め合わせは、先日の件を承知すると言うことで」
「ええ、助かります。では、今晩にでも」
「よろしくお願いします」
 短い応答の後、電話を切る。
 二分は過ぎてしまったと思う。
 ナルは再び急いで二階へと戻った。ルエラの事情を聞く声には医者を待ってくれ、とだけ返事をする。
 寝室の扉を静かに開き、中へ入ってベッドに歩み寄った。
 数分前と、何も変わらない静けさがそこを包んでいた。
「……麻衣?」
 ベッドの中から返事はない。
 堅く目を閉じた顔をのぞき込み、青白い顔の中でやけに赤い血の跡が残る唇を見て、ナルはその血を指先で拭う。

 ――息をしているのか。

 焦燥と恐怖が胸を突き上げてきて、ナルは彼女の投げ出された指を取った。
 熱い。当たり前だ。少なくとも五分前高熱があったのを確認している。たとえ死んでいたとしても、熱いに決まっている。
 脈を取る。口の前に手を当てて息を見る。
 ……どちらも、大丈夫だ。
 意識を失っただけだ。
 それを理解するまで息を忘れていたことに、大きく深呼吸してからナルは初めて気が付いた。

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