アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月十日――午後四時

 ノックをしようと上げた手が、病室の扉の直前で止まった。
 先ほど院長室でウィルソンと交わした会話が頭をぐるりと一周する。
 扉の向こうには麻衣がいる。きちんと閉まりきっていない扉は小さな隙間を作り、病室の白い壁をわずかにのぞかせている。この隙間に続いた場所に、彼女は横になっている。
 扉を少し押せば、麻衣はナルを認めるだろう。いつも通りくもりのない笑顔を見せ、お帰り、と明るい言葉を投げてくるだろう。
 いや、病気に生気を吸い取られた彼女は、やつれた顔でただ瞬くだけだろうか。
 そのどちらだったにしろ、彼はなんと声をかけていいのか分からない。
 胃潰瘍あたりだと思っているだろうか。あるいはガンかもしれないと疑ってみているかもしれない。だが、まさか余命が一月だなどと――誰も、考えてみはしないだろう。
 他の誰かなら、すでに他界した兄ならば、うまいなぐさめの言葉を口にするのかもしれない。だが、ナルにはできそうもない。

 初めて、ナルはウィルソンの言葉を理解したと思った。

(ストレスが原因ではないかと)
 それなら、そのストレスのさらに原因は誰が作った?
(ストレスをなくさせることが唯一の期待できる治療だと)
 自分が、その重荷を?
 責任を?
 彼女の笑顔を支える人間に、なれると……?

 ナルは上げかけた手をゆっくり下ろした。
 ウィルソンには、彼から麻衣に話すという方向で相談して出てきた。本人に委ねるべきだと思った。自分で決めさせてやるべきだと思った。しかし。
 ナルは一歩後ろへ足を引いた。考え直そうかと思った。
 ところが、その引いた足が誰かにぶつかった。彼はたたらを踏み、バランスを崩してその場にとどまることができずに、思わず病室の扉に手を突いた。支えはあまりに頼りなく動き、彼は大きく足を踏み出して転倒をこらえた。
 彼の背後で女性の小さな悲鳴と何かが倒れる金属音が聞こえた。
「申し訳ない」
 ナルは後ろを振り向く。
 背後の廊下には、老齢の淑やかな婦人が体勢を崩して腰をついていた。そばには車椅子がある。彼は、彼女の座った車椅子の車輪に足を引っかけて彼女を転ばせてしまったのだ。
「エミリ」
 車椅子を押していたらしい東洋系の顔をした老人が、彼女を抱き起こす。夫だろう。ナルも手を貸した。
「ああ……ありがとう」
 にこり、と老女は夫とナルの両方に笑った。一人で立ち上がれないのだ。
 病院で注意を怠るなんて、とナルは悔やみ、もう一度丁寧に不注意を謝罪した。
 二人は笑ってナルに一礼し、車椅子を押す。
「ナル?」
 病室の中から麻衣の声がした。声が聞こえてしまったのだろう。
 彼は躊躇し、彼らしくなく狼狽し、それでも逃げる方法を思いつかずに息を吐いた。



 ベッドサイドに椅子を引っ張ってきて座ったナルの顔を見て、麻衣は何か感じたらしかった。他の誰も、彼のそんなわずかな表情の変化を見て取ることはできない。たぶん、一番長く、一番近くにいて彼を見ていた麻衣だから分かることなのだろう。
 もしかしたら、もしそうだとしたら彼にとっては不本意なことだが、彼が一番多く感情を見せたのが麻衣であるからなのかもしれない。
 麻衣は淡く笑った。
「嫌なニュース?」
「そうだな」
 麻衣はロンドンにあるこの大きな大学病院の個室に入院していた。個室にしたのは、英語でコミニュケーションを取らねばならない人間を最小限に抑えるためだ。
 『ストレスを最小限に』、それが彼女に施されている治療のほぼ全てだった。
「あのね、ナル。あたしの親戚ってもう一人も生きてないの」
 そのことは知っていたのでナルはうなずいた。
「あたしが物心ついたときには、血がつながってる人っておかあさんだけだった。あんまりよく考えてみなかったんだけど、みんなどうして死んじゃったのかな? みんながみんな、若いうちに死んじゃってるんだよ」
 突然妙な話をし始めた麻衣に、ナルは黙ってうなずいた。彼女は自分の病気を察しているのかもしれないと思ったからだ。
 麻衣は左手の甲に点滴を受けてベッドに横たわったまま、天井をながめて話し続けた。
「初めてそんなことを考えたのは高校生の時だったかな? おかあさんは事故だったけど……あたしは他の人の死因を知らない。うちが早死にの家系だった理由を知らない。もしかしたら『呪われた一族』みたいのだったのかもしれない。でも、もしかしたら……」
 麻衣は横を向いてナルと視線をあわせ、ふと笑った。
「もしかしたら、遺伝性の病気を持ってたのかもしれないね? ……違う?」
 否定の返事を待たない言い方だった。
 ナルは何と返答するか少し考えた。だが、結局はうなずいた。
「違わない」
 そう、と言って麻衣は目を伏せた。
 その時になって初めて、ナルは彼女の印象が彼の中でいまだ明るい笑顔であったことを知った。笑っていない時の彼女の顔をたくさん知っている今でも。
 彼女の笑顔を愛していることを知った。
 その笑顔がこうして失われていくことを考えた。
「あと……あたしは……」
 言いよどんだ質問の意味を察し、ナルは静かに答えた。
「あと、一ヶ月」
「短いね」
「そうだな」
「そっか……びっくり」
「だろうな」
「驚いた?」
「それはもう」
 彼女は言うほど驚いていないようにナルには見えた。覚悟していたというよりは実感が湧かないのだろう。
「少しはさみしい?」
 その質問は、冗談めかしてささやかれた。目を伏せたまま。
 ナルはまた少し考えた。さみしいだろうか?
「……人はいつか死ぬんだ」
「冷たい」
「冷たくない。事実だ」
「事実だって、普通はさみしいと思う」
「仕方ないことだ。ただ、今だとしたら少し早い」
 彼女は目を開き、涙にうるんだその目で彼を見た。
「本当に助からないの?」
 急に彼女の口調に焦りが見えた。
 彼はゆっくり言った。
「百分の一。それほど低い確率じゃない」
「百分の九十九は、ダメ、ってことだよね、もちろん」
「百分の一は助かるということだ」
「でもほとんどダメなんだよね」
「不治の病というには治癒率が高い」
「理屈だ」
「もちろん、理屈だ。だが、事実だ」
 麻衣は黙った。黙って再び天井に目を戻しながら、彼女が何を考えているのか相変わらずナルには分からない。
 分からない、と会った頃から思い続けていたことを今でも思う。七年の月日はそんなものだ。たかだかそんなものだと思う。そしてそれはこれからの一ヶ月でも、そのあと続くかもしれない何十年かでも、変わりはしないだろう。
 その程度のものだ。だが、それでも重要な時間だった。
 思っていたよりずっと早い、とナルはまた思った。
「……I'll do my best」
 ふいに麻衣が言った。
「結局、それしかないよね。助かるかもしれないなら」
「協力はする」
「協力?」
「医師とのコミニュケーションが困難だろう。できるだけここにいるようにする」
「できるだけなの?」
 すねたように言う麻衣に、ナルは軽く肩をすくめてみせる。
「看病している間に僕が事故で死ぬかもしれない。あるいは、麻衣はあっさり助かって、僕が研究のできない心労で早死にするかも」
 麻衣は思わずというように吹き出した。
「どういう事情だろうと、僕には僕のやることがある。麻衣も、好きにすればいい」
「……『人はいつか死ぬ』、か。そうかもね」
「そうだと言ってるだろう。どこに疑う余地がある」
「ないね。そうだね」
「麻衣は、人より少し死ぬ確率が高いだけ」
「死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。それって、普通の人とおんなじ、かな?」
「僕はそう思う」
 ふぅ、と麻衣が大きく息を吐き出す。
「何か必要なものがあったら僕に言えばいい。できる範囲での協力は惜しまないつもりでいる」
「ナルって言うことが居丈高だよね、ほんと」
「お礼には及びません」
「礼なんか言ってないっての」
 ナルですら思わず知らずほっとするほど、麻衣の笑顔はいつもの明るさをのぞかせていた。
 ナルはその柔らかな髪を、熱を持った額から分けてやる。麻衣は笑顔でされるがままになっていた。
 ナルは顔を上げ、思いつきを口にした。
「一ヶ月に間に合うように籍を入れようと思うんだけど?」
 麻衣は目を丸くした。
「何のために?」
「理由? もし死んだら困るから」
「死んだら困るのは、籍を入れた後でしょ? 戸籍に残っちゃうんだよ?」
「別にそれは困らない。籍を入れないまま死んだら困る」
「わっかんない人だなぁ」
「現実問題だ。お前には肉親がいないだろう。家族以外臨終には立ち会えないし、墓地にも困る」
「ああ……そっか。……って、それじゃナルが!」
「僕が?」
「他の人と結婚したくなったときに」
「今のところ予定はないから、いい」
「そりゃ、今あったら怒るよ」
「ならいいだろう」
「よくないよぅ。そんなの悪いよ」
「分からないのはお前の方だ。さみしいだの何だのとわがままを言っておいて、結婚は悪いのか?」
「い、言わないようにしてたじゃん、わがまま!」
「してたな。でも、もう言ったんだから同じだろう」
「それって同じレベル!?」
「違うのか?」
「ちが……も、疲れた」
「騒ぐからだ」
 誰のせいだとぶつぶつ文句を言って、麻衣は口をとがらした。
 その顔は、怒っているようには見えない。嬉しそうだとしか思えないのだが、それはナルの観察が間違っているのだろうか?
 そっぽを向いていた麻衣が、小さな声で呟いた。
「必要なものがあったら言っていいんだよね?」
「どうぞ? 何か」
「I need your kiss. Just now」
「Can I find the answer in it?」
「Yes, you can」
「……Here you are」
 そして、額にふれるだけの軽いキス。
 不満を言いかけた唇にもキス。
 唇を離すと、大好きだよ、と麻衣が泣いた。

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