アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月十日〜十四日

 デビーは三年前からその大学病院に勤め始めた看護婦であった。新米ではないが、ベテランにはまだ早い。中堅というところだろうか。
 デビーには現在二人の患者が担当として割り当てられており、ベテランの先輩二人と交代で看護に当たる忙しい毎日を過ごしていた。そのうち一人は死を待つばかりの老女である。病状も思わしくなく、さびしがりでよく看護婦を呼びつけるため、気が抜けない。
 看護婦の仕事というのは医者と同じくらいに忙しく、医者よりも力仕事が多い。勤務時間は長く、不規則。体も心もすり減らすような仕事である。
 その中で、段々一人一人の患者に対する思いやりを忘れてしまうこともある。しかし、デビーは人一倍元気があっていつでも精力的な看護婦であった。おかげで厳しい看護婦の仕事にも明るさを忘れずにいることができた。彼女自身も看護婦が天職だと思っていた。
 そんな彼女が新しく患者を任された。まだ若い日本人の女性だった。
 もちろん、デビーは日本語が話せない。日本人と言っても現地人同様英語を話す者もいるが、この患者は英語に堪能というわけではないらしい。ちょっとした日常のやりとり――検温ですよとか、体調はどうですかとか――を交わすにも一苦労である。どうやらその面倒さから元気の有り余った若いデビーに任が回ってきたらしい。年が近いから、と婦長は説明していたがどこまで本当か。
 医者でないデビーの目から見ても彼女の具合は望ましくないものだった。入院してきたばかりとは思えない。一体いつ発作を起こすのか予想がつかず、デビーの疲労は実務の増え方をはるかに越えて増した。
 入院して二、三日の間に彼女はひどい発作を一回、軽い体調の悪化を二度起こした。そのたびに明らかに憔悴していくのが分かる。
 どの薬が効くのかはっきりしないからと毎日片手一杯の薬を飲み、効果の強い痛み止めを打たれて、彼女は一日の半分を昏睡して過ごしていた。デビーが話すのも、たいていは付き添いをしている彼女の婚約者だった。
 何より問題なのは、この婚約者のデイビス氏だった。
 彼はいつもベッドの横で黙って本を読んでいた。通訳のためにいるのであって看病しているわけではない、と言うのが彼の弁だった。
 それを聞いた時、自分の婚約者のことだろう、とデビーはむっとした。時々いるのだ、病院に任せておけばなんでもやってくれると思っている他力本願な家族が。自分では何もせず、回復しないのを医師や看護婦のせいにする。病状の進行は、むしろ家族の愛情や献身的な看護にかかっているのだ。病院ができることは少ない。一人の患者にかかりっきりになるわけにもいかない。
 それだけならまだよくいる困った家族の一人なのだが、さらに悪いことにデイビス氏は患者としばしば激しい口論をした。
 となりの部屋の患者がその激しさに驚いて看護婦に訴えた。となりはひどい夫婦喧嘩をしているようだが大丈夫なのか、と。
 大丈夫なわけがない。
 患者の気持ちをリラックスさせ心身を健康に保つのが、回復への一番の道である。死の淵に瀕している患者と大声で喧嘩をするなど論外である。もちろん、デビーはあわててデイビス氏に抗議した。
 彼の返事は簡潔だった。
 いわく、『子供を甘やかしてはいけないと習いませんでしたか』。
 デビーは婦長に言いつけた。
 婦長以下数人のベテラン看護婦がデイビス氏を呼びだし、厳重に注意した。彼は落ち着いたものだった。
「騒がしかったのなら失礼」
「それはもちろんですけれど、あなた、彼女は重病人なんですよ? 分かっているんですか?」
「教えていただくまでもなく。あなたがたは、僕以上に彼女を心配しているとでも言うんですか?」
「あなたの態度を見ているとそうとしか思えません」
「病人だからと気を遣って治るならそうします」
 気を遣わなければ治るものも治りません、と看護婦たちが目を吊り上げた。しかし、彼はそうしなかった。
 デビーはほとほとあきれた。彼は目をあざむくような美青年だったが、その日からデビーは彼と関わり合いになるのをできる限り避けることにした。患者は意識のはっきりしている時いつもにこにこと笑っていて感じのいい女性だったが、何しろ異国人である。デビーは病室に行くのが憂鬱になった。
 これがくつがえされたのは、ちょっとした偶然のためだった。
 ある日彼女が昼食を運んでいくと、たまたまデイビス氏は仕事に出かけていた。患者は一人で起きあがって書き物をしている。非常に珍しいことである。
「こんにちは。気分はいかがですか?」
 おきまりの文句を言うと、患者は笑顔になった。朗らかな笑顔に、デビーまでつられて笑ってしまう。
「ありがとうございます。今はすっきりしてます」
「それは良かった」
 ふと気付けば、彼女と二人きりで話すのは初めてのことだった。彼女はデビーが思っていたよりずっと普通に英語を話していた。
「こんなこと言ったら失礼かもしれませんけど、英語話せるんですね」
「ああ、いつもはすいません。ちょっと具合が悪いと頭が働かないんです。私、英語下手なんです」
「そんなことありませんよ。きちんと話してらっしゃるんでちょっとびっくりしました」
「そうですか? えへへ」
「食事を運んできますんで、机の上を片づけてもらえますか?」
「あ、ごめんなさい」
 彼女はゆっくりとした動作で筆記用具と紙をまとめ、サイドテーブルの上に置いた。
「何を書いてたんですか? 秘密かしら」
「秘密にしてくれますか? あたしと看護婦さんの」
「しますよ。あ、私はデビーです。名前でいいわ」
「あたしの名前はマイです」
 抱きしめたくなるような愛くるしい笑顔で、マイは先ほどの紙を持ち上げた。
 マイの持った紙をデビーはのぞきこむ。ところが、日本語で書かれていて何がなんだか分からない。日本語は曲線が少なく、やたらと複雑で画数が多い。まるで象形文字かなにかを見ているようだ。
「私は結婚の手続きをしてるんです」
「結婚?」
 デビーは思わず聞き返した。間違いようのない単語だとは思ったが、聞き返さずにはいられなかった。
 麻衣は、屈託なくうなずく。
「はい、結婚です」
「デイビス氏と?」
「ええ」
「本当に結婚するんですか?」
「本当です」
 それは……おめでとうございます……と複雑に呟いて、デビーはつい彼女にデイビス氏呼び出しの顛末を語ってしまった。
 マイの反応は非常に微笑ましいものだった。彼女は、情けなさそうに眉じりを下げて心底心苦しそうな口調で言った。
「……彼は、本当にそんなことを言ったんですか」
「ええ……ごめんなさい、ショックでした?」
「いえ、私にはいつものことですから。……信じられない。恥ずかしい。ごめんなさい」
 デビーは吹き出しそうになるのをこらえねばならなかった。
「そんな、マイが謝ることじゃないわ」
 あれでも、いい人なんですよ……? と、マイが言いづらそうに呟いた。
 そんな一幕があってから、デビーはやっとこの若い夫婦に慣れたのである。そういえば噂やデイビス氏の言葉だけを聞いていて、二人の様子が実際にどうなのかは見ていなかった、とデビーは気付いたのだった。デイビス氏がいけすかないインテリ気取りであるのは事実だが、少なくとも婚約者に対する暴言暴挙は本人たちにとってコミュニケイションの一種であったらしい。
 変わったカップルというのは本当にいるものだ、と思ったらマイはもちろん、デイビス氏もそれほど憎めない気がした。

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