アリスのお茶会

いつか、木の下で

四月十四日――午後一時

 在英日本大使館の受付の周りには、何人かの人が呼び出しを待って腰を落ち着けていた。
 ナルはイギリス人だが、外見上日本人にしか見えない。日本人の中に混じっても特に目立つことはなかったが、若干の居づらさを感じるのは否めない。彼は手に握った数枚の紙をながめて時間をつぶしながら、他の人間と同じように静かに順番を待って座っていた。
 手の中には、麻衣に書かせた委任状と、ウィルソン氏に書かせた診断書がある。本来ならここに来るのは日本人である麻衣本人でなくてはならない。これから、病気を理由になんとか代理人を認めさせる難事業が待っていた。
 国際結婚には、非常に面倒な手続きがある。市役所と法務局と外務局と日本大使館を行ったり来たり、膨大な書類提出に出頭命令、口頭諮問、気の遠くなるような話である。のんびりやればゆうに一月以上かかる。大体それが面倒で籍を入れる気になれなかったのだ。
 さて、これを全てこなしたところで彼女の家族と認められる期間はほんの一瞬なわけだが、とナルは書類を見ながら思う。
 一ヶ月後に麻衣が死ねば、ナルは再び死亡届の提出に奔走する羽目になるだろう。それも、婚姻届が受理されるのが間に合うかどうかぎりぎりの話だ。
 本当にやる必要があるのだろうか?
 それをナルは一人自問し続けていた。
 もちろん、今さら結婚はやめようと麻衣に言えば、怒らせるだけではすまないだろう。死に目に立ち会えないのも、家族ではないからといちいち病院の規則にさえぎられるのも、まったく望ましくない。麻衣に言ったとおりそれは事実である。
 だが、口にはしなかった事実もまたあるのだ。
 婚約者とだけ言っている今ではとても家族とは認められないだろうが、婚姻の手続き中ということであれば、どうだろう。病院もそこまでうるさくは言わないのではないか。たとえ、臨終までに手続きが終わらなくても。国際結婚に手間がかかるのは周知の事実だ。何か手違いがあれば平気で二ヶ月近くかかる。
 うまく回らない思考が、頭を空転させ続けていた。
 ナルは顔を伏せた。
 となりに座っていた老人が呼び出されて受け付けに立ち上がった。それにつられるようにして、ナルも静かに席を立った。



 イギリスの建物には、必ずと言っていいほど広く庭が取ってある。
 イギリス人は国民的技能としてガーデニングの心得を持っており、家の裏でも前でも町中でも広く芝生がひいてあることを好む。日本では考えられないことだが、端が見えないような公園が都心に二つも三つもあるのである。
 大使館の受付に今日は帰ることを告げ、ナルは腰を下ろすスペースを探してふらりと外へ出た。日本大使館はバッキンガム宮殿の近くにある。宮殿の周りは解放された公園が取り巻いており、日中ずっと人を受け入れていた。
 大使館から通りを挟んだすぐ前にはグリーンパークという広い公園がある。通りより一段低くなったその場所に降り、ナルは小道に沿っていくつも置かれたベンチの一つに腰掛けた。
 公園の中心部は開けた芝生になっているが、外周には林を模してまばらに木が植えられ、木陰を作っている。日の当たらない場所に座っているには充分寒い季節だったが、おかげでベンチは空いていた。
 腰を落ち着けてナルはため息をつく。
 そういえば麻衣はイギリスに来てからナルが仕事に連れ回していたから、ほとんど観光にも行っていないはずだ。こんな場所に連れてくればむやみやたらに喜ぶのだろう、と思うと知らずため息がもれた。
 それだけの気遣いもしてやれなかったことが彼女を追いつめたのだろう。たぶん、彼の咎なのだと思う。
 彼女にあれだけ孤独を嫌う性質があるのだと知っていたら、もっと前に何かできただろうか? 可能性を論じてみることに意味はないが、できたかもしれない、とは思う。
 これで死ぬとしたらそれが彼女の寿命だったのだろう。それは仕方のないことだ。
 さみしいのは、彼女を失うことではない。
 辛いのは、彼女が死んでゆくことではない。
 何もしなかったのに短い二人の間の距離がさみしいだけ。
 彼女が苦しむ姿が辛いだけ。
 彼女を苦しめただけで終わってゆくことが歯がゆいだけ。
 ナルは膝の上で組んだ手を強く握りしめた。
(婚姻届は、贖罪か? 自己満足だろうか?)
 実状がそんなことだと知ったら彼女はあきれるだろうか、それとも笑い飛ばすだろうか。「そんなことだと思った」とでも言って。あるいは「いいんだよ」と許してくれるだろうか。
 許されることを期待しているのだ、と思う。そんな自分にナルはあきれる。
 彼女の言葉やサインをきちんと見てやれなかったことが、彼女を追いつめた。同じ咎をまだ繰り返してゆくのか。
 せめて最期までだまし続けてやるのが最善策か、とも思う。
 最期――また、彼女のいない毎日が戻ってくるまで。
 そばにいて、と彼の袖口をつかんだ彼女の言葉だけは忘れずにいなければならない。
「失礼」
 ナルのとなりに誰かが腰をかけた。
 ちらりと視線を向ける。渋柿色のどこか冴えないコートをしっかりと着込んだ老人だ。東洋人に見える。マフラーも手袋も手編み風の灰色、こんな公園で日に当たりに来るにはふさわしい。
 どこか、見覚えのある姿だった。どこで見たのだったろう、とナルは疑問に思う。その声が聞こえたように老人は笑った。しわが明るく歪み、ひどく人好きのする好々爺の顔になった。
「さっき、大使館で会いましたね」
 言葉は日本語だった。ナルを日本人だと思っているのかもしれない。日本大使館で会ったのだとしたら、仕方のないことだ。
 その声を聞いて、ナルは彼を思い出した。
「ああ……となりに座っていた」
「病院でも、一度」
「病院?」
 そちらは覚えがなかった。
「一昨日だったかな、その前かな。妻があなたにぶつかったでしょう」
「車椅子の?」
「その時、私が車椅子を押していたんですよ」
 確かに、夫らしき人がいた。東洋人だった、とナルは思い当たった。
 一瞬の出会いを覚えられていたらしい。ナルは目立つ容姿をしているため、彼が覚えていない相手が彼のことを覚えていることはよくある。たいがいは迷惑な話だ。
 しかし、老人はナルに覚えていてもらうことを期待していた様子はなかった。ただ、当たり前のように話しかけてきた。そこにいたのがまったく見たことすらない人間でもそうしただろう、という風に。
「きれいな人だな、と思っていたら先ほども大使館にいらして、驚きました」
 本当に驚いたのだろうか、というくらい老人は穏やかに話す。まるでそれが神の導きであり、そう決まっていたことを知って納得した、とでも言うような雰囲気だ。
 その押しつけがましさのない話し方に、ナルは気持ちがなごむのを感じた。無視しようと思えばできるし彼は気にしないだろう、ということが気を楽にさせた。
「奇妙な縁ですね」
 ナルが言うと、老人は破顔した。
「いい偶然です」
「そうかもしれません」
「邪魔でしたか?」
「いえ、別に。栓のない考え事をしていただけですから」
 老人はあいさつだけ済ますと、それから特に話し始める気配もなくうっとりと辺りの景色をながめていた。ナルもつられて見回してみるが、特に目珍しいものもない。寒々しいイギリスの冬だ。この何でもない景色に何かを感じることができる人々を、彼はいつも奇妙に思う。
 老人は小さな声で歌を歌い出した。
 口ずさむような調子と、枯れた声がマッチしてなかなかの美声に聞こえる。どこかで聞いたような整ったメロディーが耳になじむ。さみしい歌のようだった。
 通り過ぎる人々も彼らを振り向き、過ぎていった。
 ヨーロッパでは大道芸人など珍しくもないが、歌う老人は珍しい。
 一通り歌うと、静かな沈黙が訪れた。
「こんな木の下にいると、よく歌いたくなるんですよ。いや、病院でも家でもところかまわず歌うんですが」
 悪びれずに老人は言った。日本人にしては珍しいタイプだな、とナルは彼を見つめた。この年代で国際結婚をし、イギリスに住んでいるのだから、もともと一風変わった人間なのだろう。
「有名な曲かな」
 小さな気まぐれが働き、彼は他愛のない言葉を返した。
「お気に入りでね。前は仲間とよく歌いました。妻もまだ元気で、となりでギターを鳴らしてくれた。私はギターが下手でした」
 ナルは適当にあいずちをうった。
「本当は、少なくとも二人いないと歌えないんですがね。ハーモニーのきれいな曲なんです。私の老後をずっとなぐさめてくれていた。けれど妻も仲間も歌どころではなくなり、元気なのは私一人。さびしいものです」
 元気だったとしても、コーラスで歌う老人たちという図はなかなか実現しにくいのではないかと思う。
「かなうなら、もう一度みんなでこの曲を歌えたらと思います。あの時間のおかげで私の人生は幸せだったと言える」
 老人は晴れやかな表情でそう言った。
「あなたの人生は幸せではありませんか?」
「さぁ。考えたことがありません」
「結婚届をにぎって沈んでいらっしゃる。何事かと思いました。不本意な結婚でも?」
 老人の口調が軽かったので、ナルは少し笑った。
「不本意ではありませんね」
「それはおめでとう。周囲に反対されての抜き打ち結婚とか」
「ああ、そういえば親にも言っていない」
「言いなさい」
 老人は声を上げて笑った。
「実は多大な借金があって、結婚生活に不安がある」
「幸いお金には困っておりませんで」
「うむ。見るからに有能そうですからなぁ。では、実は愛人がいて、婚約者もいいが愛人が本命である」
「どういう発想ですか、それは」
「男の夢ですよ」
 そういうものか? とナルは首をかしげる。そんな面倒な状況には間違っても追い込まれたくないが。
「それでは、あなたの結婚は問題なさそうに聞こえますが。何をそんなに悩みます」
「彼女は、一ヶ月で死ぬんです。九十九%」
 言葉にすると、めまいがするほどのインパクトがあった。
 何気なく言ったつもりだった言葉が、自分の意識に突き刺さる。言ってしまったあと、ナルは今すぐ顔を伏せてもう話すのをやめたくなった。
「入院してらっしゃるのが、婚約者の方なんですな」
 老人が言ったが、ナルは答えなかった。答える必要もない。
「この年になっても伴侶に先立たれるのは辛いものです。私の妻もあと少しの命だと言われました。彼女はありとあらゆる健康法からおまじないまで試していましたが、そろそろ駄目そうだと私の目にも見える。もう一度演奏会をする私の夢は夢で終わりそうだ」
「……突然すぎた。まだ驚いています」
「私も驚きました。生きた年数は関係ない。辛いものは辛いし、別れたくないものは別れたくありません」
「ええ」
 自分でも意外なほど言葉がすらりと出てきた。
 他の誰かに言われてもこれほど単純な言葉で答えたかどうか、ナルには分からない。タイミングと雰囲気、そして彼の語り口調が思わずあいずちを打たせたのだろう。
「婚姻届は、出さないんですか?」
 ナルはゆるく首を振った。
「実は迷っています。出さずに出したと嘘をついても済むんじゃないかと」
「ふむ」
 老人はその嘘をとがめず、当たり前のようにうなずいた。
 それにうながされるように、ナルは言葉を続けた。
「実際に出したところで彼女に得があるわけでもなく、僕の気が安まるだけです。それを考えると逆に罪悪感を覚える。突然面倒になったという理由もあるのは確かですが」
「なるほど。確かに国際結婚は面倒です。経験しましたからね」
「そうでしょうね」
 わずかな無精ひげをさすって、老人は穏やかに微笑んだ。
「あなたの気の済むようにすればいいと思いますよ。いつでも、生きてるものが大事だ」
「……そう、ですね」
「しかし」
 ナルをのぞきこむ老人の目に、子供のような輝きが宿る。
「私はあえて、届けは出しておいた方がいいと申し上げます」
「なぜ」
「女房は怖いものだからですよ。九十九%、と言いましたね。もしも一%に当たって無事に助かったあなたのフィアンセが、されているはずの結婚手続きがまだされていないことを知ったとき、はて何と言うでしょうな?」
 ナルは瞬いた。
 その可能性は考慮に入れていなかったのだ。
 どういうこと、と彼に怒鳴り散らすだろう麻衣の姿を思い描いたら笑えてきた。大喧嘩になるだろう。一生恨み言を言われるに違いない。ナルに言い訳の言葉があるかどうか。
「怖くなってきたでしょう」
「形容しがたい怖さですね」
 そうでしょうそうでしょう、と老人が笑った。
 まったくそうだ、とナルは思う。
 そして、憎まれ口でも一生言われたいように思う。
 この時が惜しい、と思う。
「……一%は絶望するほど低い確率ではありません」
 老人が静かに言った。
「泣くのは、フィアンセが九十九%に当たってしまったときにしてあげなさい」
 ナルは驚き、そして困惑する。
「泣いていますか、僕は」
 老人がしわをゆがめて笑った。

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