いつか、木の下で
四月十四日――午後三時
幸い、麻衣は気分が良いようでベッドに起きあがっていた。
担当の看護婦と何やら楽しそうに話している。看護婦は、ナルたちが入っていくと少し硬い表情になって会釈した。ナルの方はなぜ嫌われているのかさっぱり覚えていなかったが、そんなことは実にしばしばあることなので気にもならない。
「あ、お帰りー」
ナルは返事の代わりに肩をすくめる。
「邪魔をしても?」
と、言ったのは看護婦に対してだった。彼女は眉を上げ、もちろん、と答える。本来の仕事を離れて話し込んでいたのだろう。
「あら、お知り合いだったんですか」
ナルと一緒に病室に入ってきた老人に目を留めて、彼女は瞬く。
「先ほど知り合いになりました」
老人は流暢な英語で答えて笑顔を見せた。同じ病院にずっと入院している患者の家族なのだから、看護婦と知り合いでもおかしくはないだろう。
看護婦が麻衣に別れを言って仕事に戻っていくと、麻衣はナルの後ろをのぞきこむようにした。
「ナル、その方は?」
看護婦がいなくなったので、英語をやめて日本語である。
「彼は……」
そういえば名前を聞いていない、とナルは老人を振り返った。
「松田と言います。ここに妻が入院していましてね」
「初めまして、谷山麻衣です」
笑顔であいさつすると、ナルを手で示す。
「彼はオリヴァー・デイビス。……どうせ自己紹介してないんでしょ」
「タイミングを逃して」
「する気もないくせに」
おや、と老人は軽く目を見開いた。
「こちらのお国の方だったんですか。てっきり同郷人かと」
「血としてはハーフになるのかもしれませんが。……どうぞ」
ナルは松田老人に椅子をすすめる。病室に一つしかない椅子だったので、彼自身はベッドの端に腰掛けた。
「遅いと思ってたら世間話でもしてたの? 珍しいね」
「偶然大使館で会って。麻衣に会ってみたいと言うから」
「彼に愛される女性を見てみたくなりましてね」
と、松田が言い添えた。
麻衣は松田に笑いかけた。
「ナルの婚約者としては拍子抜けな普通さでしょう?」
「いやいや、私は彼に惚れなおしましたよ」
「ええ?」
「女性は見た目がよければいいってものではない。彼はよく分かっている」
「見た目ではやっぱり釣り合わないってことですね?」
「これは失言」
二人は屈託なく笑う。
気が合ったらしく盛り上がり始める二人を放っておいて、ナルはいつもどおり鞄から取り出した本を読み出した。
麻衣がそれを見とがめて顔をしかめる。
「ったくもう。この人仕事の鬼なんです。気を悪くしないで下さい」
「構いませんよ」
「ナールっ。お客さんが来てるときくらいやめたら?」
「僕の客じゃないから」
「ナルのお客さんでしょ」
「麻衣に会いたいと言ったんだから、麻衣の客」
麻衣はあきれた、と言い、松田と顔を見合わせて肩をすくめた。
十分ほど話すと、麻衣の口調に疲れが見えてきた。それまでも看護婦と話していたのだ。疲れもするだろう。
ナルが止める前に、松田の方がそろそろ、と言って立ち上がった。
「ごめんなさい。また来てくださいね」
「今度は妻も連れて」
「ぜひ」
松田がいなくなると麻衣はくずれるように体をずらし、ベッドに倒れ込んだ。かなり無理をして明るさを保っていたらしい。
「馬鹿か」
ごめん、とくぐもった返事がある。
額に手を当ててみると相当熱かった。彼女は無茶を無茶と自覚しない。当てた手を上げるときに、ついでとばかり額を軽く叩いた。
「今度無理をしたら問答無用で面会謝絶にするからな」
「はぁーぃ……」
麻衣は毛布を口元まで引き上げる。
ナルは、ベッドから椅子に移動して今度こそいつも通り読書に没頭することにした。目の前で話し込まれれば、さすがにところどころ会話が耳に入ってしまう。これでやっと静かに本が読める。
「ナルー? ありがとね?」
「礼を言われることをしたか?」
「話し相手連れてきてくれて。実はちょっと退屈してた」
言われて初めて、そういう結果になったのだと気が付く。ナルには、そんなつもりはまったくなかったのだが。
「……どういたしまして」
「なんだ、気付いてくれたわけじゃなかったんだ」
麻衣が小さく笑う。ほんのわずかな口調の差が、彼女には伝わってしまうのだ。慣れというのは怖ろしい。
そんな麻衣の顔を見ていたら、幸せか、と聞いた松田の言葉がなんとなく思い出された。なぜかは分からない。
そんなことがあってから、麻衣の病室には頻繁に誰かが訪ねてくるようになった。
松田は翌日実際に妻の車椅子を押して病室を訪れた。松田の妻はエミリという名のイギリス人で日本語がしゃべれなかったが、麻衣をいたく気に入ったようだった。私がもし男だったら必ずあなたと結婚していたと、来るたびに二回ずつくらい言った。
エミリの体調が悪いときには松田が一人で来た。ナルに会いに来ているのか麻衣と話しに来ているのかは判然としない。日本語で話せる人間が貴重なのかもしれない、とナルは思っていた。
看護婦のデビーも、麻衣を気に入った一人のようだった。ナルに気を遣いながら時々話し込んでいく。
そうして人が訪れるので、他の患者や家族が顔を出すこともあるようになった。麻衣はナルに頼み、病室の扉をいつでも開け放しておかせた。病室に人の目があるので、ナルも麻衣を気にせず他の仕事をすることが多くなってきた。
しかし、そうしながら麻衣の体調は加速度をつけて悪化していった。それを止めるために多くの薬が使われ、意識が混濁することも増えていった。
自然、病室から笑い声が聞こえる時間は短くなっていった。