アリスのお茶会

この短編は裏書棚にあったおまけ話を、問題のシーンをばっさり切り落として表に置いたものです。
ネタバレしちゃうと全然面白くない話なので、ぜひぜひぜひぜひ本編を先に読んでくださいませ。

OKですね??





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 パタンと音がする。扉が開いた音だ。
 あたしは化粧してもらうためにしばらく閉じたままにしていたまぶたを開けた。文句は飛ばされなかった。綾子の手は動く速度をゆるめ、もう仕上げに入って少しずつ足りないところをいじっているだけのようだった。
 部屋の一番奥、ちょうど四角い部屋を扉からまっすぐ横切った場所にある窓のそばで、あたしは車椅子に座ったまま支度をしていた。顔を動かさないように見やった扉の方では、なぜか渋い顔をしたぼーさんが入ってきたところだった。
「男の方は遠慮していただきたいのですけれど?」
 真砂子があきれたように言った。彼女はあたしのそばで、多少マシな顔に仕上げられてくのを観察していたのだ。
「ああ、悪い」
 ぼーさんはあまり悪びれずに言うと、綾子に向かってあごをしゃくった。
「綾子、ちょっと来い」
「アタシ手が放せないんだけど」
「ちょっとだ。いいから来い」
 ごめん、とあたしに言うと、綾子は手を止めて扉の方に行ってしまった。何なのよ、とか言いながら。
 真砂子が付いていこうとするそぶりを見せたが、ぼーさんが手ぶりでそれを止めた。
「何かあったのかな」
 首をかしげた真砂子は、黙ってるようにあたしに示して扉に寄った。
 ぼーさんたちが出ていった後の扉は閉まっていたが、真砂子はそれを開けるでもなくそばに立つ。聞き耳を立てているのだ。
 その真砂子の顔が、少しの時間を置いて不愉快そうに変わった。驚いているようにも見えるし、怒っているようにも見える。
 どうしたの、とあたしは目で聞く。
 真砂子は扉に寄った時と同じように音をたてない動作であたしのそばに戻ってくると、少し迷う様子を見せてから耳打ちしてきた。
「ナルの姿が見えないんだそうですわ」
「……は?」
「今段取りを話そうとしたら、控え室にいないって」
 あたしたちは同時にため息をついた。
「今からでもおやめになったら?」
 真砂子があたしを見る。いや、純白のウェディングドレスを見たのかもしれなかった。
「今になって嫌になったんじゃありませんの」
「そんなことないって」
「分かりませんわよ。今頃遠くまで逃げてしまってるかも」
「まぁ、大丈夫だよ」
「強がらなくてもよろしくてよ」
「残念ながら、本心」
「ずいぶん自信がおありのようですわね」
「でなきゃ、ナルと結婚式なんて考えないって」
「自信がないから形から、ということもございますでしょ」
 真砂子はきついことを言う。
「それはあるかもしれないけど。でも、もう籍は入れてるんだから、形は充分だよ」
「本当に?」
「本当。ナルが付き合ってくれると思ったから、やることにしたんだよ」
 真砂子はそれでも納得がいかないような顔をしている。
 大体、あいつが形式に縛られてくれるようなやつかって。
 ナルは自分の考えに忠実だ。必要な事情があったから籍を入れると言い出したんだし、不要だと考えたらいつでも離婚くらいするだろう。それで失う信用も、人を傷つけることも、たぶん意に介さない。ナルは自分に自信があるんだ。
 式を挙げたいと言い出したのはもちろんあたしだけど、ナルはちゃんと考えてからそれに同意した。自分がさらしものになることと時間を無駄にすること、これがデメリットで、何ヶ月も寝込んでいたあたしや看病してくれた人たちが喜ぶこと、これがメリット。やる価値はある、とナルは言った。分かった、やれば、と。
「そう……いうものなのかしら。あたくしにはまだ分かりませんけど」
 肩をすくめる真砂子も、あたしも、まだ22にしかなっていない。一生の相手を決めるには少し早くて、でもあたしに迷いはない。
 たぶん、ナルだってそうだ。
 あの1ヶ月の間に、抜き差しならないところまでお互いを必要としてしまった。今まで素直にそうすることができなかった、その分だけ胸を痛めた。
 だからあたしたちは神様の前で誓いを立てる。
 おそらく、他の誰よりお互いに聞かせるために――

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 パタンと音がした。扉が開く音だ。
 あたしはもうしばらく閉じっぱなしにしていたまぶたを開けた。
 見慣れた黒い姿が寝室に戻ってきたことを知って、あたしはほっと息を吐いた。
「おかえり」
 まだ声はきちんと出る。ナルが「ただいま」といつも通り呟いたことにまたほっとした。
 ナルはとても反応が柔らなくなったと思う。決して腫れ物にさわるような態度じゃなくて、あたしの言葉や動作にそれほどめんどくさがらずに反応してくれるようになった。
 あたしのためにそうしてくれたんだと思う。あたしのことを大事なものだと思ってくれてるんだろうななんて、うぬぼれている、最近。
 たぶん、病院に行ってたんだろう。今は何時なんだろう……とぼんやりあたしは辺りを見回したけど、たまたま近くに時計がなくって分からなかった。
「具合は」
 ナルは上着のボタンをいくつか外して首もとをゆるめながら、気もなさそうに聞いてくる。
「今何時?」
「10時。ずっと寝てたのか」
 あたしがうなずくのを別に待つ様子もなく、ナルはベッドのふちに腰かけて額に手を当ててくれる。
 ひんやりとして、雨の日の傘のように気持ちいい手だ。あたしはうっとりと目を閉じる。
「……大したことはないな」
 ナルの手が離れたので、あたしはまぶたを上げて彼の姿を見上げた。
「熱、ある? 気付かなかった」
「高熱に慣れたからだろう」
 それはそうかもしれない、とあたしは思う。この1ヶ月の間、薬がすごくよく効いているとき以外あたしはほとんどずっと熱を出していた。高熱とひどい窒息感にろくに眠れもしなかった。そこから抜けた今は、嘘のように楽だ。
 ナルがそばにいてくれても分かりもしないことがあった。
「具合は」
 ナルはもう1度聞いた。
「うん、なんか、このまま死ぬんじゃないかと思うくらい、楽」
 そう言ったら、ぺちりとおでこを叩かれた。
「馬鹿。薬の副作用がなくなったから楽に感じるだけだ」
「あ、そっか。ガンとか、病気より薬の副作用がつらいってよく言うもんね」
 実際、あたしはよくわからない薬をたくさん打たれて、毎日寝てばかりいた。どんな薬なのかはナルがお医者さまから聞いてあたしに通訳してくれたけど、頭がぼーっとしてよくわからないことがほとんどだった。
 それでも薬を使うのは、少しでも命を引き延ばすためだ。
 特にあたしの場合時間が稼げれば助かるかもしれないと言われて、ほとんど選択の余地もなくたくさんの薬を取っていた。副作用にも、発作にも、なんとかがんばってきた。
 でも数日前からもう、薬は使っていない。病院も出てしまった。
 ――助かるのだろうか。
 それは、聞かないでおいた方ががんばれそうだった。
「お医者さま、なんだって?」
「別に。細々としたことを言われただけ。とにかくストレスをためさせるなと言われた」
「うん。がんばる」
 言うと、ナルは眉を上げる。
「がんばらなくていい。脳天気にしてろ。得意だろう」
 あたしは腕を伸ばしてナルの胸を叩いた。
 力は入らない。1ヶ月前に比べてあんまり細くなってしまった自分の手に、あああたしはもうすぐ死ぬんだな、と思う。1日に何度もそう思う。
 でも、ナルがずっとそばにいてくれるから。あたしは一生分ちゃんと得してるな、なんて思ったりもする。
 怖がることにも泣くことにもそろそろ飽きてきて、疲れてきて、あたしは自分の人生に幸せをひとつずつ探して残りの日数を生きている。わりと幸せに。
「明後日、ぼーさんたちと病院に行くから」
 あたしは複雑にうなずいた。
 それは、エミリを除霊しに行くということだろう。
 その時まであたしが元気でいるかどうかわからない。でも、あたしが見届ける最期の仕事になるかもしれない。
 あたしは、勇気を出せるだろうか。
 ナルはあたしの額に軽く小突いた。
「心配しなくていい」
「でも」
「何とかなる」
 その言葉は嘘だと知っていたけど、とても嬉しい嘘で、そして前なら絶対言わない嘘だった。
 ……勇気くらい出せるような気がして、あたしは少しナルに感謝した。

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 真砂子の手を借りて車椅子を降り、今日の分のリハビリ代わりにその辺を歩いてみることにした。
 歩けないわけではないけど、まだ少し足がふらつく。歩き始めたばかりの赤ちゃんみたいだと思う。1歩1歩踏みしめるようにして歩き、ともすると体が傾いだり、足がなえてしまったりする。
 赤ちゃんと違うのは、あたしはもう22の立派な大人で、転べば恥ずかしいと思うと言うことだ。
 真砂子に見送られて新婦の控え室の扉を開けると、左右に伸びる廊下に出る。
 この教会はわりと大きなところで、全体が大きな鍵型をしている。鍵の平らな部分に当たるのが礼拝堂で、そこから長い廊下が伸びて生活区へと続く。神父さんの自室や教会学校などがあるのがこの生活区で、鍵の先にある出っ張りの部分になる。
 最初は別々に建てた建物2つを、長い廊下を中心に小さな部屋を添えただけの建物でつないだような感じだ。
 結婚式をする時には、生活区の多くを控え室などのために解放してくださっていた。
 あたしのいた部屋は2つの建物を結ぶ廊下の中程にあって、廊下の同じ側には似たような部屋がいくつも並んでいる。2つとなりの部屋が新郎の控え室になっているはずだった。
 左右を見回し、ぼーさんたちの姿がないのを確かめる。見つかったら連れ戻されてしまう。
 よし、いない、となって、迷うことなく鍵の先っぽにあたる方へ歩き出した。廊下には手すりがけっこうついていて、大きく張り出したレリーフもたくさんある。寄りかかるものには事欠かなかった。
 細く続く廊下があるところで大きくふくらむ。そこからが本格的な生活区の建物になる。入り口も礼拝堂の大扉と別にもう1つあって、その何気ない扉の前に、事務室がある。
 事務室の人がウェディングドレスでよたよた歩く私を見て、慌てたように廊下へ出てきた。あたしはバツが悪くて照れ笑いをしてしまう。
「こんにちは。お世話になってます」
 中年の受付係さんは、もしゃもしゃと赤毛をかきまぜた。
「なんだ、今日の花嫁さんか。昼間から幽霊でも出たかと思いましたよ」
「え、幽霊が出るんですか」
 どきりとしたのは、ナルがいなくなったのはそういう話を聞きつけたせいかもしれないと思ったからだ。だとすると当分帰ってこない。
 おじさんはあたしが怖がっていると思ったのか破顔した。
「いやいや、ご心配なく。そんな話はありませんよ。ま、これだけ古い建物ですからね、怪談の1つや2つはありますが」
「その話、今日誰かにしました?」
「いえ? こんなのは子供の世間話ですから」
 それより、とおじさんは眉を寄せた。
「具合でも悪いんじゃありませんか? 何をしてるんです」
「夫を捜してるんです」
「おや」
「黒髪の、日本人ぽい男の人なんですけど、見ませんでしたか?」
 おじさんはあっさり答える。
「会いましたよ。教室にいませんでしたか」
「教室?」
「ええ。日曜学校の教室ですよ」
 彼の話によると、ナルはひまそうにこの辺りを散歩していたらしい。まだ普段着のままだったので見学者だと思って、おじさんは話し相手になろうと思って聖書の話をふっかけたのだという。
 しばらくキリスト教の教義について話し合った後、この教会にちょっと珍しい訳の聖書があると教えたので、彼は鍵を借りて教室に行ってしまったんだそうだ。
「彼はとても頭のいい人だね。聖職者なのかい?」
「せいしょくしゃ?」
 難しい単語に首をかしげる。
「神父とか、神の教えに従う人だよ」
「ああ。いえ、超心理学者なんです」
 なるほど、とおじさんは驚いた顔をした。
 あたしも、なるほど、という気分だった。絶対どこかで仕事をしてるんだろうと思ってこっちへ来てみたのだけど、鍵を借りて部屋に入ってるとは思わなかった。
 教室の場所を聞いて、あたしはまたふらふらと歩き始めた。
(ほらね、逃げてるわけないと思った)
 頼りない足取りで、少しずつ何とか歩いていく。でも、辿りつける距離にいると、今は知ってる。

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 うとうとと夢を見ながら、意識のどこかでそれが本当は夢じゃないことを知っていた。
 終わりの夢。
 刹那の夢。
 勇気も力も言葉も出し尽くして、あたしはただただどことも分からない空中をさまよってるだけ。
 これが終わりの夢だろうか。
 死ぬ前に人が自分の一生を見るという、夢だろうか。
 あたしの好きな人たちがみんな笑ってる。あたしをとても大事に……見守ってくれているのに。
 もう声が出ない。
 指先が届かない。
 絶対なんてないことは知っていたのに、どうして早く言っておかなかったのかな。どうしてもっと抱きしめていなかったのかな。
 神様、もう少しだけ。


 もう少しだけ、できたら――



 ふと目を開けると、あたしは闇に沈んだ部屋の中にいた。
 夢の中で見たどんな部屋とも違う。
 高校時代から過ごしたあたしの部屋でもなければ、大学の半分入り浸ってたナルの部屋でもない。天井の模様が違う。布団の手触りが違う。
 まだ夢うつつで辺りを見回したあたしは、そこが異国であることにほどなく気が付いた。壁の素材や窓の作りが見慣れない雰囲気をしていた。そうだ、イギリスにいるのだ。
 ナルと話せる、と思うとほっとしたし、もしもまだロンドンから帰ってきていなかったら、と思うと怖かった。千載一隅のチャンスなんだ。これを逃したら、次はないかもしれない。少なくとも、こんなに元気な状態では、たぶん2度と――。
 おそるおそるとなりのベッドを横目で見た。
 ナルは、とても静かに眠っていた。前と何も変わらない。こんな風に目覚める夜が今まで何度あっただろう。
 嬉しいようなさみしいような気分になって、あたしは少し微笑んだ。

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 教えられた場所には、素っ気ない扉が1つあった。
 ノックしないでそっと開く。
 驚いてくれないかなと思ったんだけど、ナルは扉の開くかすかな音に顔を上げて、いつもの無表情であたしを見ただけだった。
「何をしてるんだ、そんな格好で」
 そこは、教室と言っても保育園の教室みたいな場所だった。椅子はたくさんあっても、机は少しだけ。黒板の代わりにホワイトボードがある。ナルは分厚い本を膝に乗せて、その椅子の1つに腰かけていた。
 小走りに駆け寄ろうとしたあたしは、自分がリハビリ中で手すりが必要だってことを忘れてた。
 うまく回らない足がもつれ、裾の長いウェディングドレスに邪魔されて踏ん張ることもできずにあっさりとしりもちをついてしまった。転んだという感じですらない。膝がかくんと折れてしまったみたいだった。
「しまった」
 呟くと、ナルが呆れた顔をする。それでも立ち上がって、あたしのそばまで来てくれた。
「立てるか」
「ちょっと……難しいかと。ゴメンナサイ」
「他の人間に探させればいいだろう。馬鹿」
 馬鹿、を思い切り強調された。
 しかし、それに関しては返す言葉がない。ぶつぶつ言い訳を呟くだけ。
「だって、あたしが一番に見つけたかったんだもん」
「理由になってない」
 ナルはあたしを抱き上げて、さっきまで自分が座ってた椅子の上に降ろしてくれた。
「ぼーさんが探してたよ」
「まだ時間はあるだろう」
「段取りのことで話があるって」
「別に確認するほどのことがあるとは思えないが」
「一応式なんだから、仕方ないでしょ」
 ナルはまだ式服に着替えてすらいない。やる気があるのかないのか分からないけど、まあたぶんないんだろう。あたしに付き合ってくれてるだけだ。
 でも、とても重要なこと。
 初めてナルがはっきりした形で言ってくれる。
『あなたは、これを愛し敬うことを誓いますか?』
 まさか、NOとは言わない。
 今まで聞いたって1度も返事なんかしてくれなかったのに。
 それは、もう何の迷いもないってこと。躊躇がないってこと。
 近くなればなるだけ失ったときの痛みも大きい。与えた分だけ返されるとは限らない。愛してるなんて言うのは、弱みをさらしてるも同然。
 だけど。だけど。
 式をやってもいいって言ってくれたときから、全部分かって納得してくれたってことだから。
「愛してるよ」
「何を突然」
「みんなの前でキスする気はないでしょ? だから、今して。誓いのキス」
「付き合いきれないわがままだな」
 いいでしょ、と言い募ろうとしたけど、途中でやめた。
 ナルがかがみ込んで唇を合わせてくれたから。

「さて、いつ出ていく」
 滝川は扉から少し距離をとったところで声をひそめて言った。
「そこらを1回りしてから、って案を勧めるわ」
「賛成だ」
 綾子と肩を並べて、扉から遠ざかるように歩を取る。
 しばらく何も言わなかったが、少し笑みが浮かんだ。
「何笑ってんのよ」
「なに、安心しただけさ」
「まーね」
「やきもきさせられたが、これでよかったのかもな」
「アンタ一応気にしてたの? けろっとしてるから心配じゃないのかと思ってたわよ」
「まさか。2人とも大事な仲間だぜ」
 2人の問題だと放置しつづけ、時折麻衣が泣いているのを見てひそかに悩んでいたが、下手に手を出さなくてよかったと今は思える。麻衣の気持ちは扱いづらいナルの前でいつもぎりぎりのラインにいた。一言でも『やめろ』と言えば、致命傷になっていたかもしれない。
 彼女はあのナルの壁すら壊した。
 人の心の力とはかくも強いものかと感嘆する。
 そろそろ人のことにかかずりあうのはやめて、自分の問題でも考えるときかもしれない、と滝川は横を見た。
「何よ」
「いんや、べーつにぃー」
「アンタのそういう余裕ぶった態度大嫌いよ」
「それは失礼」
 素直になれないのは、年を食った分滝川や綾子の方が上かもしれない、と思う。しかしそれはまあ、麻衣たちの結婚式でも見ながらゆっくり考えればいいだろう。
 ひさびさに胸がすくようなイベントになる、と滝川は足を早めた。


END.

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