005: 釣りをするひと



 紺碧の絨毯が、見渡す限り広がっている。
 うす曇りの空の鈍い青が、はるか彼方の地平線で深い海の色と交じり合う。
 海鳥が1匹また1匹と飛んで、どこかえさ場へと消えてゆく。
 ゼフィーリアの北端にある、静かな漁村だった。周囲はそれなりの観光化をしており、骨休めに、また釣りにと訪れる旅人の姿がちらほらとある。
 海に向かって張り出したいくつかの桟橋にはそれぞれ数隻の艀が綱を掛けられていたが、桟橋下に潜む小魚を狙った釣り人の姿もまた見られた。
 そのうちの1つに、はっと目を引くような美しい男の2人連れがある。
 1人は、瞬間女かと見まごう細面をした、黒髪の男。
 そのとなりに腰をかけているのは、鍛え上げられた体躯に長い金髪を持つ男。
 間違っても釣り場に似合うとは言えない2人は、何を話すこともなく並んで釣り糸を垂れている。
「……釣れねぇなぁ」
 火の付いていない煙草を口の端にくわえ、黒髪の男がもごもごと言った。
 それより一回りほど若いと見える金髪の方が、ちらりと連れを見る。
「……オレ、釣れてるけど」
 彼の魚篭には小魚が数匹泳いでる。となりの男の方には、ただ水が張ってあるばかり。
 黒髪は、自分の足元を見、そのとなりを見て、ちっと舌打ちした。
「話を合わせてやろうという気はねぇのかよ。俺が教えてやったのによ」
「……これ海に放り込んで、動いたら釣りあげろって、そんだけな……」
「釣りなんてのは、体で覚えるもんなんだよ」
 金髪の男、ガウリイは、しばし迷った末に小声で言った。
「……釣れてないくせに」
「うるせえ」
 この男は昔から何を考えてるのか分からない、とガウリイは思う。非常に苦手な相手だった。数年前、あてのない旅の途中で出会った時にもそう思った。それから幾多の困難に見舞われて若造から青年へと変化を遂げた今でも、そう思う。
 いや、『娘さんを嫁にください』と頭を下げに来ていきなり釣りに連れ出された今の方が、強くて固い苦手意識を覚えているかもしれない。
 ガウリイがこの男と出会い、その言葉に少なからず影響を受けて剣に対する姿勢を変えてから、長い時間が過ぎている。結婚の許しを得るために惚れた女の故郷を訪れた先で、出てきた父親が彼だったというのはまさに驚くべき偶然だった。
 お互いにお互いを指差してたっぷり100回は数えるほど固まった後、双方混乱したままに「どうしてお前が」「冗談じゃない」「ふざけるな」「なんだそりゃ」と反射的に怒鳴りあった。再び沈黙が訪れ、家族に知り合いだと告げた後、男が次に話しかけてきたのは翌朝のことだ。「釣りに行くぞ」と、それだけを言った。
 そんな訳で朝も早くから出発した男たちは2人、こうして近くの漁村まで来て釣り糸を垂れているというわけである。
「なぁ……これ、なんか意味があんのか?」
「これってのは?」
「だから、釣りさ。はっ!? あんたより釣れたらマズかったか!?」
「どんだけ心狭いんだよ。俺はよ」
 浮きから目を離さないままに、父は言う。
「別に意味なんかねぇよ。あれだろ。とりあえずどうしていいか分かんなくて自分のフィールドに来ちまう奴、いるだろ。そういうのと同じだよ」
「そう見えて親馬鹿なのか……?」
「家族思いって言え」
 ぶっきらぼうに言い捨てた男は、とても結婚する子供がいるような年には見えない。
 彼は、傭兵上がりの戦士だったと言う。それが旅先で出会った女と結婚し、子を持ち、家を構え、今は娘への求婚者を迎えて釣り糸を垂れている。
 自分の未来にもこの男のような瞬間が訪れるのだろうか、とガウリイは思うともなく思いめぐらす。
 剣を捨て、釣竿を手に、娘の話をするのだろうか。
 その想像は、悪くなかった。
「あ、かかった」
 浮きがぷかりと浮き沈みしたのを目に留めて、ガウリイは素早く釣竿を引いた。
 けして大きくはないが活きのいい魚が、しなる糸の先で踊る。それをたぐりよせて針を外し、魚篭に放り込んだ。魚は暴れたが、小さな水たまりの中で泳ぐ魚たちに混ざると、すぐに平静を取り戻して先住のものに混ざる。
 ちっ、ととなりの男が再び舌打ちをする。
「なんで、そっちばっかりかかるんだ」
 ガウリイはかたわらを覗くように見て、躊躇しながら言った。
「……あのさ、エサ、選んでるか?」
「エサ?」
「渡されたエサだけど……半分、悪くなってるように見えたんだけど」
「そんなの、大した問題じゃねぇだろ。ダミーで釣ることもあるくれぇなんだぜ」
「いやでも、オレが魚だったら、悪くなったやつは食べたくないけど……」
「細けぇことを気にして、女々しい奴だな」
「ていうか、あんたが大雑把すぎだろ」
 しばしそのまま浮きをにらんでいた男は、それでも多少の理を認めたのだろか。おもむろに竿を引き上げて、仕掛けをチェックし、エサを変えた。それをもう1度投げ入れると、もう話すべきことはなかった。
 2人はまた長い沈黙の間、浮きだけを見つめる。
 一体何を試されているんだろう、ガウリイはまた思う。黙っていていいのか。釣りのことなど、尋ねた方がいいのか。
 だが、しばらく浮きを見つめて悩んでいると、段々にその揺れる動き以外どうでもよくなってくるから不思議なものである。
 それで、結局のところ2人はひたすらに黙って波間を見つめ続けていた。
 そのまま、どれだけの時間が過ぎただろうか。いつまでも続くようなその沈黙を破ったのは、2人の男が愛してやまない1人の少女の声だった。
「あーやっと見つけた。やっぱりここにいたのね!」
 ガウリイが顔を上げると、そこには普通の町娘風の格好をした彼のパートナーがいて、少し戸惑う。自宅から軽く日帰りできる距離にいるのだから当然かもしれないが、彼女はちゃんとした武装をしていなかった。これといって特徴のないスカートに、ショートソードだけを帯刀した姿である。
「リナ」
 彼の相棒は、スカートの裾を揺らして駆け寄ってくる。
 結いあげた髪も潮風に揺れた。
 桟橋まで駆けてきたリナは、ガウリイの傍らに立って瞳を合わせた。
「出かけるなら出かけるって一言言えっ!」
 どげしっ!!
 蹴りが見事に決まって、ガウリイは桟橋から波間へダイブした。
「ぷはぁっ」
 水深は、腰までもない。すぐに起き上がって桟橋へよじ登ったガウリイは、乱暴な婚約者に抗議する。
「こらっ、リナっ!」
「びしょ濡れで近寄んないでよっ」
「誰のせいだ誰の!」
「勝手にいなくなったガウリイのせい」
 リナはしゃあしゃあと言い放つ。
 むっとしたガウリイは、すぐに思い直してにやりと笑う。
「なんだ、リナを置いてどっかに行ったと思って、心配したのか?」
「しないわよっ! ただ、父ちゃんもいないから、まさかどこかで殺しあってやしないかと……」
「しないしない」
 リナはちょっと笑って、肩をすくめた。
「ま、釣竿もなくなってたし、たぶんここに来て釣りでもしてるんだろーと思ったけど。釣れた?」
「まーな」
 オレはな、と心の中だけでガウリイは付け足す。
「ちょっと、乾かすから座って」
「はいはい」
 リナが一続きの呪文を唱えて、手の中に暖気を生み出す。軽く蒸されるような感覚がして、濡れた服が乾いていった。
 手持ち無沙汰でふと見ると、となりの男は娘の方を見向きもせず浮きを見つめている。しかし、煙草をくわえたその口元が、ほんの少しだけ苦く笑っているように見えたのは、ガウリイの気のせいだろうか。
「まだしばらく釣ってんの?」
「さぁ。オレに聞かれても……」
 2人が視線を送ると、それを受けた男は、今度こそはっきり苦笑した。
「帰る」
「もういいの?」
 リナがいそいそと、ガウリイに対してはけして見せない健気さで、父の釣り道具を持ちに走る。
 そのリナの頭を、父は軽く1度叩いた。
「この天然男は、いつの間にかてめぇの悩みも忘れちまったらしい。殺気をぷんぷん撒き散らしてる奴のところには、魚は寄ってこねぇんだよ」
「は?」
 昔のことを知らないリナは、首をかしげる。
 ガウリイは、立ち上がり、若き日の青臭さをぶつけたこともある男に言った。
「あのさ。あの時は、ありがとう」
 空の魚篭を持って立ちあがっていた男は、肩越しにわずか振りむいて、笑う。
 それが結婚の許しなのだと、ガウリイには分かる気がした。
 海から吹く風が髪を揺らして過ぎてゆく。
 あの日も嗅いだ海の匂い。それは、数年の時を経て、真新しい柔らかな思い出に書き換えられようとしていた。

 



 なんかもう、お題を見た瞬間、「これ以外に何を書けというのだ」と思いました。
 まるっきり捻りがなくてすみません。あまりにストレートすぎるかと思ったんですが、捻ってたら50題もできんわと思い直して、まんま書きました。おそらく同ネタ多数。

 でも実は難産です。
 リナ父、めちゃ書きにくい。あのリナが素直にかっこいいと思う父、と思うとなんかもう筆が止まって止まって。これでいいのかと。
 うーん。これでいいのだろうか。