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update: 2009.06.23
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慶東国首都、
その後背に聳える凌雲山の高みにある
王とその近臣のみが入ることを許される一角に、簡素だが趣きある射場がある。それは王のためだけの射場、周囲は広々とした
より静かな場所に入ったことで、今まで静かだと思っていた場所の雑音に気付くということがある。その射場の有様は、まさにそのようなものだった。
呼吸の音すらも響く静けさの中に、衣擦れの音がひとつ鳴った。
続いて、水を打つような
空気をも切るような直線を描いた矢は、だがしかし的に
射手の背後から、ため息が漏れた。
型に則って弓を下した射手は、結いあげた見事な赤い髪を振ると、背後を振り返る。
「文句は、言葉で言ってほしいものだな」
射場の隅で坐していたのは、零れだすような金の髪をした男だ。男と見えるのは見た目だけで、その本性は麒麟である。慶国の麒、景麒と号する。
弓を引いていたのは、景麒のただ一人の主である慶東国国主、景王。名を、陽子と言う。
景麒は巡り合ってわずか幾年の年若い主に苦言を呈する。
「そのように雑念あっては、中りません」
「中るものか。中らないからこそ、こうして夜中までお前に付き合ってもらってるんだ」
日はとうに暮れ、昼の長い凌雲山の頂にも夜が訪れていた。
長い荒廃から今まさに立ち直りゆこうとしている慶国の朝廷は、忙しない。唯一無二の国主である陽子は、その二つとない体でどうしてもこなさねばならない勤めが数多くある。
殊に陽子は蓬莱の生まれ、この国では常識とされることにも疎く、勉強の時間はいくらあっても足りない。
そのうちの一つが射である。
景麒の常識にあっては、
どうしても中らない、夜中になってしまって悪いが練習を見てくれ、と言われて射場を訪れた。だが、それは通り一遍学んだだけの景麒が教えられる段階の問題ではない、と感じる。
「理屈からすると、これで中りそうな気がするんだが。引く時に、手が歪んでいるのかな。見ていて、どうだ?」
「そういう問題では、ありません」
「では、どういう問題だ? そもそも、体の向きがおかしいのか? 外から見た感想が欲しいんだが」
そうではないのだ、と景麒は口をつぐむ。
だが、その微妙な機微を伝えるには、彼の言葉はあまりに足りない。
悩んだ末に、彼が口に出した言葉はこうだった。
「中らずとも、よいのです」
主はぽかん、として景麒を見る。
「よくはないのだが?」
「ですが、そうなのです」
「だが、射は必須の武芸だということだろう。王ができない、では話にならないと思うのだが」
「はい。ですが……」
「ゆっくりやれ、と言ってくれているのだとしたらありがたいが、それは私に対して優しくない。射は、礼や書と並ぶ基本教養と聞く。私は少しでも早くそれらを学んでいきたい」
それはそうなのだ、だが主は根本的なところを勘違いしている。
景麒は首をかしげた。
「射は進退周還必ず礼に中り、内志正しく、外体直くして、然る後に弓矢を持ること審固なりと申します」
陽子は瞬いた。
「何?」
「進退周還とは、立ち居振る舞いのことを申します。礼儀を以って振る舞い、心正しく、姿勢正しくあれば、自然と隙のない射になるであろう、と」
「そうは言っても……」
「中る、ということは、礼の後に付いてくるものです」
言って景麒は、途方にくれた風情の主を見やる。
「そもそも射は、戦の手段としての弓矢から生まれ、それを芸に高めたものです。武芸でありながら、もはや武芸ではない。なぜ、
「それは、吉兆を占うものとして……」
「現在そのような側面が生まれていることは確かです。ですが本来の射は、臣が主に、ひいては主上に忠誠を約するもの。定められた礼を忠実になぞることで、服従の精神を示します」
「定められた礼を、忠実になぞる……」
「射においては、足捌きから弦の引き方に至るまで、すべての所作に定めがあります。これは古来から定めあるものですが、形としては主上が臣に定めているということになっています」
「私が定めている?」
陽子は眉を寄せて、何事かを考え込んだ。
「それはつまり、大綱のようなものか? 大綱は天が授けたもので、その内容に私は関知していないが、民から見れば形としては王たる私が授けた法ということになる。そのように?」
「そうです」
景麒はほっとして頷いた。
「射の礼は、形の上では主上が臣に定めているものです。その手順を厳守して見せるということが、服従の精神の表明になります」
「へぇ……」
「これは、礼や書にも通じる精神です。しかし、射は戦ごとから生まれた芸。ここから、いざ事あった時には弓を持ち馳せ参じる、という決意の表明にもなります」
「そんな意味が……」
「ですから、中る、ということは本来の意味からすれば後付けの結果に過ぎないのです」
陽子は景麒の言ったことを吟味するように、口をつぐんだ。
武芸のことは景麒の専門から遠く離れている。朝廷に関わるものとして最低限の礼は備えているが、景麒とて射が得意であるとは言い難い。その精神を伝えることができたかどうかは、はなはだ怪しかった。
「なるほど、私が誤解をしていたことは分かった」
言って陽子は、自らの拙い説明に憮然とする景麒を励ますように笑う。
「お前は麒麟なのに、武芸についても造詣を持っているのだな」
「造詣などという高尚なものではありません」
「うん。教養、というべきかな。お前が苦手なことも真面目に学んでいてくれたおかげで、助かった。衆人の前で恥をかかずに済んだ。ありがとう、景麒」
直截な言葉と視線に射抜かれて、景麒は目を逸らす。
数年前に仕えた最初の主は、射の何たるかくらいは弁えていた。だが、常識とされることを人に教わり、それに対して感謝の言葉を述べることはできなかった。
この人なら大丈夫なのではないか、そう思う自分がいる。
いや、射も知らない王が王として立っていられるわけもない、そう冷笑する自分もいる。
そのどちらを信任してよいのか、未だ景麒自身にも分からないのだ。