006: [こわ]れた弓 後



 堯天で、新年の郊祀が始まった。
 新しい王を迎えて数度目の郊祀、だが先年までの堯天は朝廷の再編に大いに揺れており、諸官にも国庫にも大々的な郊祀を行うだけの余裕がなかった。今も軌道に乗ったとは言い難いが、少なくとも六官が王の勅命によって任命され、景王赤子の朝廷が始まったとは言える。その意味では、初めての郊祀と言っても間違いではなかった。
 郊祀の一部に、大射がある。
 大射では、諸侯が自らの臣から射に優れた者を選び出し、貢士として参加させる。貢士は諸侯の代理として景王に射芸を納める。その芸の如何が諸侯の忠誠の尺度とも言われた。
 古代においては、大射の的中によって諸侯の禄が左右されることもあったという。さすがに今ではそんなことは行われていないが、貢士が的中を外すことはやはりそれを選出した臣の忠を疑うものであり、凶兆ではあるのだった。
 御簾を下した御台の上で大射を覧じていた陽子は、粛々として進む会に見入っていた。
 新年の郊祀には様々な会が催されるが、多くは退屈なもので、仰々しい格好を強要される陽子としては苦痛と言ってもいい。だが、大射は面白い。
 寸分の違いなく的中する矢と、弓を引く貢士の美しいとさえ言える所作は、いくら見ていても飽きなかった。
「すごいな」
 傍らに控える景麒にだけ聞こえるよう、陽子は小声で言う。
「どうやったらあんな風に弓が引けるんだろう」
 景麒は、表情を変えず小声で返してきた。
「そのように武芸にばかり興をお示しにならないでください。主上は、礼としての射を学ばれれば、それでいいのです」
 陽子は常日頃から変わらぬ仏頂面をねめつける。
「そんなに他のことを蔑ろにしていたか?」
「しておられました」
 反論せずに肩をすくめ、射会に視線を戻す。
 居並ぶ諸侯と、その貢士たち。彼らが礼拝する陽子自身は、射はもちろん他のすべてにおいて彼らに勝るものを持っていない。その自分がかしずかれ武芸を奉げられることに、陽子は未だ違和感を禁じえない。
 だが、そんな自分を天が必要と言うのだから、何かできることがあるのだろう、と思う。
 そう思えるのは、この傍らの無愛想な麒麟が誰でもない自分を選んだからだ。
「禁軍左軍将軍、青辛殿」
 呼び上げられて、御簾の傍近くに坐していた居丈夫が立ち上がる。
桓魋[かんたい]
 陽子は膝を乗り出した。
「桓魋も貢士だったのか」
 桓魋は弓矢を取ると、衣擦れの音も鮮やかに射場に進み出、ゆがけを身に付けた。その大柄な体がしっかりと弓を構え、的を見据える。
 空気も震えるような緊張感が射宮を満たした。
 弦が引き絞られる。その後に続く的中の音を、誰もが想像した。その時だ。
 ばきり、という異常な音がした。
 桓魋の構えが崩れた、と見えた。だがそれは間違いだった。崩れたのは構えではなく、構えたその弓だった。
[こわ]れた」
 誰かの呟きを皮切りに、場が沸きたつ。
「不吉な」
「禁軍将軍の奉納が」
「主上の信任厚い青辛殿が」
 桓魋は姿勢を乱さず、声を上げず、礼に則り弓を下す。だが、その厳しい表情の中に、わずか動揺が表われている。
 禁軍将軍ほど自律に優れていない官たちであればなおさらで、本来静謐であるべき射宮には困惑と狼狽の囁きが広がった。その囁きの中に、「やはりこの朝廷は続かない」という密やかな不信感が混ざっていることに、御簾の内側にいる二人は気付かざるを得ない。
 弓を置いて御簾の前に進み出た桓魋が、叩頭した。
「主上。不調法、誠に申し訳もございません」
 陽子は頷いた。桓魋の不調法が原因であるわけもない。だが、謝らないというわけにはいくまい。
 さて、どう収拾したものか。
 陽子は嘆息した。もとより、朝廷には陽子に対する不信感が吹き荒れている。それでも何とか新しい顔ぶれで舵を切り始め、空気が変わろうかとしているその矢先、記念すべき郊祀でこの事態となれば、出鼻を挫かれること甚だしい。
 景麒が傍らにいざり寄って耳打ちした。
「畏れながら主上。この件、何やら作為が感じられます」
「景麒もそう思うか」
「はい」
「私の玉座を、よほど煙たく思うものがいるらしい」
 陽子は、自らを王位に押し上げた麒麟に問う。
「――それでも、私が王たるべきと思うか、景麒」
 景麒は、一瞬の躊躇もなく頷いた。
「あなたが、王です」
 うん、と陽子はひとつ頷く。
冗佑[じょうゆう]、力を貸してほしい」
 言うなり立ち上がった陽子は、重い衣装を引きずって歩を進め、やおら御簾を跳ね上げた。
 収まりつつあった射宮のざわめきは、御簾の内に籠められて出てくるはずもない女王の姿に狼狽し、さらに広がる。
「主上!」
 景麒の諫める声も聞かず射場に降り立った王は、辺りを一望する。
「私に弓を持て」
 凛とした声に、諸官は呪縛を解かれたように平伏した。下官が、にじりさがって弓を取りに走る。
 困惑と反感の視線を受けながらも、女王は静かに待った。
「どうぞ、お使いください……!」
 上ずった声を上げる下官から弓を受け取り、女王は頓着なくありがとうと声をかける。感極まった風の下官が下がると、その並びなき玉体を射場の中央へと進めた。
 何をする気だ、と聞くまでもない。
 これは王に奉納する射義である。王その人が弓を引くのでは、道理に合わない。
 どうしていいのか分からない、と居並ぶ者たちみなの顔に書かれていた。
「主上!」
 声を上げたのは景麒だ。
「これは、臣が主上に忠誠を約す射会。主上がお手を出されては道理が通りますまい」
「知っている」
 王は素っ気なく言った。
「だが皆、聞いてほしい」
 王は、自らを礼拝する諸官を見渡す。
「皆は臣として私に仕えてくれる。それぞれに私の手足となり、この国を動かす礎になってくれるものと思っている。その表れの一つが、この大射であろう」
「それをご存じであれば……」
「だが、私もまた、臣に過ぎない」
 射宮の窓から遠く雲海を臨み、陽子は噛みしめるように言った。
「天に仕える臣であり、この国のために仕える臣だ。皆は私のためにいるが、私はこの国のためにいる。皆が仕えているのは私だが、私はこの国と天とに仕えている」
 陽子の手が控えた下官に伸ばされる。
「毀れた弓は、諸官の私に対する不信の表れかもしれない。だが、言っておく。皆は私のために仕えているのではなく、私を通して国と天とに仕えているのだ。それを忘れないでほしい」
 何も言えずにいる諸官の前で、陽子は進み出て弓を構える。
 苛烈な碧の瞳は、諸官を跨ぎ越して真っ直ぐに的だけを射抜いた。
 礼に則って弓を構える。
「天もご照覧あれ。古い時代は毀れて終わった。これは、新しい国の王が天と国とに奉ずる射である」
 弦を引き、矢を放つ。
 放たれた矢は、びぃんと身を震わせるような音を立てて的を射た。
「的中……!」
 構えた弓が、定められた所作をなぞってゆっくりと下ろされる。
 誰に対してか、陽子は少し、頭を下げた。

「無茶をなさる……」
 御簾の内に返ってきた主に、景麒は嘆息した。
 陽子は肩をすくめて苦笑する。
「さすがに、はったりが過ぎたかな」
「ですが、諸官は黙ったようです」
 うん、と陽子は頷いた。
「お前のおかげだ、景麒」
「は」
「お前に教わった知識が役に立った。私は未熟で、お前の助けがいる。苦労をかけて悪いが、支えてくれ」
 景麒は主の前に平伏した。
 景麒は麒麟、矜持高く、主以外の前ではけして膝を折ることがない。それは彼にとって最高の礼に当たる。
「忠誠を誓約いたします――」
 若い王は頷き、薄く微笑んだ。

 

引用:礼記 射義編

 



 はーい弓のお勉強になりましたねー。

 もう2度と書くもんか十二国記の2次創作なんてッ!! 
 大変だったっちゅーの。
 1日1SSのノルマ果たせなかったちゅーの。
 どんどん長くなるし。
 でも、弓に特別な意味を見出す世界観って、他に思いつかなかったんですものー。