宣戦布告 おまけ・ちょっと続き

 誘惑された。

 それは、稚拙で、力任せで、人が見れば誘惑と言うより怒鳴り込みに近いものだったかもしれないが、彼に取ってみれば十分に誘惑だった。
「あー……」
 彼は、夕食を終えて帰ってきた宿の部屋で一人天井を仰ぐ。
 いつもより、心持ち質のいい宿だ。壁は放っておけば獣脂で汚れていくものだが、ここはきちんと手入れがされている。きれいな天井だった。
 この宿を選んだのはリナだ。
 普段より言葉少なに、「ここにしましょう」と彼の答えを待たずに入っていった。ひどく高価な宿というわけではない。だが、多少の機密性は確保された宿だ。
 彼は、こん、と壁を叩く。
 そこそこに分厚い。
 妙な気を回して、と連れの少女のませた気遣いに苦笑する。
 意味がわかった上でやっているのだろうか。ただ、静かなところの方がいいだろうと直感的に思っただけなのか。
 リナはどう見ても男を知らない。身体的な意味でもそうだろうし、精神的にもそうだろう。
 それなのに、知識だけはあるらしい。
(――ここまでされちゃ、ひけないだろ)
 彼の中で、天秤がゆらゆらと揺れ続けている。
 未成熟な彼女の喧嘩を買ってもいいのか。向こうも後に引けなくなっただけではないのか。
 だが、今さら引けば恥をかかせるだろう。本人がいいと言うのなら手を出してしまいたいという下心だって、もちろんある。
 廊下を歩く足音がして、彼は少しの間息を止める。
 歩くリズムから、彼女の足音ではないとわかっていたにも関わらず。
(……ま、来てから考えればいいか)
 必ず来ると決まったわけでもない。
 半日経てば、向こうも冷静になるかもしれない。
 もとより、逃げ場を与えるために持ち出した誘いだ。
 女から誘われてそのままふらふら手を出す自分が許せなかったからという理由もあるけれども。
(来るかな)
 たぶん来るだろう。
 彼はぼんやり思う。
(リナが逃げるとは思えない)
 彼は逃げてもかまわないと思っていたが、彼女の性格からすれば逃げることを良しとするとは考えにくい。
(でも、リナを抱いたって、別に何が変わるわけじゃない)
 彼は天井を見上げたままの視界に、自分の腕を入れる。
 その手に惚れた女を抱きたいと思わない男はいないだろう。
 だけど、彼の惚れた女は、体を任せたからと言ってそのまますんなり男のものになる相手ではない。組み敷いて手に入れたような気になっても、翌朝にはその手からすり抜けていくだろう。
 だから、別に今すぐそれをしたいと彼は思わない。
 愛情の表現などではない。ただ、抱きたいという欲を果たすだけの行為になるだろうから。
(でもなぁ――あんな風に言われたら、そりゃ抱きたくなるよなぁ)
 部屋の外を、また誰かが歩いていく。
 彼は息を止めてそれを聞く。
 リナじゃない。まだ来ない。
 彼は、わかりきっていることを自分に言い聞かせるように心の中で呟く。
 たぶん今ごろリナは湯を使っている。
 彼の元へ来るために。
「……はぁ」
 欲の火を沈めるように、彼は目を閉じて自らの顔をなでた。
(期待しない、期待しない)
 来ないかもしれないのだから。
 そうしたら忘れると約束したのだから。
(……まぁ、来るだろうけど)
 思考は同じ流れを繰り返す。
(別にいいんだ、そんなことしなくたって)
(だけど、抱きたいよなぁ)
(来るかな……)
 とんとんと、また軽い足音。
 となりの部屋の扉が開く音がして。
 閉まった。

(――来るかな)

「入っていい?」
 ノックの音がして、彼は立ち上がり、扉を開けた。
「お、飲むか」
 できるだけいつもの調子で軽く言って、彼女を部屋へ迎え入れる。
 リナはわずかに拍子抜けしたような顔を見せた。
「これ、宿のおっちゃんにおすすめのお酒もらってきたんだけど」
「おう。じゃあ開けようか」
 元通り扉を閉めて、錠を下ろす。
 リナは手にしていた酒瓶とカップを小さなテーブルの上に置く。反対の手には、ちょっとした焼き物が載った皿を持っていた。
「おつまみつきよ。軽く見繕ってもらったの」
「そーか」
 さらりとした会話を交わしながら、席について、瓶の中身をカップに注ぐ。
 儀式のようなものだ。二人とも、それが目的でないことはわかっている。
 それでもお互いにカップを手にとって、軽く打ち合わせた。
「かんぱーい」
 努めて明るくしたようなリナの口調に、かすかな緊張が混ざっている。
 甘みを抑えた果実酒だった。それを一口飲んで、彼はほっと息を吐く。
 果たすべき儀式は終えた。
(別に、この後はいつ誘ってもいいんだろうが)
 お互いわかっているのに茶番を続ける必要があるのか、彼はほんの少し考えてみる。
 だが、すぐに考えるのをやめた。
 お互い、覚悟のほどは確認した。苦手な駆け引きはもう終わりでいいだろう。
 流れのまま行動するまでだ。
「けっこう美味しいわねーこれ。おっちゃん、ほんとにいいお酒出してくれたみたい。何か感じるところでも……ガウリイ?」
 緊張を紛らわすように言葉を紡ぐリナを無視する形で、彼は立ち上がってテーブルの反対側へ回った。
「……えーと、いきなりなわけ? そーゆーもん?」
「酒が回ったらまずいだろ?」
「……うん」
 小さな肩をすぼめるリナの、華奢な手を取る。
 椅子の背に手をかけて、今朝彼を誘惑した女の前にかがみこんだ。
 少し戸惑ったような顔をしたリナが、それでもおとなしく目を閉じる。
「……ん」
 しばしの沈黙の後に唇を離して、ゆっくりとまぶたを開ける。
 間近で見たリナの表情は、かすかな笑顔だった。
(――あ、負けたか)
 リナの小さな笑いは、どこか勝ち誇ったような色をしていた。
「ほんとにいいのね。あたし、自分のものは手放さないわよ」
「……ふつう、それ男のセリフだろ」
「言ってもいいわよ?」
(うーん。どうやって、負けたって言わせようかな)
 そう思いめぐらしながら、小悪魔の口をふさぐ。
 それでも、彼に勝てる気はしなかった。

END.

続き書いてくださいって、二人も言ってくださったから! つい調子に乗って!(笑)
これ以上先は、言われても書きませんよっ!

おまけなので、久々に趣味全開で。

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