宝箱の中のキス 

 それは、春の日差しもうららかなある日の午後だった。
 執務室でいつも通り書類に筆を滑らせていたアメリアは、ふと手を止めて窓の外を見やった。庭師によって整えられたセイルーン王宮の庭は冬の間も壮麗であったが、春を迎えて新緑に色づき、ひときわ輝いている。暖炉に火を入れなくなったのは、いつからだっただろうか。空気はすっかりと暖まり、ペンを握る手がかじかむこともなくなった。
 愛するこの国に、春が来る。
 季節の上だけではない。人々の心の上にもだ。
 明後日に迫った戴冠式に思いをはせて、アメリアは少し微笑む。あと少しで、アメリアの父であるフィリオネル・エル・ディ・セイルーンがセイルーン国王の冠を頭上に戴く。その時、アメリア自身は国に帰ってこない姉に代わって第一王位継承者として指名されることが決まっていた。
 祖父である前国王エルドランは、長い病を患っていた。時期王位をめぐって幾度も醜い争いがあり、人心は不安に乱れた。アメリア個人にとって祖父の死はもちろん悲しいものだったが、セイルーン王家にとっては喪失と同時に安定を意味した。第一王位継承者である父フィリオネルはアメリアの尊敬する正義と真実の人、長く国王代理を務めたフィリオネルの戴冠は国民にとって喜ばしい吉事であった。
 アメリアは今しがた読んでいた書類に目を落とす。
 これからは、自分の働きが今まで以上に国の恵みとなってセイルーンの人々に降り注ぐ。
(わたしは、正義を体現する王女となるのだわ)
 それはとても誇らしく、嬉しいことだ。
 だが、アメリアの手は、書類の上で止まる。
(――ただ――)

 場違いに騒がしい声が飛び込んできたのは、そんな時だった。
「アッメリアひさしぶりーっ!」
「よぉ、元気か?」
「お客様ッ! 困りますッ!!」
 女官が金切り声を上げている。
 これは。懐かしいこの騒ぎは。
 アメリアは思わず立ち上がった。
「リナ! ガウリイさん!」
 勝手に執務室の扉を開け、並んでひらひら手を振っていたのは、かつて共に旅をした仲間だ。いい年になってもちびっちゃくて細っこいのは、魔道士のリナ。がっしりとした体つきの長身の美形は、剣士のガウリイ。でこぼこな2人は、こう見えても歴戦のつわもので、王女として育ったアメリアの唯一の友人たちだった。
「いやいやこのたびはお招きありが……ぐはっ!」
「リナ! 来てくれたのね!!」
 体当たりに近い勢いで抱きついたアメリアに、リナは壁まで後ずさった。
「一応世界中の魔道士協会に『リナ=インバースを即刻セイルーンへ連れてきてください』って頼んでおいたものの、急なことだし本当に捕まるかどうか不安だったのよ! 念のためセイルーンの魔道士協会には特にきつく言って、国中におふれを出して、それからうちの兵士たちを捜索に当たらせて、あと……」
 抱きつくアメリアをぎりぎりと引き離しながら、リナは引きつった笑顔を浮かべる。
「えーえーよく分かってるわよおかげでどんな目にあったか――」
「あ、大変だった?」
「当たり前でしょッ! 王女アメリア様が必死になって捜してるっていうんで、魔道士協会やらセイルーンの兵士やら国民やらが、みんな血眼になって『お前がリナ=インバースか』っていー加減にしろってくらい毎日毎日入れ替わり立ち替わり押しかけてきてもーっ!」
 気炎を吐くリナの頭上から、相棒のにぱっとした笑顔が降ってきた。
「リナがイライラして大変だった」
「それはどーもごめんねっ」
 一言で済まし、アメリアは両腕でがっちり拘束していたリナを放してやった。
 リナはじとりとした目でアメリアを見ながら、服のしわを直す。
「ま、おめでたいことだから? 許してあげないでもないけど? こんだけやって招待したんだから、高待遇を期待してるわよ、アメリア」
「あ、あはははは分かったわ」
 これはコックによく言って最高の料理をふるまわねばなるまい、とアメリアは肝に銘じた。リナのイライラは馬鹿に出来ない。が、美味しいものでコロリと機嫌が直るのもまた、リナという人間の本質である。
 そこへ控え目なノックが割り込んできた。リナたちを案内してきた女官が、お茶を持って渋い顔で入ってくる。
「あ、とにかく座ってよ」
 アメリアは2人の客人を中へ招き入れた。
 中、と言っても執務室なのでそれほど広い部屋ではない。市井の感覚で言えば普通の部屋3つ分くらい、と言うのかもしれないが、王宮の感覚で物を言うならただ用を足すだけの部屋だ。
 奥にある執務用の机ではなく、手前の椅子を引いてきてそれを勧めた。官が何かの相談に訪れた時に使うものだ。女官が筆記用の小さなテーブルを出してくれて、何とか即席の応接セットになる。
 女官が退室すると、アメリアは何となく面映ゆいような面持ちで2人に向かい合った。
(王宮にリナたちがいるって、変な感じ)
 思えば、彼女たちとはずっと吹きっさらしの街道を歩いていた。戦い、血と泥にまみれ、肩を叩いて笑い合った。
 王女としての、質素とはいえドレスを着て会うのはおかしな感じだ。
「だけど、本当におめでとう」
 リナは、一通り文句を言って少しすっきりしたのか、落ち着いた声で言って笑った。
「フィルさんはまー、ああ見えても正義の人だし、セイルーンの人たちも一安心でしょ」
「もちろんっ、父さんは誰よりも正義の心に輝く人だからっ! これからのセイルーンは、今以上に愛と正義と友情があふれる素晴らしい国になるでしょうっ!」
「……正義……があふれるかは置いておいて……まぁ、良かったわ。あんたも、次期第一王位継承者ってことになるんだって?」
「ええ。グレイシア姉さんが放浪の旅から戻らないんで……。今ごろどこでどーしてることやら」
「どこでどーしてることやらって……心配しなくていいのかそれは?」
 苦笑いしたのは、ガウリイだ。
 姉のことを知らなければ、当然抱く疑問だろう。
 アメリアは保証するように力強くうなずいた。
「大丈夫ですっ! グレイシア姉さんのことですから、どこかで道に迷っていたり何か変な生き物を拾ってしまって飼育に追われていたりデーモンとタッグマッチしたりしているかもしれませんが、心配には及びません!」
 ガウリイの目に、なぜか激しい戸惑いの色が浮かぶ。
「それは……グレイシア姉さんっていうのは一体……」
 鋭く口をはさんだのはリナだ。
「やめてガウリイ。グレイシアさんとやらのことには突っ込まないで。一切よ」
「……お、おう」
 迫力で凄まれて、ガウリイはともかくもうなずいた。
 アメリアは、気を取り直すように声のトーンを変える。
「それよりリナ、戴冠式の後はパーティがあるんだけど、それまでいれるんでしょ?」
 リナはうなずき、ウインクする。
「もっちろん。美味しい宮廷料理をお腹いっぱい食べるわよ」
「おおっ! 宮廷料理!」
 どうやら2人の1番の目的はそれだったらしい。
 アメリアは苦笑し、2人らしいなと思う。
 そして、できるだけさりげなく続けた。
「その席でね、わたしの婚約発表をすることになると思うの」
 2人はまず、きょとんとした。
 突然飛んだ話題についていけなかったのだろう。この話は、まだ外部には漏らしていない。どこかで戴冠式の内容を聞いてきたらしい2人にとっても、初耳に違いない。
 アメリアはにっこりと微笑む。
「おぉぉぉぉぉぉっ! そうなのかっ!」
「やだあんたいい人がいたの!? 全然知らなかったわ、おめでとう!!」
「ありがとう」
「なんかあんたが婚約っていうと、感無量っていうか、こう娘を送り出す父親のような気持ちだわー!」
「リナみたいな父さん、いらない」
「いやそれはオレのセリフだろう。あんなにちっちゃくて、旅の仕方も一から教えてやったのになぁ」
「ガウリイさんにはあんまり教えてもらってない」
 さんざんに騒いでアメリアの肩や頭を叩きまくりながら、2人は本当に自分のことのように嬉しそうに笑った。アメリアの顔にも、自然に笑いが浮かんでくる。
「で、で、どんな人なのようりうり」
 にやにやしながら突いてくるリナに、アメリアはきっぱりと答えた。
「正義を愛する人よっ!」
 リナとガウリイは一気に突っ伏す。
「……いるんだ……そーゆー人……」
「わたしたちは誓い合ったのっ! この国の次期第一王位継承者として、愛を説き、正義を成し、生きとし生けるもののためにこの命ある限り正義の炎を燃やし続けましょうとっ!!」
「……ホントに……?」
「もちろんよっ! わたしがそう言ったら、笑ってうなずいてくれたわっ!」
 リナの頬がひくり、と引きつった。
「――それって、かわいいやつだなぁ、と思われたのでわ」
 アメリアはふぅと息をついて、少し冷め始めた紅茶をこくりと飲んだ。
「かもね。でも少なくとも、そういう人は初めてだったわ。今までお見合いで会った人たちはみんな、わたしの理想のあまりの崇高さに畏れを抱いて去っていったもの」
「崇高さに畏れを抱いてって……」
「志の高さに打たれて、とも言うわね」
「なるほど……」
 本当に、そうだったのである。
 アメリアとしても、見合いなど気乗りがしなかった。相手はセイルーンの大貴族の息子で、国として王女として望ましい相手であることは重々分かっていたけれども、心に生まれる抵抗感だけはどうしようもなかった。ただ、見合いの申し出をむげに断るわけにもいかない。それで、会うだけは会った。自分を取りつくろわなければ今までの相手はみな去っていったから、アメリアが相手の顔を潰すような真似をしなくても済んだ。
 だが、今回の相手だけは違った。
 アメリアの話を聞くと、破顔して、迷わずうなずいてくれたのである。
(この人と、一から始めてみよう)
 アメリアは思い、正式な婚約の申し入れにうなずいた。
 これでセイルーン王家の未来は安泰だ、と笑う人々の声に、自分の胸も満たされていくような気がした。瞬く間に細かい話が詰められ、両家の間で何度も話し合いが持たれた。相手とも幾度か顔を合わせたが、最初の印象を裏切られるようなことはなかった。
(きっと、穏やかな愛情で家庭を築ける)
(一歩一歩、近づいていける)
 会うたびにその確信が深まり、不安が消えてゆき、覚悟も決まっていった。
「あたし、てっきりあんたってゼルのこと好きなのかなーとか思ってたわ」
 不意に核心を突いたリナの言葉に、アメリアは顔を上げた。
 とっさに言葉が出てこない。
 うまく笑顔が作れない。
 どんな表情を選べばいいか分からない。
 返答すべき言葉の代わりにアメリアの胸に去来したのは、あの騒がしかった数ヶ月の旅、戦い、笑顔、歩き疲れた足の痛み、仲間、固いベッド、雑多な食堂、そしてその中で育ったほのかな恋だった。
 あの日々のことを、どう言葉で表わしたらいいのか分からない。胸の中の綺麗な小箱に、丁寧に折り畳んで大事にしまった思い出。疲れた時、傷ついた時、取り出しては眺めるとっておきの思い出。
 それは、あまりに大事すぎて、とても現在進行形では語れない。
 ごん、と結構いい音がして、ガウリイに殴られたリナは小さくなった。
 くすり、とアメリアは小さく笑う。
「――もう、昔のことだから」
 あれから数年が過ぎた。あの時の幻のような思いも、とっくに胸をゆきすぎた。
「ただ、これでもう2度とあんな無責任なことはできないんだなーって思うと、ちょっとね。――重いな、なんてね」
 気まずげにリナはうつむく。
 その素直な感情表現が、うらやましくてかわいらしい。アメリアは笑った。
 そんな日々は、もう自分には戻ってこない。
(もう、遠い)
 ぽりぽりと頭をかき、困ったように視線を移ろわせていたリナは、突然何かを思いついたように目に光を取り戻し、ぽんと、手を打った。
 そして、いたずらっぽい笑顔でとなりの相棒をのぞきこむ。
「――ガウリイ。あんた、王女誘拐についてどー思う」
「どーって……おいっ!?」
「リナ!?」
 驚いて身を乗り出す2人に、リナはぱたぱたと手を振る。
「別にさらってどっか逃げようってゆーんじゃないけどさ。これでもう無責任なことできないってんなら、最後くらい迷惑かけちゃってもいんじゃないの? ちょっと、一晩くらい羽伸ばしてきてもさ」
 なんでもないことのように、リナは言う。
 あの頃、凶悪な魔族たちにつけ狙われながら「何とかなるわよ!」と笑っていたのと、同じ声のトーンだった。その声を聞くと、本当に何でもないことのように思える。
 急に、数年の時を飛び越えたような気がした。
 動悸がし始める。
 すっかり忘れていた、どきどき、という胸の響きだ。
「――一応、外の見張りに見つかったら、とがめられるけど」
「んなの、余裕よ」
 リナはけらけらと笑う。当然、彼女にとってそれくらいは余裕でかわせる障害だろう。
「一晩だけ、よね?」
「もちろん、一晩だけ」
 それなら……それなら許されるだろうか?
 アメリアは自分の机を振りむいた。そこに積まれた書類。本当なら今日中にサインをしなくてはいけないものたち。これから、一生座り続けるのだろう椅子。
 リナに目を戻すと、らんらんと輝いた瞳に出会った。
 あの頃の熱い何かが、胸によみがえるのを感じた。
 アメリアはリナの両手を掴んだ。

 決行は、日が落ちて夕食を済ませてからに決まった。

NEXT

HOME BACK

▲ page top