花嫁と長い夜 

 部屋は静かだった。
 机の向こうでは村長代理が1人うつむいている。その皺は初めて会った時よりなお深くなり、彼の心痛を語っているようだった。
 他の人間には遠慮してもらった。多くの人を同席させても話が混乱するだけだし、話しづらいことは一対一の方が口にしやすいはずだと思ったのだ。
「理由の予想はついている……と思ってもいいのかしら」
 注視していなければ分からないほどかすかに、彼はうなずいた。
 あたしがそう思ったのは他でもない、倒れたガウリイに知っている限りの回復呪文をかけていた時、少し話をと言ってきたのは彼の方だからだ。昏倒している人間の治療を止めるなど普通は考えられない。最低限の常識と人情があれば当然のことだろう。
 たとえば、ムダだと確信してでもいない限り。
「あの魔族が村はずれに住み着いた頃……」
 村長代理は呟くように語る。
「最初に変だと言い始めたのは、若い者たちじゃった」
 彼が見やった窓の外では、ざわめきの納まらないまま人々が宴の跡を片付けている。その中に若い人間の姿は少ない。殊に若い男は、まったくいないといっても過言ではなかった。
「この村はご存知の通り木工芸の村、とはいえ最近では幸いにもすっかり有名になり、自分たちでそう頻繁に材木を取りに行ったりはしませぬ。それを専門にする職人がおりますのでな。ただ、若い者たちは別での、修行のため自ら森に入ることもありますじゃ。たとえば練習に使う木を確保するため、たとえばよい木を見極める訓練のため……」
「そこで、彼らは魔族に会った……」
「と、いうことなのだろうと思いますじゃ。あるいは、術にかかったか」
「帰ってこなかったわけではないの?」
「ええ、何ということもなく帰ってまいりました。だからこそ、気付くのが遅れましての」
 彼は苦い顔をした。寄る年波に濁った目が、悲しそうにしばたく。
「その時期から、村ではある不祥事が相次ぎました。何だと思いますかの」
「さあ」
 あたしは肩をすくめる。
「出奔して魔族側につきでもしたの? そんな話は依頼の時聞かなかったけど?」
「もっと、単純な不祥事ですのじゃ」
 村長代理はくつくつと笑った。ひどく苦い笑いだった。
「女性に乱暴を働くものが増えましてな……つまり、その、不名誉な意味での」
 あたしは眉をひそめた。
 身内のことだけに、村長代理は言葉を濁している。しかし、とどのつまりは強姦事件が頻発したということだろう。あたしたちに依頼をした時あえて詳しいことの経緯を話そうとせず、今になって明らかにしているのは、そういう不祥事があったからなのだ。
 おそらくそれは魔族の術か何かによるものだ。ことを起こした青年たちが悪いわけではない。
 突如目の前で狂って人を殺したとでもいうなら、誰でも妙だと思うだろう。だが、ちょっとおかしくなって女性に乱暴してしまいました、悪気はなかったんです、で通るものだろうか。実際、魔族の存在がはっきりしている今でも普通の人が聞けば『どこまで魔族の仕業なのだか』と思う可能性は高い。
「……魔族は人の負の感情を食います。この村にさほどの人間がいるわけじゃないわ。こう言ったら何だけど、ただ殺していたのではあっという間に食糧に困る。人間同士争わせて恐怖や憎悪を生み出すってのは、あいつらの好みそうなパターンね」
「そういうことでしたか……」
 何やら感慨深げに、彼は何度も首を上下させた。
 彼の中にも、やはり若者たちを疑う気持ちがあったのだろう。いや、もしかすると今もまだわずかに疑っていたのかもしれない。
「それからあったことは……リナさんなら察していただけるかと思いますじゃ」
「大体……予想はつくわ」
 正確に何があったのかなど、あたしに分かるわけもない。
 ただ、今現在この村に若い男の姿がほとんどないこと、それがこの村の出した結論を物語っているような気がする。疑心暗鬼がどれほどの悲劇を生むか、あたしはよく知っている。
「つまり、その男たちの様子とガウリイの症状が重なるってことね」
「……そういうことに……」
 なります、とか何とか言ったのだろうけど、語尾は小さくなりすぎて聞き取ることができなかった。
 あたしは、村の女性の細い手を、痛いと言わせるまでつかんだガウリイを思い出す。その燃え上がるようなまなざしを。あの時彼は、どうしようもないほどの凶暴な欲求に突き動かされていたんだろうか。
「それだけ長い間同じようなことが続いたんだもの、対処法について少しくらいは分かってるわよね?」
「本当に少し……ならば」
「1つ、確認させて」
 あたしは居住まいを正す。村長代理の肩が強張った。
「治せるのよね?」
 彼は深々と頭を下げた。
「……高位の神官にならば」
 それで、充分だった。




 それからあたしが真っ先にしたことといえば、ガウリイを宿に押し込めて監禁することだった。
 滞在していた部屋に意識を失ったままの彼を運び込ませ、外から錠を下ろす。鍵はあたしが持った。窓には板を張って釘を打つ。食事を受け渡すだけの隙間は確保したが、人が出入りしようと思えば宿を破壊するしかない。
 あたしは中に入った。
 もちろん村人たちはこぞって反対したが、ガウリイが正気を失って暴れだした場合、被害を出さずに抑えるためにはあたしが近くにいるしかない。いくら宿を封鎖しようと、ガウリイなら宿ごと破壊することだってけして不可能ではないだろう。それを止められるのは、あたしだけだ。
 そうしながら、足の速いものを近くの街まで走らせた。当然、神官を呼んできてもらうためである。念のためと、あたしの名前でシルフィール宛の手紙も書いた。近くにろくな神官がいなかったとしても、最悪彼女が便宜を図ってくれるだろう。
 あたしを安心させたのは、その衝動というのは発作に似たものらしいということだった。
 つまり、治療を行わない限り半永久的に狂っているというわけではない。何かのきっかけで発作が起こり、ある程度で収まる。特に欲求が満たされた後には、しばし沈静化するものらしい。
 神官が来るまでどのくらいかかるのか。
 幸い街はさほど遠くない。早くて3日。それだけの間、ガウリイを押さえつけて我慢させればいい。基本的に頑丈なタイプだし、自律に優れた人間だ。難しいことではないだろう。
 閉ざされた部屋の中、光量を落とした明かりの下で目覚めようとするガウリイを見ながら、あたしは身じろぎもせずにいた。




 あたしの顔を見たガウリイの最初の表情は、笑顔ではなかった。
 ぐっと顔をゆがめたのに驚いて、逃げた方がいいのかと思った。しかし、そういう意味ではないようだった。
「リナ……さっきの、違うからな」
 あたしは思わず苦笑した。
 目の前で他の女性の手を握りしめた件について、かなり気にしているらしい。
「事情は分かったわ。変な心配してるんじゃないわよ」
「そっか……分かったなら、いいんだ」
 起こしかけていた身体を再び寝台に横たえ、彼は深い息をついた。
「今も苦しい?」
「……大丈夫だ」
 ガウリイは、真剣な瞳であたしを見る。
「オレ、どうしたんだ?」
 あたしは、ガウリイにも分かるようにゆっくりと事情を説明した。これからしばらく発作に苛まれるだろうことも、いつ神官が来るか分からないことも、今あたしたちが監禁状態にあることも、全部包み隠さず。
 それを聞くガウリイの表情は静かだった。
 聞き終わった時、微笑みすらした。
「なんだそっか、それだけか」
「それだけって……話分かってんの?」
「たぶんな。しばらく我慢してれば治るんだろ?」
「ま、まぁそーだけど」
 うぅむ……危機感の薄い奴。
 ごく普通の男が狂って女を襲ってしまうほどの強烈な精神作用ってのが、分かってるんだろうか。
「そういうことならちゃんと我慢するさ。リナも宿から出てろよ」
 ふい、とガウリイは顔を逸らした。自然を装ったつもりなのだろう。
「あんたね、話聞いてた? あたしが見張ってなくてどうすんのよ」
「無関係の人を襲ったりしないさ」
「あなたを信用しないわけじゃないわ。でも、これは毒みたいなものなのよ。いくらあなたでも我慢しきれるとは限らない」
 毒なのか、呪いなのか、その辺りははっきりしていない。
 ただ、あたしの思い出す限りあの魔族に呪いをかけているような様子はなかった。
 もっともありえそうなのは、血である。精神体のくせにわざわざ派手にしぶいたあの血は、毒だったのではないか。
 いや、体液のすべてが毒だったと考えた方がいいかもしれない。繰り返すが、精神体である魔族に、本来体液などあるわけないのである。ただのこだわりや演出で作ったというよりは、毒だったというほうがよほど分かりやすい。
 あいつは自分の体液を森の一帯に撒き散らす。森に入った若者たちは、それを吸うなりふれるなりして感染する。何人何十人という人間を対象にした大掛かりな呪いをかけたというより、ずっと手軽で信憑性がある。
 だとすると、戦いの短い間しか対峙していないガウリイが発症したのも分かるのだ。
 頭から青い血をかぶったガウリイの姿が、脳裏に蘇る。
「……じゃあ、せめて部屋から出てろ。オレもそこまで自信は持てないぜ?」
 不器用にウインクなんぞ送ってよこす。無理しちゃってまったく。
 あたしはため息をついて立ち上がった。
「言われなくてもそのつもりよ。食事は持ってくるわ」
「おう、楽しみにしてるぜ」
 ひらり、と手を振りあって別れる。
 それが長い夜の始まりだった。




 ガウリイ以上に甘いのはあたしだったと思い知るのに、そう時間は必要なかった。
 それが始まったのは、1人きり部屋に戻って半刻もしない頃だった。
 最初は、寝返りを打つような物音だけだった。その状態がずいぶん長く続き、あたしも寝ることなどできそうになかった。となりで相棒が苦しんでいるのである。これで安眠できるなら、魔族に転職することを考えた方がいい。
 しかし、そこまではまだ序の口だった。やがて衣擦れの音に呻き声が混じり始め、あたしはそのたびどきりとして身体を震わせた。
 ガウリイは、となりにあたしがいると分かっているのである。声など出せば心配をかけるということは自明だ。それを分かっていてもなお、抑え切れないのである。
 その上、次第に呻くなどという生易しいものではなくなった。吐き出しきれないものを喉にぶつけているような、荒々しい叫びだった。あたしは、そんな声を出すガウリイを見たことがなかった。
 歯軋りし、血がにじむほどこぶしを握り締めているだろう彼の姿が想像できてしまい、不覚にも喉が詰まった。
 もう、ゆっくり横になっていることすらつらかった。
 あたしは寝台に腰掛け、膝の上でこぶしを握った。ちょうど、ガウリイのいる部屋に背を向ける格好になる。背筋を伸ばし、全身に力を入れていたら、少しはその声に耐えられた。
 ふと見ると、窓に張られた板の隙間から、月が見えた。最初に見た時から、さほど動いていないように見えた。永劫のように長く感じたが、まだ大した時間は過ぎていないのだ。
 こんなことがまだ数日続く。
 あたしはうつむき、小さく笑った。
 甘かったのは、あたしの方だ。
 人が狂うほどの苦しみに相棒が侵されるということを、リアルに想像できなかった。彼は耐えるかもしれない。あたしも、耐えられるだろう。しかし、耐えられるというのと平気だというのは、確実に異質なことだ。
 同じ辛いならば、やれることをやった方がいくらはきっと楽なはずだ。
 あたしはゆらりと立ち上がった。
 曇った鏡に、自分の姿を映した。暗い部屋の中に、白いドレスの自分が浮かび上がった。
 普段と違うあたしの姿に、彼も女を感じるのだろうか?
 その答えなど、知っている気がした。




 遠慮もノックもなしで扉を開けた時、最初に飛び込んできたのはガウリイの怒声だった。
「入ってくるな!」
 彼から本気の拒絶をぶつけられたのは、これが初めてのことだった。だが、怖いわけもない。薄い壁越しに聞いた彼の悲痛な呻きの方が、何倍も何十倍も怖かった。
 あたしは意に介さず、足を進めた。
 ガウリイは寝台の上で獣のように背中を丸めていた。思ったとおり、握り締められた手のひらには爪が食い込んで、シーツを赤く汚していた。
「今すぐ出ていけ……!」
 こちらを見ようともせず、ガウリイは言う。
 あたしは肩をすくめる。
「やぁーよ」
 寝台の端に腰掛け、無造作に手を差し出した。
「手、見せなさいよ。血が出てるじゃない」
「いいんだ、放っておいてくれ。痛みで気がまぎれる」
「んなもんでまぎらわすのやめなさい。ほら、出して」
 ガウリイはごろりと身体を倒し、完全にあたしに背を向けた。
「リナ、悪いが本気できつい。お前さんに気を遣ってる余裕はない。出てってくれ」
 あたしは座ったままガウリイを振り向く。苦しいのか細かく震えるその、大きな背中を。
 もちろん、本気できついに決まっている。でなきゃ、この村の男は今頃平和に並んで神官に診てもらっていただろう。
 当然さすがのガウリイだってきつくないわけがない。
 あたしは、苦しみに耐える男に言う。
「じゃあ、あたしを抱けばいーわ」
 一瞬の空白の後、返ってきたのは吐き捨てるような言葉だった。
「冗談じゃない」
「当たり前でしょ、誰が冗談でんなこと言うのよ。このタイミングで冗談飛ばせるほど薄情じゃないわよあたし」
「出てってくれ……女の子に乱暴しちゃいけないって言われてるんだよ」
「『ばあちゃん』に?」
「そう」
 あたしは笑った。
 まぁどんな状況だろうと、ガウリイはガウリイである。お人よしで、馬鹿で、寝ぼけたことを言う。
 ごく素直な気持ちで、この男が好きだなぁと思う。
「……待つって、言っただろう。今まで何年も待ったんだ。あと2、3年どうってことない。ましてたかが3日や4日、我慢できないわけないさ」
「あたしの気持ちを優先してくれるってわけ?」
「そーだよ。だから、早くこの部屋を出てくれ。出て、遠くへ行け。頼む」
「頼まれてもね」
「リナ。今さら、傷つけたりしたくないんだ」
「馬っ鹿ね」
 あたしは脂汗にまみれた背中を思いっきりひっぱたく。
「見損なわないでほしいわ。本気で、このリナ=インバースを傷つけられると思うの? できると思うならやってみればいいわ。そう簡単には傷ついたりしないから」
「リナ……」
 途方に暮れたようなガウリイの声。
 低くて、よく響く、ちょっと間が抜けた、あたしの好きな男の声。
 そして、本当はあたしを傷つけられるだろう男に言う。怖さには鍵をかけて。震える声は押し殺して。昂然とまなざしを上げて。
「あたしが、抱いてほしいって言ってんのよ」
 獣は、あたしを振り向いた。




 痛みと、けだるさ。
 熱い鼓動。
 ガウリイは、ずっと震えていた。
 もっと貪欲に求めたいのだろうと、知っている。
 緩慢に杭を打ち込みながら、あたしの吐息と悲鳴をむさぼりながら、獣の目は板目の隙間からのぞく月を映して鈍く輝いていた。
 凶暴な欲望を抱えた優しい獣は、その身体に眠るすべての力を叩き起こして欲求を抑え込んでいた。もどかしいくらいの優しさは、彼の苦痛と引き換えに引き出されていると知っていた。
 それでも、あたしは充分に翻弄されていた。
 もうどのくらいの時間が過ぎたのだろう。身体の中心から甘い痺れが蔓延して、自分が異質なものになったような気がした。
 荒い息をつくあたしの濡れた頬に、ガウリイはそっと手を這わせる。
「すまん」
 あたしは軽く目を伏せ、何とか笑みを形作る。
「どう、して?」
 ガウリイは答えなかった。答える必要はなかったし、彼も答えを求められていないと分かっていたのだろう。
 心もち身体を離すようにして横になった彼は、わずかに眉をひそめて目を閉じた。
 あたしはひどく重く感じる手を持ち上げる。はだけた胸に手のひらを沿わせると、怖いくらい早い鼓動が伝わってきた。限界まで敏感になった身体は、それだけで指先を愛撫されたような痺れを感じる。
 くしゃりと頭をなでられたら、ほとんど生理的に涙がこぼれた。
「ガウリイ、もう、いいの……? もっと、あたし、大丈夫だよ……?」
 ガウリイの眉間に刻まれた皺が深くなる。
「もういい。ありがとな」
「好きよ」
 闇を打つような息の音が、はっきりと聞こえた。
「……もう、いい」
 あたしは夜に響く自分の呟きを耳にする。
「あんたが、好きよ」
 くびきが外れる音を、聞いた気がした。

 宿が壊されたのは、2度目の夜明けを見た後だった。
 村の騒ぎを知っていた神官はすぐに駆けつけてくれて、ガウリイの身体に巣食った毒を浄化した。
 約束よりかなり多めの報酬を手にしてほくほくのあたしは、夢のようだった2晩のことをもうろくに思い出せない。寝不足のせいもあるだろうし、疲労のせいもあるだろう。ていうか忘れたい。
 ただ、村を出た後も時々青い血に濡れたガウリイを思い出し、ふととなりを見上げる。
 彼はいつもどおりのほほんとした顔であたしを見返す。
 以来、別段変わりはない。
 ただ、あの日あたしは彼の花嫁になった。

End.

 死なせてください。止めないでください。

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