それは、ふとしたことなのだ。
たとえば、リナの笑顔が、出会った頃と違ってほのかな色気を帯びていること。
オレはそれを見て年甲斐もなく胸を高鳴らせる。
たとえば、街で話しかけてきた美人を見て、リナの機嫌が降下すること。
オレは毎度戸惑っては、彼女にすげなく扱われていた。
たとえば、何か予期しないことで指先がふれた時、リナがひどく驚いた顔をすること。
オレたちは間抜けに見つめ合ってしまったりする。
そんなふとしたことの積み重ねは、何てことなく続いていく旅の途中に変な騙し絵みたいなものを描いていた。
上手いヤツの描いた騙し絵は、何の疑いも持たせず周囲の壁になじんでしまって、そこに絵があることを気付かせない。オレの目の前にあったのは、そういうものだった。
何しろ、ただでさえオレは頭を使うことが得意じゃない。わざわざ疑ってみたり、ちょっと変だなと思った時に理由を追求してみたり、そんなことはしない。考えるのはリナが全部やってくれる。
だから、ずっと気付きもしなかった。
ある日、それはレッサーデーモンとの戦闘でちょっとした怪我を負った時だった。
「ガウリイっ!?」
悲鳴のようなリナの声が響く。
大丈夫だ、と答えたかったのだが、胸板を強打された衝撃で声が出ない。さほどの怪我ではない、さほどの痛みでもない。少なくとも生命にかかわるようなものではありえないと、自分で分かっていた。
一瞬のショック状態で身体を動かせないまま、どさり、と地面に投げ出される。
「黒妖陣!」
聞きなれたひと綴りの呪文の後、不快な唸り声が消える。リナが敵を仕留めたのだ。
お疲れさんと声をかけようとして、代わりに咳が出た。ついでに、軽く血を吐いた。頬の内側を切ってしまったため口の中に溜まっていた血だ。繰り返すが、そう深刻な状態ではなかったのだ。
しかし、リナはらしくもなく動転したらしかった。
「ガウリイ!」
まるで素人のように体勢を崩しながら駆け寄ってきて、オレの横に膝をつく。
オレは正直言ってその姿に驚いていた。驚きすぎて脳が活発になったくらいだ。
「だ……大丈夫?」
「おー。何ともないぞ。ちっと苦しいが」
やっとのことで答えて、手を挙げて見せる。実際、衝撃で胸の辺りがぐっとつぶされたような感じがした。
リナは呆気に取られたような顔をし、泣きそうに唇を歪め、それから容赦なく拳を振り下ろした。
「何ともないならのんびり倒れてるなっ!」
「け、怪我人を殴るか……?」
「あぁら何ともないんでしょ?」
無事を確かめるや、そっけなく立ち上がって背を向けてしまう。
だが、その時オレは何となく分かってしまったのだ。
リナは、オレが好きなんだと。オレに恋してるんだと。
ほとんど勘のようなものだったかもしれない。大した根拠なんかない。だが、そう考えると不可解なピースがぴたぴたとはまっていった。
日常にまぎれこんだ騙し絵の正体を、オレは見つけた。
オレはしばらくその場に倒れたまま、森の枝を透かして空を見ていた。後でリナに聞いたところによると、何やら溶けそうな笑みを浮かべていたらしい。
近くの町で宿を取り、部屋に荷物を置いた後も、オレは正直顔が緩んで仕方ない気分だった。
いつもなら剣の手入れを始めるところだが、リナがオレのために見つけてくれた剣を手にするとまた胸がうるさいくらいに騒ぎ出し、手入れどころじゃなくなった。思わず何もしないまま鞘に戻し、それを抱えてぼんやりしてしまう。
ぼんやり、というのは少し違うかもしれない。
何も考えてないわけじゃない。ただ、何もできないだけだ。
ベッドの端に腰かけ、窓から暮れかけの空を見る。
昼間森で見上げた空の色を思い出し、オレの怪我に焦っていたリナを思い出し、何とも言えない甘酸っぱい気持ちがわいてくる。
はっきり言って、リナに突っ込まれるのを待つまでもなく、馬鹿だ。
1人で剣を抱えてにやついているなんて。
だが、分かっていても顔は引き締まらなかった。立ち上がって何かをする気分にもなれない。
あのリナが。
一生女の子のまま成長しないんじゃないかと思っていたリナが。
戦うことと食べることと金勘定にしか興味がないんじゃないかと思っていたリナが。
世の中の男を、利用価値のあるヤツとそうじゃないヤツに分類してるんじゃないかと思っていたリナが。
オレを好きになってくれていたのだ。
報われることを夢見すらしなかったオレが、有頂天になっても仕方ないじゃないか。
そうだ。
幸せは、今や手を伸ばせば届くところにあるのだ。
オレは、リナと旅を始めて数年、初めてそれを考えた。そして決意した。
がんばってリナを口説こう、と。
勝算ができてからやるのもずるい気はするが……そこはそれ、ああいう難しい相手なのだから勘弁してもらうとしよう。
オレがひそかな覚悟を固めていた時、部屋の扉がノックされた。
「ガウリイ、そろそろご飯食べに行かない?」
気が付けば、日はさらに傾いてほとんど消えかけている。
オレは慌てて立ち上がった。
「おう!」
一世一代の戦闘開始だ。
宿と一体化した食堂は、なかなかににぎわっていた。
3人も4人も連れがいると時には席をとりそこねることがあるのだが、2人きりの場合案外隙間に割り込むことができるものだ。
食堂の端っこに寄せられた小さなテーブルに、窮屈な身体を滑り込ませる。
はっきり言って、いきなりチャンスである。
向かい合って座っているから残念ながら密着度は低いが、すぐ手が届く位置であることには違いない。
食堂の明るいとは言えない照明の中、機嫌よく笑っているリナ。
オレは、すぐにでも作戦を開始しようと思った。
が、しかし。
そこでオレは困ったことに気付いたのだ。
女の子を口説くって……どーすればいいんだ?
自慢じゃないが、女性経験はそれなりにある。酒場で今晩の男を待っている女を落とすのは、たぶんできる。傭兵なんかしていると、先輩からそういうことも教わるのだ。
さりげなく近寄って、「ここいいか?」と丁寧に声をかける。礼儀正しくするのはポイントが高い。1杯酒を奢って、適当にあたりさわりのない話をする。後は、夜が更けた頃に「この後暇か?」とでも言えば何の問題もない。そのままベッドインである。
が、それをリナにやってみたとする。
まず、声をかけるあたりはすべてダメだ。何しろすでに一緒に座ってる。
礼儀正しく振舞って軽い話題で間を持たせる、というのはできる。できるが、今さらリナ相手にそんなことをしてどうなるんだ? とっくに素顔知られてるぞ?
じゃあ、いきなりベッドに誘うか?
……オレの墓場はここになるな……。
「おばちゃーん! あたし、ディナーセット軽く3人前ね! ガウリイは?」
いつの間にかメニューを見ていたらしいリナに声をかけられて、オレははっと我に返った。目の前にあるメニューを手にとってすらいない。
「えっと、何だっけ?」
「まぁた聞いてなかったんかいあんたはっ! 注文よ、注文!」
「あ、ああ……リナと同じでいい」
「じゃ、おばちゃん、ディナーセット合計6人前でよろしくぅっ!」
辺りの人々が、華奢な女の子の張り上げた声にぎょっとしてこちらを振り向く。
こんなもんで驚いていては、リナが「お腹すいた」と言い出した時の食事量に腰を抜かすだろう。はっきり言って色気も何もあったもんじゃないが。
いや、待てオレ。
そうだ、見逃しているぞ! さっきの手順の中で、1つだけ実行可能、かつリナに効果がありそうな項目がある!
「あと、果実酒とスピリッツ1杯ずつ頼む!」
嬉しそうにメニューを閉じていたリナは、きょとんとしてオレを見る。
「食事と一緒に飲むの? 珍しいわね」
「たまにはいいだろ。オレが奢るぜ」
予想通り、リナは目を輝かせた。
「うわぁおぅ! ガウリイ、太っ腹! おばちゃん、1杯ずつじゃ面倒だから、ピッチャーで持ってきて!」
……えっと。
確かに喜んではくれたが……何か違うような気がする……。
こ、こーゆーんじゃなかったと思うんだがなぁ。
おぼろげな記憶によると、もっと、こうしっとり微笑んでくれたりなんかして、暗黙の了解が成り立ったような雰囲気になるもんだったような……。
あれ、よく考えてみればなんで酒を奢ったらそういう雰囲気になるんだ? 何の関係もなくないか?
考えてみれば、リナに奢るという言葉を出したらどういう反応をするか、オレは知り尽くしているはずだった。しっとり? 馬鹿かオレ?
「はいよ、果実酒とスピリッツね! お嬢ちゃんが果実酒でいいのかい?」
繁盛している酒場によくいるタイプの、人好きのするおばちゃんがピッチャーを2つ持ってきた。
「うんうん、もちろんあたしが果実酒よ」
「いっぱい頼んでくれたから、サービスで多めに入れといたよ」
「きゃあおばちゃんありがと! さすが、人気の酒場だけあるわねー」
「サービスが命だからね」
「そうそう、客商売はサービスよね」
「おや、お嬢ちゃんも商売の経験があるのかい?」
「実家がやってたのよ」
「へぇ。ま、ゆっくりしてきなよ」
「ありがとー」
実家の商売のせいではないと思うが、リナも機嫌のいい時は人好きのするタイプである。明るくてリアクションが大きいし、頭も口もよく回って、気配りもできる。
愛想良くおばちゃんと言葉を交わして、コップに酒を注ぐ。
「んじゃガウリイ、ごちそーさま」
「おう」
我ながら曖昧な笑みを浮かべて、リナと杯を交わす。
いや……別にオレはリナほど金にこだわる方じゃない。奢るのはいいんだ、酒の1杯や2杯や10杯。
だがなぁ。当初の目的はどこへ行ったんだか。
「そーいやあんた、身体はもう大丈夫なの? いきなりンなきつい酒飲んだりして、身体に響かない?」
唐突にリナは問いかけてきた。
おざなりな確認ではない。ひそめた眉から、本気で心配してくれているのが分かる。
こういうところが、憎めないヤツなのだ。オレは苦笑した。
「ああ、もう大丈夫だ。心配いらん」
「そ。それならいいのよ」
他愛もない会話をしていると、すぐに料理が運ばれてきた。
リナは歓声を上げる。オレもである。
それほどに美味そうな料理だった。この食堂の人気の秘密は、おばちゃんの人柄だけではないらしい。
「んんっ! おいしーっ!」
「おおおっ! 確かにこれは美味いっ!」
一口で、オレの口には至福の味が広がった。
「くぅぅっ! このポテトのふかし具合と言ったら! 絶妙! 絶妙とはこのことだわ!」
「うおおリナっ! こっちのニンジンの茹で加減も最高だぞ!」
「確かにっ! やっぱり料理はこういう単純なところに違いが出るのねっ! そっちのポテトももらったっ! ていっ!」
「あああ何つーことをするんだお前さん! オレまだ食べてなかったんだぞ!」
「んっふっふ。美味しいものはすべてあたしのもんよ」
「ほほぉぅ。そういうことを言うか。そのチキンソテーもらったっ!」
「んきゃあああ悪魔っ!」
その食堂の料理は最高だった。
オレたちはいつにも増して激しい奪い合いをしながら、最大限に料理を楽しんだのだった。