the Story of Her(前編)

 あるところに、ご主人様の命令をちっとも聞かないメイドさんがいました。
 彼女の家は貧乏で、両親はもちろんお姉さんも若い頃から一生懸命働いています。彼女もまた、まだ子供の内から奉公に出されていました。
 髪は栗色でつややか、好奇心に輝く瞳はとても綺麗な紅色。天使のように愛らしい女の子です。その上、働き者のお姉さんから教わった家事の腕前は、熟練のメイドさんもうなるほど。見事な手さばきと持ち前の元気さで、どんなお仕事も完璧にこなしてみせました。
 ところが、このメイドさんはわがままで乱暴もの。どんなに仕事がよくできても、ご主人様にずけずけと意見するものですからどこでも鼻つまみ者になってしまいます。利発なメイドさんは自分が正しいと思ったことは決して曲げようとしませんでしたし、頬を殴られたら両手足でどつき返すはねっ返りでもありました。
 このメイドさんが得意なのはお料理やお裁縫だけではありません。大の男にも負けないほどの腕っぷしの強さを持ち、そこらのお家なら一瞬で吹き飛ばせるほどの魔法を使うことができました。そんなメイドさんに、命令をするのは一大事です。
 そんなわけでメイドさんは、奉公に出された先々で喧嘩乱闘破壊事件を起こし、勤めるそばから暇を出されてしまっていたのです。
 メイドさんの噂が一部で有名になったある時、彼女を雇いたいと言い出したお家がありました。
 王宮随一の騎士一族として身を立てている、ガブリエフ子爵家です。このお家は伝説の光の剣を家宝にする由緒正しい家系でした。おとなりの領地を屈服させたついでに、この有名なメイドさんを飼いならして見せようと豪語してしまったのです。大きな手柄を立ててみんなから褒められると、また新しい名誉を欲しがるものですよね。
 メイドさんに否も応もありません。何しろお家は貧乏でしたから、雇ってくれるというガブリエフ家に行くしかありませんでした。「逃げ帰ってきたらおしおきよ」という姉の言葉を胸に秘めて。
 さて、このガブリエフ家には若い息子が2人いました――。


*  *  *



 リナは不屈の精神の持ち主だった。
 今までクビにされた家が4つ、わずか16歳にして5つ目の奉公先である。だが、それに関してリナはまるっきり反省していない。これまで仕えた主人たちときたら、4人そろって傲慢で横柄、メイドを人間とは思っていなかった。往々にして貴族というのは庶民を同じ生き物だと思っていないのだ、と彼女は学習した。
 そしてまた、5人目の主。
 楚々として控える先輩メイドたちの訓練された物腰を見れば、少なくとも気安い相手ではないのだろうと推測できる。いつものノリでどつき倒せば、早々に5度目のクビを言い渡されるのだろう。
 家に働かない娘を養っていく余裕はない。メイド程度もできない娘は一家の恥だと、常々言い聞かされてもいる。今はとにかく職をつかまねばならないのである。
 が、しかし。
 彼女は背筋をピンと伸ばし、意思に満ち溢れた瞳で今はいない主の席を見つめていた。
 媚びる気など毛頭ない。気に入らなかったら張り倒してやる。
 彼女の目は、音にして聞こえそうなほどそう言っていた。
 リナの周りに控えたメイドは2人、リナを当主に引き合わせるのが今の仕事である。だが、物静かに控えた彼女たちの内心は、呆れと焦りでいっぱいだった。
 メイドたちの間でリナのことはよく噂になる。笑い話として、教訓として。そのリナが目の前にいるのである。主は一体何を考えているのか。リナはここで何か騒ぎを起こしやしないか。高価な置物を壊しやしないか。周囲に鎮座する彼女たちの手によって磨かれた調度品に、ついつい目が泳いでしまうというものである。
 そうして、ずいぶんと待たされた後だった。
 樫の扉が開き、スマートな中年の男が入ってきた。
 白いものの混じり始めた金髪を後ろになでつけ、上品な絹の衣服を身につけている。外見だけならば、どう斜めに見ても文句のつけようがない。
 彼はリナを一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。
「なんだ、ボディーガードを張り倒すというからどんなものかと思えば、ちんくしゃの小娘じゃないか」
 リナの彼に対する第一印象は最悪だった。
「ガブリエフ家はお前が今まで勤めてきた家のように甘くはない。これまでのようにはいかないからな。覚悟しておくがいい」
「はぁ」
 強張った声で応じるリナ。
 男は――まず間違いなく当主のガブリエフだろう――リナに椅子を勧めることもなく窓際の机の前に立った。
 軽く手招きされるのに応じて、リナは机の向かいに立つ。
 彼は、引き出しからおもむろに細い木の棒を取り出し、ぴしりと机を打った。どうやら、木の棒と思われたものは笞だったらしい。
「返事は『はい』だ。脅しで済むのは最初だけだぞ」
 リナは答えない。
 おびえているのではない。すぐ目の前を通り過ぎた笞を見ても、眉ひとつ動かさなかった。
「返事をしないつもりか。その意地が、いつまで持つかな?」
「……えーと。ご主人様は新人のメイドに訓示を下さってるわけですか?」
 言葉遣いはともかく、無遠慮な物言いをするリナに、ガブリエフの眉が上がる。
「まぁ、そうだな」
「そうですか。じゃ、手っ取り早くお願いします。早く仕事を始めたいので」
 引きつった笑みで、リナは言った。
 しばし、にらみ合いが続いた。それを破ったのは、ガブリエフの方だ。
「お前」
「はい?」
「お前には、少々教育が必要なようだ。お前のようなメイドは、我が家にふさわしくない」
 じゃあ解雇しろよこの気障オヤジ、などとリナの心中では答えていたりする。
 が、表面上は一応笑顔である。
 何しろ、実家の怖ろしい姉から『逃げ帰ってきたらおしおき』を言い渡されている。この言葉の解釈は、『精一杯やった末に解雇された場合は仕方なし、ただし自分から辞めてくるのは許さない』だ。
 実際、今まで立て続けにクビを食らった4回、リナは姉からのおしおきを受けていない。毎度同じ言葉で送り出されているにも関わらずだ。容赦とか恩情とかとは縁のない姉だから、リナの努力が認められていたということである。
 とにかく、クビを言い渡されるまでは最大限努力する。これがリナの方針であった。
「まったく、前の主人は何をしていたんだか。とにかく一から教育しなおしてやるから、そう思え」
「左様でございますか。で、あたしは何をすれば?」
「しばらくは私の専属として働くがいい」
「仰せのままに」
「お前たち、下がっていいぞ」
 ガブリエフが、後ろでおびえきっていたメイド2人に手を振る。
 彼の視線から自分は残れと言われているのだろうと解釈し、リナはその場を動かなかった。
「おい、お前」
 ガブリエフはメイドごときの名前を呼ばない。覚えようとすらしていないのではないだろうか。
「はい?」
「私はこれから着替える」
「はぁ」
 リナは曖昧な返事をする。
 これで相手が騎士甲冑をまとっていいるならば、言われずとも手伝う。あれは1人で脱着できるものではないからだ。しかし、ガブリエフはどう見ても普通の絹の上下である。
「返事は『はい』だ」
 ぴしりとしなった笞がリナの頬をかする。
 白い頬に赤いミミズ腫れが走るが、リナは怯えも泣きもしなかった。
 代わりに、ガブリエフを射抜くように視線が鋭くなる。
「返事をしたことには変わりないわ。客の前で威儀を正せというならそうしますけど、どーしてあたしがあなたの自己満足に付き合わなきゃいけないのよ」
「なんだと!?」
 ガブリエフは激昂する。
 リナが跳ねっ返りなのは彼も当然知っていた。だが、その認識はおそろしく甘かったと言わざるを得ない。彼には、メイドごときに口答えされるという実感がなかったのだ。
「お前は私のメイドだ。つまり、私の持ち物だ。お前が私の要求に従う理由は、それで充分なはずだが!?」
「あたしはあなたに雇われているんです。対等とは言わないけれど、同じ人間よ。持ち物になった覚えはないわ」
「ははは! 契約書を読んだか?」
「ええ」
「主人、つまりこの私の命令はどんなものでも聞かなければならない、という項目があったのを覚えているか?」
「ありましたね」
 貧民と貴族の契約である。そのくらいのことは平気でまかり通る時代だった。
「でも命令に文句を言うなという項目はなかったわ。雇われた時点で主人の持ち物になるという項目もね!」
 リナの言葉は正論だった。しかし、ガブリエフの怒りを高めるだけの言葉でもあった。
 彼はリナのそばまで大股で歩いてくると、やおらそのエプロンをつかみ、椅子に引き倒して無理矢理に剥ぎ取った。後に着ているのは黒く長いワンピースが1枚である。
「お前の無力さを存分に教えてやろう」
 押し倒され、それでもリナは泣き言ひとつ言わなかった。
 代わりに言ったのは、こんな言葉だ。
「雷撃っ!」


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(姉ちゃんあたしは悪くない)
 リナが呟いているところに、騒ぎを聞きつけたメイドたちが駆けつけた。
 床で伸びている主人と、支給されたばかりの服をいきなり裂いているリナを見て、彼女たちは何があったか察しただろう。
 だが、リナに同情的な対応は取られなかった。
 メイド頭と思われる初老の婦人がつかつかと近寄り、リナの頬を叩く。当然叩き返したリナとあわや乱闘になるところを他のメイドたちが総出で止め、とにかく処罰は後日ということになった。
 メイドに呪文で気絶させられたガブリエフの心情を慮っての対処である。
 初日から懲罰室に閉じ込められて暇をもてあましていたリナは、ところどころ破れてしまったエプロンを繕い直したりしてその夜を過ごした。
 懲罰室は、別段他の部屋と変わりない内装である。
 もちろん主人たちの部屋とは違うだろうが、メイドに与えられる部屋は必要最低限のものしかない。
 メイド部屋にあって懲罰室にないものは2つだ。
 ランプと、開くことのできる窓。
 嵌め殺しの窓から入ってくる光で昼ごろかな、と目算をつけた頃、足音が聞こえた。
 またあの嫌味な主人と向き合うのかとげんなりしていたリナだが、予想に反して訪れたのはメイド頭だった。それで状況がよくなったとは言い切れないところではあるが、主人はどうやらリナに会いたくないらしい。
「あなたへの罰を、ご主人様がお決めになりました」
「そ。断食? 笞打ち? もっとエグい罰を考えたわけ?」
「笞打ちです。当家ではそれがしきたりとなっています」
「あら素敵なご主人様ね」
 リナはちょうど繕い終わったエプロンを膝の上に置く。
「まったく、あなたには呆れました。ご主人様とメイドの関係を何だと思っているんです? ご主人様の命令は絶対です。これは当家のゆるぎない決まりごとです。それが、ご奉仕を拒んだばかりかあのような乱暴を……!」
「あんなのメイドの仕事じゃないでしょーが。それを唯々諾々と従うのがメイドの務めだなんて、勘違いもいいとこよ。ご主人様を名乗るなら、あたしが従う気になるくらいの器を見せてほしいもんだわ」
「な、なんという暴言をっ!」
「あら、『ご主人様』はあたしの噂を知ってて雇ったんでしょ? 普通のメイドに飽きて、こういう暴言が聞きたかったんじゃないの?」
「そんなわけがありますかっ! ご主人様は、あなたにメイドとしての心構えを教えてさしあげるため、危険を承知であなたを雇ってくださったんです! 感謝の心というものを知らないのですか、あなたはっ!」
「笞で叩かれて感謝する人がいたら、会ってみたいもんだわ」
 メイド頭はぎりりと奥歯を噛んだ。
 多くのメイドの中には、たまに度し難いわがまま娘がいる。彼女は、長いメイド生活の間に色々な若い娘を教育したものだった。
 しかし、リナは彼女の常識をくつがえすほどの乱暴ものだった。
「もういいわ! さっさとこっちに来て腕をお出しっ!」
 リナは肩をすくめる。
 メイド頭が示した卓のところまで行き、ワンピースの両袖を肘までまくりあげた。実のところ、すでに慣れっこである。我慢するのは一時のことで、傷なら後で魔法で治せる。
「すぐに、その乱暴な口を後悔させてあげますからねっ!」
 彼女が言い、笞を振り上げた時である。
 部屋のすぐ外ではっきりとした靴音が聞こえた。
 メイド頭は振り上げた笞を下ろし、怒りのこもった歩調で扉を開けに行く。
「誰ですっ! ここは許されたもの以外立ち入り禁止ですよっ!」
 蝶番がおかしくなりそうな勢いで扉を開ける。
 廊下をのぞきこんだメイド頭は、なぜか瞬時にして凍りついた。
「こ……これは、失礼しましたっ」
(主人が来たか)
 リナは舌打ちしたい気分になる。
 一応、主人は主人である。似たような性格であろうとも、メイド頭の方が扱いやすいのは言うまでもない。
「子爵に乱暴をした娘が、罰を受けてるって聞いたんだが……」
 しかし、扉の外から聞こえてきた声は、主人のものではなかった。
 ただ、どこかが似ている。2人の息子のどちらかか、とリナは当たりをつけた。
 今のリナは一応当主の専属ということになっているので、2人の息子は直接の主人ではない。だが、やはりメイド頭に比べて面倒な相手であることには変わりない。
「ガウリイ様、ここにはあまりいらっしゃらないでくださいまし。中にいる娘はとんだ乱暴者で、とても御前にお出しできるようなものではありません」
「らしいなぁ。子爵は昨日から寝込んでるし」
 雷撃くらいで寝込むな軟弱者、とリナは1人ごちた。
 彼女なりに手加減をしたのである。
「それを聞いて、息子として……何て言うかな、いろいろ考えてるんだ。その子の処罰は、オレに任せてくれないか?」
「し、しかしガウリイ様……」
「これでもこの家の後継者候補だぜ? 少し父にいいところを見せておきたいんだ」
「左様でございますか……分かりました。くれぐれもお気をつけて。剣はお持ちですね?」
「ああ、持ってるよ」
(あたしは猛獣かっ!?)
 リナは外の会話に顔を引きつらせる。
「じゃあ、鍵は預かる」
 ガウリイという男の声がした後、メイド頭の足音は遠ざかっていった。
(さて、どんな馬鹿息子やら)
 リナは首を捻り、あの主人の息子とやらを拝んだ。
 頑丈な扉を開けて入ってきたのは、どことなくガブリエフに似た面差しの青年だった。
 長い金髪に、青い目。顔立ちは綺麗に整っている。長身でどちらかと言えば細身だが、ガブリエフ以上に鍛え上げられた印象がある。
 何より違ったのは、全身からかもしだす雰囲気だった。
 冷たく周囲を蔑んだ空気を放っていたガブリエフと違い、ガウリイはその身体からひどく穏やかな空気を送り出しているようだった。
「お前さん、名前は?」
 無邪気とすら言えそうな笑みで、ガウリイが聞いてくる。
「レディに名前を聞くときは先に名乗ってちょうだい」
 ほとんど挑発とも言える言葉だったが、ガウリイは怒らなかった。それどころか、あっけらかんと笑いさえする。
「ああ、オレはガウリイ=ガブリエフだ。まぁ、一応ここの息子かな」
「あたしはリナです。リナ=インバース」
 この家に来て始めて、リナは本心から微笑んだ。
 リナに名前を尋ねたのは、彼が初めてだった。
「リナか。ちっさいのに大変だなぁ」
 ガウリイは内側から扉に鍵をかける。
「別にちっさくないですよ、あたし。もう16です」
「へ? そうなのか?」
「そーです」
 卓の上に置き去りになっていた笞に目を止めると、ガウリイはそれを手に取った。
 苦笑いを浮かべ、彼は軽く振りかぶる。
「ちょっとだけ、我慢しててくれよ」
 言うなり、ガブリエフの動作とは比べ物にならないほどの鋭い振りで、彼はそれを打ちつけた。
 ぴしっ! 小気味よいほどの音が鳴る。
 リナは声を上げなかった。
 ガウリイの空いた手が彼女の口を塞いでいたからでもあるが、それ以前に笞は彼女に当たっていなかったからだ。
 ぴしっ! ぴしっ!
 笞は壁の上で踊る。
 たまたま狙いが外れたなんてことはありえない。明らかに違う場所を狙っているのだ。
 リナが黙っているのを確認すると、ガウリイはゆっくり手を外した。
 リナは袖を直し、卓に頬杖をついた。
「う……っ。……きゃあっ! ……痛い!」
 などと、適宜悲鳴なども入れてみる。
 声を殺し、ガウリイも笑っていた。
「……こんなもんでいいかな?」
「いいんじゃないですか? 聞き耳を立ててた人もいなくなったみたいだし」
 ガウリイは手近の椅子に腰掛けた。
「ま、しばらくは痛い振りでもしとくんだな」
「そのつもりです。一応、お礼を言っときます」
「そりゃどうも」
 リナは首をかしげた。
「で?」
「で、って?」
「何の目的でこんなことしたんですか? あたしをかばったりして、立場が悪くなるんじゃありません?」
「うーん、やっぱりそうかなぁ」
「そうかなって、あなたねぇ」
「いや、なんか話を聞いたら子爵の方が悪いような気がしたからさー」
 ガウリイは父親を子爵と呼ぶのか、とリナは思う。
 どうやらここの当主は相当いけすかない奴らしい。
「だからって、危険を冒してまでメイドをかばったりします?」
「ま、どうせ誰もオレには期待してないしな。はっはっは」
「笑い事かっ!」
 思わず大声でツッコミを入れ、リナはあわてて声をひそめた。
「……ったく。せっかく貴族に生まれたんだから、うまく立ち回ればいいじゃないですか」
「人にはできることとできないことがあるっ」
「威張るな威張るな……」
「リナだって、魔法があればこんなとこでメイドしてなくてもいいんじゃないか?」
「あたしは、とりあえず家族に養育費返すまで。そういう約束なんですよ」
「へー。じゃあ、しばらくは働かなきゃいけないのか?」
「そういうことです。主人がどんな奴でもね」
「そうか……」
 ガウリイは腕を組んだ。
 そのまましばらく動かない。
 この人の頭は大丈夫なんだろうか、とリナが心配になる頃、彼はやっと口を開いた。
「なぁ、お前さんオレの専属にならないか?」
 今度はリナが黙る番だった。


---------


 ガウリイと初めて会って数時間後、リナはガブリエフ当主の部屋に再び足を踏み入れていた。
 彼女の少し前には、ガウリイが立っている。その先にはガブリエフ子爵が渋い顔をしている。
「そのメイドをか……」
 今、彼はリナを自分の専属にくれと交渉しているのである。
「オレは彼女が気に入りました。責任持って面倒をみます」
(猫の子もらうんぢゃないんだから……)
 リナは内心汗を流しながら、とにかく黙って控えていた。
「分かっているんだろうな、ガウリイ。そのメイドは有名な乱暴者だ。我が家が引き取った以上、今までのように野放しにしておいてはガブリエフの名折れなのだ」
「え……そうなんですか。てっ」
 間抜けな返答をするガウリイに、リナは見えない位置で蹴りを入れる。
「どうした」
「いえ。ええと、分かってます」
 ガブリエフは不審そうな顔をしていたが、それ以上追求してくることはなかった。
 ガウリイのボケには慣れているのかもしれない。あるいは、諦めているのか。
「まったく、お前は息子を名乗らせるのが恥ずかしいくらいのウスノロだ。剣の腕以外に何の取り得もない。お前にそのメイドを預けて、どこぞのアホ貴族のように家を破壊でもされてみろ。ガブリエフの家名に泥を塗りたくるようなものだ。これ以上私に恥をかかせないでほしいものだな」
 ガウリイは何を考えているのか分からない無表情で、黙って話を聞いている。怒っているような顔は見せない。穏やかとさえ言える表情だった。
 リナはため息をついた。
「あのですねぇ……家名が家名がって言いますけど、たかが一国の、たかが子爵でしょう? んな家名なんて、そもそも大したもんじゃありませんよ。言わせてもらえば、もっと大きなところに目を向けられないから、いつまで経っても子爵止まりなんです。確かにガウリイ……様の頭には綿がぎゅうぎゅう詰まってるかもしれませんけど、見たところかなり剣が使えるみたいじゃないですか。物騒な世の中、案外出世するかもしれませんよ? そのくらいの賭けに出る度量を見せてみたらどーなんです、度量を!」
「綿がぎゅうぎゅうって……」
 ガウリイが頬に一筋の汗をたらす。
 ガブリエフはといえば、もう蒼白だ。お仕置きをさせたはずが、何も改善していない。それどころか、開き直ってるとすら言える。
 ここで『お前なんかクビだ!』というのが、リナの職業遍歴のパターンだった。
 しかし、ガブリエフは確かに今までの主人と違った。よりプライドが高かったのである。
 噂の跳ねっ返りメイドを従わせて『うちの教育は一味違うのだ! ははは!』と勝ち誇るはずが、言い負かされて逃げるように解雇するなど、彼のプライドが許さなかった。
 ただ、どうやら自分が付き合うのも嫌だったようである。
「ガウリイ! お、お前これでもそのメイドを自分の専属にするんだな!?」
「はぁ……そうしたいんですけど」
「分かった。その覚悟を見込んで、チャンスをやる」
 チャンスも何も、彼としては他に取る方法がないだろう。
「1ヵ月後に我が家で月見の宴があるのは覚えているな」
「そうでしたっけ?」
「あるんだっ! でもって宮廷の高貴な方々が我が家にお越しくださるんだっ! 我が家の威儀をかけた催しなんだっ!」
「いぎって……」
「ええい何も聞くな口を挟むなっ! とにかく1ヵ月後に宴があって人が来る! これだけ覚えておけ!」
「分かりました。たぶん」
「たぶんじゃないっ!」
 ガウリイは家の恥だと言う気持ちも分かるかもしれない、とリナは正直思った。
「いいか、その宴までにそこにいるメイドを調教してみせろ。もちろん私に恥をかかせたら……分かっているな?」
「どーなるんですか?」
「勘当だっ! 今度こそ勘当してやるっ!」
「はぁ」
「もしも宴が上手くいけば、メイドの1人や2人くれてやる。お前の才覚も認めてやろう。いいな」
 ガウリイはリナを振り返った。
「お前さんを調教するんだそうだ。どうする?」
「あたしに聞くなッ!」
 リナは(貞淑なことに)ワンピースの裾をからげて蹴りを放った。




 ガブリエフ家は、屋敷の他に前庭と庭園、そして剣の稽古場を持つ。腐っても騎士一族、個人によって程度の差はあれ、修練を欠かすことはない。
 深夜、リナはガウリイを探して稽古場を訪れた。
 ガウリイの専属となって数日が経っていた。建前上ガウリイによって調教中ということになっているが、のほほんとしたガブリエフ家次男はリナに命令をしようとしない。無理も言わないし、リナが暴言を吐いても罰を与えることもない。
 無茶をすれば叱られるが、「こら」と言われる程度である。
 こういう貴族もいるのかと、リナは新しい発見に感心していた。
 頭ごなしに怒鳴ったりせず「これをやってくれないか」などと頼まれれば、逆に素直に聞いてしまうものである。リナとしても仕事をしたくないわけではないのだ。その上「ありがとうな」と微笑まれれば、悪い気はしない。ほだされてしまう、というのだろうか。
 その晩も、できるだけ急ぎで頼むと言われた繕い物を、深夜までかかって仕上げてしまった。
 寝るとは聞いていないので部屋へ行ってみたのだが、ガウリイはいなかった。たいてい、寝る前は「もう寝るから休んでいい」と教えてくれるものである。
 まず手洗いを見に行き、それから食堂を探し、見当たらないので他のメイドに聞いてみた。すると、彼女たちはなぜかおびえたような目をしながら、ガウリイ様なら稽古場じゃないか、と教えてくれたのだ。
 明かりのかかった燭台が掲げられた廊下を歩きながら、リナは手にしたシャツを見た。よそゆきの、立派なものである。
(別に……今日渡さなきゃいけないってわけじゃないんだけどさ)
 何となく勢いで探してしまってるのは、頑張った仕事を褒めてほしいからなのか。単にあののんびりした笑顔を見たいからなのか。
(部屋にいると思ってたのに肩透かし食らって、落ち着かないのよねっ)
 これは当たり前の心理だ、と心の中で主張した。
 廊下は屋敷の外周を走り、西のはずれで行き止まりになる。そこにあるのが、稽古場への扉だ。
 リナはそっと扉を開けた。
 ヴンッ!
 風を斬る音が聞こえた。
 短く呼気を吐く音の後、舞うように軽い踏み込みの音。
 そして、うなりを上げて風が鳴く。
 見とれるほどに美しく、凄まじい、ガウリイの剣技だった。
「……誰だ?」
 呼吸ひとつ乱さず、剣を下げたガウリイが問う。
 リナの方からも腕しか見えていなかった。ちょうど扉の死角になっているのである。
「リナです」
「ああ」
 ガウリイの声がかすかにやわらいだ。
「出て来いよ、開けてると誰か起こしちまうかもしれん」
 忘れていた現実感が戻ってきて、リナは足を動かした。
 稽古場に出て、扉を閉める。
 そこは、小さなホールほどの砂地だった。吹きっさらしの更地である。先には屋内稽古用の小さな建物もあるが、その日は星空の見える晴天だった。
「どうした?」
「あ、頼まれたシャツが……」
 と、ガウリイの方を見てリナは眩暈を起こしそうになった。
 暑いのか、上半身裸なのである。
「あんた乙女の前でなんて格好してんのよっ!」
 照れのあまり必殺アッパーカットを食らわしてみる。
「あがっ! ってお前が勝手に来たんだろーがっ!」
「まぁ、そーゆー事実もあったかもしんない」
「この乱暴者が……」
「なんか言いました? ガウリイ様」
「いや何でもないです……」
 ガウリイはため息をつきながら壁際に行き、そこに置いてあったタオルで首筋を拭った。壁際は芝生が植えられており、タオルが砂にまみれているということはない。
 夜ともなれば少し肌寒いくらいの季節なのだが、すごい汗である。一体どのくらい稽古をしていたのか。
(……綺麗な身体してるわねー)
 リナはしみじみ彼の肉体を見た。
 服の上からでも鍛えられているのが分かったが、こうして裸にしてみると筋肉の引き締まり具合がはっきり見える。鋼のような筋肉、とは彼のようなものを言うのだろう。
 リナも剣術には多少の自信がある。だからこそ分かった。
 格が違う、と。
 おそらく、国内でもトップレベルの剣士なのではないだろうか。
 先ほどの剣の軌跡を見ても、なまじな鍛え方ではないのがよく分かる。リナでは比肩しうるべくもない。それこそ、彼女の口を塞ぎ、無理やり言うことを聞かせようと思えばそうできるだろう。
 だが、彼は殴られても気にしない。
「リナー」
「はい?」
 彼の筋肉に見とれていたリナは、呼ばれてはっと我に返った。
 ガウリイはタオルを手に、でかい図体で困ったような顔をしている。
「背中が届かない」
 リナはぷっと吹き出した。
「拭いたげるわ。座ってください」
 ガウリイは言われるまま芝生に腰を下ろす。
 リナは彼からタオルを受け取り、背中側に回って膝をついた。
「……実戦にも出てるんですね」
 彼の背中には、多くの傷痕が残っていた。稽古で傷を負うことは、上達するに従いままあることだが、それだけでは説明がつかないほどの痕がある。
「ん……下っ端だからな」
 貴族の子弟は指揮官になることが約束されているようなものである。爵位を持つガブリエフ家の息子ならば、実戦を知らないまま兵を任されてもよさそうなものだ。
「オレは考えるのが得意じゃないから、指揮官には向かない。剣を振るってる方が性に合ってるよ。その点では、子爵に感謝してる」
「なるほど……前線に出てるのは子爵の指示ってわけですね」
「ま、そういうことになるな」
 ガウリイはこともなげに言った。
 前線に出るということは、戦の中で命を落としてもおかしくないということだ。普通、貴族は大事な跡取り候補をそんな場所に置きたがらない。
 子爵が、実戦を経験せずに指揮を執るべきではないという主義の持ち主であるということも、可能性としては考えられる。しかし、家名を異様に重んじる彼とそのイメージは遠かった。
 家の恥ともいえる出来損ないのガウリイが、戦の中で名誉の戦死を遂げればいい。
 そう思っているのだという方が、よほど納得がいった。
(でもガウリイのこの腕じゃ……そう簡単に死にはしないわね)
 こんな夜中まで黙々と修練を重ねるガウリイの心情を考え、リナは少し苦笑した。
 もしかすると単に剣が好きなのかもしれない。
 しかし、もしかすると子爵への意地があるのかもしれない。
「はい、いいですよ」
 裸の背中をバチンと叩く。
「いてぇ!」
「んな格好でいつまでも座ってると、風邪引きますからね。寝るか、続きをやるかしないと」
「あー……もーちょっとやってから寝る」
「んじゃ、付き合いましょうか」
「リナが?」
 ガウリイは首をかしげる。
 うぬぼれではなく、確かな事実としてリナでは相手にならないと思っているのが分かった。ある程度の剣士になると、身のこなしだけで相手の実力が読めるものである。
「確かにお前さん素人じゃないみたいだが、やめといた方がいいぞ」
「誰も手合わせするなんて言ってません。剣持って立ってるだけです」
 リナはウインクした。
「前に人が立ってるだけでも、ずいぶん違うでしょ? 藁人形よりはマシよ?」
 ガウリイは破顔した。
「そういうことなら、ぜひ頼む」



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