逝く冬

 雪がしんしんと降っていた。
 今年最後の雪だろう、と宿の主人が言った。嬉しそうな顔をしていた。
 あと1月もせずに春が来る。
 村は冬篭りを解き、新たな年に備えて種蒔きの準備を始める。旅人たちは冬の間閉じ込めておいた旅装を取り出し、地図を片手に今年の行く先を話し合う。
 春が来れば、あたしは旅立つ。



 宿の階下で食事を済ませ、あたしはとなりの部屋の扉を叩いた。
 ガウリイは、もう春が来たかのように顔をほころばせてあたしを迎え入れてくれた。
 あたしは暇に明かせて仕入れた噂話を披露し、ガウリイは明るく笑いながらそれを聞いた。冬の間にどこぞの国で起こった内乱の話、新しく発見された魔道法則。春が来れば始まる、豊作を祈る祭りの数々。心躍るような広い世界の話。
「もうすぐまた旅に出られるなぁ」
 とガウリイは笑う。
「楽しみねぇ」
 とあたしはうなずく。
 冬が行き、春が来ようとしていた。
 そしてあたしはそろそろ旅支度を始めなければならなかった。
「ここを出発する時だけど」
 あたしは今までの話の続きのように、明るく話した。
「おう。どうする、リナ」
 ガウリイは同じように優しく相槌を打った。
「あたし、1人で行くわ」
 ――そして、とうとう言ってしまった。
 窓の外では、しんしんと雪が降っていた。
 月も見えない夜は暗かったけれど、村のそこかしこについたあたたかい家庭の明かりが白い雪を綺麗に照らし出していた。
 雪が降っていると、誰も外に出ない。だからだろうか、雪の夜はひどく静かに感じる。窓の桟に降り積もる雪の音さえ、聞こえそうな気がした。目の前にいる人の呼吸よりもはっきりと感じていたのは、雪の積もりゆく様だった。
 ガウリイはとても静かにあたしを見ていた。困ったような、微笑さえ浮かべて。
「決まり文句だけど、今まで楽しかったわ。元気でね」
 あたしも微笑みをやめない。
 そうでなければ、自分を見失ってしまっていたかもしれない。
「また、どこかで会えるといいわね」
 平気で笑えるようになった頃になら、と心の中で付け足す。
「いろいろと世話になったわ」
 ガウリイの唇が、ゆっくりと動いた。
「――もう、背中を任せられないか」
 あたしの言葉が、胸が、ぐっと詰まる。
「オレは、足手まといか?」
 あたしは首を横に振る。最初は小さく、それから強く。
「あんたは充分強いわ。怪我のハンデがあったとしても、あたしはもちろん、他のどんな奴だって、そうそう敵わないでしょうね」
「リナ、ごまかさなくていい」
「ごまかしてなんかいないわよ。あたしがつまらないお世辞を言うと思う?」
 ガウリイは苦笑して否定の仕草をした。
「……でも、あたしの巻き込まれるトラブルは半端じゃないから。自分で言うのもなんだけど、世界一のトラブルメーカーなんじゃないかしらね?」
「まったくだなぁ」
 ガウリイは笑う。
「生き残ってるのが不思議なくらいよ。悔しいけど、その意味じゃあたしほど困った相棒はいないわよね。よく付き合ってくれたもんだと思うわよ」
「オレは好きで付き合ってるんだ。それでお前が少しでも安全なら、いい」
 穏やかな声でガウリイは言った。
「オレはお前が思うよりずっと、幸せなんだ」
 聞いたこともないような真摯な言葉に、あたしの胸は震えた。
 イヤだとごねられたら、吹っ飛ばしてでも進む覚悟があった。怒鳴りあいの喧嘩になってもいいと思った。嫌われ、憎まれて別れることになっても、仕方ないと思った。
 けれどガウリイの言葉は、叫ぶより怒るより、ずっと強く『置いていくな』と言っていた。
 彼が泣くんじゃないかとすら思った。
「……でも、もうダメよ」
「確かに、今までほどの戦力にはならないと思う。でも、このくらいの怪我、克服してみせる」
 ガウリイが見つめた先には、彼の手があった。
 冬が始まった頃のことだった。
 ある町でたまたま遭遇した事件のさなか、魔族との戦闘で彼は左手の薬指と小指を失った。
 切り落とされた指の先が、無事で残っていたなら。あるいは、すぐに高位の魔法医に看せることができたら。それは回復していたのかもしれない。しかし、実際にはそうならなかった。移動するのにも困難がつきまとう、雪の日だった。
 たかが指、腕を失ったわけではない。しかも利き手ですらない。
 それがあたしだったなら、さほどの問題はなかっただろう。もともとそれほど剣を扱うわけではないし、剣にハンデがあったとしてもあたしには魔術がある。でも、ガウリイには体がすべてだ。
 彼の両手がどれほど繊細な動きをしているか、剣を振るうあたしには容易に想像がつく。
 剣の柄を支えるための指2本が、どれほど大事なものなのか。
 そして、その後彼の剣の稽古がどれほど苛立ちに満ちたものになっているのかも、知っている。
「あんたほどの才能があれば、いずれそれにも慣れるのかもしれないわね。でも、そのためにもあたしと来たらダメよ。慣れるより先に……死ぬわ」
 ガウリイの大きな体が、ゆっくりと前傾した。
 ベッドに腰かけた膝の上に肘を落として、乗せられた頭から金色の髪がさらさらとこぼれた。
「……これを言うのは卑怯かもしれないが、できれば怒らないでくれ」
「何?」
「結婚しないか」
 椅子の腰板を掴んでいたあたしの指が、震えた。
「……正直ね、それも考えたの」
 黄金に輝く髪の間から、青い瞳があたしを見上げる。
 あたしは相棒の視線を受け止める。
「でもあんた、あたしがおとなしく家に収まってるの、想像できる? あたしには想像できないわ。できなかった」
 ガウリイの青い瞳が、笑った。
「閉じ込めてはいられないだろうな」
「閉じ込められたり、できないわ」
 できない、と発音する時、胸にずしりと重いものがのしかかった。
 これはあたしの我侭なのだ、と思い知らされる重みだった。
「だから、行かせて」
「……すぐじゃ、ないだろう?」
 見つめ合った視線が、かすかに揺れる。あたしの動揺だったのか、ガウリイの動揺だったのか、それは分からなかった。
「……雪がやんで、街道の整備が済んだら」
 前髪の隙間から見えるガウリイの目が、心底ほっとしたように見えた。
「あと1月くらいはあるよな」
「そうね」
「そっか……」
 組んだ手の向こうに、再びガウリイの表情が隠れてしまう。
 大きな肩から金髪がこぼれ落ちて、もう2度と動かない彫像のように見えた。
 こうして部屋にいると、時間の流れは遅い。けど、流れなくなったわけではない。
 いつか雪はやみ、あたしはこの部屋から出て行くのだ。
「ねぇ、今さらだけど」
 あたしは別れゆく相棒に言った。
「あたし、あんたが好きだったわ」
 ひゅっという息の音を聞いた気がした。
 ガウリイが拳を握り、鋭く振り下ろした。ベッドが、めり、と嫌な音を立てた。
 あたしは少しだけ腰を浮かす。
 ガウリイは首を何度か横に振って、悪い、と呟いた。
 振り下ろした拳を、握ったり開いたりする。思うように動かない左手を。
 彼は、長い時間そうしていた。
 激昂せずに言葉を出せるまで、待っているように見えた。言葉を出そうとしてはやめるのが、空気で感じられた。
「……知ってたよ」
「え?」
「知ってた」
 痛いような微笑みを浮かべて、ガウリイは顔を上げた。
 ゆっくり立ち上がり、あたしのそばまで来て、両手で頬を包み込むようにそっと押さえた。
 長い間となりにいたのに、彼とこんな風にふれあうのは初めてのことだった。
 どうしてもっと早く、と思った。
「オレ、待ちすぎたな」
 穏やかな言葉の中に同じ後悔があった。
 あたしは目を閉じる。
 やわらかい唇が、雪のようにそっと落ちてくる。
 ずっと前から、いつかあたしたちはこうなると分かっていた。
 あたしはガウリイが好きだったし、それは改めて言う必要もないようなことだった。お互いにお互いしかいないことを知っていた。ガウリイが、いつからか穏やかさだけでない深い色であたしを見つめていることすら、あたしは知っていた。
 先に踏み込もうとしなかったのは、怖かったからじゃない。今の関係が心地よすぎたからだ。
 未来は永遠に続いていくような気がしていた。だから、いつでもいいと思っていた。
 なぜ、もっと早く抱きしめてもらわなかったのだろう。
 初めてくれた抱擁は、想像していたより何倍もあたたかった。
 過ぎ去った時間の中で、もっとたくさん抱きしめてもらえばよかった。
「今さらだが」
 椅子の上に片膝をついてあたしを抱きしめながら、ガウリイが言った。
 ささやくような低い声が、間近で耳をくすぐった。
「……愛してたよ。ずっと」
 たくましい胸に額を寄せ、発達した筋肉を爪先でなぞり、あたしは彼の欠けた指にふれる。
 堅くて大きな手に頬擦りをして、すっかり埋まってしまった傷を唇でなぞる。
「――知ってたわ」
 そして、あたしたちは必死に時間を忘れようとした。
 今年の春が、もっと遠くへ行ってしまえばいいと思った。




 やがて、時は過ぎる。
 季節が移り変わる中、あたしは1人であてもなく旅を続けた。
 春はうららかな日差しの中、芽生え始めた緑が萌える。
 夏は鮮やかに色づいた森を、汗ばみながら歩く。
 秋は揺れる稲穂と、収穫の祭り。
 冬はあたたかい暖炉のそばで、冬篭り。
 ガウリイと何度も過ごしたそんな日々を、あたしは1人で見た。
 子供と間違われるようなこともなくなり、我ながら綺麗になった。しかし、恋はできそうにない。
 町から町へ、噂や記憶を頼りのぶらり旅。
 大騒ぎも何度かあったが、幸い命はある。
 そして、ある日。
 ――ガウリイの噂を聞いた。
 凄腕の剣士がいるらしいと。
 彼は指をなくしているが、それをものともしないと。
 魔族さえ軽々屠る男だと。
 あたしは噂を頼りに歩き出した。




















 ……もう1度。




















 夢から覚めると、まだ冬は過ぎ去る気配もなく、あたしはガウリイの腕の中にいた。
 外では雪が降り続いていたが、彼の体温でひどくあたかかった。安物のシーツはごわごわしていて肌触りが悪い。けれど、人の肌は気持ちいい。こんなにあたたかい冬の朝は初めてだ。
 夢に見たような未来が、いつか来るのかもしれない。でもそれははるか遠くかすみの彼方にある未来で、彼と別れる未来は生々しいくらい近くにあった。
 あたしは、ふいにこぼれだした嗚咽を止めることができなかった。
 枕代わりにしていたガウリイの腕を抱いて、静かに泣き続けた。
 いつの間にか目覚めたガウリイが、そっと抱きしめてくれていた。それすら悲しくて、さみしくて辛くて愛しくて、あたしは泣いた。
 行くなと言い、きつく抱かれすがられでもしたら、あたしはうなずいていたかもしれない。むしろ、そうしてくれればいいのにとその時は願っていた。ほんの一瞬の、悪夢が見せた惑いだ。
 けれど、なかなか泣き止まないあたしを抱きながら、ガウリイは最後まで穏やかに微笑んでいた。
「お前の思うように、生きてくれ」
 髪をなでてくれた彼の手を、あたしは生涯忘れることはないだろう。



 瞬く間に1月は過ぎ、冬が逝こうとしていた。
 春が来れば、あたしは旅立つ。



END.

 ぎゃああああ!! 自分で書いてて痛ッ!!(のたうち回る)
 逃げリナ、でも追わないガウ、なのでした。
 もうほとんど自虐です。ええ。

 つか、てめそれでもリナファンかオイ、と思う方は以下を反転してください。
 実は、書いてる途中あまりの痛さに耐え切れなくなりまして、この後何とかハッピーエンドに持ち込むストーリーを考えたんです(笑)。

 リナさんはこの1月の蜜月でご妊娠あそばし、自力で産むことを決意するのです。腹ぼてでのたくら旅をしているとゼル坊に会いまして、事情を聞いてボディーガードと父親役を引き受けてくれます。そしてやがてマジで怪我を克服したガウリイさんは、リナさんと涙の再会、無事家庭を築いて元の鞘に納まるのでした。
 これが私的エンディング!(笑)
 そうでも思ってないととても書けませんでした…。これでもハッピーエンドが好きで。

 でもこのお話自体はありえることだと思ってますし、このままの方がいいと思うのでこのままです。
 私と同じように耐えられなかった方は、ハッピーエンドの方を真のエンディングだと思っていてください(笑)。

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