Injustice

 ――天国は、きっとすぐそばにある。





 そこは、広大な森の中だった。
 彼は、数多ある木々の中でひときわ高い梢に足を止めた。
 木は根元の方でこそ一抱えもある幹を誇っていたが、成長していく頭の先までそれを維持するのは無理なこと。まだ若い葉を茂らせた梢は、身軽な獣でも登っていくことができないほど細く、柔らかだった。もちろん、成年した男の体重を支えられるわけもない。
 彼は長身というほどの背ではなかったが、低いわけでもない。たくましいわけでもないが、痩せ細っているわけでもない。つまり、男性としてごく平均的な体型をしていたのである。当然、それに見合った体重があるものと思われた。
 しかし、その細い梢は彼を乗せてわずかもしなることがなかった。
 自らの体に課せられる重圧に抗議の声を上げることすらしない。
 そこにあって当然の重圧は、不可思議にも存在していなかったからである。
 ありえないことを成している男は、それをことさら気にかけるでもない。満面の笑みを浮かべ、梢の上から遠くを見やっている。芝居見物のために見やすい場所へ登った、というそれだけのことらしかった。
「おやおや……これは、少々出遅れてしまいましたかね」
 呟く言葉に、格別残念そうな響きはない。
 むしろ、楽しげですらある。
「もう、勝負がつきそうだ……」
 彼の視線は、森の中にぽかりと空いた閑地に向けられていた。
 その閑地の広さは大きめの礼拝堂程度だろうか。伐採されたという雰囲気ではない。何かの加減で自然に木が途切れたか、あるいは誰かが大掛かりな呪文でも使って燃やし尽くしてしまったのだろう。ただ、もし人為的なものであるとしても、それは昨日今日のことではない。地面を覆う雑草がそう示している。
 ということは、今その場で戦闘を繰り広げている面々は、元からあった閑地を都合よく使っているだけなのだろう。明日には、近所の住人がさらに広がった閑地を見て驚くかもしれない。
 戦闘は、実に派手なものだった。森を焼くことなど気にしている様子もない。気にする余裕などないに違いない。
 梢の上の見物人は、くすりと笑った。
 自分の倍の数を相手にしている女魔道士が、必死の体で呪文を唱えている。すでに満身創痍といっていい。細かな切り傷は数え切れず、攻撃をかわすために必要不可欠な足は片方がおびたただしい血にまみれている。辺りの地形に遠慮する余裕はないだろう。
 敵は、と彼は相手方を見やった。
 こちらも笑いながら戦うほど余裕とはいかないようだが、少なくとも彼女ほど追い詰められてはいない。彼女が今唱えている呪文を防ぐなりかわすなりして、次の呪文を用意している間に決定的な攻撃を加える。これでジ・エンドであろう。
 彼が見学をしていたのはほんの10数秒のことだった。
 もっと早くに来ていれば、もっとゆっくり楽しむことができた。彼はそれをわずかばかり残念に思いはしたが、1番の目的はまだ充分に果たせる。それで問題があるわけではなかった。
 一瞬の後、彼の姿は遠く離れて見えた閑地に、女魔道士の背後に現れていた。
「なにっ!?」
 相手の男たちが目をむく。いや、男と見えるがそれはかりそめの姿である。2匹の魔族が――彼の同胞たちが、その姿を視界に捉えて驚愕をあらわにしていた。
 何の前触れも必然性もなく現れたのだから、当然といえばそうであろう。
 彼がその場に降り立ったのと、女魔道士が呪文を解き放ったのが、ほとんど同時であった。
「竜破斬!!」
 赤い火線が宙を裂き、片方の男が空に姿を消す。
 驚きに自失していたのか、もう片方は見事にそれを食らって大爆発を起こした。辺りの森のほとんどが、爆発に巻き込まれて炭と化す。爆炎とそれに伴う大音響が一帯を覆いつくし、瞬間炎がすべてになる。
 それが収まった後には、広大であった森が半ば以上消え去っていた。そこにあるのは、くすぶる木炭と炎になめられて変色した大地、そして右肩を吹き飛ばされた男だけだ。女魔道士と、それを見ていた男の姿はすでにない。
 残された男は、苦痛のためか怒りのためか、低い唸りをもらした。
 熱風が大地を叩いた。



 彼が部屋に入ると、女はすでに起き上がっていた。
 彼女は、ノックもなしに扉を開けた招かれざる客を見て、眉を寄せながら皮肉げに口元を歪ませた。出会った少女の頃ならいざ知らず、今の彼女がそうするとひどく剣呑な空気が漂う。
「ゼロス……やっぱりあんただったの」
「おやおや、お気づきでしたか。さすがリナさん」
 先の戦闘からほんの1日しか経っていない。そのままならば意識もなく寝付いていておかしくない状態のはずである。しかし、魔法医の力によってかなり深かったはずの傷は全快しているようだった。ベッドにいるのも大事をとってのことであろう。
 ゼロスは後ろ手にドアを閉めた。リナの嫌そうな顔をしっかり目に留めながらも、彼女の普段の習慣どおり鍵をかけておく。彼が入ってきた時にも、鍵はきちんとかかっていたのだ。そんなもので彼をさえぎることはできない。たとえ彼女が何かで助けを求めたくなったところで、鍵がかかっていようがいまいが、ゼロスはより強固な密室である異空間に彼女を閉じ込めることができる。
 つまり、彼に鍵など何の意味もない。それが分かっているからこそ、リナも嫌な顔をしただけで止めなかったのだ。
 大体、その安宿には彼女自身より頼りになる人間などいないだろう。辺境の村の、小さな宿だ。文化さえ遅れていようかと思われるほど、内装は簡素で趣味もよくない。気を遣っていないということは、目の肥えた人間が来ないということである。発展からも交流からも取り残されたような小さな村だ。
「ここがどこなのか、聞いたわ」
「何か特色のある村なんですか?」
「そういう意味じゃないわよ。問題は、ここの村じゃなくてここの位置。ずいぶん遠くにつれてきてくれたみたいね?」
「さぁ……僕も場所柄までは考えなかったんですが。何しろ、リナさんは大変な怪我でしたし」
「嘘ね」
 リナはきっぱりと言った。
 ゼロスはナイトテーブルの椅子に腰掛けながら、笑顔で相づちを打つ。
「へえ?」
「少なくともいきなり生き死にに関わるような傷じゃなかったわ。まぁあんたがあたしの生き死にを気にするってのも妙な話だけど……とにかく、急ぐような理由があったとは思えない」
「なるほど」
「もし追っ手があったなら別だけど、相手の魔族はあんたの顔見ていきなしビビってたしね」
「うーん、いい観察力です。確かに、まだしばらく死にそうになかったですね。もう1発食らってたら危なかったでしょうけど」
「どこでもよかったのは本当かもしれないけどね。とにかく遠くなら、どこでも。あたしが戻ろうとしないように」
 上等なルビーのように曇りのない瞳が、ゼロスの視線を外して外へ向いた。
 何となく、彼もつられて窓の外を見る。そこは、もうひどく暗い。街灯などを灯す技術のある村ではないから、あるのは闇と月明かりだけだ。
 しばらく沈黙が落ちた。
 彼は笑みながら、彼女の言葉を待っていた。わざと別の話を始めたようだが、聞きたいことがあるのはよく分かっていた。当然聞かれるべきことを、彼女はまだ2つも口にせずに残している。
「ガウリイは――」
 痛みをこめた口調で彼女が呟いたのは、数分も経ってからだった。
「ガウリイは――どうなったの」
 直接は答えず、ゼロスは静かに聞き返した。
「それを疑問に思うなら、なぜ竜破斬なんて使ったんです? あれ、何かの方法で増幅してあったでしょう。森が消えてなくなることは分かっていたはずです。あの場にいるものがただで済まないことも」
「――助けられなかったの!?」
 リナはやるせなさを吐き出すように声を荒げる。
「あんたでも、助けられなかったの!?」
「僕があの場に着いた時には、もう間に合いませんでした。あなたはすでに詠唱に入っていたんですから、当然分かっていたんでしょう?」
「あそこに来て、すぐあたしの前に出てきたわけ?」
 いい質問だ、とゼロスは思った。
 彼女は感覚のどこかではっきり覚っている。彼がいかに冷酷かを。善意や情とは程遠い存在であることを。
 彼は、笑みが浮かぶのを止めることができなかった。その場で笑みを浮かべることが、どれほどあからさまに残酷さをさらけだすことになるか分かっていても。
「……わざと、死なせたのね」
「これは突然ですねぇ」
「あたしがどれほど苦しむか分かっていて、死なせたのね! わざと、あたし1人を助けたんでしょう。あたし1人が生き残って、どれだけ悲しむか、どれだけ悔やむか、あんたやあいつらをどれだけ憎むか、分かっていてやったんでしょう。あのままあたしも死んでしまえばゆっくり感じる暇もなかったはずの痛みを、……絶望を、あんたはわざと感じさせるためにあたしを助けたんだわ。違う?」
 その通りです、とどれほど言ってしまいたかったことだろう。
 彼はむしろ歓喜していた。
 彼女は、聞かずとも2つの疑問に答えを出していた。
 すなわち――彼女の旅の連れはどうなったのか。そして、彼はなぜ彼女を助けたのか。
 彼女のかすれた声からあふれる、心がきしむような悲しみ。
 それでも失われることのないこの洞察力。
 それらすべてが、彼の胸のうちを震わせるほどの歓喜だった。
 その気持ちは同情に近かった。しかし、似ていても明らかに異質なものだ。
 もしも彼女が愚昧な人間であったなら、彼の言葉を頭から信じたであろう。やれることはやってくれたのだと感謝すらしたかもしれない。彼がリナの命を救ったのは事実である。少々遅きに失したことを悲しみこそすれ、恨む道理はない。彼女の心は純粋な喪失感だけに満たされて、平和だったはずだ。
 しかし、そうであったならゼロスはわざわざ骨を折りはしなかった。
 彼女は気づくだろうと思った。だからこそ、助けたのである。
 わざと苦しませるために。そして、そんな理由で助けられたことを察して彼女が屈折した恨みに苛まれるように。
 よく気づいてくれた、と喜びに任せて抱きしめたいくらいだった。しかし、それをやってしまえば彼女ははっきりと彼を憎むだけだろう。曖昧だから、迷う。迷いが人の心を苦しめる。
 わざわざ明確に憎むべき対象を与えてやる必要はない。彼がとるべき道は、ただ微笑むことだけだった。
「……あのまま死んだ方が、よかったですか?」
 ルビーの瞳がゆっくり瞬いた。その瞳は、こうまで追い詰められても理性と闘志を宿して光り輝いている。たとえ半身と思った人間を喪っても。
「――いいえ」
 彼女は、ひどく低い声でそう言った。
(もちろん、あなたは生きることをあきらめない。それは、分かっていましたよ)
 彼は立ち上がった。
「でも、あなた1人で魔族に対抗するのは無理ですよね。せっかく助かったのに」
「楽しそうね」
「そう見えますか?」
「嬉しい? 思惑通りいって。もしかしてこのために魔族をけしかけたわけ?」
「そこまではしませんよ。たまたまこの襲撃を耳にして、リナさんを助けに行ってみたらああなってたわけです。あなたが助かったので、僕は満足ですよ」
「よく口が腐らないわね」
「嘘は言ってませんから」
「そう……そうね、あんたとしちゃあほんの思い付きだったことがこの上なく上手くいって、そりゃ楽しいことでしょうよ。あたしの気持ちは、この……怒りは、悲しみは、そんなに美味しい?」
 彼女の瞳が、炎のように燃えた気がした。
 それは、盛り上がって流れた涙が赤い色を揺らしたせいらしかった。
 彼はベッドの横に立ち、唇を噛み締めて声もなく泣く彼女をながめた。
 彼女との間にあった物理的な距離と共に、彼がかぶっていた仮面も消えた。
「ええ……最高ですよ」
 そして、彼は手を伸ばして彼女の濡れた頬にふれる。女は、年を経ても幼さの残る顔に怒りと拒否の色を映して彼を睨んだ。
 滂沱の涙に濡れ、憔悴と絶望の色を宿していてもなお、彼女の顔は生気に満ち溢れていた。虚無の安寧を望む彼には、その生気が痛いくらいだ。
 しかし彼は、負の感情を食らう魔族だった。
 痛いくらいがちょうどいい。
 彼女を堕とす快感を考えれば、今はそのくらい遠い存在でいい。
 栗色の髪を梳き、額に口接けをして、細い肢体を抱きしめる。彼女からの抵抗は、かすかな身じろぎひとつだけ。燃える炎の瞳が自分を睨みつけているのだろうと思えば、昏い愉悦を覚えさえする。だから、彼は強張っている彼女の体を感じながらことさら優しく微笑むのだ。
「ご安心ください。当分の間は、僕があなたを守ります」
「当分……ね」
「ええ、当分」
「あたしから食えるものがなくなるまで?」
「そういうわけではありません。今は、ただ、あなたを失うのが惜しいと思いますので」
 リナは嗤う。
 戦場に立つ時のように嗤う。
 おそらくは昨日の戦いで魔力を使い尽くし、体力を使い尽くし、ゼロスはおろか低級魔族にすら対抗できないような状態だろう。冷酷と分かっているゼロスの気まぐれにすがるしかないような、儚い命だ。
 だが、無力なはずの彼女は、背筋を伸ばし顔を上げてはっきりと口の端を上げた。
「嘘つき」
 嘘はついていませんよ、と彼は心の中で呟いた。



 はるか数百年の昔、彼は1人の人間を殺した。
 どんな髪の色をしていたかも、どんな年だったかも、覚えていない。
 ただ、その鮮やかな金色の瞳だけを覚えている。
 力のない女だった。彼女を殺すことは、彼にとって造作もないことだった。赤子の手をひねるよりさらに楽なことだ。
 彼は彼女から苦痛と絶望と恐怖を引き出すため、ゆっくりとゆっくりとその命を削った。
 しかし、今わの際まで、彼女はまっすぐに前を見据えていた。命乞いの言葉ひとつ口にしはしなかった。彼はそれにたまらない興奮を感じた。
 その命の灯火が消え、金色の瞳が閉ざされた時、しんとした沈黙の中で彼は思ったものだ。
 『殺すのではなかった』、と。


 抵抗などできようはずもない体をベッドに押し付けながら、彼は苛烈な瞳だけを見ていた。
 滅びを望む魔族に、生への欲求である性衝動などがあるはずもない。それは実のところ穏やかな仮面をかぶった単なる暴力であり、征服欲だった。だから、彼女の決然とした瞳だけを見ていた。
 彼女に拒否権はない。あるとすれば、この場をやり過ごして生き延びるか、あえて抵抗して死を選ぶかの二者択一だ。今彼と戦ってどうにかなるわけもないことは、彼女もよく承知しているだろう。そして、彼女は安易に死を選ぶことのできる人間ではないと、彼はよく承知している。
 賢く、雄々しく、矜持が高く、そしてある意味ひどく愚かで無力な人間だ。
「――なんでしたら」
 と、彼はにこやかに提案した。
「ガウリイさんの姿にでもなってみせましょうか? 姿も声も真似れば、少しは気が休まるかもしれませんよ?」
 彼女は悲鳴のような声でやめてと叫んだ。
「――そんなことをしたら、あたしはすぐに死んでやるわ。舌を噛み切ってもいいし、あんたも自分も巻き込んで竜破斬でも唱えてみせましょうか?」
「ふむ……それはあまりいただけませんね」
 その言葉に狂気にも似た決意の響きが含まれていたので、彼はそれ以上言わず、もちろん実行もしなかった。
「あなたを守るのだと、お約束したばかりですからね」


(狂ってしまっては面白くない)
 幸せでいてくれとは思わない。
 しかし、誰より美しく輝いていればよいとは思う。
 人間は生を望む生き物だから、前へ前へと進みたがる。友情だ愛だと群れて、互いに生き続けることを幸福に感じる。一時の感情や幸運に振り回されることを自ら望む。それが永遠でないことは分かりきっているだろうに。
 魔族は滅びを望む生き物だ。
 小さな喜びよりも、究極の安寧である無を望む。人間は人の一時の幸運を喜び、それを愛情と呼ぶが、魔族にとってそれは根本から理解できない感情である。いつか消え去ると分かっているものが、なぜ嬉しいのか。喪うならば手に入れない方がよかったと思うかもしれないのに。
 もしも魔族が何かを愛情と呼ぶことがあるなら、それは他人の永遠を願った時かもしれない。
 たとえば――永遠に消えない心の傷などを。


 彼は彼女に微笑みかける。
 その赤い瞳が、彼の脳裏にけして消えない強さで刻み込まれる。
 おそらく、同じくらいの強さで彼女の心にも彼への恨みと憎しみが刻み込まれていることだろう。
 消えてなくなる瞬間まで薄れないものがあるとしたなら、それは当人にとって終わりがないのと同じだ。
 無に帰らずとも、そこにはある種の永遠がある。
 ――そう、天国は、きっとすぐそばにある。


END.

 分かりにくかったでしょうか…(vv;)。

 私は、人のいいゼロスというのはどうにも抵抗がありまして、アニメ(TRY)の彼ですら「馴れ合ってるし……」とイマイチ受け入れられなかったくらいなんです。だから、ゼロリナ…けして嫌なわけではなかったんですが、どうやったらそう持っていけるのかなぁ、と一抹の納得しがたい気分がありました。あっ、でも甘い話も読むんですよ、私(^^;)。
 それが、ふと納得できる方法を見つけまして。この話は鬼畜ですが(笑)、これでリナも彼に気があって、ゼロスがこれほど無神経な行動をとってなかったらちゃんとゼロリナに…なると思うんですけどねぇ?(汗)
 今回はあくまでガウリナ前提と思って書いたので、こんなんなりましたが…。

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