月夜の晩、彼が 1

 ――混沌への回帰。
 それは終末であると同時に、解放でもある。
 そして、絶望と希望の狭間。

 世界に、混乱の風が吹き荒れていた。
 風はすさびながら噂を運ぶ。
 昨日はあちらで村が1つ荒野と化し、一昨日はこちらでデーモンがあふれた。先月は1つの国が革命の渦に消え、その前の月には別の国で王族が皆殺しになった。人心は乱れ、悪事が横行する。それがまたさらに大きな混乱を呼ぶ。
 そのどれもが独立した理由を持っていたが、あまりに頻発する状態は異常そのもの。
 その異常事態の原因を、魔族の動きに見るものもあった。
 リナもまた、その1人だった。
 『魔を滅せし者』の2つ名を戴き、魔族たちの策略に何度も巻き込まれてきた彼女だからこそ、分かることもある。厳しい目で世界を見つめながら旅を続けていた彼女たちは、見え隠れする魔族の策謀に、知らぬふりをできる人間ではない。それが命を縮める行為だと分かっていても、世界の惨状を目の当たりにし、また信頼し合って戦い抜いてきた戦友と目を合わせれば、見ぬふりをしようなどと言えるわけがない。
 その日、リナはセイルーンの国王を訪ねる旅の途上にあった。
 たまたま国王に面識がありつなぎが取れるということから、橋渡しのような仕事を頼まれたのだ。この異常事態下において、国と国との連携が取れないということになれば何よりの弱みになる。かと言って、正式な使者を立てれば仰々しくなり、混乱を喜ぶものたちに狙われやすくもなる。そこで、彼女のような一見何の関係ない人間が伝達を承ったのである。
 宿の階下で彼等流に軽く夕食を取り、部屋の前の廊下で手を上げて別れる。それは、リナとガウリイにとって何の変哲もない晩だった。
 しかし、おそらく歯車はその日から狂ったのだ。

 部屋は、小さな燭台と光量を抑えた明かりの呪文にぼんやり照らし出されていた。
 作り付けの小さな机の上に、明かりの光球が頼りなく浮かんでいる。光球が照らすのは真下にある本の文字と、それをながめる少女の視界。栗色の長い髪を持った少女は、夜中の読書に勤しんでいた。
 かすかに蒸し暑さを感じさせる空気に、リナ=インバースという名を持つ少女はその豊かな髪をかきあげた。背中に流し、それでもまだうっとおしそうに頭を一振りする。ちらりと窓を見るが、そこはすでに全開にされていて、これ以上空気を入れる余地はない。逆に窓を閉め切って弱冷気の魔法を使うという方法もあったが、そこまでの暑さというわけではない。
 彼女が椅子にもたれ、ふぅと息をついた時だった。
「――おやおや、これは奇遇ですね」
 1人きりのはずの部屋で響いた声に、リナは軽く肩を揺らした。
 鋭い動作で背後を振り返るが、相変わらず部屋の中に彼女以外の人間はいない。視線はそのまま窓に向かった。
 先ほどまで夜空だけをのぞかせていた窓には、生身の人間と思わしきモノの上半身があった。
「お邪魔してもいいですか?」
「ヤダ」
 リナはすっぱりと言い切る。
「……そんなぁ」
 わざとらしく唇を歪ませて泣き出しそうな表情を作ってみせたのは、20代のごく普通の青年に見えた。肩でそろえた漆黒の髪と黒の神官服が怪しげといえばそうだが、平凡な顔に浮かぶ表情はなかなか人好きのするものだ。
 ――普通の人間が見れば。
「冷たいんですから、リナさんったら」
 そう言った青年の姿は、すでに部屋の中央にあった。
 リナは顔をしかめて立ち上がる。あくまで青年から視線を外さず、椅子を机の中へ戻す。
 嗅ぎなれたものにははっきりと分かるほどに、血臭がしていた。それに気付き、なおかつ青年の正体を知っているリナにしてみれば、なごめという方が無理な相談だ。
「あんたねぇ……入ってくんなって言ってんのに乙女の部屋に侵入するんじゃないわよ」
「だって、窓開いてましたし」
「換気してただけよ。あんたを歓迎するためじゃないの」
 内心、やはり手間を惜しまず弱冷気の魔法をかけておくんだった、と舌打ちする。
 もちろん窓が閉まっていたら入ってこないというわけではないことは百も承知しているが、気分の問題というものがある。無用心な態度は相手をつけあがらせる。
「一体何の用?」
「通りがかっただけです♪」
「通りがかっただけでいきなし窓から入ってこないでくれる。心臓の弱いおじーちゃんやおばーちゃんだったらショック死するかもしれないわよ!」
「そんなぁ。こんな素敵な月夜に知り合いを見つけちゃったら、ロマンチックに訪ねてみたくなるじゃないですか」
「どんなロマンだ」
 相手が一般人なら、そんな理由で読書の邪魔をした咎をもって即刻吹っ飛ばしているところである。
 しかし、リナはその場から微動だにしなかった。彼の真意が分からない限り、下手な行動には出られない。以前、相手の正体を見抜けずに攻撃を仕掛けてあっさり返り討ちにあった高位魔族がいた。二の轍を踏むほど愚かではない。
 窓から吹き込んだ風が、机の上で置き去りにされている本のページをめくった。となりに用意されているしおりも挟まれていないままだった。
「まぁいいわ。知りたいこともあったし」
「へぇ?」
「最近、世の中が騒がしくてね。あんたなら何かいい情報を持ってるんじゃない? ――獣神官、ゼロス」
「僕が教えると思いますか?」
 ゼロスの笑みに嘲りが混じった。
「いいえ」
 リナは肩をすくめる。
「ただ、聞いてみたかったのよ。有益な情報をありがと」
「有益な情報……?」
「あんたの態度。聞かれて当然って顔だったわ。何か知ってるのは確からしい、ってことよ。それで充分だわ」
「うーん。まぁ、どうせ気付いてらしたんでしょう?」
「もちろん。――大体、ゼロス。あんた血の臭いがするわ」
 ゼロスはにこやかな顔のまま、器用に片眉を上げた。
「これは失礼」
 彼の言葉と共に、確かにただよっていたはずの血臭が急速に薄れる。まるで臭いに形があり、それを箱の中に片付けてしまったような気軽さだった。よほど意識を凝らさない限りそれと分からないほどまで、空気は濁りをなくした。
「それで? お仕事帰りのあんたは、家に帰りもせずにどうしてこんなところで寄り道してるわけ?」
「言ったじゃないですか。帰ろうとしたら、たまたま開きっぱなしの窓からリナさんの姿が見えたからですよ」
 窓を閉めておくべきだった、とリナは先ほどより真面目に思った。
「じゃああいさつもして気が済んだでしょ?」
「いえいえ――それではあまりに無愛想というものでしょう」
「あ、そ」
 リナは目を向けずに部屋の隅の荷物を思った。その中には大事な書状が入っている。魔族の望むところが混乱ならば、始末するに越したことはないものだ。もしもゼロスがリナの請け負った仕事を知っていたとしたら、偶然彼女を見かけた今それを奪おうとするに違いない。
 もしも、知らなければ――いや、それでもリナが邪魔であることに変わりはあるまい。リナは、ただ1人高位魔族に対抗できる人間と言える。ゼロスが一体何の理由で訪ねてきたのかが分かるまでは、油断できない。
「つれないですねぇ。僕とリナさんの仲じゃないですか。疲れて帰ってきた僕に、お茶くらい出してくれると思ったんですが……」
「毒入りでいいなら出してあげるわよ」
 ふ、とゼロスは笑って首をかしげた。
「まさに、それが欲しいんです」
「……毒が?」
 ゼロスはうそ寒くなるようなにこやかさで、言う。
「ええ、あなたの毒が」
 リナは心の中で納得の息を吐いた。
「なるほどね……」
(疲れたんで、食事をしに来たってわけだ――)
 魔族は負の感情を糧として生きる。
 人間のような姿をしているが、ゼロスは人間ではない。体もかりそめのもので、人間のする食事などは何の意味も持たない。人間と見分けがつかないのは、彼がそれだけの擬態を維持できる高位の魔族だということだ。彼ら魔族は本来精神世界にその身を置くもので、食べるものも精神世界のものである。中でも怒りや憎しみ、恐怖といった負の感情が彼らの食料となった。
 つまり、彼はリナの心の毒――負の感情を食べようというのである。
 そこらの人間を殺しまくってその恐怖を食おうとするよりはマシか、とリナは口に出さずに呟いた。たいていの魔族はそうやって食事をするものだ。ゼロスが無益な殺生を好まないというわけではないだろう。おそらく彼はたまたま別の趣向を楽しもうと思いついただけなのだ。あるいは、低級の魔族と同じ方法で食事をしても面白くないと思っているのか。どちらにしろまともな理由ではない。
「さて、何を始めるのかしら? あたしと戦ってみる?」
「命令でもないのにそんな疲れることはしたくありません」
「とことん面倒くさがりね、あんた……」
「リナさんだって、レストランで物を取るためにわざわざジョギングなんてしたくないでしょう?」
「そりゃそうね」
 自分との命のやりとりをジョギングにたとえられても、突っ込むわけにはいかなかった。間違って『それならそれ以上かどうか試してみましょうか』などということになっては困る。
「えーと、どうしましょうか。リナさんの大事な財産を燃やしてみるとか、リナさんの前でこの町の人を1人ずつ殺していってみるとか、いやいや、リナさんをカタート山脈のど真ん中に連れて行って置き去りにしてみるとか、いやいやここは……」
(シャレにならない)
 リナはぎり、と奥歯を噛みしめる。
 荷物を燃やされるくらいならまだしも、その他の案を実行されそうになった時には、負けそうだなどとは言っていられない。命を賭して抵抗してみる他はないだろう。
「そうだ! 今日はリナさんを襲ってみようかと思います」
 ハートマークを飛ばしそうな口調で、ゼロスは言い切った。
「……それって、どういう意味で?」
「やだなぁ、女性が1番嫌がることっていったら決まってるじゃないですか」
「ああそう……そういうこと」
 労力を使わずに負の感情を食う、という目的から考えれば効率的な方法かもしれない、とどこか冷静にリナは思った。
 リナはゼロスが魔族だと知っている。しかも、自分では敵わない圧倒的な力を持った魔族だと。もちろん抵抗されれば彼も力をふるわないわけにはいかないだろうが、命と貞操を秤にかければどちらを選ぶかは自ずと決まる。
「どうしますか?」
 まだ部屋の中央に立ったままのゼロスが微笑む。
 リナはとうとう1歩退き、進路をさえぎる机に手を着いた。血の気が薄くなっているのがはっきりと分かった。殺されるよりいいとは言っても、ああそうですかと受け入れられることではない。
 殺伐とした世界に生き、貞操の危機など数え切れないほど乗り越えてきたが、その緊張に慣れることはない。今まで運と機転でかわしてこれたとしても、今度こそは駄目かもしれないのだ。
「ずいぶん安易なことを考えたみたいだけど……あんた、あたしが病気もってたらどーする気よ?」
「魔族ですから、関係ありません」
 考えてみればその通りである。魔族の体は作り物、病気が感染るはずもない。
 前にガウリイが使った手だったのだが、相手が悪かった。リナは急いで別の方法を考えた。
「じゃ、言うけど」
 そこで大きく息を吸った。
「あたしはこーいう生き方をしてるから、悪いけど慣れっこよ! 今さらそんなことで負の感情なんか出さないわ!」
「……いやなんか充分嫌がってらっしゃったよーな」
「もしもあたしが喜んじゃって、生の賛歌を叫びだしたらどーすんの」
「あの……じゃあ乱暴にしちゃっていいんですか?」
「……うっ」
 一瞬仮面のようなにこやかさを崩して苦笑したゼロスは、次の瞬間にはリナの顎に手をかけていた。顔を背けることのできない強さだった。リナは深呼吸をしてそれをにらみつける。
「――そんな必要はなさそうですけれど」
 口からでまかせの言葉は、すべて見抜かれていた。策略を捨て、机の上の短剣にそっと手を伸ばしながら最後の抵抗のチャンスをうかがう。
 せめて魔血石があれば、と思うが、ないものを嘆いても仕方ない。
 唯一の勝機は神滅斬だが、一対一の状態であれを唱え、当てるのは至難の業である。望みはガウリイが駆けつけ、詠唱の時間を稼いでくれることだけだ。
「あ、ガウリイさんですけどね、深い眠りに落ちていただきましたよ」
 リナの思考を読んだようにゼロスが言った。
 ならば、騒ぎを起こすことに何の意味もない。ゼロスに力を振るわせ、自分もガウリイも危険にさらすだけだ。机に這わせた手は体の脇に戻した。さりげなくそちらへ目をやっていたゼロスが、口元に大きな笑みを刻んだ。
 せめてもの抵抗にリナは強く歯を食いしばった。

 

 それは、強姦するというにはずいぶんと穏やかな情事だった。
 もちろん、相手の意思を無視している以上強姦には違いない。リナの胸には、怒りと無力感と憎しみが去来する。道具として利用されることを冷静に受け入れられる人間がいるだろうか。
 ただ、ふと客観的になってみれば暴力もふるわれていないし、格別性急でもない。
 人が人を強姦する時、そこにあるのは相手を物として扱う心理だ。恋慕の果てに無理やり想いを遂げるなどということは、現実にあまり存在しない。たとえば性欲を満たすため、たとえば暴力の一環として、ただひたすら乱暴なだけのものがあるものだ。
 彼が違うのは、と心のどこか冷め切った部分でリナは思う。
 おそらくこれが相手の心の動きを楽しむためにやっていることだからだろう。衝動からの暴力ではなく、ごく普通の精神状態から思いついた小さな嫌がらせだ。余裕があり、冷静さがある。魔族なのだから、無理に情を遂げる必要にも迫られていないだろう。軽くからかって相手の表情が変わるのを楽しむのと同じ次元のことなのだと考えれば、そこにはもしかするとある種の親愛すらあるかもしれない。
 リナは黙っていた。暴れて嫌がったところで喜ばれるだけだ。今までしてきた怪我に比べればさほど痛くもないし大したことではない、と自分に言い聞かせれば、それなりに落ち着きを持つこともできた。
 体を這う手や舌を意識すれば、ざらついた質感に比例して嫌悪がこみあげてくる。しかし、ベッドのそばにある窓から月でもながめていれば、神経に薄い膜がかかる。身体の中に異物を飲み込まされた時にはさすがに呻き声が漏れたが、それも唇を噛んでほとんど外には出さずに済んだ。
「あの……僕としては、泣き叫んだりとかしてほしかったんですけど……」
 腕1本分くらいの距離から、ゼロスが困ったような声で言う。
「それは残念ね」
 押し殺した声でリナは笑った。窓の外を見たままに。
「実は、あんまり嫌じゃありません?」
「痛い。重い」
「はぁ……」
 疲れたようにため息をついたゼロスが、ふいにのどの奥で笑う。
 何がおかしいのかと問いただすより早く、彼はリナの肩口に顔を埋めた。その動きに伴って体奥に引きつれるような痛みが走り、リナは顔をしかめる。
「――なんか、面倒になってきちゃいました」
「……って、あんたねぇ!」
 ここまでしておいて『あんまり意味ありませんでした』では犠牲になった人間の立場というものがない。もちろん『大変美味しくいただきました』と言われても腹が立つことには変わりはないが。
「なんで僕たちは生命維持のためにこんなことをしなくちゃいけないんでしょうねぇ……」
「知るか」
「リナさんは、時々面倒になったりしません?」
「しない。どうでもいいけど重いわよ」
「たとえば……」
 ゼロスは顔を上げ、勝手に話し始める。いつもの中身のない愛想と、時折見せるひやりと冷たい声音を合わせたような、不思議な口調だった。
「そうですね、砂漠か何かを歩いている時、手元に食べ物がなくなったとします。生きるためには食べなくちゃいけない。でも辺りに食べられるものは見当たらない。でもどうしても食べなくてはいけませんから、一生懸命食べ物を探して、さそりでもサボテンでもとにかく見つけて口に入れるしかありません。まずいとか疲れるとかは言ってられません。そして、明日も明後日も10日後も、そこを歩いている限り食べなくてはいけません。そんな時」
 リナは、窓からゼロスへと視線を移した。剥がれ落ちそこねてこびりついたような、かすかな微笑だけが薄明かりに浮かんでいた。
「……どうして生きるのはこれほど面倒なのかって。どうしてそこまでして生きなきゃいけないんだろうって、思いませんか」
 リナは静かに瞬く。
「……死ぬために生きてるあんたたち魔族の考えなんか、分からないわ」
「死ぬために、じゃありません。世界と一緒に滅びるために、です」
「同じよ」
「違いますよ。こんなこと何も必要のない混沌へ、還るんです。何もかもが。矛盾と苦しみをはらんだこの世界全部が。素敵なことでしょうね」
 糸のように細いゼロスの目が、残っていた笑みも消してリナを見下ろした。
 紫色の闇が、そこにわだかまっていた。
「――滅びたいですねぇ……」
 闇の深遠を覗き込んだようだ、とリナは思っていた。
 この世の闇。戦乱が産む闇。人を憎む闇。生き続けることを嫌悪する闇。心の奥底に抱える闇。
 魔族はそれを食って生きているのだから、当然のような気もした。人が普段忘れようとして生きている闇を、彼らは抱え続けて生きている。滅びを望みながら。
 リナも、長い旅の中多くの闇を見てきた。闇に呑まれて前に進む努力を放棄した人間たちを。それを悔しく思い、なぜと思った。
 しかし、もしも極限状態に陥ったら自分は最後まで虚無の誘惑に耐えられるだろうか。混沌に還れば解放されると知っていながら、何の得もないのに苦しいばかりの生を、選び続けられるだろうか。
 彼ら魔族は、そんな闇の中で常に生きている。
 覗いていはいけない深い穴を見てしまったかもしれない、と思った。
「……もう、やめましょうか」
「どっちでもいいわよ」
 リナは思わずそう答えていた。
 ゼロスはおかしそうに笑う。
「おやおや。お望みなら続けますけど?」
「お望みならって……あんた、あたしを喜ばせてもしょうがないでしょーが」
「たまにはそういうのも面白そうじゃないですか」
 たぶん、彼は後になって後悔するだろう自分の気持ちを食うつもりなのだ、とリナは思う。
 そう思いながら、何と答えようか吟味して彼の虚ろな笑顔を見た。
 窓の外から、月がほのかな光を投げ込んでいた。

  闇の底に沈んだような夜が明け、何の変哲もない朝が訪れた。
 しかし、おそらく歯車はすでに狂っていたのだ。

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