月夜の晩、彼が 2

 ゼロスが訪ねてきた次の朝、リナが真っ先にしたことは荷物を確かめることだった。
 もちろん、辺りにゼロスの気配がないのを承知していてのことである。さらには精神世界辺りから監視されていることも危惧して、ブラシを取り出すような振りまでしてみせた。だが、杞憂だったようだ。
 荷物にはピッキング用の七つ道具が入っている。コンパクトに丸められたその布は合わせになっており、小さく折りたたんだ書状が隠してあった。なくなってもいないし、無理に開けてすりかえられたりした形跡もない。
 ほっと安堵の息がもれた。前夜の屈辱に悔し紛れの抵抗もしてみなかったのは、半分この書状を守るためでもある。残りの半分は、となりの部屋にいるガウリイにとばっちりが行ってはたまらないと思ったからだ。その心配もなさそうで、薄い壁の向こうでは起き出した人間の気配がする。
 取り出したブラシを持って、リナは鏡台の前に座った。
 何の気なしに鏡を見て、思わず手を止めた。
 鏡に映った女は、考えていたよりずっと暗い目をしていた。まだあの闇を覗き込んでいるような目だ。
 見知らぬ女を見ているような気がして、目が離せなくなった。顔色も悪く、ひどく荒んだ印象を受ける。ぼろぼろになりながら、闇を見つめている。そんな女だった。
 リナは小さく肩を震わせた。
 鏡の中の女に――というよりその暗い目に、紫色の瞳を持つ男が重なったような気がしたのだ。一晩中間近で見続けていた目は、作り物めいた笑顔は、まぶたの裏にこびりついている。目を閉じても逃げられないその幻に、震える肩を抱いた。
 固く目を閉じ、数を数えながら深呼吸をした。

 

 食堂に行くと、すでにガウリイは卓についていた。
 リナが椅子に手をかけると、皿に埋めんばかりにしてチキンを頬張っていた顔を上げて、手を上げた。リナも笑って手を上げると、そのまま厨房に声をかける。
「おじちゃーん、あたしに軽くモーニングセット2人前ね! ちょっと、ガウリイそれ何食べてるの?」
「んあ? チキンライス。美味いぞ」
「おじちゃん、チキンライスも!」
 席に着くなり、リナはガウリイの皿に手を伸ばし、手づかみでチキンを取った。
「ああっ! オレのチキン!」
「ふっふっふ、油断したわね! 注文が来るまで待ってるとでも思ったの?」
「これ以上渡してなるものかっ」
「そうはさせないわ!」
 いつも通りの食事の奪い合いである。ガウリイにしろリナにしろ、どこに肉がついているのかと思うような体型だが、とにかく食べ物には目がない。
「んんん〜このチキンこんがりと焼けて香ばしい! タレの辛味も絶妙ね!」
「いやまったく、さっぱり香味ライスとの兼ね合いがまたいい!」
「それ美味しそう!」
「あっ、こら自分のが来るまで待てよな!」
「ああっ、人のものだと思うとまた格別に美味しい!」
「なんだと〜? 注文が来た時が最後だと思えよ、リナ!」
「奪えるもんなら奪ってみなさいよ!」
 空いた皿を盾に、フォークを剣にした丁々発止が続く。
 リナの料理が来てからは、当然さらに激化した。
「ふ〜〜っ。食べたぁ〜お腹いっぱいっ」
「く……苦しい。ムキになってしまった……」
 リナより先に食べ始めていたガウリイは、ほとんど目を白黒させている。対するリナは余裕の表情だが、これはガウリイが少食なのではない。2人の前には、宴会でもあったのかと思うような皿が積み上げられている。
「さてと、お腹も満足したところで話したいことがあるわ」
「……なんだよ……」
 ガウリイは気持ち悪そうに腹をさすっている。
「昨日、ゼロスに会ったわ」
「……ゼロス?」
 きょとんとしたような青い瞳が、リナを見る。
「まさか覚えてないなんて言わないわよね?」
「いや……覚えてる。えらい魔族のゼロスだろ?」
「そ。あいつの立場まで覚えてるところがガウリイにしては偉いっ」
「よく分からんが……あいつに会ったって、それけっこう大事じゃないか?」
「本人によれば、たまたま通りがかっただけらしいけどね」
 リナは軽く肩をすくめた。もちろん、それで何があったかなど言うつもりはない。言えば、保護者を自称するガウリイに責任を感じさせることは分かりきっていた。
「つまりね」
 辺りをはばかって声をひそめると、心得ているガウリイが耳を寄せてくる。もちろん、心得ていると言ってもはばかる理由を心得ているのではない。リナの行動にどう対応するかを学習しているだけだ。
「この一連の……と言っても今まで関連性があるかどうかは分からなかったわけだけど、このところの騒ぎはやっぱり魔族が絡んでるらしいってことよ」
「そうなのか」
「そうなの。あの使いっ走り魔族が、面倒くさがりなのを押して自分で出てきてるってことは、つまりあいつに命令できるのが動いてるってこと。今動けて、ゼロスに命令なんてできるのは……直接の上司である獣王ゼラス=メタリオム、海王ダルフィン、それから赤眼の魔王シャブラニグドゥ……それだけよ」
「……やっぱり大事じゃないか」
 魔王と腹心の名前くらいは覚えていたか、とリナは内心感心する。彼女たちは何度も腹心クラスの事件と関わっている。魔王のかけらと2度戦い、獣王海王をのぞく腹心3人とも戦った。どれも、実力だけでは勝てないような相手だった。さすがに物忘れの激しいガウリイでも、それらの戦いは忘れられない記憶だということなのだろう。
「それだけの大物が動いてるとなると、この混乱も納得がいくわ。そして、昨日ゼロスが出ていたということ――昨夜、どこかで大きな事件があったはずよ」
「つまり……となるとやっぱり」
「当然! 事態の手がかりを探しに寄り道よ!」
 燃え上がって力説するリナと裏腹に、ガウリイは困ったように頭をかいた。
「うーん……」
「何よ?」
「いや……一応オレたちは仕事の途中だろ? どこぞの商人の護衛とかならともかく、これってほっぽったらまずいんじゃないか?」
「う……ま、まぁそうだけど」
「セイルーンに行ってから戻ってきても充分間に合うだろう? 魔道士組合に報告して、大勢で調べてもらったっていいし……」
「……何よ。やけに嫌がるわね。まともな理屈言ってまで」
「お前こそ、妙なくらい燃えてるぞ。アメリアじゃあるまいし」
 リナは少し唇を歪めた。
 アメリアは正義が口癖の、自他共に認める熱血少女だ。魔族を人類の敵と言い、その野望を打ち砕くためならば命をもかえりみず戦った。彼女の行動には裏も表もない。とにかく正義でないものはことごとく許せず、看過することも手加減することもできない。
 それに比べれば、リナは状況を考慮して動けるタイプである。魔族のやることが人類のためにならないとは思っているが、無闇に走っていって潰そうと思うほど正義感にあふれているわけではない。
 今の自分がアメリアに似ているとしたら、とリナは内心呟く。
 それは、魔族を人類の敵と思っているからではない。魔族は自分の敵だと思うから、だろう。魔族独自の論理でもって屈辱をなめさせられたことを、許していいはずがない。ゼロスが何かの企みを持っているとすれば、それを潰してやるのが筋というものだ。
「……とにかく。あたしは昨日あったはずの事件を探すわ。あんまり時間がかかるようなら、サイラーグに行く。何ならガウリイ1人で先に行っても構わないわよ」
 ガウリイは苦笑して首を横に振った。
「オレはお前さんの保護者だぜ。魔族が出てくるなら、なおさら離れるわけにいかないだろ。お前さん、絶対巻き込まれるに決まってるんだから」
「人を疫病神みたいに……」
 言いながらも、リナは苦い笑いを浮かべた。
「ありがと、ガウリイ」
 彼が守っていてくれる限り、自分は自分らしくいられるような気がした。
 利害を抜きにしてここまでしてくれる相手を、それも最高の相棒である彼を、少しでも裏切るような真似ができるわけはない。彼はリナを無条件で信頼している。リナもまた彼を信頼している。
 それは支えであり――自分を戒める枷でもある。

 

 被害にあった街を探すのは、難しいことではなかった。
 辺りの村々はすでに大騒ぎになっていた。現場は、リナたちがいた場所から半日ほど戻ったところにあるわりあい大きな街だ。街の人々が急に乱心を起こして殺し合い、一夜にして数十人の人々が死んだという。予兆も関連性も一切なく、加害者に共通性もない。街は恐怖に沈んでいた。
 外郭から街の中へ入った時、リナたちはすぐに異常を見て取ることができた。
 市が立っていない。家々は鎧戸をぴっちりと閉め、外からの目すら拒むように静まり返っている。急ぎ足で道を行く人々にも、笑顔の代わりに怯えばかりが張り付いている。そこは、まるで街全体で死んだ振りをしているようだった。
 街の入り口で立ち尽くしているリナたちに、通りがかった若い男が声をかけてきた。
「あんたたち、この街の人かい?」
「――いいえ、違うわ」
「なら他へ行った方がいい。この街にはまだ殺人鬼がいるかもしれない」
 もういない、とリナは知っていた。複雑な表情を浮かべないようにするためには、胸に重いものがのしかかってくるのに耐えなければならなかった。
 彼に疑われ、犯人一味とでも思われたら大変なことになる。情報収集にもならない。
 親切な男から話を引き出すため、なんとか、いかにも驚いたという顔を作った。
「何かあったの?」
「俺にもよく分からないよ。ただ、朝になったら街中に死体が転がってた。そういうことらしい」
「殺人事件?」
「そんな生易しいもんじゃない。街のどこの路地に入っても死体があるような状態だったんだ。街中の人間が、いっぺんに狂っちまったみたいだ……とうとうこの街でも変なことが起こり始めたんだ」
「街中の人間が、って、じゃあ全員が狂ってお互いを殺し合ったってこと?」
「完全に全員とは言い切れないが……」
 リナは腕を組んだ。
「犯人は本当に、その……この街の人だったの? たとえば、魔族が何人も入り込んで暴れまわった、なんてことは……」
「……この街の奴だ。間違いない。魔族が犯人、なんてことだったら、よかったんだけどな」
「そう――どうもありがとう。用事を済ませたら、できるだけ早くここを出るわ」
 男は、リナの言葉を聞くと会釈すらせず足早にその場を去っていった。もしかすると彼も知り合いか親戚を失ったのかもしれない、そう思いながらリナは背中を見送った。
「ええと……つまりどういうことだ?」
 ガウリイが首をかしげる。
「つまり、ゼロスは派手すぎないようにやったってことよ」
「派手すぎないように?」
「魔族にしかできないような、大騒ぎや大爆発を起こさずに、ね。今の人だって、不思議に思いながら人間がやったことじゃないかって考えてたでしょ」
「そうなのか?」
「ええ……人間が、疑心暗鬼と恐怖に陥るように……もしかしたら、これをきっかけに次の殺人が起こるように……」
 数十人。
 その数の重さにきつく目を閉じる。
 ――数百人の人間が、昨日知らぬうちに家族を失った。
 疲れたと言い、面倒だと言ったゼロスを思い出した。彼は昨夜、食事をしている最中にも面倒だとリナを抱く手を止めた。この街を混乱に陥れる仕事も、それは面倒だったに違いない。ただそちらは仕事だったから、命じられたことはこなした。それだけの、本当にそれだけのことなのだ。
 今日、問答無用で絶望の底に落とされた数百人の人々がいる。
 その元凶を知っている自分がいる。
 その男の闇に、わずかの同情を抱いた自分がいる。
 ぽかりと深い紫の闇を思い出す。
 彼は、昨夜、どんな顔で殺し合う人々を見ていたのか。
「……お前は悪くないぞ、リナ」
 立ち尽くすリナの頭を、相棒の大きな手が包んだ。
「何も悪くないからな」
「――……分かってる」
 リナがゼロスと会った時には、もうすべてが終わっていた。リナにこの悲劇を止めることはできなかった。それに関して、確かに責任は何もない。
 だが、その殺人鬼に軽口を叩き、本意でないとはいえ食事を与えてやったのは自分だ。
 そう思うと体の奥の方がねじれるような気がした。
 急激に襲ってきた罪悪感に、眩暈がした。
「あたし……昨夜、ゼロスを殺すべきだった」
「リナ」
「たとえ無理でも。そうしようとするべきだった!」
「それであいつに殺されて、被害者を増やすのか? オレにも葬式を出せって言うのか?」
 リナは唇を噛んだ。
「お前は何にも悪くないんだ。オレの大事な奴を死なせずに済ませてくれた、それで充分だ」
「こんなに人が死んだのに、あたしだけ……」
「生き残るのは、罪じゃない。リナ、犬死にしようなんて考えないでくれ」
 それに答えることは、できなかった。
 ガウリイの言うことは正しい。勝てる見込みのない戦いを仕掛けてリナが死んだとして、喜ぶ人間は誰もいない。よくやったと言う人間もいないだろう。ただ、悲しむ人を1人増やすだけだ。生き残るために行動した自分を、褒めなければならないくらいだ。
 生まれ、人と出会い、生きてきたからには生き続けなければならない。
 それは権利であると同時に義務だ。
 自己満足のために死ぬことは、許されない。
 黙りこんだリナの頭を、ガウリイの手がかきまわした。
「覚えておいてくれ。オレは、お前がどんなことをしても生きていてくれる方がいい。どんなことがあっても、オレはお前の味方だ」
「――ええ、分かってるつもりよ」
「それならいいんだ」
 見上げたガウリイの顔は、どこまでも優しく微笑んでいる。
 言葉どおりすべてを受容してくれようとする彼を見つめ、死に閉ざされる街を見やり、リナはきびすを返した。
 生き続ける、義務がある。
『どうしてそこまでして生きなきゃいけないんだろうって、思いませんか』
 彼の言葉と、まぶたの裏に隠された紫色の闇を思う。
 根本的に存在の仕方が違う、人間と魔族。しかし、同じ混沌から生まれ同じ混沌に還っていく存在であることには違いない。存在しているというその一点に於いて、2つの種族に違いはない。
 存在しているからには、存在し続けるために払わねばならないものがある。
 抱え続けなければならない闇がある。
 生き続けなければいけないという、闇。
「……行きましょう、セイルーンに」
「ああ」
「ごめんね」
 リナはガウリイを見上げ、小さく笑った。
「何が?」
「この件にも、あたしとことん関わらなきゃ気が済まなくなっちゃった」
「いいさ。それでこそお前さんだ」
「今度こそ、無事ではいられないかもしれないけど」
「そうだな。そうなっちまったら仕方ない」
「……止めないのね?」
 相棒は、毅い瞳で笑って、リナの背中を叩いた。
「存分にやってくれ」

 生き続けなければならない。
 そして、戦い続けなければならない。
 そのためには闇を、憎まなくてはならない。

(そうでなくてはならない)

 魔族の闇に同調してしまったなどと、ゼロスを心から憎めないなどと、そんなことがあってはいけない。自分の瞳にも闇が宿っているのに気付いてしまったなどと。
 怒らなくてはいけない。
 憎まなくてはいけない。
 理解してはいけない。
 ――闇に、魅せられてはいけない。

 リナの元に再びゼロスが訪れたのは、1ヶ月以上経ってからのことだった。
 彼は前と同じくリナの部屋にふらりと現れ、いつも通りの張り付いたような笑顔で言った。
「今日は、あなたを――」

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