月夜の晩、彼が 3

 その日も、いたって普通の日だった。
 計画通りに移動し、夕暮れ時にたどり着いた村で宿を取った。2人で宿の全メニューを制覇し、翌朝の集合時間を決めて部屋の前で別れた。どんな些細な変化もなく、どんな予感も予兆もなかった。
 後は翌日のために体を休めるばかりと思って部屋でのんびりしていたリナのもとに、闇をぬって変化が訪れた。
「やぁ、また会いましたねリナさん」
 とそれは笑い、リナは体を震わせた。
 あの月夜の晩を再現したような邂逅だった。
「こんばんは……ゼロス。またお散歩? 優雅なもんね」
「いえいえ、今日はお仕事ですよ」
「あらそ」
「魔族っていう職業には夜も昼もなくて……絶対労働基準法に違反してますよね」
「んなもん、きちんと実行されてる国の方がめずらしいでしょーが。労働者ってのはこき使われるもんなのよ」
「命令されれば逆らえず、上司のためなら命も投げ打つ、悲しい職業ですよ。ちょっとは同情してくださいよ」
「その分、美味しい汁も吸ってるんでしょ。同情の余地なし」
 ゼロスは笑顔のままでうなずいた。
「それは、確かにそうですね。今回の命令も、楽しくないと言えば嘘になりますし」
「で?」
 今しもベッドに入ろうとしていたリナは、パジャマのままで目の前の魔族をにらみつけた。
「で、とは?」
「あたしに用なんでしょ? 今度は何しようっていうの?」
「そんなに警戒しないでください。襲ったりしませんよ」
「あらそう。それは結構ね。で?」
「今日は、あなたを殺しに来ました」
 部屋の中に、ふれれば切れそうな緊張の糸が張った。
 ゼロスは相変わらずにこにこと笑っている。正面からそれを見つめ、リナは高まっていく心臓の鼓動を抑えようとした。動揺してしまえばゼロスの思う壺だ。万に一つの勝機もなくなる。
 リナは、ゼロスよりも高位の魔族と戦って生き残ったことが何度かある。魔竜王ガーヴ、冥王フィブリゾ、覇王グラウシェラー、そして赤眼の魔王シャブラニグドゥ……。だが、どの時も1人ではなかったし、運や敵の事情に助けられた部分が大きい。まともに戦えばけして勝てる相手ではない。さらに、ゼロスはリナの力も戦法も手持ちの技も、知り尽くしているといっていい程よく知っている。人間風情と思っての油断もしてくれないだろう。不利なんてものではない。
 急速に乾いた唇をなめて、リナはゼロスを見つめた。
「それは、今ここでってこと? こんな格好にこんな場所じゃ、あたし実力が出せないわ。それを分かってて夜中に襲撃してきたんなら、あんたあたしを殺す程度のためにずいぶん策略をめぐらしたもんね。さすがの獣神官もこのリナ=インバースは怖いと見えるわ」
「ふむ……」
 ゼロスは困ったように顎へ手をあてた。
「あなたは魔族にずいぶんくわしいんですね。仕方ありません、どうぞ装備を整えてください。大掛かりな呪文が使えるように、場所も移動します」
「あら、悪いわね。気を遣わせちゃって」
「いえいえ――あなたの叡智に敬意を示して」
 リナは不適に笑みを浮かべると、先ほど脱いだばかりの服に手をかけた。パジャマのボタンを外そうとして、にこにことそれをながめているゼロスに気付く。
 パジャマにもしっかり装備していたスリッパで盛大にツッコミをいれた。
「何見てんのよっっ!! このエロ魔族っ!!」
「え……いやだってガウリイさん呼ばれちゃ困りますし……今さらじゃないですかぁ」
「ぬわぁにが『今さら』だっ! 乙女はいつでも恥じらいってもんを忘れないのよ! あっち向けぇぇっ!!」
「どうせ脱ぐんでしたら、殺してしまう前にせっかくですから、というのも」
「ほほぅ? あんたさてはこの前のであたしに惚れたね?」
「はいっ!?」
「だってそうでしょ? 人間の価値基準でいくと、2回以上しようってのは相手が好きってことなのよ」
「え? あの、そうなんですか?」
「そーいうことしたところで気持ちよくもなんともないはずのあんたたち魔族が、ことさら怯えてるわけでもない相手襲って何の得があるっていうのよ? 惚れてる以外にないでしょーが」
「いえあの……」
「あーそぉ。魔族が、人間の女ごときにそんなに執着したりするんだ。人間の女ごときを何度も襲いたいと思うの。しかもお着替えをのぞきたいとか思うんだ。もしやそれで体力を削っておきたいとでも思うわけ? 人間の女ごときの」
 ゼロスはうなだれた。
「すみません……何もしません……」
 すごすごと後ろを向くゼロスの背中に、リナは舌を出した。
 さしたる目的がない場合、魔族はこの攻撃に弱い。
 魔族はほとんど精神体である。その強さは精神的なものにかなり左右され、自分の存在をおとしめられることには耐えられない。人間相手に姑息な手を使うというのは、彼らのプライドを激しく傷つけ、存在の弱体化を招きかねない。リナの言葉に『その通りです』とでも答えようものなら、彼らは自分が人間と同じ程度のものだと認めることになってしまうのである。それは、精神体である彼らにとって致命的だ。
 もちろん、相手にはっきりした目的がある場合あっさり『そんなつもりはありません』などとかわされて終わる程度の攻撃だが、こういう場合には有効な手だ。
 手早く着替えて、ショルダーガードを持ち上げた辺りだ。ふいにゼロスが呟いた。
「――本当はですね、構わないんですよ別に」
「ゼロス?」
 彼は許可を求めることなく振り向き、いつもの服を着たリナに普段どおり得体の知れない笑顔を見せた。
「僕は、あなたを普通の人間とは違うと思ってます。ですから、構わないんです。対等とまではいかなくても、人間ごときと同じ扱いをしなくても」
「あたしは、人間よ。それはあんたがどう思おうと変わらないわ」
「普通の人間は魔王様と2度も戦って無事だったりはしませんよ」
 おかしそうに言うゼロスに、リナは首をかしげた。
「そう思うなら、それはあんたが人間を過小評価してるのよ。人間でも、やり方しだいによってはあんたたちに対抗することができる。それだけのことよ」
「そんなことができるのは、あなただけだと思いますがね」
「そうかしら? それなら、人間の中にはそういうのもいるって言ってもいいわ。あたしは人間よ。間違いなく」
「だとしてもあなたが特別であることには違いないと思いますけどね。ねえ――リナさん。僕たちの側に入りませんか? 特別な人間として」
 1歩の距離まで近づいてきたゼロスを、リナは見上げる。
「それは、あんたの独断?」
「そうとも言います」
「あたしを殺したくないってわけ?」
「いえ、どちらかというと殺したいです。この手で」
 ゼロスは笑顔で言った。
「ですが、それが今でも明日でも1年後でも構いません。あなたを殺すのはさぞ愉しいでしょうが、一瞬で終わってしまうことですからね。もう少し楽しんでからでもいいというものです。獣王様のご命令は『我らの邪魔をするリナ=インバースを殺せ』ということですから、邪魔にさえならなければ殺す理由はなくなります。どうです? 悪い話ではないと思いますが」
「これは、ずいぶん評価してもらえたものね。魔族の口から生かしたいとまで言われるとは」
 にこり、とゼロスは微笑む。その笑顔には親愛さえあった。
 リナは自分の背にした壁を見やる。その向こうには彼女の相棒がいる。おそらくはゼロスの手で眠らされるなり何なりしているだろうが、まだ殺されてはいないだろう。先ほどゼロスはガウリイを呼ばれたら困ると言った。
 彼は、リナがゼロスに殺されたと知ったらどう思うだろう。あの自称保護者は、たぶんリナを守りきれなかった自分を責め、当分立ち直ることもできないだろう。もしかすると自責の念に耐えられず精神のバランスを崩してしまうかもしれない。彼がそのくらいに強い気持ちでリナを愛していることを、リナは知っている。まるで本物の親が子供を思うように、人生を賭けて愛してくれている。『どんなことをしても生きていてくれる方がいい』とまで言った。
 たとえ魔族に与しても、自分が生きている事実の方が彼にとっては大事かもしれない、リナはそう思う。
「もちろん、ガウリイさんも一緒で構いませんよ?」
 リナの視線を追ったゼロスがそう付け加えた。
「――すごい譲歩ね」
「いやぁ、自分の楽しみのためにはこのくらいの努力は惜しみません」
「……あのクラゲが聞いたら、何て答えるのかしらね。あたしたちが生き残れるなら、魔族側に行ってもいいって……?」
 リナはガウリイにそう持ちかけてみることを考えて、くすりと笑った。
「そんなわけないわね」
「そうですか? 部外者の僕が言うのもなんですけど、ガウリイさんはあなたを生かすためなら何でもするんじゃないですか? どんなモラルを犯しても、世界を裏切っても。あなただって、そうです。ガウリイさんを救うために世界を見捨てたことを、忘れたわけではないでしょう?」
「ええ、そうね。あたしに今さらモラルを語る資格はないわ。そして、生まれたものは、生き続けなければならない義務があると思う。あんたの生き方だって、それが魔族なんだから仕方ないのかもしれない」
「僕らの場合は、滅びを目指し続けなければならない義務、ですが」
 ゼロスの口調が心なしか穏やかになる。リナが取引に応じると思ったのかもしれない。
 しかしリナは顔を上げ、はっきりと答えた。
「ありがたい申し出だけど、あたしはあんたたちの味方はできないわ」
 笑顔は崩さないまま、ゼロスの眉が上がる。
「……どうしてです?」
「生き続けなければならないからよ」
「ですから、そのために」
「そのために、あたしはあたしの心を殺すわけにいかない」
 ゼロスの見ている前で、リナは戦いのための準備を再開する。ショルダーガードをつけ、バンダナを巻く。
「あんたたちは『人間ごときを恐れるのか』って言われて『はい』と答えたら存在が危うくなるわね。それは、精神体であるあんたたちにとって自分を貶めることが直接存在に関わるから。たとえば『生き続けたい』なんて口にしたら、魔族としての意義を否定して、力も左右するんじゃない?」
「隠しても意味はないと思いますから答えますが、その通りですね」
「人間だって同じよ。精神世界にも存在を持ってる以上ね」
「人間の精神世界における端末は小さいものです。嘘をついても、死にたいと口にしても、それで存在がどうこうなったりはしないでしょう」
「体が生きていれば、それで生きていると言えるのかしら?」
 リナは髪をかきあげて、装着したマントの上に流した。
「そりゃ、今口先で『あたしあなたたちの仲間になりますぅ』なんて答えておいて後で反撃、っていう手は使えるわよ。いい子でいるために死んでもいいと思うほど、あたしは善人じゃない」
「ええ、僕はあなたのそういうところが気に入っているんです」
「魔族に気に入られてもどーかと思うけど。でもね、あたし善人じゃないけど悪人は大嫌いなの」
「僕らは悪人ですか」
「少なくとも人間にとってはね。言ったでしょ? あたしは、あくまで人間なのよ。あんたたちに味方するってのは、人間やめるってことだわ。体が人間でも、心はもう人間じゃない。あんたたちと一緒になって、たとえ一時しのぎのためだって人を殺してしまったら、もう取り返しがつかなくなる」
「今までにも人を殺しているのに?」
「敵を殺すことと、何の罪もない人間を殺すことは、全然違うわ。それをするのは、悪人って言うの。あたしは悪人が大嫌い。それが、あたしよ。あたしは生き続ける義務がある。あたしとしてね」
 ガウリイは、もしかしたらそれでもリナに生きていてほしいと言うかもしれない。だが、もしそう言われたらリナは答える。
 そんなのは自分じゃない。悪人に成り下がった時点で、リナ=インバースという人間は死んだ、と。
「残念です」
 ゼロスは言った。
「そうね、あたしもとても残念。あたしはもしかしたら――」
 リナは言いかけた言葉を飲み込んで、首を振る。
「行きましょ、もう言いたいことはないでしょ?」
「よければ、遺言をお聞きしておきますよ。あなたが死んだ時のために」
「これでもあたし、勝つつもりなもんでね」
 言い切るリナに、ふっとゼロスが笑った。
 その紫の瞳の闇が、すいと心に忍び込む。心の中の闇と同調する。
(今度こそは、死ぬかもしれない)
 恐怖という、あきらめという、闇。
 その闇からリナは目をそらし、低い声で言った。
「――もしあたしが死んだら、死体はガウリイに渡して。探すといけないから。それで、伝えて。――『最期まで戦った』と」
 ゼロスは首をかしげ、うなずいた。

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