は――っ。 リナは深いため息をついた。 目の前には、ところ狭しとご馳走が並んでいる。 いかにも高級そうな肉を使ったローストビーフ。新鮮な魚のカルパッチョ。香味珍味をたっぷりと盛り込んだサラダ。こんがり焼けたガーリックトースト、フォアグラのステーキ、サーモンのマリネ、エトセトラエトセトラ。 普段なら、歓声を上げてむしゃぶりついているところである。 しかし、彼女の手にある皿には、まだ山盛りのスモークチキンが乗ったままだ。不味そうだ、というわけではない。周囲が食べるのを許してくれないのである。 こんな拷問があるだろうか。食べたいものが眼前に並べられ、お腹も余裕だというのに、お上品にグラスでも傾けているしかない。 食べたい! 目の前の男を無視してでも、食べたい! リナは内心絶叫していた。 それが目にでも表れているのだろうか、となりに立ったアメリアが先ほどから同情的な目でちらちらと彼女を見ている。そのアメリアを立てるために、リナはこうして珍しい我慢などをしているのである。 「リナ、こちらうちの大臣でハピニョンクロウスクル家のナンカ・エラ・ソウ・ハピニョンクロウスクルよ。ハピニョンクロウスクル、彼女はリナ=インバース、私の友人です」 「ど、どおも……お初にお目にかかります……」 「お噂はかねがね。殿下のご友人にこうして拝謁を許され、光栄にございます」 ハピニョンクロウスクル(と、リナには聞こえたが何しろうんざりしていたので多少聞き間違えたかもしれない)は白髪混じりの頭を丁寧に下げた。 名前の非常識な長さはさておき、それ以外けして悪い人物には見えない。温厚そうな老人だし、流れの魔道士でいい噂のないリナにも、含みなく丁寧に接して いる。破壊の申し子と呼ばれることもあるリナとて、『名前が気に入らない』というくらいの理由で不機嫌になったりはしない。 気に入らないのは、彼のようなセイルーンの重臣たちが次々とひっきりなしに現れることである。 リナは今、アメリアの誕生日パーティーに招かれてセイルーン王宮を訪れていた。たまたまセイルーンに立ち寄り、懐かしさにつられてアメリアに連絡を取っ たところ、これに招待されたのだ。王宮つきシェフの料理食べ放題という言葉に一も二もなく飛びついたが、それは誤算だったらしい。王女たるアメリアに招待 されるということは、賓客扱いなのだ。 当然ながら、ドレスアップをさせられた。 レースがふんだんに使われたクラシックスタイルの衣装は、アメリアの見立てらしい。コルセットでぎゅうぎゅうに締め付けられ、ただでさえ細いリナの体は人形のように質感をなくした。そして、羽とビーズで固めた髪飾りと、白い仮面。 王女の趣味により、パーティーは仮面舞踏会の様相を呈していた。 ガウリイはとっくにどこかへ行ってしまった。最初のうちはリナの近くにいたのだが、彼女から離れた方が料理の確保にいいと気付いたらしく、いつの間にか 移動していたのである。目立つ男だから探して探せないことはないのだろうけれども、リナも同じ理由からわざわざそばに行って料理の奪い合いをしようとはし なかった。 そして、アメリアに捕まったのである。 「殿下に同年代のご友人があらせられることは、本当に喜ばしいことです。王宮にいてくだされば、と思いはいたしますが、それではこのようなご友人を作られることはなかったでしょうから」 ハピ後略氏はにこにこと物分りのいいことを言う。 リナはこういう相手が嫌いではない。いつもなら、もう少し愛想良くしてもいい場面である。 しかし、彼の人格がどうあれ何よりも好きな食事を邪魔されていることには変わりなかった。 「そーですね……セイルーンにはいー迷惑かもしれませんが」 「リナ」 アメリアが肘でつついてくるが、食事に目がくらんだリナには蚊に刺されたほどにも感じない。 挨拶の間だけ外している仮面をもてあそびながら、料理の並んだ卓にじっとりと視線を送った。 「外遊を好まれるのは、フィリオネル陛下ゆずりでいらっしゃいますから。ただ、アメリア殿下は今日でもう19、ご結婚の方についてはそろそろ真剣に取り合っていただければと……」 「ハピニョンクロウスクル」 アメリアは、王女の気品とでも呼べそうな静かな声音で言った。 「わたしも分かっているわ。今日はわたしの誕生日、その話題はお休みにして」 「はっ。失礼いたしました。これも王家への忠義ゆえとお見逃しください」 控えめに礼をして、ハピ氏はその場を辞していく。 リナは友人の表情をうかがおうとした。しかし、アメリアはハピ氏が去ると共に持っていた仮面をつけてしまった。本来なら誰が誰なのか分からないようにす るのが仮面舞踏会だが、主役のアメリアとしては礼儀を通さねばならない相手がいるらしく、そういう相手には素顔で接していたのである。 どうやら、もう挨拶をする相手はいないらしい。リナもまた、仮面をつけた。 そして、素顔の時間は終わった。 会場には、人があふれかえっていた。 中央のスペースでダンスを楽しむ人々。その輪に加わらず、料理を取りながら会話に興じる人々。 誰も彼もが仮面をつけて仰々しく着飾っており、下手をすると年齢や性別すら分からない。異次元空間に迷い込んだようだ、と思いながらリナはチキンをパクつく。 リナとアメリアは、特に目立たない壁際へと避難していた。本来中央で人に囲まれているべきアメリアだが、仮面をつけているからこそそんなことが許される。 そのためだったのかなぁ、とリナはぼんやり推測した。 「しかし……はむっ……あんたも大変ねぇ」 「何が?」 「結婚。はぐ……しないわけにいかないんでしょ?」 こくり、と彼女はうなずく。 「ダメでしょーね。これもセイルーンのため、父さんのためですっ」 「大変ね」 もう1度言って、次はキャビアの乗ったクラッカーを一口で食べる。 「リナだって、そろそろ適齢期でしょ?」 「は? あたしはいーのよ、結婚なんかしないから」 「そうなの?」 「あんた、あたしがかわいい奥さんやってるの想像できる?」 「そりゃ、リナだって一応女の子なんだから、かっこいいダンナさんと結婚して、毎日料理作って、子供を育てて……なんかリナの子育てって危なそうだけど。ううん、獅子は愛情のために子供を谷に落とすのよ! それも愛! きっとできるわ!」 「そーかなぁ……あたしはそーは思わないけど……」 さらにバターで煮込んだポテトを丸飲み。 顔の半分を覆う仮面の下で、アメリアの唇が苦笑した。 「……まぁ、わたしも変な気がするけど、ね」 「でしょ?」 「リナは飛び回ってるのが似合うわ。盗賊をふっ飛ばしたりしながら、諸国漫遊! そうしてるうちにもしかしたら『この人っ』って人と会うかもしれないしね」 「そーね」 リナは肩をすくめ、仮面をつけて見知らぬ人間を装う客たちを見る。 「……けっこう、そういう物語みたいな出会いってあるもんよ」 「……そーね」 アメリアの呟きに、リナはうなずいた。 しばらくの間、どちらも口を開かなかった。ひそやかなざわめきと、楽団の奏でる音楽が流れる。王宮のパーティーとあって、たとえ仮面をつけていても羽目を外して騒ぐような輩はいない。仮面舞踏会といえば、正体を隠していつもの自分を捨てるのが楽しみのはずだが。 かなりの沈黙の後、アメリアがため息をついた。 「わたし、今だけはこの国の王女じゃないわよね」 「仮面つけてるんだから、誰が誰だか分からないでしょ」 それが、仮面舞踏会のお約束だ。 「わたしね、昔旅をしていたことがあるの」 アメリアは、まるで初対面の人に対するように話し始めた。 「その時しばらくの間同行した人のことがね、わたし好きだったのよ」 リナは彼女を見たが、それが誰のことかと問い詰めるのはこらえた。彼女は、他人の話として処理してほしがっているのだ。 「でもわたしのうちって、ちょっといろいろ難しくてね。いつまでも彼について回るわけにはいかないの。彼にうちに来てくれなんてとても言えないし。大事な 目的があって旅をしてる人だから……わがままでちょっとだけふらついてたわたしとは違うから。だから、あきらめるしかないって分かってるの。もう会わない ほうがいいのかもしれない、とも。他の人と結婚することになるなら、変な噂がたってもマズいしね」 「……そーね」 「物語みたいに何もかもうまくいったらいいけど、わたしは想像でもどーやって彼とうまくいけばいいのか分からない。父さんや、国民……じゃなくていやえぇ と他のいろんな人たちを裏切れないし、彼に来てもらうこともできないし。そもそも両想いですらないんだけど……。物語みたいだったのは、彼と出会って恋を するところまで、前半だけだったみたい」 リナは黙ってうなずいた。 仮面の下から見えるアメリアの表情は、微笑んでいるように見える。しかし、もう笑うしか残されていないほどいろいろ考えてしまった末なのだろう。 「だからね、ちょっとこのパーティーに期待してるのよ!」 「期待?」 「実はね、かなり大々的におふれが出てるの。セイルーン王女の知り合いはぜひ出席してくれって。この通りの仮面舞踏会でしょ? 来てくれるかどうかは分か らない。おふれを見てくれるかどうかも。でももしかしたら……もし来てくれてたら。誰と誰が会ってても分からないと思わない? 物語の続きを、やってみて もいいと思わない?」 「ええ、そうね。確かにね」 にこりと笑い、アメリアは壁に背をもたせかけた。 彼女は知らない間にずいぶんと大人の女になっていた。いつもの天真爛漫な笑顔が隠されているからこそ、今の彼女が誰と何をしていても、それがアメリアだとは気付かないかもしれない。 「あなたは、いいの? この機会に知らない人間のふりして何かやっちゃえば?」 リナは苦笑した。 「もしかしてガウリイのこと言ってるわけ?」 「まぁ、そうね」 「彼は保護者だって言ってるじゃない。大体、あのクラゲが好きなんだったら結婚してもいいわよ、あたし。だって結婚したって旅に付き合ってくれそうだもの」 「あ、そっか。結婚しないんだって、言ってたっけ……。あれ?」 アメリアは驚いたように背を浮かす。 「じゃあ、もしかしてリナも好きな人がいるの? 結婚できない相手が……」 「あら、リナって誰?」 リナは笑ってみせた。 「その人に好きな人がいるのかどーか、あたしは知らないわ」 「……そっか」 「そーよ」 また沈黙があった後で、リナは付け足した。 「その人のことは知らないけど、あたしには好きな人がいてね。あたしの物語も前半で終わっちゃった。終わらせなきゃいけないんだけどね」 「そっか」 「ええ」 アメリアは踊る人々の輪を見つめた。しばし考えるような間があった後、彼女は足を一歩踏み出した。 「とりあえず、あきらめず倦まずたゆまず、わたしは探してくるわっ。あなたも……いいパーティーになるといいわね」 「ありがとう。お互いの幸運を」 「物語が続くことを」 それだけ言い残して、アメリアは歩き去っていった。 リナは深呼吸をし、彼女との会話で胸に積もった何かを吐き出そうとする。アメリアの言葉は、やたらに苦しいものを思い出させてくれてしまった。 とにかく食べるか、と空の皿を持って食卓に足を進めた。 壁の華と化しつつ、そのたおやかな外見に似合わず料理を食い散らかすリナの元には、なぜか男たちがやたら寄ってきた。 もしかしたらパートナーにふられてやけ食いをしているようにでも見えたのかもしれない。 普段自称している通りリナの見た目は悪くない。悪くないどころか、かなりの美少女である。ここ数年である種の色気も加わり、ドレスアップした姿はかなり男をそそるものがあった。 人知を超えたスピードで料理をたいらげているのを割り引いても、まだ魅力的である。 もちろん、リナはすべての誘いを断る。 ある意味やけ食いをしているというのは間違いでなかったし、そうでなくても食事を中断してまで踊りたいおしゃべりしたいと思うような男はいなかったのである。 だんだん誘いの声が間遠になり、すっかり途絶えていた頃。 新たな挑戦者が彼女の前に立った。 これといって特徴のない体型、他の男と変わりない着飾った服装。肩までの黒髪に縁取られた顔は、顔全体を覆うスタイルの仮面によって、造りも表情もまったくうかがえなかった。 リナは目の前に立った男をちらりと見ると、手羽のトマト煮込みに再び没頭する。相手の容姿が気に入らなかったとかではない。はっきり言って、長身に長い金髪を持った男か、銀髪で肌を全部隠した男のどちらかでもない限り、相手の人となりを確かめてみる気もなかったのだ。 「やぁ、こんばんは。お嬢さん、僕と踊りませんか?」 その声に、リナはほとんど動かしっぱなしだった手をやっと止めた。 おそるおそる、ナンパ男の方を見る。 「あんた……」 「もう充分お食べになったでしょう? そろそろダンスもいいと思いませんか?」 「何してんのよ、こんなとこで」 聞いたリナの声には、驚きと警戒とそれ以外のものが程よく混ざっていた。 黒髪の男はかすかに首をかしげる。笑ったのかもしれない。そして指を口とおぼしき場所の前に立てる。 「それは秘密です」 これには脱力するしかなかった。 「仮面舞踏会で相手の素性を探るのは、ルール違反ですよ、お嬢さん」 「……そーかもね」 「今日は謎の紳士ということで」 「あんたが出て来てるなんてろくなことじゃないって気はするけど……追求しないのが仮面舞踏会のマナーよね」 「どうでしょう、僕も仮面にまぎれていつもとは違う行動を取ってるかもしれません」 リナは小さく笑い、半分ほど中身の残った皿を手近なテーブルに置いた。 そして空いた手を目の前の男に差し出す。 「いーわ、踊りましょ。食べるのも飽きてきたところよ」 男はその手を取り、白い手袋をした甲にうやうやしく口付けをした。 男のリードを受け、リナは中央のダンススペースへ向かう。軽く組み手をして、辺りの男女に混じり、ごく普通のカップルのように踊った。仮面とドレスのせいで、誰もかれも特徴なく同じ人間に見える。外で会ったなら異彩を放つはずのリナたちも、すっかり紳士淑女にまぎれた。 静かなワルツ。軽いステップ。 しかし、手袋ごしでも分かるほど冷たい手。 どこらへんが謎なんだか、とリナは仮面の下で苦笑した。 辺りにとっては謎かもしれない。ただこの冷たさは隠しようがない。布を隔てているとはいえ体をふれあわせている自分だけは分かってしまう。 「僕がダンスをするのはおかしいですか?」 「そういう意味じゃないわ。ま、おかしいけど」 「あなたも踊れるんですねぇ」 「……郷里の姉ちゃんにとにかく何でも仕込まれた」 踊りながら、リナはふと見覚えのあるドレスを見た気がした。 リナと同じように踊っている仮面の人物のドレスだ。先ほどしばらくとなりにいた人間のドレスに似ていた。もしかしたら見間違いかもしれない。 でももしかすると、同一人物かもしれない。 少しだけ笑って、ダンスパートナーの胸に額をつけた。 まぁいい、今日はお互い詮索するのをよすべきだ、と思った。 顔全部を隠す仮面の男は、わずかに力を入れて彼女の体を引き寄せた。 彼がどうしてそんなことをするのかも、今日は詮索しない。 そして彼女はパーティーを抜け出す。 今の彼女はパーティーの大事な人物ではなく、仮面をつけた一人の女に過ぎない。 人の輪を抜け、喧騒を後にし、静まり返った部屋に入って扉を閉める。 扉の内で再びダンスの時のように寄り添い、彼女は男の仮面に手をかける。 仮面をつけた一人の男は、それを外さないでほしいと言った。 彼女はうなずき、仮面の唇に自分の唇を押し当てた。 仮面に隠された、もう一つの舞踏会。 その後のことは、男と女の秘密。 セイルーンの王宮を出る時、ガウリイは連れの女が持っている仮面に目をとめて首をかしげた。 何やら嬉しそうに振り回している。顔全部を覆うタイプの仮面だ。 おぼろげな記憶によると彼女は唇が出る造りの仮面をしていたように思う。珍しく口紅をつけているのを見て驚いた覚えがあるから、たぶんそうだと思う。 「何だ、それ?」 「仮面よ♪」 言わずもがなのことをリナはうきうきと言った。 「お前さんがつけてたやつじゃないみたいだが……」 「おおっ、すごい! ガウリイがんなことちゃんと覚えてるとはっ!」 「お前さんがまるで女みたいに見えたからな! 覚えてるぞ!」 リナはいつものスリッパで彼の脳天を張り飛ばした。 「あたしは女だっての!」 「うーん……」 ど派手によろめいてみせたものダメージはなく、ガウリイは腕を組んで考えてみた。 「そーいえばお前さん誰かと踊ってたなぁ……」 「気のせいよ。あたしはあんたと同じで食べまくってたわよ」 「そうだったかぁ?」 確かに途中まではそうだったが、ふと見た時には誰かと踊っていたような気がする。 仮面をつけてはいたが、リナの身長と体型はいくら彼でもはっきり覚えている。間違えようはない気がした。 「んふふ、じゃぁ、珍しく頭使ってるガウリイへのご褒美で教えてあげよう」 「おう」 「ガラスの靴を置いていったお姫様をさがす物語、知ってる?」 「んー……ああ」 「あれよ、あれ。これはあたしの物語の小道具なの。これがぴったり会う人が見つかるまで、あたしは結婚しないわ、ってね」 「なんだそりゃ?」 ますます分からないことを言うリナにガウリイは首をひねりまくったが、それ以上何も聞くことはできなかった。笑って答えようとしないのである。 何にしろ、リナの機嫌がいいのはいいことだ。多少なりとも暴力が減る。 普段から詮索ごとに向いていないガウリイは、彼女の機嫌のよさに満足して追求をやめた。 END. |