動き始めた空 5

 時間をかけながらも自力で部屋まで帰ってきたリナは、ベッドに倒れこんで大きな息をついた。
 となりにはガウリイがついてきていたが、ひたすら黙って見守っていただけである。部屋を間違えそうになった時には一言注意を促したが、それだけだ。だが、それで帰ってくることができた。
 物の配置は、案外頭が覚えている。どこに階段があったか、扉と扉の距離はどのくらいだったか。階段を上がった先にある飾り棚のことも、リナはしっかり覚えていた。
 しかし、視覚で覚えている距離が、足の感覚だけでは測れない。注意しながら歩けば歩幅が小さくなるし、逆に広く見えたのが物が少ないゆえの目の錯覚だったりもする。
「戦闘になったら、とにかく離れるなよ」
 ガウリイの言葉に、リナはベッドへつっぷしたままうなずいた。
「そーね……無茶はできないな、こりゃ」
「問題は、敵さんが見逃してくれるかってことだが……」
「できるだけ気付かれないようにはするけど……限界があるでしょーね」
「だろーな」
 もし、ゼロスと『魔王の僕』たちにつながりがあるなら、この情報はもちろん筒抜けだ。だが、たとえ仲が悪くても面白半分に情報を流す可能性があるのがゼロスである。
 狙い撃ちにあうことは覚悟しなければならないだろう、とリナは思っていた。
「なぁ……ここはゼルたちに任せないか」
「それで?」
 リナは言って、体を起こす。
「治るかどうも分からない体で、どうするの? あんたか家族にでも手伝ってもらいながら、一生つつましく過ごす? 元凶のゼロスがうっかり死んじゃうのを期待して?」
「そのうち、ゼロスもおじいちゃんになって死ぬだろうし……」
「魔族がおじいちゃんになるかぁぁぁっ!」
 リナは懐から取り出したスリッパをあてずっぽうに投げる。
「おおっ! そういえば、ゼロスはリナより長生きだったな!」
「長生きとかそーゆー問題ぢゃないんだけど……まぁ……そういうこと……」
 ため息をついて、リナはベッドの上に座りなおす。
「アメリアも言ってたけど、今回の件にあたしは関わりがないわ。でも、ゼロスは確実にこの件に関わってる。あたしは、もう1度ゼロスに会って、なんとかあいつを締め上げてこれを治してもらわなきゃなんないのよ。……難しいだろうけど……」
「……もし、アメリアたちがゼロスを倒してくれたら、なんてゆーのは都合がよすぎるな」
「そのとーりよ。そんな腐った豆みたいになってまであたしは生きたくないっ」
「だが……」
「確かに、あのレゾだって盲目であそこまで戦えたんだから、このままでいるって選択肢もあるわ。探せば治る方法も見つかるかもしれない。可能性だけどね。でも……あたしは、そんな消極的な方法はまっぴら」
「まぁ……」
 ガウリイはため息をつく。
「それがお前さんらしいといえば、そうだが」
「ただ1つプラス要素と言えるのは」
 リナは指を1本立てた。
「これをやったのが、他でもないゼロスだってこと。あたしを殺そうと思えば、できたはず。それをこんな方法を取ったってことは、何か思惑があるのよ。これであたしが引くだろうと思っていたなら、あえて引かないことで裏をつける可能性は充分にあるわ」
 長い髪をぐしゃぐしゃとかきまわしたガウリイは、やがて覚悟を決めるように唇を噛んだ。
 分かった、とそれだけを言って。
「あんたこそ、体は大丈夫なの?」
 冗談めかして言ったリナの言葉には、苦笑で返す。
「弱音吐いてる場合じゃなさそーだからな」
「そう。でも……体張ってまで守ってもらう必要はないんだからね。無茶はやめてよ」
「どっちが無茶だ」
「あたしは、最善の方法を選んでるだけよ。ちょっとばかし危険なのは分かってるけど」
 そして、リナは顔を伏せるようにうつむく。額に手を当て、肘を足の上に乗せて、体を縮める。
「……何が、プレゼントよ……」

(あたしは、まともに戦うこともできず死ぬかもしれない)
 彼女は、その怖さを知らないわけではない。
(ガウリイは、目の見えないあたしを庇って今度こそ死ぬかもしれない)
 彼女の体にその時吹き荒れていた恐怖を、誰1人知ることはない。

 

 睡魔を呼び寄せる作業をあきらめ、リナが1人階下へ向かったのはそれから半刻ほどの後だった。
 相棒を起こさないように体を起こし、リナは立ち上がる。
 ガウリイはまだ本調子ではないのだろう。横になってすぐに寝息を立て始めていた。
 1度暗闇の中で歩いた場所である。緊張感を持って歩いた経験から、障害物の位置ははっきりと記憶にすりこまれていた。視界があった時に得た情報はあまり役に立たなかったが、その後に覚えたことは大いに役立った。
 さして問題もなく階段を下り、彼女は1階の半分を占める食堂の扉を押す。
 扉にかかった営業中の札を見ることはできなかったが、夜中は酒場になることを聞いており、人の声がするのを聞けば、リナでなくとも客がいるのは分かる。
 酒場には、暇そうに煙草をくゆらす主人の他、数人の客がいるだけだった。彼女にとって幸いだったことにその酒場の客層は悪くなく、誰もがおとなしく杯を傾けていて、目を閉じたままの娘をからかおうという輩は現れなかった。
 好奇の視線を感じながら席を選ぼうとするリナに、ふと声がかかった。
「リナ」
 はっきりと聞き覚えのある声である。
 リナは薄く笑みを浮かべた。
「奇遇ね、ゼル」
「無茶をするヤツだ」
 声のする方へと迷いなく足を進めるリナに、ゼルガディスはとなりの椅子を引くことで応えた。
「見えないって言っても魔法が使えないわけじゃなし、それほど無茶ってわけじゃないわよ」
「どうだか……」
「知らない気配が近づいてきたら、とりあえず炸弾陣ね」
 その言葉に、注文をとろうと近づいてきた主人が足を止めた。
 ゼルガディスは苦笑して主人に大丈夫だと合図を送る。
「注文は」
「えーと、何か口当たりのいいお酒もらえる?」
 メニューを見ることができないため、どうしても曖昧な注文になる。
 ゼルガディスが代わりに酒のリストに目をやって、適当な銘柄を告げた。
「でも、本当に偶然ね。寝なくていいわけ?」
「お前こそ、旦那を放っておいていいのか?」
「ガウリイならもう寝たわよ。あたしだって、お酒の1杯も飲んで寝たい日もあるの」
「多少は人並みの神経を持ち合わせてるようで、安心したよ」
「どーいう意味よ」
「いや……軽いジョークだろう、今のは」
 ゼルガディスの応えにはわずかな焦りが混じる。
 彼は追求されないためかすぐに言葉をつないだ。
「しかし、久しぶりに会ってみれば、まさかあんたたちが同じ部屋に泊まるようになってるとはな」
「ふふん。意外だった?」
「意外……とは違うかもしれん。そうだな、不思議なことはないんだが、考えたことがなかった」
「ふぅん?」
「お前が他人を近づけるのが、まぁ意外と言えば意外だった」
「そぉ? あたし、人当たりの悪い方じゃないと思うけど」
「人当たりの問題じゃない」
 言葉すくなに答えた時、主人が杯を持って近づいてきた。
 人の気配に警戒を見せるリナの代わりに、ゼルガディスがそれを受け取って卓に置いた。
「……ありがと」
 どちらかというと主人に向かって、リナは言う。
 警戒を見せたことへの謝罪の意味があったのかもしれない。
 ゼルガディスはそんな彼女の様子にため息をつく。
「本当に、残らなくていいのか」
「ったくもー、みんなしてしつこいわねー」
 酒に口をつけ、リナは肩をすくめる。
「ま、足手まといになるのは悪いと思ってるわ」
「そういうことじゃなく、1番危険なのはお前自身だろう」
「違うわ」
 リナは穏やかな口調ながら、きっぱりと答える。
「ガウリイよ」
 ゼルガディスは特に返答しなかった。
 普通に考れば、ハンディキャップを背負ったリナが1番危険なことは自明である。しかし、それをフォローする立場の人間に自分の危険を顧みない意思があったならば、どうか。それぞれ自分を守るのが精一杯の場で、足りない分の能力を1人の人間が肩代わりしようとした場合、そのマイナス分は果てしなく大きい。
「無力な人間がその場にいる時……ガウリイはもちろん、あなたたちがそれを見捨てる戦法を取るとは思わないわ。その分を何とか補ってくれようとするでしょうね。それがどんなに危険なことか、分かってるつもりよ」
 ゼルガディスは、否定も肯定もしない。
「でもあたしにとっては、この件に関わり続けることが回復するための1番確実な道なの。回復した後のことを考えれば、あなたたちにとってもメリットのある選択だと思ってるわ。あたしだってまったく戦えないわけじゃないし、ガウリイもいる。――デメリットは、リスクだけ」
「それを、『だけ』と言うか」
 苦笑に答えたのは、リナの勝気な笑みだった。
「慎重論って趣味じゃないのよね。やってみなきゃ分かんないじゃない。明日には回復してるかもしんない。それに――今別れて行動したら、ゼロスの思惑通りって感じがして気に入らないわ」
「まぁ、あいつとしてもこの状態のリナが参戦するとは思ってないだろうから、裏はかける、か」
「そゆこと」
 肩をすくめ、ゼルガディスは立ち上がる。すでに彼の杯は空になっていた。
「そう言ったところで、さすがのお前も平静ではいられないようだがな。まぁ、今晩はのんびりしているんだな」
 少し多めの銀貨をテーブルに置いてそのまま食堂を出て行こうとしたゼルガディスは、数歩進んだところで引き止められた。彼の足を止めたのは、いつでも毅然とした少女の小さな質問だった。
「ね、あんたってさ、人を愛したことはある?」
 思ってもみなかった言葉にぎょっとし、彼は立ち尽くした。
 おそるおそる振り向くと、リナはテーブルに向いたまま、首をかしげていた。その後姿は存外に華奢で、年相応の少女のようで、戦場での猛々しい姿を忘れさせる。
「……何だと?」
「や、ちょっと、聞いてみたかっただけ。答えたくないなら無理に聞きだす気はないからさ」
 ひらひらと手を振るリナ。
 ゼルガディスは応も否も言わない。
「ゼル?」
 かたり、と椅子を引いた。
「おれにもう1杯、同じものを」
 カウンターの向こうで、主人がうなずいた。
「うぅぅみゅぅぅぅ。んな真面目に聞いてくれなくたっていーんだけど……」
 乱暴に頭をかくリナに、ゼルガディスはため息をつく。
「旦那の話か?」
「あたし、あんたに聞いたんだけど」
「今はおれの話を聞いても仕方ないだろう」
「そこはそれ、参考に」
「参考になるような話は何もない」
「そぉ」
 照れ隠しにか、リナは顔をわずかに逸らして酒をあおる。
「おっちゃん、あたしにももう1杯お願い」
 リナの顔に赤味がさしているのは、酒のためか照れのためか。
「おれにその手の相談を持ちかけるのは、お門違いだと思うが」
「相談……ってつもりじゃないんだけど。つい口からぽろっと……うーみゅ。いやその……ただ誰かに話したかったのかもしんない」
 おどけたように肩をすくめ、リナは笑う。
「あたしには何かを話せる相手って、ガウリイしかいないのよね。ま、あいつに話してもどーにもならないことの方が圧倒的に多いんだけど。でも、話し相手にくらいはなるでしょ。あいつは何にも考えてないから、話してるとちょっと楽観的になってくるしね」
「まぁ……それはそうだろうな」
「だけど……この話ばっかりは、ね」
 もちろん、問題の本人に悩みをもらすのは相当勇気のいることだろう。
「で。何を気にしてるんだ」
「や、大したことじゃないんだけどさ」
「ああ」
「ちょっとしたことなのよ、うん」
「ああ」
「ごくごく些細で、ほんと気にしてもしょーがないと言っちゃえばその通りなんだけど」
「それで」
「いやーバカみたいで笑えるんだけどね」
「だから……」
 いい加減ゼルガディスが焦れた時、静かな呟きが落とされた。
「――死なせたくないの」
 ゼルガディスは言葉を止める。
 リナは穏やかな表情をしている。ただ、唇の端に強ばった笑いがこびりついている。
「……そうか」
 面白みも何もない返事をする。
「それはまぁ……そうだろうな」
 リナは片方の眉を上げて、軽く笑った。
「いやーありきたりでつまんない話だったでしょ?」
「そうだな。だが、確実に実行しようと思ったら難しいのは確かだ」
「そーね。そう思うわ」
「おれに言ってもどうにもならんぞ」
「分かってるわよ。誰に言ったって、どうにもなんない」
 ゼルガディスもまた渡されたばかりの杯を一気にあおる。
「たとえ、神に届いたところでどうにもなんないでしょうね。だって、あたし自身が危険に飛び込みたがってるんだもの」
「おれに言えることは多くないが……ひとつだけあるとしたら」
「したら?」
「旦那もあんたと同じことを思ってるだろうな、ということだな」
「そう……ね」
 うつむくリナの表情に混じるものが、初めてこの話題にそぐうだけ重くなる。
 リナは破天荒に見えて他人のことを思いやる人間だ。自分の痛みは我慢できても、他人の、それも身内と認めた人間の痛みを軽く看過することはできない。
 ゼルガディスはわずかな困惑と共に彼女の強ばる口元を見やる。
「確実とまでは言えないが、かなりマシな方法ならあるさ」
「へえ?」
「今すぐ、旦那と一緒にまっとうな暮らしをすればいい。家を持って、子作りでもしろ。世間は薄情なもんだ。お前のことくらい、すぐに忘れる。盲目になったと知りゃあ魔族だって面倒を越えてまでちょっかい出してくることはないだろう。平穏無事な家庭の出来上がりだ。今に比べればずいぶん安全には違いない」
 何を思うのか、リナは軽く笑った。
「戦線離脱すると言われても、誰も文句は言わん。お前はその通りの状態だし、おれたちにだって仲間の幸せを祝福してやるくらいの気持ちはある」
「そうね」
「死なせたくないと言うが、危険な状況に好きこのんで首を突っ込んでるのはお前の方だろう。それが性分なんだろうが、な。しかし、本気で旦那の命を尊重する気があるなら、こんな業界からは足を洗え。それが唯一の方法だ」
「ま、確かに。ごもっともだわ」
 リナは肩をすくめる。
「でも……ねぇ、あたしここから本当に出られるのかしら?」
 独り言ののように呟かれたセリフに、ゼルガディスは眉をひそめるしかなかった。
 リナは微笑んでいて、それはほとんど陽気とさえ言える笑顔だった 。
「あたしには走っているのが自然なことで、別にスリルが大好きでやめらんないってわけじゃないのよ? 好きこのんでって言うけど、好きで始めたつもりもないしさ。なんちゅーか、いつの間にかこうなってたってやつ。だから……この道を抜け出すことができるのか……それはあたしにも分かんない」
「――まぁ、好きにするがいいさ」
 今度こそ、彼は席を立った。
 リナはひそやかに笑っていた。
「逃げるなんてまっぴらごめん。それは、なんかもう、絶対なのよね。だとしたら、あたしが人を愛したのは……もしかしたらそれこそがあたしがしてきたことへの罰なのかな」
 その言葉は、ほとんど怨嗟のように彼の身体に染み付いた。
 彼自身も、彼女と別の生き物ではありえないことを知っていたからである。
「分かれ道なんて……あるのかしらね」
 呟きに、さぁなと彼は答えた。

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