動き始めた空 7


 静かだ、と彼女は胸の内で呟いた。
 彼女を取り巻くのは、かすかに聞こえる階下の笑い声。それよりかすかな風の音と、木々が揺れるざわめき。そして、1番近くにあるのは自らの呼気。
 常に喧騒と怒号の中に身を置いてきた彼女にとって、それらは静かすぎた。何の音も聞こえない、と言ってもいいほどだ。
 ほぅほぅとふくろうが鳴く。
 仲間たちのやかましい声はどこへ行ったのか。片時も絶えることなくつむいでいた自分の言葉は。それを聞く人は。
 彼女は、久々に1人きりになっていた。部屋に引き上げた後1人でいるのはそう珍しいことでもなかったが、1人で宿を取り、1人で食事をしたのは一体何年ぶりのことだっただろう。彼女の傍らには常に相棒が、そうでなければ他の仲間がいた。
 無力は人の意思を妨げる。
 彼女は望んだわけでもなく仲間たちと別れ、一緒に逃げたはずの相棒とも別れた。
 稀代の魔道士と言われたリナ=インバースは、今その時、望まぬ道を選ばざるを得ないほど無力だった。
 グンゼウムたちからガウリイやテレージアと連れ立って逃げたのはその日の昼のことだった。
 二手に分かれようと言い出したのはリナ自身だ。
 いくらグンゼウムたちの能力が際立っていようとも、ゼルとアメリアの2人を相手に自由に動き回れるわけはない。となれば、たとえ追ってくるとしてもどちらか片方が足止めに残るはず。追っ手が1人である以上、追うべき対象が二手に散ることによって迷いが生じ、一時退却の道を選んでくれる可能性が高まる。無理に片方を追って、残る片方がゼルたちに合流でもすれば足止めを請け負った方が危険になるからだ。とりあえず退却させることができれば、相手にも打撃はないがこちらも手を打つ時間が持てる。
 そして、リナは1人で逃げることを選んだ。
 それが危険だとしても、まさかテレージアを1人にするわけにはいかない。リナとテレージアが一緒に逃げて、もしそちらに追っ手がかかれば対処のしようがない。リナ1人ならば、まだ逃げようがある。後はゼルたちかガウリイたちに合流するだけだ。
 彼女にしてみれば最善の選択だった。

 考えをめぐらしているのかうとうとしているのか分からない時間が流れた。
 目を閉じたままでいると、眠気も感じないうちに眠っていることがある。だから、彼女はもしかすると眠っていたのかもしれない。どのくらいの時間が過ぎていたのかも分からない。
 ふと、リナは体を起こした。
 扉の前に気配がある。それは1人分、しかし殺気はない。
「誰?」
 用心深くショートソードを引き寄せながら声を上げる。相手が気配を隠していない以上、不意打ちをしてくるつもりはないのだろう。それならば問答無用で呪文を叩き込む必要もない、そう思ってのことだった。
「リナ……か?」
 それは、聞き覚えのある声だった。
 リナはベッドの下に足をつけた。
「ガウリイ!」
「よかった……無事だったんだな。開けてくれるか」
「ええ」
 手探りで錠を外し、扉を開く。
 目が見えないためにその姿を見ることはできなかったが、慣れ親しんだ相手だ、他のものでも判断はできる。声の聞こえてくる高さ、気配が伝える体の大きさなどは、間違いなくリナの記憶にあるものだった。
 それを確認すると、リナは辺りへきょろきょろと顔を向ける。そんなことをしても見えるわけではないのだが、癖というものである。
「テレージアは?」
 ためらうような間があった。こういう時の間はろくなことではない。リナは眉を寄せる。
「テレージアは……すまん、はぐれちまった」
「すまんで済むかぁぁぁっ!」
 当てずっぽうで手を伸ばし、こめかみをぐりぐり。見事に当たったらしく、悲鳴が上がった。
「ぐぁぁっ! わ、悪かったって!」
「悪かったじゃないわよっ! テレージアを探しなさいよテレージアを。どーしてこんなとこにいるのよ。別の方向に逃げたはずでしょーが!」
「そ、それが……」
「あによ」
「待ち合わせして分かれたんだが……その場所を忘れちまって」
「こンの脳みそゾンビ男がぁぁぁっ!」

 気が済むまで彼のくらげぶりをなじった後、リナはベッドサイドに腰かけてほぅと息をついた。
「ま、はぐれちゃったものは仕方ないわよね」
「……今さら……」
 となりの恨みがましい声を聞いて、リナは胸を張る。
「うっさいわね、これはしつけってものよ。言って分からないヤツには暴力で分からせる。正しい教育のあり方でしょーが」
「いやそれは違うと思うが……」
「やかまし。あんたにはどーこー言う資格なし」
 苦笑する気配の後、リナは広い胸に引き寄せられるのを感じて暴れた。
「ちょ……っ」
「ま、何にしてもお前だけでも無事でよかったよ」
「何にもよくないでしょーが。テレージアはもちろん、ゼルだってアメリアだって無事かどうか分からないのに」
「でも、お前だけでも元気なのが分かって……よかった」
 リナを抱く腕に力が込められる。
「ガウリイ……?」
 抱え込むように腕の中に閉じ込められ、耳元でかすれる声が熱く響いた。
「あんまり無茶するな。今自分がどんな状態だか、分かってるんだろ? オレがどんなに心配してるかも……分かっててくれよ」
「分かってる……と思うわ。でも他にどうしようもなかったのよ」
「違うだろ」
 リナは首をかしげる。
「違う……?」
「自分の命を見捨てて、意地張って、他人を生かそうとしただけだ」
「何言ってんのよ。あたしは自分の命を見捨ててなんかいないし、他人を生かすのはとーぜん!」
「そうか?」
「そーよ。それを、『他にどうしようもなかった』って言うのよ。それともあなたは、あたしに自分の身の安全だけを考えろって言いたいの?」
「そうじゃない」
 わずかに体が離れる。おそらく顔をのぞきこまれているのだろうと、おぼろにリナは思った。
「なぁ……こんな風に危ない橋を渡るのはもう、やめないか。お前のしてることは、確かに他の人間を少し助けてるかもしれない。でも、お前自身はどうなる? オレは……お前に死んでほしくないと思ってるオレは、どうなる? オレは、ただお前が生きてればいいんだ。お前が死んだら……どうしていいのか分からない。なぁ、それも……分かっててくれよ」
「それは……」
 リナは唇を噛んだ。
 あの日の血の海を思い出す。
 今も背中に一筋ひやりと流れる喪失の恐怖を、強烈に意識する。
 彼を死なせたくない。彼を失ってしまえば、自分が生きていけるのかどうかも分からない。
 もしできるなら、安全なところに遠ざけてしまいたいとすら思う。
 ただ、ひたすらに、その命が続いていくことを祈る。 
 その恐怖をはっきりと認識したのは、つい最近のことだった。
 自分は弱くなってしまったのかもしれない、と彼女は思う。彼に言ってしまいたいと思わないでもなかったが、それをするのに彼女たちの今まで築いてきたものは大きすぎた。
 何より、ガウリイがリナに弱音を吐いたことは、今まで1度もなかった。だから、リナもとても言えない。
 『逃げ出そうか』などとは。
「でも……あたしには、できない」
「簡単に選べないのは分かってる」
「だって、ずっとこうやって生きてきたのよ! 今さらそんなことできない」
「できないって思ってるだけだ。できるさ」
「できないわ。できるなら、とっくに……あんたに言ってたかもしれない。あたしを守って怪我するのなんか、やめてって」
 思い出せば、今でも胸が凍るような血の色。
 リナはゆっくりと息を整え、胸に押し込めてきた言葉を形にした。
「あたしは、ガウリイのこと死なせたくない。本当なら、どんなことをしてでも。でも、わがままだって分かってるわ。だって、それを1番邪魔してるのは、あたし自身だもん。あたしが危ない場所に行くからあんたはついてきて、怪我をする。いつかは命も……失うかもしれない。この間だって、その可能性は充分にあった。なのにあんたは、あたしを放っておけないって、言う」
 たとえば、そう言ってにぎられた手のあたたかさだ、と彼女は思う。
 それは以前なく、今はあり、いずれ失われるものだった。
「なら簡単なことだろう? リナがオレと一緒に安全な場所に行けば何の問題もいいんだ。そうだろ?」
「そう、簡単なことよ。でも問題はあるわ」
 そこから本当に抜け出せるのか。
 彼女はその答えを知らない。
「あたしはね、そんないじいじした生き方はしたくないの!」
「リナ、頼む」
「たとえ、明日死ぬかもしれなくたって」
(あの日の、血の海)
(今あたしの目の前を覆う、この闇)
(グンゼウムたちを前に、なすすべもなかった、あたし)
(足元が立ち昇ってくるような、濃厚な死の匂い)
 それでも、リナは胸を張る。
「たとえ、明日あんたが死んで1人きりになったって」
 言いながら、リナは不思議な思いをした。
 閉じたまぶたの隙間から、何かがこぼれ落ちたのだ。それを涙と呼ぶことを知っていたが、瞬間彼女は呆然とした。
「リナ」
 指が濡れた頬をなぞる。あたたかいものがふれる。
 彼のキスは彼女の意識を溶かし、すべてを甘い闇の中に葬るような心地がした。
 戦いの高揚も。
 張りつめた緊張感のもたらす酩酊も。
 未知の宝物に出会う歓びも。
 旅空に見る感動も。
 すべてが色褪せるほどに甘く、魂を震わせる瞬間が、そこにあった。
 彼女は惑った。
 唇の端まで言葉が上ってきた。
 2人で生きていければ他に何もいらない、と。
 彼の呟きを聞かなければ、あるいはこぼれだしていたかもしれない。
「……僕は」
 と。

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