動き始めた空 8


「……っ!?」
 すい、と血の気が引くのを感じた。リナはあわてて身を引く。
 彼は――ガウリイの声をし、その姿を持った何者かは、引き止めるようにリナの腕をつかみ、舌打ちをした。
「おっと……失敗でした」
「ゼロス……?」
 その名をゆっくり呟く。
「バレちゃいましたね」
 笑ったその声は、すでにゼロスのものだった。
 腕をつかんだ手が、目の前の気配が、瞬く間に変容する。リナは戦慄と共にそれを感じた。咄嗟に、羽根枕でその憎たらしい顔をぶちのめす。
「あ、あ、あ、あんた……。何悪趣味なことやってんのよっ!?」
「お、おやおやお怒りですね」
「あっっったり前でしょぉが! 殺す。今すぐ」
「いやーはっはっは、まぁ、何しろ根が魔族なもので」
 悪びれる風もなくゼロスは笑う。
 さらに言い募ろうと口を開いたリナは、ふと語調を変えた。
「そう……そーね、しょうがない。許したげないでもないわ」
「これはまた、珍しく寛大なお言葉ですね」
「ただし、慰謝料としてあたしの目を治しなさい」
 酷薄な含み笑いが、応えた。
「残念ですが、それは僕からのプレゼントですので、慰謝料で治してさしあげるわけにはいきませんよ」
「なぁにがプレゼントよこの暇もてあまし魔族っ! 充分負の感情で返礼してあげたでしょ。言っとくけど、あたしの涙の見物料は高いわよ」
「あなたが涙を見せたのはガウリイさんに対して、でしょう?」
「でもあんた見たんでしょ」
「ま、見せていただきましたけどね。いやリナさんもなかなかどうして……」
「やかましーーーっっっ!」
 リナは自由な方の腕でゼロスの襟首をつかむ。
「暇つぶしを提供し! たっぷり食事をさせて! その上人のプライベートを覗き見されたんだから、わけわかんないプレゼントなんかじゃ割が合わないわ。収支の合わない取引をするなんて、商売人の血が許さないっ! いーから治しなさい」
「収支なら合ってると思うんですけどねぇ」
「あんたが得してるばっかりでしょぉが。こんなことを……ふ、ふふふふふ乙女にこんなことをしておいて許されると思ってんの……?」
「怖い怖い」
 ふいとゼロスは身を引いた。
 確かに襟をつかんでいたはずの拳は宙を握り、リナはバランスを崩す。
「ふぅ……もうちょっとだったんですけどねぇ。ま、面白いものが見れたからよしとしますか」
「……あんた一体、何の目的で動いてるわけ?」
「もうお分かりかと思っていましたが?」
 見下したようにゼロスは笑う。
「写本の奪回……でも、それだけじゃ説明がつかないわ」
「ほう?」
「たとえば、グンゼウムたちの仲間だとした場合。あたしの目を見えなくしたことの理屈は通じる。こっちとしては確実に戦力ダウンだし、ガウリィやテレージアと一緒に戦線離脱してもおかしくないわ。ゼルやアメリアにも動揺を与えることができるし、上手くすればあんたの存在を知って彼らもリタイア、なんて可能性すらある」
「ふむ、確かに。とりあえず、この状態になってもあなたがそのまま追跡を続ける、というのは実際意外でしたね。まぁ、あなたのことですからそういうこともあるかもしれないと思ってはいましたが」
「この説の矛盾は1つ、思惑が外れたはずの今でも、あんたがあたしを殺さない、ってとこね」
「なるほど?」
 にこやかに、そして冷ややかにゼロスはあいづちを打つ。
「この矛盾に説明をつけるとすれば、あんたが自分で言った通りグンゼウムと敵対してるとする場合。向こうは盗みを犯して逃げ回ってる盗賊、あんたとしちゃあ追っかけて居場所突き止めるのはめんどくさい。そんなところに地の果てまでも追っかけそうなあたしたちがひょっこり現れて、同じ相手を狙ってる。それなら、泳がせておいてあたしたちをマークした方が、話が早い……」
「ふむふむ」
「これなら、ライバルのはずのあたしたちに危害を加えないことの説明はつくわ。あたしの目を開かなくしてくれたのは、そうね、久しぶりのごあいさつ、魔族なりのかわいい悪戯だった、っていうのはどーかしら」
「悪くないですね」
 満足そうな声音でゼロスは言った。
 リナは肩をすくめる。
「ただ、こっちの説だと今の状態が分からないのよ。あたしにちょっかい出しに来ても、あんたには何のメリットもない。わざわざ姿を変えてまであたしをからかって、一体何が楽しいのか……」
 ゼロスはおかしそうに笑った。
「僕だってたまには策をめぐらさず動くこともあるんですよ。つまり」
 部屋の中央辺りまで逃げていたゼロスの気配が1歩近づき、リナの髪に手を伸ばす。
「言ってしまいますが、その説で正解です」
「ふぅん……あそ」
 一房の髪を持ち上げたゼロスの手を軽く弾き、リナは鼻を鳴らす。
「これは、魔族的なただのお遊びだった、ってわけ」
「それはちょっと違いますね。言ったでしょう。プレゼントです、と」
「だから、それは一体何の冗談よ」
「まだお分かりにならないんですか?」
「魔族の考えなんか、真っ当な人間のあたしに分かるかっ!」
「では、素直に考えてください」
 ストレートに答えを教えればいいものを、もったいつけてゼロスは笑う。迷うリナを見るのも楽しいのだろう。
「これは、プレゼントです。あなたがたはどんな時人にプレゼントしますか?」
「見返りが大きそうな時」
「……」
「……」
「それって……真っ当な人間の考えることなんですか……?」
「うん」
「……じゃあ、質問を変えます」
 疲れたような声音でゼロスは言い換えた。
「相手はあんまり喜ばないだろうなぁと分かっていて、プレゼントをあげるとします。それは、どうしてでしょう?」
「……よ、喜ばないだろうなぁと分かっててって……分かってたんかい」
「まぁまぁ。それで?」
「自己満足のためじゃないの」
「惜しいっ! かなり近いですよ」
「いや惜しいってあんた……自己満足って言われてそんな嬉しそうに」
「はっはっは。気にしてはいけません」
「いーけど別に……」
 今度はリナの方がげんなりとしたため息をつかねばならなかった。
「自己満足が近いなら……自分勝手な楽しみってのは?」
「うぅーん遠ざかりましたね」
「そぉなの? じゃあ……ってなんであんたとクイズごっこしなきゃなんないのよ……」
「ギブアップですか? じゃ、ヒントです。自己満足というのは、もっと具体的に言うと?」
「それはいろいろあるんじゃない? 気分に浸りたいとか、何にもしてないけど何かをやったよーな気になれるからとか、相手のためになるはずだと思い込んでるとか」
「それです」
「どれよ」
「あなたのためになるはずだと、僕は思うんですよ」
 リナは思わず顔をゆがめ、深くうなずいた。
「さすが魔族ね。人間にとっちゃ、ありがた迷惑ですらないただの迷惑、ゴミ以下」
「……いやそこまで言われると僕もさすがに……」
 情けない声を出すゼロスを、リナはまったく意に介さなかった。
「ちっともあたしのためになってないから、治して」
「ですから」
「治して」
「その……」
「な・お・し・て」
 返事はなかった。ゼロスは床にのの字を書いていたのだが、もちろんリナには見えない。
「何をどーやって見たらあたしが得してるように見えるのよ。まぁあんたがあたしの得になることをするってぇのはそもそも理解不能だけど……でもこれじゃどう考えたって自己満足にすらなってないじゃないの。あきらめて治しなさいよ」
「ですからぁ、あなたが失明しても平気で戦ったのはどっちかっていうと計算外だったんですってば。一応その可能性も考えてはいましたから、こうして改めてご相談にうかがったわけですけどね」
 リナの脳裏に、先ほどの会話が蘇る。
 ガウリイ、いやゼロスは何やらいろいろとややこしいことをしていたが、結局のところ彼がリナから引き出そうとしていたのは、ただ1つの言葉だった。
「やっぱり戦うのはやめませんか、って?」
 リナは腰に手を当ててふんぞり返った。
「やめないわよ」
「本当に、そうですかね?」
 リナは眉をひそめる。
「どーいう意味よ」
「さっき、僕は失敗してしまいましたが……もう少し押されていたら、言ってたんじゃないですか? 今までの生活より、ガウリイさんを取る、と」
 ぎくり、と走った動揺は、体の中で押し殺した。
 確かに、リナは言いかけていた。半ばその場の雰囲気に流されてのことだったとは言え、その気持ちがまったくなかったといえば嘘になる。
「……あたしが自発的に戦いをやめれば、魔族にとって願ったりかなったり……ってわけ」
「もちろん、それもあります」
 あっさりとゼロスはうなずく。
「それと、僕個人の楽しみですね。リナさん、あなたの人生は僕にとってほんのひとときのことですが、ちょっとした楽しみにはなるんじゃないかと思うんですよ」
「つまり?」
「ご協力を申し出ているわけです」
 寒くなるほどのにこやかさで、ゼロスは歌うように言う。
「いくつかのことに目をつぶってくだされば、あなたに夢を見せてさしあげますよ。人の身には不可能な夢です。終わりがなく、衰えることもなく、危険も揺らぎもない、極上の夢を」
「たとえば――さっきのように。そういうことね」
「そういうことですね」
 リナの返事がないと見ると、ゼロスはしらじらと続けた。
「何日か前、大怪我をなさったガウリイさんを見ながら、大変に美味な感情を撒き散らしていらっしゃいましたね、リナさん。グンゼウムさんを追いかける途中でそんなあなたを見かけて、僕は素敵なプレゼントを思い付いたわけです」
「それが、これ」
「ガウリイさんの命を守るのは簡単なことだ、自分が戦いをやめればいい、あなたはそう思ってらっしゃるようですが、本当にそれで済むでしょうか? ま、当面は充分でしょうね。ですが、水嵩が減っても危険というのはけしてなくならないもの。いずれそれに気付くでしょう。次は、どうしますか?」
 リナは黙して答えない。
「家に閉じこもってみる。これでまたかなり回避できますねぇ。でも、危険が向こうから押し寄せてきた場合は。そう考えていくと気が気ではないと思いますよ。所詮、人には、ね」
「で、逃げ出す理由をくれてやった上で、現実ではない幸せにお誘いしようと」
「はい」
 リナは、すっと息を吸い込む。
「この世界より大きなお世話ってもんよ!」
 ゼロスは楽しそうに笑った。
「なるほど」
「あたしは逃げたりしないし、そもそもまがいものなんかいらないわ」
「よく分かりました」
 言うと、ゼロスの気配が消えてなくなった。
 精神世界に姿を消したのだろう。声だけが最後に響く。
「気が変わったらいつでもどうぞ。無理強いをしようとは思いませんよ。そんなことをしなくても、人の気持ちというのは移り変わるものですから。今のあなたの決意も――そして、ガウリイさんへの想いも」
「……ホントに一体、何が目的なわけ?」
 今まで以上の不可解さに、リナは宙へ顔を向けた。
「グンゼウムさんとの戦い、楽しみにしていますよリナさん。今のあなたに、何ができますかね? そして、ガウリイさんは戦いが終わった後も無事ですかねぇ? ガウリイさんが死んだ後、あなたはもう1度僕の誘いを断わりますかねぇ?」
 もう声は届いてこなかった。辺りには静けさが戻り、何もなかったかのようにリナが1人取り残されているだけだ。
「あたしはあきらめない」
 噛みしめるように呟く。
「ガウリイも死なせない」
 ため息と、身震いをひとつ残して、リナは布団に飛び込んだ。

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